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私の乙女を奪って下さい ~ 僕と晴希の愛の軌跡 731日の絆と58年の想い ~  作者: 春原☆アオイ・ポチ太
最終章 アリア ~僕と晴希の愛の軌跡~
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87話 天国からの伝言板

 ― パン屋『ル・シエル 』―


 僕達がパン屋に着くと……いや、正確に言うとパン屋があったビルの周りは鉄柵でバリケードが組まれ、解体工事中の看板が大きく掲げられていた。


「亜紀さんは、ココで待ってて……」

「あっ……ちょっと、直樹さん」


 時刻は19時過ぎ……辺りも既に暗くなっており、作業員の人は見当たらなかった。


 無断で工事現場に立ち入る事は駄目だと分かっていたけど、いても立っても居られなくなった僕は、隙間からバリケードの中に入り、短冊板のある非常階段の踊り場を目指した。


 階段の至る所には、瓦礫や電源コードが無造作に転がっており、足場はかなり悪い。それでも、晴希の願いを叶えるために、僕は無心で駆け上がって行った。


 踊り場まで辿り着いた僕は……

 あまりにも無情な光景に絶句してしまう……


「はぁ、はぁ、はぁ……何で、どうしてだよ」


 短冊板のあった壁は既に壊されており、目の前には小さな瓦礫の山あるだけ……どうしても諦め切れなかった僕は、藁をも縋る思いで瓦礫を掻き分けてみたのだったが……


 ――嘘だ……こんなの嘘だ……


 そこに短冊板は無かった……コンクリートの粉に(まみ)れた灰色の手を見つめながら、僕は思う。


 もう晴希の願いは、叶えてやれないのだと……


「ごめんな……ごめんよ晴希……うぅぅ」


 胸が抉られる様な思いだった……晴希の最期の願いすら叶えてあげられないのかと思うと、後悔と罪悪感から僕は涙を流した。


 もっと早くにココへ来ていればと……


 肩を落とし意気消沈としていた僕は、亜紀の所まで戻ると短冊板が見付からなかった事を告げた。


「僕は晴希に……何もしてやれなかった……ううぅぅ……」


 悔しさと悲しさで泣き崩れてしまった僕を見て、亜紀は優しく抱き締めると、優しく諭す様に温かな眼差しで……


「晴希ちゃんなら、きっと分かってくれます」

「……うん。帰ろうか」


 亜紀は優しく慰めてくれたが、その目には薄すらと涙が浮かんでいた。本当は亜紀だって、晴希の最後の願いを叶えてあげたいと思ってたからだ……


 帰り道……僕達が無言で俯きながら……

 薄暗い路地を歩いていた時だった。


 ビュー……


 風が吹いた……

 この季節にしては珍しい……

 優して爽やかな風だった……


 すると、風の音に混じりながら……


『こっちだよ』

「えっ?」


 路地裏にある細い一本道から声がした……

 この聞き覚えのある温かくて優しい声は……

 晴希の声だった。


「晴希……晴希が、こっちだって言ってるんだ」

「うん、行ってみましょう」


 晴希の声がした方へ進むと、そこには小さな一軒家が建っていた。恐る恐る、インターホンを鳴らすと中からは初老のおばあさんが出て来て……


「あのぉ……どちら様、だったかしら?」


「夜分遅くにすみません。そこにあったパン屋さんの事でどうしても、伺いたい事があって……」


 どうやら、このおばあさんはパン屋の元経営者だったらしい。長年連れ添って来たおじいさんの病気の悪化によって最近、お店は畳んだ様だが……


「あの晴希を……春日野 晴希をご存知でしょうか?」


 僕が晴希の事を訪ねると、おばあさんは目を丸くしながら驚いていた。


 何でも、昔から晴希と晴希のお母さんは良く、お店を良く訪れていた常連だった様で、花火大会の日には、特別に屋上を貸していらしい。


 毎年、晴希が短冊板に書く願い事を楽しみに見守っていた様だが……


「3年前に晴希は、事件に巻き込まれて亡くなりました。僕は夫として、晴希の最後の願いをどうしても、叶えてやりたくて……うううっ」


 気が付くと泣いていた……もう晴希の願いを叶えてやれないと思ったからだ。やりきれない想いに落胆し、僕が肩を落としていると……おばあさんが、奥の部屋から何かを持って来てくれた。


 その手に握られていたのは、小さな黒板……

 僕達が探し求めていた『短冊板』だった。


【晴希と付き合う事が出来ますように 草原 直樹】


 表面に書かれていたのは、僕の願い事……

 本当に、あの日のままだった。


 息を飲んで黒板を裏返すと、書かれていた内容を見て……僕達は目を丸くした。


 だって、そこに書かれていたのは……

 自分の幸せなんかじゃ無くて……

 僕達の幸せを願った物だったから……


【直樹さんと亜紀先生が、幸せになれます様に 春日野 晴希】


「晴希ぃ……うううっ……うわぁああ……」


 僕は、泣いていた……

 最後まで僕達の事を……

 想ってくれていたからだ。


『きっと……まだ亜紀先生は直樹さんの事を思ってるはずだよ。私、直樹さんの幸せを願ってるから……』


 晴希のお祖父さんから僕を守る為に別れようと言った晴希は、クリスマスイブの夜に……もしかしたら、この願いを書いていたのかも知れない。



「晴希ちゃん……うううっ」


 亜紀も一緒に泣いていた。

 心の何処かで、後ろめたさを感じ……

 僕を愛する事を躊躇っていたからだ。


『亜紀先生……直樹さんの事……お願い……しま……』


 晴希は最後の力を振り絞って、亜紀に僕の事を託して来たと言う。僕達は晴希の優しさに触れて、胸を空く思いだった。


 そして、思い出したのは夢の中での……

 最後の会話と、もう一つの約束だった。



 ― 夢の終わり ―


 もう姿は見えなかったけど、晴希がまだ近くにいるのは分かった……そこに、晴希の温もりが残っていたからだ。


 お願いを聞いた後で、僕は絞り出す様に……


「いつの日か、僕が天国に行ったら……また、一緒になれるかな」


『うん……きっと、なれるよ。私、迎えへ行くから……だから、その日まではお別れだよ』


「……うん」


 僕が涙ながらに頷くと世界が光で溢れた……

 晴希の温もりに包まれながら……


 ・

 ・

 ・


 泣いている僕達を見て、おばあさんは快く短冊板を譲ってくれた。元々、晴希のお母さんがココに置いていった物らしく、何よりもこのメッセージが僕達へ向けて書かれた物だったからだ。



 ― 帰り道 ―


 公園の前で立ち止まった僕を……

 心配そうに見つめる亜紀……


 僕は、亜紀の目を真っ直ぐと見つめながら……

 正直な気持ちを打ち明ける事にした。


「晴希との約束だけじゃなくて、一人の女性として真剣に亜紀さんと向き合いたいんだ……だから、これからも僕の事を支えていってくれないかな」


「うん、支えるよ。私、やっぱり直樹さんの事が好きだから……」


 その後、二年の交際を経て、僕達は結婚した。


 勿論、後ろめたさが無かった訳じゃないけど、後押しをしてくれたのが、他でもない晴希だったから……僕達は前に進む事が出来た。


 結婚してからは、亜紀を幸せにする事に奮闘した。仕事も頑張って、子宝にも恵まれ……順風満帆な人生を謳歌していたと思う。それでも、晴希の事を忘れた事は一日も無かった。


 そして、晴希が亡くなってから58年が経った今日……漸く、僕の人生も終わりを迎える事となった。

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