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その日、神の守護を受けし地、ローディアナ大陸中の聖職者たちが待ち構えていた生命が、産声をあげた。
神の祝福を受けし聖なる王女セレスティア。
誕生以前より、各地の神殿へその託宣が下されていた人物はしかし、生国ティアモラにおいて、諸手を上げて歓迎された存在でない。
国王バルモア三世の第一子にて、先の王妃マヌエラの娘。
……そう、その嬰児の母は、至高の座を追われた存在でしかなかったのだ。
すでに玉座には、新王妃レスニアが就いており、その腹にも次代を担うべき王族が宿されていたのだから……。
だが、各地の神殿からの奏上によって、マヌエラは離別の後も、一応なりとも王家の者としての待遇を受けていた。
……全く以て、名目だけであっても、だ。
そもそも、前王妃マヌエラに、妻の座を追われる筋合いは皆無である。
現状に至った身を、ティアモラの者のみならず、他国の人々もがひどく同情していた。
王妃として瑕疵がないのみならず、大陸でも最も古い家柄の一つに数えられる、神官を輩出する名門直系の巫女だった出自から、より一層の崇拝を受けているのだ。
「国状を理由とする王の政治的判断」による離別を強いられた犠牲者として、哀れむ声は尽きない。
とは言え、それも、ティアモラ国内では禁句だ。
強大な権力を有する新王妃レスニアをはばかり、哀れな前王妃に味方する者は決して多くない。
いざ産みの苦しみの時が到来しながらも、王城より隔てられた古ぼけた小さな離宮には、わずかな側仕えが控えるのみだ。
かろうじて政治的配慮を斟酌しない神官が逗留しているぐらいである。
だが、それは生誕の王女には幸いした。
生まれ落ちた嬰児は、紛れもない王子だったのだ。
「こ、これはっ!」
「何と言うこと!」
産婆を勤めた乳母に、わずか二名の若い侍女たちは驚愕した。
誕生するのは、「神の祝福を受けし聖なる王女」でなければならないのだ。
そうでなければ、正当な王位継承者として、新王妃レスニアに葬り去られかねない。
悋気の激しい彼女が、そうしないはずはなかった。
バルモア三世とマヌエラの婚礼の儀式に、当時存命だった父親の名代として出席した彼女は、よりにもよって新郎を見初め、ありとあらゆる手段を講じて強引に妻の座を得た策略家である。
先妻の子に王位継承権をどうして与えたままにするだろうか?
ティアモラでは、女児の王位継承を明文にて禁じている。
直系の女児が存在して男児がいない場合は、血族より相応しい者をその娘の夫に迎える旨が、定められていた。
その法があったからこそ、レスニアは、バルモア三世の妻となり得たのだ。
東ティアモラと西ティアモラ。
二百年前に分裂した地の再統一は、両国の王にとって長年の悲願だった。
東ティアモラ王であったバルモア三世にとっても然り。
だが、西ティアモラには、レスニアの弟王子が存在し、直系王族の婚姻による統合……なる、最も平和的な解決策がかなえられるような状況でなかった。
そう……。
レスニアの父王と後継者の弟王太子が同時に事故死するなど、誰も考えなかった。
当然だろう。
だがまさかの事態になり、状況は一変した。
ただ一人の直系王族にて、王位継承権を有するレスニアの申し出に、どうして悲願を抱き締めるバルモア三世が否を告げられただろうか?
新妻を犠牲にしてでも、彼にとってそれは果たしたい夢だった。
また、各地の神殿も、マヌエラとの離別を強硬に反対しなかった。
すでに彼女の腹に宿っている「王女」に正当な処遇をしろと訴えるにとどめたのだ。
……神への婚礼の誓いを尊重し、理不尽な離縁を許さない組織としては、全く以て尋常ならない姿勢だが、彼らは政治的な介入を避け、宗教の領分からの意見に徹した。
「……生まれた、のです……ね……」
荒い呼吸を繰り返すマヌエラが尋ねる。
「ひ、姫さまっ」
嬰児を抱き締める乳母は引きつった。
無言で両手を差し出され、彼女は顔をくしゃくしゃにして首を振る。
「あ、ああっ……」
乳母のみでなく、侍女たちまで、声を上げて泣き出した。
「いかがなされた?」
「大公女殿下に何かっ?」
扉越しに異変を読み取る警護の者たちが声をかける。
産声の後、何一つ沙汰がないのだから、訝るのも当然だろう。
ちなみに、彼らの称する大公女とは、マヌエラのことである。
理不尽な離縁を強いられた彼女は、「王の妹分」として、この称号を与えられているのだ。
これもまた、笑い話しのような采配であろう。
「な、何でもありませぬっ! お入りくださいますな!」
乳母は、必死に取りなした。
「乳母や……。どうしたのです? ああ、……早く、早く、わたくしの娘を……」
マヌエラは、不安げに訴えた。
「ひ、姫さまぁ……」
涙ながらに乳母は、嬰児を差し出した。
腕に抱き取った母もまた、直後に恐ろしい事実に気付く。
生まれたのは、王女のはずだった。
王女であるからこそ、新王妃の目こぼしを受け、一応なりとも王族として生き長らえるのだから。
しかし……。
「そんな……、あ……そんなっ……」
マヌエラは震えながら、産み落としたばかりの我が子の下肢を探る。
しかし、どれほど改めようが、あるのは男児の証だけ。
せめて双方の性を併せ持つ、神の寵児たる「かんなぎ」であれば……と願う暇すら、ありはしない。
しかし、高位の巫女として神に仕え続けた彼女の立ち直りは早かった。
生来の英明さで、咄嗟に、自分の果たすべき役目を理解したのである。
(我が子よ……)
マヌエラは、息子を傍らに横たえ、片手で枕の下を探る。
(わたくしがなすことを……そなたは、これからの生涯、どれほど……恨みに思うでしょうか……)
涙を滲ませ、彼女は、守り刀を取り出した。
「ひ、姫さまっ」
「何をっ!」
(けれど……。どうか、許してください。……わたくしは……どのような姿となってでも……あなたに、生き長らえてほしい……)
涙を拭いもせずに、マヌエラはその銀の凶器を振り上げた。
(そしてそれが……我らが神のお導きでもあると……確信しています!)
痛ましい一瞬である。
新たな血が吹き出、嬰児が凄まじい叫びを上げた。
ティアモラ王女セレスティア。
後のイブリール皇帝妃・セルアが、真実誕生した瞬間だった。