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無論、非合法な手段を用いてである。
実際、間一髪ではあったはずだ。
これ以上暴行を受けては、生命とて危ぶまれていたに違いない。
あるいは、性的な屈辱に見舞われる可能性もない訳でなかった。
まだ不幸中の幸い、彼女の尊厳が傷付けられない内に、こうして身柄の確保に至ったのは、重畳と言えるかもしれない。
「もはや、ティアモラとの開戦は避けられますまい。わたくしたちは、一刻も早く、イブリールに帰国しなければなりません」
全くファウラの言う通りである。
これ以上、ティアモラに留まっていては、一行はイブリールに対する人質とされるだけだ。
だからこそ、彼らは身軽な装いでいるのだとアレノーワは得心した。
文字通りの逃避行。
寸暇を惜しんで国境を越えなければならないのだから当然だろう。
この身体の自分はとても急ぎの長旅はかなわないため、従姉であるミアを呼び寄せ、彼女に預けられるようだ。
とは言え、逃亡犯であるアレノーワを匿うのは、ミアにとっても危険すぎるが……。
しかし、この場でどうこう言っていられるはずもなく、アレノーワは配慮に感謝しようとしたのだが、騎士たちがいきなり長い帯や毛布を持って来たのに瞬いてしまう。
「さぞやつらくお苦しいかと存じますが、どうか御辛抱を」
「……一体?」
「申しましたでしょう? 一刻も早く、わたくしたちはイブリールへ帰国しなければなりません」
ファウラは毅然と告げる。
「無論、アレノーワ殿も御一緒ですよ。大切な姉代わりであるあなたをお連れしなければ、妃殿下がおつらく思われるでしょうからね」
サナレーン侯爵も優しく続けた。
「……こ、侯爵さまっ……」
あまりにありがたい言葉に、アレノーワは息を呑む。
「……ですが……わたくしがいては……足手まといに……」
「私をお見くびりくださいますな」
傍らにひざまずく恰幅の良い騎士が笑う。
「侍女殿のようなたおやかな御婦人ぐらい、背負うのは苦にもなりません。決して心地よい旅にはなりますまいが」
どうやら彼の背に括り付けられての移動になるようだ。
恐らく、馬車を仕立てる余裕すらないのだろう。
用立て云々でなく、どうしたところで、馬車の移動は騎行の速度にかなわない。
しかし、そのような急ぎの旅路が、この身体にどれほどの負担になるか、考えるだけで恐ろしかった。
無論、本音はイブリールに帰りたい。
イブリールの誰もが、彼女を新たな同胞として温かく迎えてくれたためだろう。
アレノーワにとって、すでに祖国は故郷でなくなっている。
「ゼルフィード大神官さまの御最期を、妃殿下に、しかとお伝えする勤めが、あなたにはあるのですよ」
「ファウラ姫さまっ……」
アレノーワは、はっ……とした。
確かにその通りだ。
心ならずも臨終の場に立ち合ったのは、彼女ただ一人。
それをセルアに伝えない訳にはいかなかった。
……と、ここでもう一つの気掛かりに思い至る。
ミアの存在だ。
自分がさっさと逃亡してしまったら、残される彼女が案じられる。
ここからサザルへ一人、戻るのさえも難しいだろう。
一瞬、ミアもイブリールへ同行するのかと思ったが、彼女の装いは旅には不向きな普段使いのもの。
どうやら、サザルからここまで、馬車での移動を果たした……あるいは、この地に投宿しているらしい。
何にせよ、同行はしないようである。
そもそも、家族を残して、単身で異国へ脱出などできるはずはなかった。
しかし、要人殺害の容疑者の身内だ。
今度は彼女にティアモラの矛先が向きかねない。
そして、その家族にも。
「わたくしや主人のことは心配しなくてよろしいのです。神殿の方々が御尽力くださいます」
ミアは、従妹の憂慮を読み取って微笑する。
そして、更に、組合が一団となって、使用人たちや商売に関わる一切も守ってくれるだろうとも続けた。
ファウラの活動を支援する彼女の夫とその商売仲間たちもまた、遠い日の「黎明のかんなぎ」より恩恵を受けた者たちの末裔である。
更に救いの手を差し伸べてくれたファウラ一行への感謝の心は強く、尽力は惜しまないと畳み掛ける。
そもそも、こうしてミアがここにいるのも、夫や子供たちに促されて、従妹を見送るためだったと言うのだ。
時間に猶予はなく、意識を取り戻さないままのアレノーワと、別れの言葉を交わせない可能性も高いと覚悟の上だったらしい。
ちなみに、その家族たちは、ヴァストォール城下のローディアナ神殿に匿われているそうだ。
ミアはこの後、神官に付き添われて、彼らの元へ合流する。
灯台もと暗しとは、けだし名言だろう。
この地に彼女たち一家が潜んでいるとは、捜索する側も気付くまい。
「……ミア、姉さま……」
「わたくしたちの感謝の気持ちを、皇妃さまに、お伝えして頂戴。お願いよ」
ミアは、慕わしい妹分の手をしっかりと握り込んだ。
「はいっ……。はい。姉さまっ」
アレノーワは、涙ながらに確約する。
そして、件の騎士に向き直り、痛む身体を押して、深々と頭を下げる。
「お世話に、なります」
彼は無言で笑い、部下たちに命じて彼女の身体を起こさせた。
ようよう山裾が浮かび上がる暗がりの闇の中、馬を引いて一行は外へ出る。
夜明けに近しい時分だったらしい。
アレノーワは、毛布をきつく巻き付けた姿で騎士の後ろに跨り、襷がけに縛り付けられた。
その両手を彼の胴に回し、更にそちらも固定される。
しっかりと頭部に帯を締め付け、そして最後、猿ぐつわまで処置される。
訳がわからずになすがままになっていたアレノーワだが、ミアとの別れを経て走り出してからしばらくもせずに、その意味を理解した。
凄まじい振動である。
傷付いた身体を少しでもそれから守るための対策だったのだろう。
舌を噛む危険もきっと大きい。
頭の揺れは特につらく、これらの予防策がとられていなければ、きっとすぐに悲鳴を上げていたに違いない。
騎士の背に縛り付けられた際、「限界に至ったら、失神してくださって構いません。むしろその方が助かります」と言われたのにも、納得だ。
実際のところ、弱音を吐いている余裕すらなかった。
サナレーン侯爵と巫女ファウラは、わずか三名の護衛と、瀕死の侍女と共に、国境へ向かって疾走する。
残る部下たちも、それぞれ別ルートでの退避を実行中だ。
ティアモラの対応が早いか、それとも彼らの退却が早いか。
正に時間の勝負である。




