5 【第13話 完】
別日 別場所
ダンジョンの中、輝く女性がいた。まだ二〇代もはじまったばかりのその女性は、暗黒のダンジョンの中でも、輝く生気を発散していた。彼女の後ろを歩く尾地は、その姿を、その光を追っていけば、自分の人生が見つかるだろうと信じていた。
状況は困難の極みであったが、尾地はまだ若く、その前途は彼自身の無謀と勇気のせいで、輝いて見えていた。
同日 夕刻 養護施設「伊万里園」中庭
尾地は冷めた紅茶を一口だけ飲んだ。
話し合いは彼の想像したとおり厳しいものとなった。用件は終わった。帰ろうと腰を浮かしかけた時
「もう帰るの?」
動きが見えないはずのリンジュが尋ねた。
「ああ、聞きたいことは聞けた」
「どんなことを?」
「…俺が、昔も今も役立たずってことが、聞けて。良かったよ」
「そうね。必要な時には、いてくれなかった。でも、まったくいなかったわけじゃない。
不必要な時とか、そばにいてほしい時とか、怖かった時、そんな時にあなたはいてくれた」
「昔の話だよ。青春って時代の話だ」
「私があなたを必要とした時、あなたはいなかった。
でも、あなたが私を必要とした時、私はここにいます。あなたは今日、私に会いに来てくれた」
腰を浮かしかけていた尾地は、その一言で再び椅子に体を預けた。
「すまない。自分勝手に訪れて」
「辛いことは、だいたいは昔のことになったわ。今はけっこう気楽にやっているわ」
リンジュがテーブルの上で手を伸ばす。
尾地がその伸ばした手をにぎる。リンジュが生意気な少女のように聞いてきた。
「ねぇ、私達が生き残れた理由がなにかわかる?」
「なに?」
「私達、ダンジョンの中でセックスしなかった。だから生き残れた」
「本気で言ってる?」
「本気よ。私達と一緒にダンジョンに放り込まれた大勢の子供達。みなセックスに逃げたわ。お互いの体の中に逃避した。でも私や、あなた、ザンゾオとサクラはそんな事しなかった。生に逃げずに死を直視した。だから生き残れたの」
リンジュの指はゆっくりと尾地の指に絡む。
「ふふ、大人の手になってるね」
「君だって」
「ねぇ、顔を触らせて、今のあなたを見せて」
リンジュが手を上げて空を探した。
尾地は体ごと近寄り、その手を顔に導いた。
「あら。あら、あら、フフ、ずいぶんと緩んじゃって。あの素敵な人はどこにいっちゃったの?」
「もう中年なんだよ。顔もたるむさ」
「眼鏡までして、、あら。髪の毛はどこかしら?探しても探しても見つからないんですけど」
「もっと上だよ」
「ああ~可愛そう。こんなにおでこが広がって。私の好きだった人がこんな中年になってしまうなんて」
「君だって中年だろ。同い年なんだぞ」
「ざんねんでした。私はみんなから若い若いって言われてるのよ。みな美人だって言ってくれてるのよ」
「ああ、今も美人だ。俺が保証する。キミは昔と変わらない…キミは、美人なままだ…」
言いながら尾地の目から涙が溢れてきた。頬を触るリンジュの手にそれを擦りつけるように頬を寄せる。彼女はその涙と頬を受け止めた。
「それは、うそっぽいよ。もう…おばさんなんだから」
彼女の目は涙は流せない。
声が、流れない涙を飲み込んで潤んでいた。
「キミは、キミは…すまない。本当にすまなかった」
尾地は過去を詫びた。
彼女の手に口づけをしようと近づけたが、その手はその前に離れていった。
蜜月の瞬間は終わった。
リンジュは涙で濡れた手のひらを拭くこともなく握りしめた。
尾地は、涙を拭き立ち上がった。
別れ際、もう一度リンジュは尾地に命令した。
「ホリーチェを守りなさい、サント。
それがあなたに残された、人生の道よ」
振り返り尾地は答えた。
「約束はできない…だが、努力はしてみるよ」
そう言って、体を引きずりながらその場から去っていった。
尾地 燦斗
それがその男の名前だ。
同日 宵の口 ラーメン店 龍麺亭前
食事を終えた一行が会計を待ちながら、店前でたむろしている。
ホリーチェがシンウに話しかける。
「次は明々後日を予定してるけどさ、少し深く潜ってみっか?」
「え、敵、強くなりますよ?」
「みんなレベル上がってるからさ、もう少し冒険っぽい冒険してもいい頃だと思うんだ」
「あ、いいです!そう思います!」
ホリーチェの冒険難易度アップの提案にホリーチェは乗った。しかし、気になることもあったので尋ねる。
「でも、日帰りは難しくなるかもしれませんよ?」
「うん、それでもいいよ。作業みたいな冒険するために、この仕事選んだわけじゃないし。じゃあ、ルート作成お願いできる?」
「はい、明日にでもすぐ作ります!」
マッパーとしての腕の見せ所が回ってきて、シンウは喜んだ。
「深いとこいくの?」
支払いを終えたニイが聞いてきた。
「うん、みんな聞いて。次は少し深いとこ行く。冒険者ッポイ冒険させてやるからなー!」
ホリーチェがそう言うと全員が盛り上がった。
彼らは、安定を捨てるために、冒険のために冒険者になった連中なのだ。スリルと不確定こそが人生の若者たちだ。
「あ、思い出した」
盛り上がりの中、急にホリーチェは過去の出来事を思い出した。
「そういや、尾地のフルネームって知ってる? ナースのバイトの時に知ったんだけど」
全員知らなかった。常に尾地はオジとして扱っていた。
「えー知ってるんですか?」
シンウが興味を見せた。魚が餌に食いついたのを見たホリーチェは
「それがさー、変な名前なんだよ~よくあれで~親を恨まずに生きてこれたもんだって~」
焦らしにかかった。
「どんな名前なんですか!」
シンウが迫ると、ホリーチェは端末に字を表示させて見せた。
「尾地燦斗」
「これ、なんて読むんですか?サン…ト?」
名前を知らなかったニイとスイホウも読んでつぶやく。
「尾地…サント…、オジ…サント、オジサント」
シンウが
「おじさんと」
と口の中で甘く転がしたが、
他の連中は笑い転げていた。
同日 夜 国立市歩道
体を引きずりながら尾地は駅に向かって歩いていた。
先程してしまった約束の重さが、彼の心と体を沈ませる。
なにが出来るのか、なにが出来ないかを自問自答するが答えが出ない。
一人、重くなった心を抱えて歩くしかなかった。
前方から家族連れが来る。若い男女の夫婦に小さな子ども。仲良く手をつないで歩いている。
尾地は彼らに道を開け、端に隅にと寄って歩く。
尾地には何もない。家族も、愛するものも、失って嘆くものも。得たいと願う気持ちすらなくなっていた。
持ってしまった技能を活かすことだけが目的の惰性の人生。
ダンジョンに適応しすぎて地上で生きられない、地中の人生。
空っぽの体が吹く風に流されるだけの人生。
それでも、小さな約束ができた。
「ホリーチェを守りなさい」
その小さな約束は今の彼には重すぎた。
その重さは彼の心を沈ませるが、体を傾けて前に進ませる、力にはなった。