11.ヒロインと悪役令嬢
(ラネージュ……!?)
覗き穴には、薄暗い廊下で手に持ったランプの炎を瞳に映すラネージュがいた。
通常であれば、彼女には侍女が付き添うものだが、今は誰もいないようだ。ラネージュのガウンの下はネグリジェで、おそらく侍女の仕事が全て終わり下げさせてから、部屋を抜けて来たのだろう。
クリアは一瞬目を伏せ、それからわざと素っ頓狂な声を上げながら扉を開いた。
「ラネージュ殿下!? こんな時間にいかがされたのですか? 用があるなら呼んでもらえたら、わたしからお伺いしたのに」
部屋に招き入れるが、椅子は勉強机用の一つしかない。仕方なくラネージュをベッドへ座らせる。
「へえ、男爵令嬢用の部屋ってこんな感じなの。暖炉すらないかと心配していたけれど」
「……」
ラネージュは顎を上げたまま部屋をぐるりと見渡す。さすがに王女専用の部屋とは違うのだろうが、クリアの部屋だって悪くないはずなのに。
ラネージュはドリズリーをつまらなそうに見ていたが、彼の曲がっていた首のリボンをチョンと直しながら唐突に言った。
「ところで貴女、さっきの話は本当なのかしら」
「え?」
飲み物でも出そうかと準備していたクリアは振り返る。
「ランチの時に話していた『重曹』なるものの話よ。髪の毛を脱色する方法があるなんて、にわかには信じがたいわ」
「ああ! それなら」
実際にやったことはないが、本当だと答える。クリアは雑学書も嗜み、豆知識にも明るい。
ラネージュは怠そうに言った。
「なら、そのやり方をわたくしに教えなさい」
(! 情報を欲しがるとは思っていたけど、まさか直接聞きに来るとは)
「……で、でもラネージュ殿下はそんなに素敵な髪をされているじゃないですか。なんだって脱色なんて」
あえてとぼけた返事をする。ラネージュの事情をクリアが知っていたらおかしいからだ。それに伝えた言葉に嘘はない。
「ーーダメなのよ、この色じゃ」
ラネージュは小さく呟いた。
そう、ラネージュのコンプレックスは紅毛。
彼女のムウ王家では、繊細な、薄い色こそ高貴とされている。高位貴族や歴代王族には淡い髪色や瞳を持つものが多い。現国王夫妻も白に近い金髪をしていると聞く。
ラネージュという名前は、フォッグの言った通り「雪」が由来だが、それこそ儚いモノこそ美しいとされる王族の価値観から来ている。だからこそ、ラネージュは自分の色彩が許せなかった。
アニメで彼女がレイニーに執着したのは、国策としてのネフライト王国への狙いの他に、レイニーの持つ美しい銀髪と水色の瞳へ、心からの憧れがあったから。
妾の娘である自分だが、彼との間の子供ならムウ王家にも受け入れられるかもしれないーー……。
ここでクリアはハッと思い出す。
(そういえば、レイニーはランチの時、フォッグから振られたラネージュの名前の話題を避けていた。レイニーはラネージュの事情を庇った?)
王家の人間なら下級貴族にまで降りてこない他国の醜聞も耳に入るだろう。
やはりレイニーには隙がない。
アニメによりラネージュの事情を知っていて、気が回らなかったクリアとは違う。
(……いや、だってラネージュは悪役令嬢で、ラネージュの事情は次のエピソードのために必要で。それは、この世界を救うために必要なことだもの)
台に両手をつき俯きながら、誰に向けてなのかわからないが言い訳してしまう。
(そうよ、悪役令嬢密室殺人事件だって、アニメのストーリーを再現するのに必要なこと。それは皆んなの幸せのため。命を狙われることは怖いに違いないけど、気を失うだけならそんなに怖くないはず)
クリアも先日、テニスボールヘディングに失敗して気絶したけど、平気だった。
人生初の気絶だったけど、痛かったけど怖くなかった。
「クリア嬢? ねえ聞いてるの?」
放置されたラネージュが呆れたように言う。
ここで何故だか、クリアが気を失った瞬間の記憶がフラッシュバックした。
思い出されるのは、倒れたクリアの視界いっぱいに広がる白いワイシャツと……ーー感じた、レイニーの体温。
ラネージュは焦れたようにキツい口調で言った。
「とにかくやり方を教えなさい。これは王女としての命令よ」
ーーそれに対し、アニメで気絶するラネージュの側には、誰もいなかった。
「……イヤです」
「は」
何とも抜けた声を出すラネージュ。ラネージュに真っ向から歯向かう人間など、そうそういなかったのだろう。
「カルメ焼き」
気づいた時には口から溢れ落ちていた。
クリアはゆっくりと言った。
「昼間のランチでわたしが『カルメ焼き』の話をした時、ラネージュ殿下は瞬時にそれがお菓子だと判断されましたね? 博識とされるレイニー殿下ですら知らなかった食べ物です。しかも、ラネージュ殿下は他国語なのに理解された」
「!」
「マニアックな単語をご存じなだけでなく、ネフライト王国語をこんなに滑らかに話されて……物凄く努力されているんですね、ラネージュ殿下は」
クリアはオレンジ色の瞳で真っ直ぐにラネージュを見た。
「わたしとお友達になっていただけるなら、ご希望のお話をするか考えます」
唖然とするラネージュ。
しかし、それは直ぐに厳しい表情へと変わった。
「……何故、わたくしが格下国の男爵令嬢の友人にならなければならないの? しかも貴女、元々は平民だったらしいじゃないーー笑わせないで」
クリアを映したラネージュの目は冷ややかだった。前世の記憶がなかった頃のクリアなら、震え上がってしまうくらい冷たいものだ。
しかし。
「ラネージュ殿下、わたしのことをよく知っていてくださったんですね!」
「は?」
クリアは胸の前で両手を合わせながら、ぱああ……と輝く笑顔を見せた。
「わたしの経歴までラネージュ殿下のお耳に入っているなんて、思いもしませんでした! 社交界のあらゆる者たちについて把握することが高貴な方の義務とは聞きますが、こんなわたしのことまで」
(この「知っててくれたんですね(ぱああ……)」は、アニメでヒロイン・クリアと悪役令嬢・ラネージュが和解するシーン、エンディングのために練習してきたものだけど)
クリアは続けた。
「わたし、ラネージュ殿下と良いお友達になれる気がします」
ラネージュは悪役令嬢だけど、その実ヒロインのことすら気にかけていた、愛すべきツンデレ勤勉キャラ。
そこまでわかっていて、密室殺人事件のような辛い思いをさせるのは、違う。
(間違っていた。わたしはそんなことをするために……
必死な人をわかっていながら酷い目に合わせるために、わたしはここまで勉強してきたわけじゃない!!)
それはヒロイン・クリアではなく、クリアの人間としてのプライドだった。
ラネージュの驚愕の表情を見ると、言い間違いや無かったことには出来ないだろう。もう後戻りは出来ない。
今更、たらりと汗が流れた。ドリズリーからも「どうすんの、これから」という刺さるような視線を感じる。
ラネージュはパクパクと口を開け閉めしていたが、ようやく言った。
「……わたくしには大国から連れてきた侍女たちがいるわ。友だちなんて煩わしいもの、いらないわよ」
「侍女は友だちとは違うのでは?」
「友だちが一人もいない貴女に何がわかるっていうの」
「! まだ入学してから数日しか経っていないじゃないですか! わたしは世界を救うのに忙しかったんですよ。これからですよ!」
地味に刺さるところをついてくる。クリアは本当のことを言ってしまっているが、何も知らない人なら比喩だとして気にも止めないだろう。
ラネージュもそれこそ「天然キャラ」発言だと思ったらしく、可哀想なものを見るような視線を寄越す。
クリアは仕切り直しに咳払いした。
「……それでも、ラネージュ殿下がどれだけネフライト王国をお好きか知っているので。本当は留学中、ネフライト王国で友だちを作りたかったのではないですか?」
ラネージュは無言のまま、眉を顰めている。
クリアは大袈裟にため息をついた。
「わかりましたよ。お友だちになるのが難しいなら、昼間ラネージュ殿下がお話しされていたマカロンを分けていただけませんか? わたしも食べてみたいです」
「超人気パティシエのものだから、わたくしレベルでもそうそう手に入らないわ」
「息を吐くようにマウントしますね……じゃなくて! ーーわざわざ新しいものを取り寄せていただかなくても、今ラネージュ殿下のお手元にあるものを全ていただければ結構です。あ、意地汚いと思われたくないのでラネージュ殿下が食べたフリをして、このことは絶対に、わたしと殿下だけの秘密にしてくださいね」
「全ていただければ」のところでクリアの胸はドクンと波打つ。
このやり方なら守れるかもしれない。
(ーーラネージュの心も、地球の未来も)
「というか、クリア嬢、貴女よく見たら何故ジャージなんか着ているのよ!?」
「ああ、ぴらぴらしたネグリジェは苦手なんです。朝起きたら、ネグリジェが脇の下まで捲り上がっていますから」
「どんな寝相!」
これはアニメ関係なく生家にいた時からのクリアの習慣だ。サンブリング男爵家ではさすがにやらなかったものの、学園の寮では人に見られる可能性がない時はいつも、ジャージを着ていた。
クリアは至って真面目に答えたが、意図せずラネージュに「やっぱりこの子、天然……?」と思われたことは、知る由もない。




