間話 元婚約者の元従者の独り言
視点は変わりまして
「この、使用人が!」
学業が、思う様に振るわなかったらしい。ドリー様が声を荒げてひっくり返したテーブルを、静かに片付けていく。御本人はさっさと部屋を出て行った。ありがたい。姿を見せれば見せるだけ八つ当たりは激しくなるのだから、早く動いてくれた方が助かる。
異母弟という感覚はもう擦り切れて無くなっていて、今あるのは正に『坊ちゃん』という、側にある首を垂れるべき主人の一人という感覚。
「手伝います」
執事のロビが静かに手を伸ばす。静かに、手早く、茶器に傷がないかも目視している。美しいとすら言える仕草。
まだ、その域には行かない。
「貴方は、この道を行くのかーー」
仕込んでくれたのはロビ。
でも、まだ迷うのか。
「名ばかりの父は無関心、母は職場を荒らしておいてあっさりと風邪で病死。母の夫に私を育てる義務もない。まだ子供の私にできるのは、ここで生きることだけではないのか?」
「執事の技術が、貴方の身を助くことを願っております。ーーエーリク坊ちゃん」
「昔の様に呼ぶな…」
苦しくなるからでも、悲しくなるからでもないけれど。
母は、このゴマ伯爵家で、乳母をしていた。子爵家の血筋で、夫はこの伯爵家の館に勤めていた。ぎりぎり平民、と言ったところ。
ゴマ伯爵夫人は王族の乳母をしていて、ほぼ館には居なかった。母は乳母として、伯爵家の2人の子息を育てようとしていたーーが、強か伯爵が酔ったせいだとか、若い侍女をかばっただとか、はたまた母が伯爵家の実権を握るためだとかーー色々聞き齧りはしたが、真相は知らない。
伯爵と母は関係を持ち、俺が産まれてしまった。
その後、ドリー様が産まれたのだから、伯爵夫妻の関係は、崩れなかったということだ。
夫人は、ドリー様の乳母は別の人を付けた。しかし、母に懐いていた若君たちと別れさせるに忍びなく、今しばらくと仕事をしていたが、悪い風邪に倒れてそのまま母は亡くなった。
俺が4歳の頃の話なので、母の記憶はあまりない。
母代わりと母として、お二方と、異父姉と俺ひっくるめて4人の子育てをしていた中では、全て「兄弟のようなもの」であったが、他者の手に委ねられると、簡単ではない。
若君2人と、その乳母の子と、庶子。
そんな中、姉の父が、領地館へと勤務先を変更し、姉を連れて領地へ去った。
残るは、若君2人と、庶子と、末の若君。
不協和音は、致し方ないこと。
俺の身を守るため、ロビが、手を差し伸べてくれたのだ。「坊ちゃん」を辞めて、「使用人」として生きる道を照らしてくれた。
それは、希望の光だった。
ある日、ドリー様の婚約者と成られる方を訪問した際、何故かこちらに話しかけてこられた。
しばらくして、ドリー様は婚約者の令嬢ではなく、使用人を追う様になってーー酔狂にも令嬢は、俺を話し相手にしだした。だから。ぽつぽつと話をした。
生まれについては、口外しなかった。頭の先まで「使用人」という看板に馴染んでしまっていた。
「ご自身では、お選びにならなかったの?」
美しい、雪の日の窓ガラスの様な少女はぴくりとも笑わずに言った。
「それ以外に道がないと?せっかく学園にも通ってらっしゃるのに」
知っているのか、と驚いたが、同時に納得もした。聡明な令嬢が、調べたらすぐ分かることを知らないはずがないのだ。
「生まれは選べません。わたくしも、1番目で無ければ、また違った生き方となったでしょう。ご存知?妹2人は祖父の実家である侯爵家に引き取られておりますの。未来の王子妃を育てる為に。
現時点で未来の子爵として教育されているわたくしと、どちらが幸せだと思います?」
王子妃も、子爵家の主も、重たい仕事に違いない。
選択の余地もなく。
「傍目には、王子妃候補になり損ねた姉とも見られておりますが、わたくしは気にしておりませんの。それより学びたいことが多くて。できるようになりたいことが多くて、毎日があっという間に終わってしまいます。
エーリク様は、今何を習得なさりたいの?」
何を修得したいのか。
思わず、だった。
「大時計ーー。屋敷の、大時計をロビが毎日巻くのです。それを、機会があれば見ているのですが。
ロビは時計を開いてメンテナンスもできるのです。見たのは2度だけ…。たくさんのゼンマイが動いていました」
「素敵です!大時計のメンテナンス!」
ーーそこまでなら、記憶にも引っかからない会話。
なのに、令嬢は言う。
「わたくしもできるようになりたいわ!」
「えっ」
「失礼します。ちょっとメモをとらせていただきますわね。
おおどけいの、メンテーーと」
分厚い手帳を取り出して、なにやら捲って書き込む。表情は変わらずーーでも、真剣さが、伝わってきた。
「なぜわたくしが、そんな技術を身に付けたいかーー知りたければ、我が家を今一度ようく、見てくださいませ」
黒くて、使い込まれていて、可愛げのない、オジサンみたいな手帳を抱えて、令嬢は口の端を上げた。
美しい笑みだった。
オジサン手帳を持つ美少女…。
そして、どろっどろのゴマ伯爵家よ…。
でも、兄ーズはエーリクをいじめてはいません。
多感なお年頃には色々思う所もあって噛み合いませんでしたが。
いや、2番目なんて、領地で働くエーリクの異父姉と結婚するしね!遠距離の愛情もからんじゃって複雑!