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「ラーダ! ラーダ!」
夜明けのヴァストール城に、若い女の声が響き渡った。
事実上のティアモラ支配者、エテルティアのものである。
両親を失脚させ、軟禁した彼女は、弟の後見として、国を意のままに操っていた。
その武器となったのは、類い希な美貌と才知。
……そして、母方より継承した、先祖伝来の秘薬。
常習性のあるそれを駆使して、エテルティアは、国の重鎮たちの約半数を籠絡している。
もはや彼女に敵はいなかった。
「御前に……」
回廊を早足で進む彼女の前に、一人の騎士が現れ、ひざまずく。
色褪せて古びた質素な装いの青年だ。
ゆったりとした肩布をまとい、これまた頭巾を被る姿をしており、背格好が不明瞭ながら、布越しにも均整のとれた美しい肢体がうかがえる。
ただ、口元までを布で覆っており、かろうじて頭巾の裾から短い麻色の髪と緑の瞳が判別できるのみで、容貌は定かでない。
流れの騎士として、一般的な装いだ。
実際、ティアモラ全土でも、この男ほど徹底してはいないが、似た姿でいる騎士は多い。
非常に質朴な出で立ちの彼は、一般的な騎士がそうであるように、金属製の籠手を、両手首から甲の先にかけて嵌めている。
装飾品とも言えないそれは、無事の帰還を祈って家族が贈る、伝統的なお守りだ。
身分相応に簡素な品だが、これは、どのような公式な場であっても、外さなくて良いものとされている。
無論、上級階級出身の騎士たちが、煌びやかな仕立ての品をまとうのが専らなのは、言うまでもない。
「……ラーダ!」
夜着にガウンを羽織っただけのエテルティアは、長い髪を背に降ろした姿で、ひそかな安堵を滲ませた。
この男を目にすると、いつも奇妙な優越感をくすぐられる。
ロールウェルの視察中に出会い、その腕を見込んで召し抱えた者だが、こうして宮中で過ごすようになってもかつてのまま慇懃に徹し、生活習慣を崩さない姿勢を、エテルティアは気に入っていた。
わずかばかりの褒賞を与えた途端、豹変する「思い上がった不心得者」を多く見て来たからだろう。
「いかがなさいました?」
「あ、ああっ……!」
一瞬、心を泳がせていたエテルティアだが、すぐに気を取り直した。
「セレスティアの侍女が脱走したそうです。そして、イブリールの一行の姿も見えぬと」
「何と……!」
「内親王殿下!」
そこへ、駆け付ける者があった。
朝も早くから一分の隙もない美々しい装いをまとう青年貴族である。
衣服のみならず、宝飾品で一分の隙もなく飾り立ててあった。
だが、お世辞にも似合っているとは言いがたい。
いかな名門出であり、充分な教育を受けていても、持って生まれた天賦の軽佻浮薄さは、繕いようがないのかもしれない。
「タスト公爵」
エテルティアが彼を呼ぶのに、ラーダなる騎士は一歩引いて畏まった。
「うかがいましたぞ。下手人が、使節団に奪取された由にございますな」
タスト公爵は、ラーダを無視して、エテルティアに詰め寄る。
そこでさりげなく……ではないのだが、彼女の手を取るのを忘れなかった。
彼は、ひざまずいたままのラーダをちらりと見遣ったが、騎士は微動だにしない。
「もう、ご存じでしたか」
エテルティアもまた冷ややかに応じる。
ここでタスト公爵は、ラーダを睥睨した。
その瞳には、尋常ならない憎しみが宿っている。
「この王城内から、女が一人で脱出するなど、考えられることではありませぬ。誰ぞが手引きしたとしか思えませぬ」
その「誰ぞ」を、ラーダだと言わんばかりの眼差しだ。




