22.無限回廊の怪事件③
はあ、はあ……と、静かな回廊にクリアの荒い息遣いだけが響いている。
「……えっと、クリア嬢?」
気づけば、フォッグが金色の目を丸くしてクリアを見下ろしている。クリアの顔との距離は15センチほど。
クリアはフォッグを壁(鏡)ドンしていた。
鏡のクリアが手をついた箇所には、驚愕したレイニーの顔が映っている。
「うわあ、申し訳ありません!!」
我に返ったクリアは後ろに飛びのく。踵に何かが当たってそれは床を滑り、つッ……とレイニーの視線が引っ張られた。
フォッグは乱れた襟元を直していたが、息を吐いてキツい口調で言う。
「この匂いは? 何を撒いた?」
「あ、蜂よけスプレーです。殺虫剤というよりは一時的に蜂を弱らせて、動けなくするタイプの」
「……なんでそんなもの持っているのさ」
クリアは蜂寄せと同時に蜂よけも用意していた。いつか読んだ兵法の書には、より良い攻めのためには守りの準備も必要だ、と記載されていたから。
(って、馬鹿!! つい身体が動いてしまった! これではアニメのストーリーが滅茶苦茶になって)
「蜂は捕獲した。フォッグ、それよりこれは?」
やり取りを遮るような冷静な声に、クリアとフォッグは振り返る。
レイニーは廊下の端で片膝をついていた。
手袋の口を片手で縛っていて、その中に蜂を閉じ込めているらしい。レイニーの視線の先には、光るものが落ちていた。
「カフスボタン、父上のだ。さっきまで着けていたはずの、でもまさか」
信じられないような表情で、指先でつまみ上げるフォッグ。さっきクリアの踵に当たった何かはこれだった。
ーー無限回廊には近づかないと言っていたのに。
フォッグの目はハッキリそう語っていた。
レイニーは鏡の表面をそっと撫でるように触る。レイニーの指先と、鏡に映った彼の指先の間には「隙間」がない。
「先程、鏡に手をつくクリアを見て気づいた。これはマジックミラーだ」
フォッグは息をのみ、クリアは目を丸くする。
(そう、無限回廊を構成している鏡の一部は「マジックミラー」になっている)
マジックミラーに表裏はなくて、マジックミラーを挟んだ暗い側から明るい側が見えるようになっている。部屋の明るさが逆転することで、マジックミラーから見通せる部屋もまた「逆」になるのだ。
フォッグやメイドたちが幽霊を見たのは、たまたま無限回廊の中の隠し部屋でキャンドルが灯されていて、廊下側が暗かった時。
(アニメではレイニーがクリアを壁ドンした時に気づいたけれど……わたしがフォッグに壁ドンしたことでも、レイニーは真相に近づいている)
これはアニメの強制力? いや、そうじゃない。この王太子は底が知れない。優しくて正義感があって、たまに笑顔(口角だけだけど)を見せてくれて。
ヒロイン・クリアとしてそれなりに彼へ近づけたと思っていたけど、まだ、彼は。
「鏡の継ぎ目に僅かな隙間があるな」
レイニーは二人に背を向けたまま続ける。
「この隙間から、蜂を入れてみたらどうなるだろう? 幽霊なら刺されようもあるまい」
「? レイニー殿下? 急に一人でどうしたの」
「どちらがいいか〜」のところから、レイニーはまるで鏡に映る自分に向かって話しかけているようだ。フォッグの怪訝そうな声を受けてもレイニーは止めない。
「無視とは悪手だな。仕方あるまい」
「!」
レイニーは声を一段低くした。公式な場で何かを命じる時のように。
「これは王太子レイニー・カルセドニーとしての命令だ。出てこい、幽霊とやらーーと、エルヴィン・ハーパー公爵殿」
ずずっ……と、金属が擦れるような鈍い、重い音がした。
鏡が手前に押し出されるように開き、エルヴィンが現れる。その背後にはさらにもう一人、男が立っていた。




