1.青天の霹靂
「大変申し訳ありません! わたしがあのような場所にいたばかりにっ……」
男爵令嬢クリアは眼下の銀髪の青年に謝罪した。
より正確に説明するならば、クリアが王立学園の芝生に押し倒した挙句、馬乗りしていることで眼下にいる青年ーーよりにもよってこの国の王太子、に謝罪した。
「いや、貴女に怪我がなかったようで何よりだ。周りを見ていなかった私にも非がある。それより早く腹から降りてもらえると嬉しい」
麗かな春の日差しに水色の目を細めながら王太子は答えた。
「零雨の王太子」の異名を持つネフライト王国レイニー・カルセドニー王太子は、鋭いほどクールに整った容姿をしており、いつだって涼しい表情を崩さないことで有名だ。しかし、クリアの身体の下ではさすがに眉根を寄せている。
「それがですね……悲しいご報告ですが、わたしの髪が絡まってしまい」
クリアは泣きそうになる。
クリアのサラサラした長い髪が一筋、レイニーの襟元の校章に絡まっている。それによりクリアはレイニーの胸元から30センチ程度しか顔を上げられないのだ。どうにかクリアが引っ張ってみるが、ますます髪の毛は絡まるばかり。
遡ること5分前。
ベージュ色の髪にオレンジ色の目を持つクリア・サンブリング(15歳)は元平民だ。
とある理由から見込まれ、サンブリング男爵家の養女となった。サンブリング男爵領は王都から離れた場所にあり、クリアが王都に来る機会は数えるほどだった。ゆえに、入学式のために王立学園に来て早々、広大な敷地内で迷ってしまったのだ。
時間が迫り、焦ったクリアは高い場所から見渡そうとテニスコートの金網へ乗り上げたところーー足を滑らせて落下した。
結果、通りかかった王太子を下敷きにしてしまったのである。
「とりあえず、このままでいるわけにもいかない。一旦、貴女の身体を横に避けて……」
「でも、ご安心ください!! こんなこともあろうかと、わたしいつもハサミを持ち歩いているんです!」
「は?」
いきなり自信満々に声を張ったクリアに、レイニーは今度こそ固まった。
「……ハサミ? というか『こんなことあろうかと』ってこんなこと滅多にないーー」
レイニーが言い終わる前に、どこからともなくハサミを取り出したクリアは、絡まっていた髪の毛を一切の躊躇なく、切断した。
ハラリ、と落ちる毛束。
貴族令嬢にとって髪は命である。それを鏡も見ずに自分で切るなんて。
唖然とするレイニーの身体から降りたクリアは手を止めない。
彼女は元々前髪なしのストレートロングヘアだった。絡まっていた髪の毛は前頭部だったから、切った部分に加えて周りを少し整えることで、ぱつんとした前髪を作ったのである。
「はあ、これで良し」
「っ、君! 切るなら髪でなく襟の方を」
「人様の、しかも制服に傷なんてつけられません。どうですか? 似合ってますか?」
クリアのはにかむような表情にレイニーは一瞬言葉に詰まる。前髪を切り揃えることにより目力が強まり、暖色系の瞳がひだまりのようにキラキラしていたから。
「って、まずいですわ! 入学式が始まってしまいます! 申し訳ありませんが、会場の方向はわかりますか? 急ぎましょう!!」
「え? ああ……」
手をパンっと合わせたクリアは、慌ててレイニーを立ち上がらせ、走り出した。
レイニーも今自分がすべきことを思い出し、流されるように彼女を追いかける。
木々から降りしきる花びらをくぐっても動揺は冷めやらず、思考をポツリと漏らしてしまった。
「……面白い令嬢、だな」
✳︎✳︎✳︎
二時間後。
王立学園端にある女子寮にて。
今日の学園行事は入学式のみで、ほとんどの生徒は昼食に出かけている。午後からは各々明日からの授業に備えて自由に過ごすことになっているのだ。
クリアは一人自室の扉を開くなり洗面台に駆け寄り、真っ先に前髪を確認した。
(ーーっ、危なかった!! 切りすぎたかと思った!)
先程自分で切った前髪は「自主練の成果」あって斜めにガタガタするでもなく、クリアに似合うラインで仕上がっている。
そのビジュアルは、まさにアニメ映画「君の世界の名前は」のヒロインーー……クリア・サンブリングそのものだ。
(そうよ、やっぱり私は「異世界転生者」なのよね)
クリアは苦笑いする。
三年前養女になり、初めてサンブリング男爵家の門を跨いだ瞬間、前世の記憶を思い出した。その場面は映画のオープニングシーンになっていたから。
(しかし、実際ヒロインに転生してヒーローとの出会いシーンを「再現」して思うのは)
すうっ、と息を吸うクリア。
「迷子になったからってテニスコートの金網に登るって、やっぱりどういう発想!? だいたい初めて行く場所ならこそ、時間に余裕を持って来るのが常識よ!? 不可抗力かと思っていたら入学前の資料一式に学内図きっちり同封されてたわ! そして金網から落ちる時、背中から落ちているのにレイニーに馬乗りするって……不自然もすぎる!! 落下しながら身体捻っているし!! こっちのシーンもハシゴとレイニーの実寸サイズの抱き枕(手作りのレイニーの顔付き)で実験しておいて本当に良かった!!」
荒く肩で呼吸する。
それから感情が昂ったまま、クリアは宙に向かって叫んだ。
「『面白れー令嬢』をやっている本人は……全っ然面白くないっっ!!」