Ep.18 呪詛という鎖、あるいは苦しみ
「おはよう、アキラ!」
俺はナヴェさんにそう声をかけられ、目を覚ます。早朝なのか、まだ部屋は暗い。彼の頭は明るい。
彼の部屋を借りて寝ていたんだから、自分の部屋に戻った彼に早めに起こされても文句は言えないだろう。
「おはようございます、ナヴェさん」
「あーもう、さん付けとかしなくていいし敬語は使うなよ。かたくるしくて仕方ねえからな」
起き上がってベッドに座れば、彼も横に座って話し始めた。長くなりそうだ。
彼は本当にフレンドリーに接してくる。
何を思ってこうも親しく接してくるのかは知らないが、悪意がほぼないのは間違いない。
そんな彼の部屋には最低限のものしか置いていないのかと言いたくなるほど趣味のものがない。
数少ない趣味らしきものや過去などが伺えそうのは、ベッドの下……ではなく。
本棚に置かれた何冊かの児童書や童話集らしき本と、一冊のレシピ本。
壁に飾られた、幼い子供が描いたような三人の人間が笑っている絵。
机の上に置かれたカギのかかった日記らしきもの。よく見れば、同じ装丁の本が本棚に何冊も並んでいる。
ちょっと中身を見てみたいかも。
「あ、日記見ようとした? やっぱり人の日記は気になる?」
「いや、別に……」
ここまで距離感が近いと鬱陶しい。
この人は一体どんな環境で育ったんだよ。
「まあ何か気になることあったらいくらでも聞いてくれよ? 好みの女の子のタイプだろうが、答えられそうなことにはなんでも答えるからな!」
「ええと。じゃあ、ナヴェは昨日何をしてたんだ?」
ソファーにダイブして爆睡、とか相当キツい仕事をしていたのだろう。
一体何をしていたのか、気になって仕方がない。
「あー、期待してもらっちゃ困るし先に言っておくんだが。一応俺、肩書上はここの副団長なんだけど。
俺、まともな手段じゃ戦えないから基本的に事務員みたいなものなんだわ」
副団長が、事務員。何か深い理由がありそうだが追求はしない方がいい気がする。
ただ、どうしても気になることはある。
「まともな手段じゃ戦えないって、どういうことです?」
「実のところ俺には持てる武器がないんで、普通なら殴り合い以外にできることはねえ。でも武器使ってる相手に敵うほど格闘技極めてるわけじゃねえし、俺は基本的にお荷物なんだよ。まあやっべー戦場に立ったことがないわけじゃねえけどな!」
持てる武器がない。戦う才能がないということなのだろうか。
アインさんに普通じゃないと言われるのも納得だが、普通なら、とか、基本的に、という言葉がいちいち挟まるのが気になる。
深い事情がありそうだし、きっと尋ねたところで答えてはくれないだろうが。
「そいで偶然、俺とアインの筆跡は果てしなく近いんでな。いつも書類の確認とか、団長の承認のサインとか代理でやってる。まあ昨日は量が極端に多かったし、必要な判を探すのに手間取ったのもあって、こんな仕事ですら疲れちまってたんだけどな」
彼は困ったという表情を浮かべ、手を広げて笑った。
いちいち本心を隠すような動きをしていて、少々怖い。
「で、アキラ。俺も一つお前に聞いてみたいことがあるんだけど、いい?」
「うん、いいよ」
こちらが質問をしてしまった以上、それを拒絶することはできない。
頼むから、家族についてだけは聞いてくれるな……!
そう願ったが、された質問は家族とは全く関係のないものだった。
「願いが一つだけ叶うとしたら、今のお前は何を願う?」
無邪気な笑顔を浮かべて彼はそう言った。
彼は純粋な子供のような顔をする。何も知らない子供のような顔を。
……眩しい笑顔だ。小さい頃の、弟の、ような。
「そうだなあ。俺はやり直したいことがあるから、過去に戻りたいかな」
「マジか! 奇遇だな、俺もだ。俺にもひとつ、やり直したいことがあるんだ」
少しだけ、笑顔が陰った。
彼にも何か後悔していることがあるのだろう。
ただならぬ雰囲気を感じた。
「何をやり直したいのかは教えてくれないの?」
「それはほら。お前もやり直したいことを教えてくれなきゃフェアじゃないだろ? 話したくないならそれでいいけどさ」
残念ながらまだ会って少ししか経ってない人に教えられるほど、俺もオープンではない。
彼の言葉に、俺は静かにうなずいた。
「俺も、正直人に話したくない話がいっぱいあるからさ。まあそこまで経験を重ねた大人、ってわけでもないけどな」
彼は笑うが、俺には彼の年齢がわからない。
多分、実年齢よりもかなり老けて見えているはずだ。
「え、何歳なの?」
「んー? 今のとこ、21歳だな」
嘘だろ絶対、と言いたくなる。
30代って言われても疑わない。まあ顔をよく見れば確かに納得できるのだが。
「うっそだろ、俺の一つ上じゃん!」
「マジか、そんなに年齢が近かったんだな。俺達、友達になれるかもな!」
彼は嬉しそうに笑う。
……近い年齢であるだけで喜ぶとは、本当に子供じみた人だ。だが年上だ。
先程幼いころの弟のようだ、と思った。だが年齢的には彼の方がお兄さんだ。
見た目は大人とはいえ、こんな子供っぽいのに。俺より、年上。
そうですか……。
「あ、そうそう。言い忘れてたんだけど、お前に一つ知っておいて欲しいことがあるんだ」
そんな彼は、突然子供のような笑顔を引っ込めて、いきなり大人らしい引き締まった表情を浮かべた。
いきなり雰囲気が変わったので、驚きのあまりに身体が強張った。
「え、と。何ですか?」
震える声で、その先を促した。
「何があっても、俺の素肌には絶対に触っちゃダメだ。どんな状況だろうが、な。
だから俺に触ろうとする人間がいたら、その手を払ってやってくれ。その人が危ないからな」
どんな状況だろうが。
彼がそういうなら、たとえ彼が死にそうでも、ということなのだろう。
「触ったらどうなるんです?」
「知りたいかい?」
彼は笑った。
先程までの子供じみた笑顔とは程遠い、暗い笑顔だった。
「大抵の人間が、接触してから数日以内に死ぬ。筆舌に尽し難い壮絶な死に方でもって死んじまうんだよ。
だから好きな人ができても、キスなんてできねえ。手をつなぐことすら、手袋越しじゃなきゃあできねえんだよ」
その言葉を聞いた俺は、彼の服装を見た。
第一印象は「真っ黒だけど首周りは白」だった。
黒の薄いロングコートに、黒い長ズボン。黒いシャツ。
黒い革手袋。黒いコンバットブーツ。そして唯一白いスカーフ。
ここの気候は春っぽいから、これでは少し暑いかもしれない。
いやまあ、帽子を被っていないので隠すべき素肌が確実に隠れきっていないのだが。
……と、自分の心の中でひどい冗談を言って気分をマシにしようといったってそうはいかない。
「別にお前がそんな悲しそうな顔する必要はねえだろ。別に恋人になりてえわけでもねえだろ?
何も考えずに同情してたら、人によっては怒っちゃうだろうから気を付けるんだぞ!」
彼は笑う。無理をして、笑う。
その暗い笑顔を、無理やり子供じみた笑顔で上書きする。
正気では決して貼り付けられない、笑顔の仮面。
こんなの、あんまりじゃないか。
細かい事情を知っているわけでもない。旧知の仲じゃないどころか、昨日初めて顔を合わせたばかりだ。
だというのに、俺はどうしてこんなにも弟のことと無関係なこの人のことで胸を痛めているのだろう。
こんな世界に用があるわけじゃなくて、俺はただ弟の死の原因をつくったあのデカブツをぶっ壊したいだけなのに。
思考にノイズが走り始める。
なのにどうして、俺はこんなにもこの世界の人間に入れ込んでいるのだろう。
セレスさんに嫌われたところで、悲しむ必要なんてない。情報源を失った、ただそれだけの話。
そう。どうせ、あれも使えるコマのひとつでしかないわけで――
頬に、ぴたりとあたたかい手が触れる。
どろりと、身体の中に泥のようなものが入ってくる感覚がする。気味の悪い感覚に、汗が噴き出す。
「やめろ。優しいコイツに、違えさせるな」
それからナヴェの声が聞こえて、思考にかかったノイズがすっと止む。
その声は、先ほどまで会話していたのと同一の人物から発されていたとは思えないほど、低くて冷たい声だった。
――ああ。俺は、一体何を考えていた?
確かに弟の復讐は目的だ。だが、ここの人々と関わらなければうまくいかない。
そもそも、人を傷つけることって良くないことなのに。
俺は一体、何を考えていた?
「……こりゃ、シャレにならない濃さと質量だ。関わったばかりの段階じゃ、直ですらどうしようもねえか。
常に横にいなきゃあ、抑えてやることもままならねえな。いやー、こりゃアインが丸投げするのも無理はないか」
そう言ってため息をついた、この疲れた表情をした男は、なんだ。
たった今また俺を呑み込もうとした、どうしようもない【事象の呪詛】を抑えたコイツは、なんだ。
得体の知れない彼に、俺は恐怖の念を抱いた。
「さっき、生身の俺に触るな、って言ったな。なんとなくそんな気はしてたけど、お前はたぶん例外だ。
いくらベタベタしようがハグしようが、お前は多分死なない。キスだってできるぜ? ま、やんねーけどさ」
彼は、下手くそとすら言い難いジョークを言った自分を嘲るように、小さく鼻で笑った。
……そして、間違いない。
大抵の人間がこの人に直接触れられないのは、呪いのせいだ。
この人。さっき頬に触れられた時に、わかった。
あの時俺の中に流れ込んできたのは、人が死ぬレベルの呪いだ。
「目には目を、歯には歯を。それなら、まさか……」
先程俺が冷静になった、その原因は。
俺の呪詛と彼の呪いで打ち消し合って、対消滅のような現象が起きたとでも言うのだろうか。
怖い。
俺が背負った呪詛というものは、本当はあんなにも暗くて、重くて、苦しいものなのか。
いつの間にか、泣いていた。自分の身に何が起きているのかすらまともに把握できていないのが、怖くて。
辛くて仕方がなかった。
「アキラ、お前は本当によく頑張ってるよ。そんな状態で普通の思考を保っていられるなんて、偉いよ……」
彼は俺の頭をなで、抱きしめる。
それは、親が子供を慰める時の行動に近い。
「ナヴェさん、その……なんというか、ごめんなさい」
「悪いのはお前じゃない。お前に面倒を背負わせたシステムが全部悪いんだ」
……ああ。俺はこの人を信じてもいいのかもしれない。この人は、多分嘘をつけない人間だから。
昨日出会ったばかりの俺のために涙を流して。メガネを外して、涙を拭いてるこの人なら信じてもいいかもしれない。
こうして、スキルの悪い点を見ていると【ギルドシステム】を壊すのにも意味を見出せる気がした。
ナヴェが泣き続ける俺の背中をさすった時、部屋にアインさんが入ってきた。
最初はぎょっとしたような顔をしていたが、次の瞬間にはにやけ面を浮かべてナヴェをからかっていた。
「えー、なになに? お前ら出会った翌日に、男同士でそういう関係になっちゃった? そういうことしちゃった!?」
「ちげーーーーーよッ!!!! 色々ぶち壊しじゃねーか、ってか何で狙ったかのようなタイミングで現れてんだ!?」
朝からコントを繰り広げて、ずいぶんと仲が良さそうだ。
俺にはそれを生暖かい目で見ることしかできない。
「ははは、朝食のお知らせに来ただけだッ! あばよ!!!!!!」
「時間確認すればよかった……って、逃げるなァァァ!!!!」
久々に人と話した朝は、存外楽しいものだった。
このめちゃくちゃな現状を除けば……。