36.零雨
建国記念舞踏会1日目の夜。
リコリス侯爵邸にて。
重厚なインテリアに飾られた窓の無い部屋で、マリス・リコリスは淡々とビリヤードをしていた。撫でつけた黒みがかった金髪にランプの灯りが反射する。
ボールを打つ直前、視線だけを上げた。息子のサジロードが現れたからだ。
サジロードはマリスと同じ金髪に鍛え上げられた身体つきをしているが、その眉は彼の性格を表すようにやや下を向いていた。緊張したように唾を飲み込んでから、ようやく口を開いた。
「グロリアの居場所が分かりました。やはり、あの星見台修道院に逃げ込んでいました」
マリスはキューをついた。ボールは飛び、サジロードの額に当たる。
「っぐ……」
「分かりきった報告などいらない」
サジロードは眉間を押さえたまま声を絞り出した。
「……あの修道院は俗世を許しません。一度入ってしまえばいくら侯爵家の名をかざそうとも、金を握らせようとしても、グロリアに会うことすら出来ませんでした。しかし、それは騎士団でも王城側であっても同じことです」
「だから?」
「……だから、仮にグロリアが修道院で懺悔をしていたとしても、星見台修道院からは我々の情報は漏れないか……と」
話の途中でサジロードは固まった。マリスがおよそ血の通った人間とは思えないほど、冷たい目で自分を見ていたからだ。
「『懺悔』と、今お前は言ったな。私たちのかわいいかわいいグロリアは何か悪いことをしたのかな?」
「……!」
「うん? 言ってみろ」
「い、いいえ。私の言い間違いでした」
キューを持ち替え、鼻で笑うマリス。
「お前はいちいち考えが浅い。そんなだから、騎士服のボタンを無くしたことにも気付かないんだ」
マリスは目を細めた。
「舞踏ホールにいた給仕の目撃によれば、グロリアはクリア・サンブリング男爵令嬢と王城を去っている。グロリアがあれほどスムーズに修道院に入会出来た理由こそ、お前は考えたことがあるか?」
「! それは」
威圧感のある低音の声でマリスは続ける。
「グロリアがクリア嬢にグラスの中身について話をした? だとしたら何故、クリア嬢はグロリアと行動を共にしたのか? 自分の身を狙ったかもしれないグロリアと」
「……」
「まあ、クリア嬢が余程の変わり者で……グロリアが『自分は利用されている。助けて』などと話したならば、あり得なくもない、が」
サジロードは息をのんだ。
「いずれにせよ、クリア嬢はレイニー王太子と親しい立場にある。つまり、既に今回のグロリアの顛末を王太子殿下はある程度ご存じに違いない」
「し……しかし、媚薬のことまではバレていないです! だってグロリアすら何も知らなかったのだから」
食らいつくサジロードにマリスは白々しく眉を下げた。
「そうだな。気の毒にな、グロリアも」
「え?」
「サジロードさえしっかりしていれば、私があの子を巻き込むこともなかったんだ」
「……!」
唇を白くなるまで噛むサジロード。
「……明日、私は登城予定です。復職の許可が降りました。建国記念舞踏会のため人手が足らないのでしょう。早速、王太子周辺の任務を指示されています」
「よろしい。ならばわかっているな? 我が息子、サジロードよ」
「はい、父上」
マリスはもう用はないとばかりに手を振り、サジロードへ背を向けた。
マリスには自信があった。王太子を消し去る方法に。三年以上前から静かに、でも確実に、その準備を進めて来たのだから。
✳︎✳︎✳︎
その夜、クリアは夢を見ていた。
曇天の中、王宮の庭の東家にいるのは二人だけだ。クリアはレイニーから彼自身について聞いていた。
「父上は、私より母上への『愛』を選んだ」
レイニーは言葉を丁寧に置くように話した。
「そういう生き方をする人もいるのだと噛み砕いて、今はもう納得している。だが、王族としての責任を放棄したことだけはどうしても認めない。私には父を止めることも、母を引き止めることも出来なかった。だからせめて、私がもし選択を迫られることがあるのなら、何よりも王国を取ると決めている」
「それでも、わたしはレイニー殿下が好きです」
突然のクリアの告白にレイニーは目を見開いた。
しかし、レイニーからそれ以上の反応は得られなかった。水色に映るオレンジ色の瞳が潤んでいるのを自覚して、誤魔化すように早口で続ける。
「大丈夫、わたしがただ気持ちを伝えたかっただけですから。伝えないと……わたしの中の気持ちが膨らんで、いつか爆発しそうだったんです。聞いていただいたおかげで、このような感情も綺麗さっぱり、昇華できます」
へへ、と笑うクリア。
表情が崩れる前にレイニーに背を向ける。そのまま走り出そうとした時。
「!」
後ろから手を引かれた。
雨が降りそうな分厚い雲の切れ目から、日が差し込んだ。光はそのまま地上に向かって伸びる。
天と地を繋ぐ「天使の梯子」とも呼ばれる現象だ。
レイニーは自分がしたことが信じられないという表情で自分の手を見ていたが、やがて水色の瞳を上げ、二人は見つめ合ったーー
「……って、こんなセリフもやっぱり言わなきゃ駄目なのよね!?」
自身の声でクリアは飛び起きた。
そう、これまでのやり取りはアニメのエピソードの回想である。イメージトレーニングの成果か、やけにリアルな夢だった。
クリアが寝ているベッドはやたら質が良い。周りには品の良い家具たちが並んでいる。
建国記念舞踏会初日の夜、そのまま王城の一室に泊まっていたのだ。今はもう明け方だった。
元々アニメでも舞踏会二日目の「回転ブランコ」お披露目の最終調整のため、王城に泊まる予定になっていた。かつ、現実には、昨夜のグロリア・リコリスの件について事情聴取も入り、一度帰宅する時間の余裕はなかった。
(グロリアについては、ピアノの中に隠されていた媚薬の瓶から、ピアニストが買収されていたことがわかる。ピアニストから辿れば、マリス・リコリス侯爵にたどり着けるはず)
(ちなみに、事情聴取のくだりはアニメにはないから、そこにレイニーとの「親密度アップエピソード」はない。というより、もう親密度を上げる段階は過ぎていて)
次に来るであろう「告白エピソード」は、ある意味アニメの山場である。クリアは抱き枕のレイニー相手に何百回も練習してきた。
『ん……大丈夫? クリア』
「あ、ごめんね。大丈夫よ」
枕の横にいるドリズリーをぽんぽんして寝かしつける。寮から持って来ていたのだ。ドリズリーを落ち着かせようとして、本当は自分が落ち着くためにドリズリーに触っている。
(ーーどうしてこんなにドキドキするのか)
クリアはアニメのヒロインの役割を演じるだけ。
何も恥ずかしいことはない。まして、怖いことなんて一つもないはずなのに。
(レイニーには、わたしがわざと足を踏もうとしていたことがバレていた)
クリアの狙いのどこまでがレイニーに分かられているのか、分からない。
出来る出来ないの次元ではない。クリアはやるしかないのだから。
それでも不思議と、クリアの動悸は止まらなかった。




