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全権特使の任を担ってサザル入りしたサナレーン侯爵の活躍は、見事極まりなかった。
穀物、畜産及び酪農のための一切。
これらの武器は、サザルの人々を恐怖と混乱に陥れる威力を持つものだったのだ。
そして、サザル領主を筆頭とした上層部も実際には一枚岩でも何でもなく、王室におもねる立場の領主側と、それに対抗する親族側で常に小競り合いが起こっている状態である。
そんな中、サナレーン侯爵は、反領主陣営の盟主とも言うべき、当代の従兄の抱き込みに成功した。
そして、セルアより与えられた権限を駆使して、母国に対して、小麦のティアモラへの輸出を停止させる。
「わたくしが、足を運びましょう」
着々と進行する作戦の最中、次の段階へ移行する際、声を上げた者があった。
セルアの招集を受けて閣議へ参加しているローディアナ神殿の聖職者たちの一人、レフィラ男爵夫人ファウラ。
豊かに房を巻く黒髪の美しい、サナレーン侯爵の姉にて、高位の巫女である。
弟同様……いや、聖職者たる立場から、日常から更に徹底して華美を避けており、一層、高貴にて凛とした神聖な上品さが引き立てられていた。
彼女は、皇妃セルアの相談役を兼ねた教育係りを務めている貴婦人で、先代皇帝の姪として第三位の皇位継承権を有する重鎮でもあった。
蛇足だが、男児優先の原則があるため、現状で第一皇位継承権はサナレーン侯爵が有し、次はその弟。
そして、姉であるファウラの順だ。
ただ、女性の身の彼女は法によって即位できないため、権利を有するのみである。
もちろん、懐妊中のセルアの出産を経れば、その順位が繰り下がるのは言うまでもなかった。
「はばかりながら、この身が、イブリール皇室に最も近しい親族であるのは、周知の事実。ローディアナ神殿に属する立場を兼ね、なおかつ、全権特使の姉たる存在以上の人選はあり得ますまい?」
議題となっているのは、サザル……そしてティアモラの民の救済である。
イブリールの国威を賭けた交渉の影で、無辜の人々が犠牲になっている事実を、セルアは重く受け止めていた。
それは慈悲の心だけではなく、政略上の大事でもある。
敵であり、圧力をかけているイブリールが、領民や国民より悪感情を向けられるのは当然だが、それを緩和させる必要をセルアは訴えたのだ。
つまり、内部からの揺さぶりである。
最も効果のある策は、食料支援に外ならない。
とは言え、表立ってそれをするのでは、圧力の意味もなくなるため、国境を凌駕する組織であるローディアナ神殿に協力をあおいだのだった。
イブリールは、国として、ティアモラ国王及びサザル領主に強い抗議を行うが、無実の民を苦しませるのを本意としていない。
よって、神殿に願い出て、彼らの救済を行う。
…………二枚舌以外の何物でもないのだが、市民感情は必ず上昇しよう。
だが、その実行役が難しかった。
食料の運搬が急務だが、供給不足に陥っている現地である。
道中で略奪される危険が非常に高い。
危険を防ぐために兵を同行させれば、外交上、厄介な問題が山のように起こる。
それこそ、ティアモラはここぞとばかりに、兵派遣の事実を喧伝するに違いない。
しかし、ローディアナ神殿所属の高位の巫女であるファウラの護衛なる名目なら、問題視すらされなくなるのだ。
彼女は、聖職者としても、皇室の外戚としても、大変な重要人物である。
そして、本人の主張の通り、全権特使の姉でもあった。
これ以上の人選はないだろう。
イブリールとしては、皇位継承権を有する姉弟の二人も派遣させる次第となり、それだけ事態を重要と考えている旨を、言外に告知もできる。
「……お申し出を、この上なくありがたく、心強く思います……。なれど、大変な危険を伴う役目。生命の保証もできません」
セルアは、そう告げた。
実際、どれほど万全を期したとしても、絶対はあり得ないのである。
「まして、ファウラ姫さまには、幼いお子さま方が、おいででいらっしゃいます……」
セルアの憂慮は、あらゆる意味で当然だった。
ファウラの儲けた二子は、サナレーン侯爵家を担う存在であり、場合によっては皇室の後継者となり得る可能性も高いのである。
……ただ、父親の身分が男爵とあって、皇位継承権の受け入れを、現時点では両親の意向で辞退している。
周囲の人々の感情をおもんばかって、だ。
無論、いよいよの事態となったならば、叔父であるサナレーン侯爵の養子として身分を繕うのは可能だが(いずれ、後継者としてそうする予定でもある)、危うい現状では、かなう限り波風を立てないように彼らは細心の配慮を心掛けていた。
レフィラ男爵は、貴族としてかなり下位の家柄なので、ラジアナ大公家が今に伝わっている伝統を考えれば、そちらを優先させるのが筋となるのだ。
ラジアナ大公家は、一応ならずとも傍系筆頭。
いくら皇室との血脈ではかなりの遠縁になっていようと、格式では比べものにならない。
現当主たる人物は、国の重鎮の一人だが、大変な傑物で、彼を尊重する意見が多々あるのは紛れもない事実だ。
生憎、こちらも嫡子がおらず、跡取りとなるのは、孫娘である。
大公妃の甥に当たる人物(こちらも外戚だ)が、彼女に息子が生まれ、家門を継ぐまでその後見を務める旨が決まっていた。
つまり、こうした難しい状況下において、ファウラは未来の皇太后候補を兼ねる尊い存在なのだ。
セルアから憂慮の言葉を受けて、ファウラは美しい笑みを見せた。
「これはわたくしの……皇室の血を引く者の務めと存じております」
強い覚悟を告げる彼女の気高さに、一同は感嘆の息を吐く。
「そして、ローディアナ神の教えを奉じる者として、人々の救済に尽力すること然り」
確固たる信念を有する者ならではの言葉だ。
もちろん、ファウラとて、この食料支援で、サザルの民全てが救われるなどとは思っていない。
言い方は悪いが、あくまでも「イブリール皇室の、ティアモラの民に対する誠意」を見せ付けるのが目的なのだ。
それによって、一層サザル及びティアモラの施政者たちの立場が苦しくなると計算した上での猿芝居に過ぎない。
確かに、その演者に、ファウラ以上の適材はいないだろう。




