85話 向き合う心
晴希がいなくなって3回目の春を迎えた、ある日の事……僕と晴希と亜紀が、三人で外食した帰り道で事件は起きた。
「亜紀さんの手料理も良いけど、こうやって外食するのも、たまには良いですね」
「うん、晴希ちゃんも喜んでくれたみたいだし、また、行きましょうか」
この頃になると、亜紀もハルルン人形の事を晴希として自然に接してくれる様になり、僕にも笑みが戻っていた。
こんな幸せが、いつまでも続きます様に……
次第に僕は、そんな事を願う様になっていた。
晴れ渡る気分に反して、この日は生憎の空模様……
まるで晴希と出会った、あの日の様だった。
雨がポツリと降り始めてしまい、僕が折り畳み傘を出そうと慌ててリュックを漁っていると、落としてしまい中身をばら撒いてしまった。
その中には『ハルルン人形』も入っており、あろう事か赤信号の歩道へと転がり落ちてしまった。逸早く気付いた亜紀が、慌てて歩道に飛び出したのだったが……
「晴希ちゃん!! あっ……」
キキッーー……バン!!
――えっ!?
「亜紀さん!?」
僕が振り返ると亜紀は、車に轢かれて数mも飛ばされていた。慌てて駆け寄ると……亜紀の頭は割れており、額には夥しい血が流れていた。
それなのに、亜紀は……
「安心して……晴希ちゃんは無事だから……私、今度は、ちゃんと守れたよ」
「ごめん……ごめんよ、亜紀さん」
――僕のせいだ……
僕は、自分を責め続けていた。
僕がリュックを落とさなければ……
ハルルン人形に固執していなければ……
きっとこんな事には……
ならなかったはずなのだから……
亜紀の出血は酷く、降りしきる雨の中で僕は何度も謝り続けていたが、救急隊が到着する頃には……亜紀の意識は完全に途絶えていた。
手術室の前にあるベンチに座りながら僕は思う……
――お願いです、亜紀さんを助けて下さい。僕から大切な女性を……もう僕から奪わないで下さい。
罪悪感と亜紀を失ってしまうのでは無いかと言う不安から、すっかり憔悴しきっていた僕は……ただ祈り続けていた。
胸を抉られる思いだった……
目からは止めどなく涙が流れ……
僕の心は、もうグシャグシャだった。
そんな時だった……
「隣……座っても、良いですか?」
それは、女性で……
何処か懐かしくて……
春風の様に暖かな声だった……
「大切な方なんですね」
「あぁ……こんな僕の事をずっと支え続けてくれる……掛け替えのない女性なんだ。でも僕のせいで……」
僕が暗く俯いたまま、そう答えると横にいる女性は、優しく微笑みながら……
「ふふっ……亜紀先生なら大丈夫。もうすぐ目を覚ますよ」
――えっ? 晴希?
僕が顔を上げると、横にいたはずの女性は消え、間も無くして手術中のランプが消灯した。
出て来た執刀医に駆け寄って、亜紀の容態を伺うと……
「もう、大丈夫です。命に別状はありませんよ」
「ありがとうございます……ありがとうございます」
亜紀の無事を知った瞬間、張り裂けそうだった僕の胸は静かに空いてゆき、安心から涙が溢れ落ちた。
大切な女性を失わずに済んだのだから……
病院を出ると既に雨は上がっていた。帰り道、公園のベンチに座りながら月夜を見上げ、ハルルン人形と向かい合うと……
「ごめんな、晴希。今まで、ちゃんと向き合ってやれなくて……」
本当は、分かってたんだ……
晴希は、もういないんだって事を……
でも、現実を受け入れるのが恐くて……
僕は、ずっと目を背けていた。
晴希の死を知った、あの日から心を閉ざしてしまった僕は……この時、初めて晴希の死と向き合う決心をした。
これ以上、亜紀に心配を掛けたく無かったのもあるけど、いつまでも思い出に縋り続けている情けない僕の姿を見たら、きっと晴希も悲しむだろうし、何よりも安心して、天国に逝けないと思ったから……
この瞬間、僕の中で止まっていた時計は……
静かに動き始めていた。
― 翌日 ―
僕は亜紀のお見舞いへと病院に足を運んでいた。容態も気になっていたが、何よりも事故の事を謝りたかった。
「あっ、直樹さん。お見舞いに来てくれたの?」
「亜紀さん、あの……ごめんな。痛かっただろ?」
病室のベッドから空を見上ていた亜紀は、僕に気付くと笑顔で手を振って迎えてくれたが、手ぶら来た僕を見ると、途端に顔を曇らせ……
「私は大丈夫。それより、晴希ちゃんは?」
いつも一緒だったハルルン人形を連れていない事に違和感を感じた亜紀が、心配そうな顔で見つめると僕は重い口を開いた……
「晴希の事は……もう良いんだ。亜紀さんが優しいからいつまでも縋っていたけど、本当は僕も分かってたんだ……晴希は、もういないんだって事」
「直樹さん……」
分かっていたはずなのに……
いざ言葉にすると悲しくて、辛くて……
涙で前を向く事が出来なかった。
そんな僕を優しく抱き締めてくれた亜紀も、涙で顔を濡らしていた。こんなにも僕の事思ってくれる女性がいる……それだけで幸せだった。
――もう、これ以上……亜紀さんを悲しませる訳にはいかない。
亜紀が退院した後、僕達は実家の……
晴希の眠るお墓へと足を運ぶ事にした。
― 実家 ―
亜紀の退院から数日後 、僕達は実家へと帰省した。出てきた母は、心労からなのだろう……少しだけ老けている様に見えた。
「母さん……ごめん。僕、自分の事ばっかりで、皆の気持ちを考えてなかった……」
「……直樹」
そんな言葉に目を丸くした母は、目に涙を浮かべると僕を抱き締めながら、涙を溢した。僕が立ち直る事をずっと待ち詫びていたのだから……
――僕は、こんなに母さんを心配させていたのか……
笑顔で迎えてくれた母へ感謝を感じつつも、その重い罪悪感から、僕は憂鬱な気持ちになっていた。
――僕は歩き出さなきゃ、行けない……
意を決した僕は、すぐにお墓へと向かう事にした。辛い事があった時、亡くなった父へ何度も相談に行っていたお墓だ……場所はすぐに分かった。
僕と亜紀は墓石の前に立つと、静かに線香とお水を上げた。
【草原家の墓】
【享年20歳 草原 晴希】
墓石に刻まれた真新しい晴希の名前を見て……あの日、僕達が入籍していた事を知ると涙が込み上げて来た。
「小湊さんがね、婚姻届を出しに行ってくれたの。私が受理された事を伝えると、晴希ちゃんは笑顔で涙を流しながら……ううぅ……うううっ……」
その場で泣き崩れてしまった亜紀の肩を支えながら、墓石の前にまで来た僕は……
「……晴希」
――僕に会いたかったはずなのに、一番辛かったはずなのに……来るのが、遅くなってごめんな。
僕が祈る様にして、墓石に手を合わせると……
幸せだった時間が……フラッシュバックした。
『直樹さん……良かったら、さっきの続きをしませんか?』
照れ臭そうに、キスをせがんで来る晴希……
『うん、ありがとう。私、やっぱり直樹さんの事が大好き』
僕を好きだと笑う晴希……
『はい、これ。最近なんか元気無かったから私からのプレゼント。気に入ってくれると良いんだけど……』
プレゼントを渡す、少し不安そうな晴希……
『待ってたよ。出会ったあの日からずっと……』
僕を信じて待ち続けてくれた晴希……
『晴希の痛みは、僕が背負うから……晴希を守れるぐらい強い男になるから……だから……』
『直樹さん、ありがとう……愛してるよ』
ありがとうと嬉しそうに笑った晴希……
僕の大好きだった晴希が目に浮かんだ……
誰よりも深く愛してたのに……
何よりも大切にしていたのに……
いつの間にか、心の奥底へと……
追いやってしまった掛け替えのない記憶……
僕は、晴希との楽しい思い出まで無かった事にしようとしていたのだと気付くと、やりきれない思いと深い悲しみから、胸が締め付けられる様に痛くなって……
「晴希ぃ……晴希ぃ……ごめんな……ごめんな……こんな僕を好きなってくれたのに……僕は晴希の事を守ってあげられなかった……うううっ……うわぁあああ……」
気が付くと僕は……
墓石へ抱き付きながら咽び泣いていた……
あの木漏れ日の様な温もりを、もう感じる事は出来ないのだと悟ると寂しくて、切なくて……涙が止まらなかった。
そんな僕の事を後ろから優しく抱き締めてくれていた亜紀もまた……一緒に泣いてくれていた。
晴希の存在は……
何よりも大きくて……
僕の生きる希望だった……
それでも僕は、前に進まなきゃ行けないんだ。きっと、晴希もそれを望んでいるはずなのだから……
過去描写
※婚姻届の約束 『84話 最期の約束』
※キスのせがみ 『12話 ストロベリーロマンス』
※プレゼント 『23話 ダブルブッキング』
※信じる晴希 『42話 ドーニングフルムーン』
※嬉しそうな晴希 『73話 トゥルーディテール』




