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立川駅のそば、小さいが老舗の寿司屋の前に尾地とホリーチェがいた。
空腹を訴えたホリーチェはデートコースの先を急ぎ、駆け足でこの店までやってきたのだ。
「古本屋の次は、寿司…おじさん、若い子の文化がわからなくなってきました…」
「オジサンが若者文化を分かる必要なし!さあ行くぞ!」
お腹をすかせたホリーチェがその大人びた寿司屋の暖簾を頭の上でかすめて通り、尾地もそれに続いて暖簾をくぐった。
寿司屋の老大将の「っらっしゃい」という声。本来大人として先導しなければいけない尾地が少女の後ろについて、慣れないお店に戸惑っている。
ホリーチェは慣れた感じで座敷に座り、尾地を招く。座敷に正座した尾地はコソコソと
「なんか結構高そうなんですけど?」
「そんなことないぞ、そこそこ高くて、そこそこ安くないだけだ。私も特別な日にしか来ないぞ。と・く・べ・つ・な日にだぞ」
ホリーチェはセクシーに言ったつもりなのだが、尾地にはスタッカートの効いた言葉にしか聞こえなかった。
「尾地、お前食べられないものとかあるか?」
「いえ、だいたい大丈夫です」
完全に主導権を握られている。アレルギーの心配までされている。
店員がおしぼりとお茶を持ってくる。ホリーチェは気軽に注文した。
「二万円くらいでお任せで」
それだけで通じた事に驚いた尾地だが、値段にも一応、驚いた。店員の方は大人の尾地ではなく子供のほうが注文したのに驚いていた。
「まあ、こんなもんでしょ、オジからの借りの値段って」
「そう考えると、随分安いですね。まぁありがたくご馳走になりますよ。お寿司なんて久しぶりですし」
「ですし~!」
「子供ですか…」
子供の冗談のつまらなさは堪えるな、尾地はそう思った。
「で、先程の続きだが」
老大将が寿司を握っている間、ホリーチェが切り出した。会話が再開されるようだ。
「先程っていつですか?」
「お前との楽しいデートの最中、道中で繰り広げられた愛の交わし合いの後の会話だ」
「した覚えがありません」
「まぁ冗談はさておき、我々が社会の歯車であるということだが」
「それに関しては多少、ご忠告差し上げておくべきかと思いまして」
「よろしい、伺いましょう」
「社会から与えられる選択肢は、時代の移り変わりで増減するものです。たしかに私の若者時代、あなたが生まれる遥か遥か昔、」
「恐竜が…」
「そうです、恐竜も歩いてました。映画の中でね。その頃はたまたま、選択肢が膨大になっていただけだと思います。文化的に熟爛期だったと」
尾地は正座、ホリーチェはあぐら。尾地の姿からも先生がグレた子供を指導しているようだ、寿司屋で。
「ホリーチェさんもご存知のように、私の青春時代に、」
「恐竜が」
「恐竜もいました、博物館にですがね。私の青春時代には選択肢は山のようにありましたが、全て空手形になりました…」
さっきま茶化していたホリーチェが真面目な声で言う。
「首都沈没」
「そうです、首都が沈没しました。恐竜も死にました。東京都民と一緒に全滅です。おかげで私は徴兵されて、冒険者送りですよ。先程の話で言えば、現在の総人口に対して四〇代人口なんて絶滅状態ですよ。無謀な出兵が繰り返され、命がすり潰された…。私も色々と地獄を…」
と言ってから尾地の口は止まり、しばらく宙を見つめた後。
「失礼しました。自分の不幸を持ち出して、現在のあなたたちの問題を過小に捉えようとしてしまいました」
尾地は素直にホリーチェに頭を下げた。
「いいさ、だいたい大人はそうなる。自分はもっと苦労した。下も苦労しろってね。たしかに私達には、着る物も住まいも食事も仕事もある。衣食住満ち足りてる若造を見れば、氷河期世代が文句を言うのも分かるよ」
「そういうものなのでしょうか。私も若者に文句を言ってしまいましたが」
「そうだな、衣食住足りて文句言うな、衣食住足りて文句なんて」
「我々はその衣食住のために壊滅状態から新たな社会を作り出しました。この臨時首都立川もその成果といえます。私が作ったわけじゃありませんが」
「それが問題なのだよ、オジくん。衣食住足りて、なにを失っているのか?」
「?」
テーブルの上に寿司が運ばれてきた。
鮮やかな色のネタがのった寿司が十貫づつ、二人の前に運ばれてきた。そのネタの光の反射具合が、新鮮さを証明している。
高いだけはありそうだ、尾地も思わず期待した。
「ねえ、この魚って新鮮?」
ホリーチェが初めて寿司屋に来た子供の様に店員に尋ねた。
「もちろんですよ~。磯子ってところ知ってる?そこに漁港が作られてね~、そこまでの道が開通したから、この魚は今日、そこから届けられたんだよ~」
子供相手に丁寧に答えてくれる親切な店員だった。
「だそうだ、新鮮だぞ」
その店員が戻ると、子供らしさは消えてしまった。
「磯子ね~、行ったことないですね。人間がいなくなって海もきれいになったから取り放題なんでしょうね」
さて食べようか、という尾地をホリーチェの言葉が止めた。
「その磯子までの道が開通した。そこが問題なのだよ、尾地よ」
口を開けたままの尾地は、名残惜しさを感じながらハマチを元に戻した。
「たしか政府の発表で、道が開通したのは知ってましたが、それが?」
「立川から磯子だぞ。何キロあると思ってるんだ。その道路を全て、大量のメモリーを消費して再建したんだよ。このお寿司を食べるためにな」
厳しいことを言いながら、マグロ寿司を口に頬張り笑顔になるホリーチェ。会話の隙間だと思い、いそいそと寿司を口に放り込む尾地。
「寿司だけのためじゃないでしょ。立川以外の都市も将来的には復旧させるというのが、臨時政府の基本方針ですし、建前でもありますし」
尾地はそう言ってもう一貫を急いで頬張る。
「残念ながら磯子に関しては魚のためだけだ。老人たちが魚を食べたいと言ったから、磯子までの道が優先して作られた。これは調べて分かったことだ。東京港への道は大穴で塞がれているからな」
「中年でも魚は食いたいですよ」
「そこだよ、尾地クン。ようするに、過去の食歴の再現が目的で、貴重なメモリーは消費されたわけだ」
「文化的生活のため、という名目で?」
「誰の、いつの、文化なのだ、それは?」
尾地はしばらく考えて、
「私の、私達が暮らしていた時代の文化」
尾地とホリーチェの間に、線が引かれた。
「そうだ、あなた達の文化の再現のために、だ」
寿司は冷めても問題なかろう、尾地はそう思った。なかなか食事が進まないからだ。
「この社会が幻というのは、そういうことですか」
尾地はホリーチェの言葉の意味を自分なりに答えてみた。
「今現在のこの、私達の周りの社会はメモリーという奇跡的なエネルギー源を利用して、ある一時期の社会空間を再現している」
その尾地の答えにホリーチェは
「首都沈没以前の東京をだ。我々は荒野に浮かんだシャボン玉の中に住んでいる」
教師のように正解を告げて続ける。
「なぜそうなのか?それが出来るからだ。メモリーがあれば、なんでも再生複製できる。この寿司だって…」
ホリーチェは寿司に手をかざす、いつもの魔術を見せるように。だがすぐに手をどけて、
「やらないけどね。大将の仕事を侮辱することになるし、第一、味が落ちる。たぶんね。鮮魚の再生自体は可能だが、味とコストを考えると獲ってきたほうが安上がりだ、特に老人たちは、複製品だと知っただけで食うに値しないと思うだろう」
ホリーチェはかざしていた手でその寿司を手に取り、口に放り込んで話を続ける。
「メモリーは基本的に全て再生可能だ。発電所の修理も、稼働させる燃料もメモリーで再生して用意した。送電線も社会インフラも廃墟を再生して利用可能とした。食料の原材料も日常品も電子機器も全て少数を生産してメモリーで量産したものだ。この都市とこの社会はメモリーの再生品として存在しているにすぎない」
「メモリーがイメージを再現する以上、この街が過去の姿の写し絵であるのは避けられないと思いますが」
尾地が尋ねる。
「そう、幸せだった頃の思い出。衣食住足りて満ち足りていた時代、その再現。だが問題はそれが時代によって作られたものではなく、メモリーによって作られた幻でしかないということ。メモリー以外に何の支えもない社会だということだ」
「衣食住が満ち足りているだけでは不足だと?」
「大人たちは満足だろう。ラーメンが食べられる、ハンバーガーが食べられる、服も綺麗で生活に不安はない。昔のまんまでみんなハッピー。だが、若者にはそうは見えない。衣食住足りて希望がない。衣食住足りて希望なしだよ、尾地よ」
「衣食住が足りているのに、希望がない…」
尾地はわからないと腕を組んだ。
「中年になると、見えなくなるものだな」
ホリーチェは会話を終え、食事に戻った。