82話 崩壊する世界
ビュゥー……
窓から吹き込む風……
春の陽溜まりの様な暖かな香り……
晴希の匂いだ……
でも、そこに……
晴希はいなかった。
その代わりにあったのは……
綺麗に装飾された白の箱と……
黒淵の額に飾られた晴希の写真だった。
――なっ、何だよコレ。これじゃ、まるで……
すると慌てて跡を追ってきた母が、後ろから僕の事を抱き締めた。僕の肩には暖かな物がポタポタと垂れており……
「ごめんね……ごめんね……直樹。許しておくれ……」
それから母が語ったのは、僕が意識を失ってからの事……晴希の壮絶な最期だった。
― 結婚式の日 ―
唖然呆然と立ち尽くしていた城崎だったが、皆が一斉に出てきた事で状況が一転したらしい。
「可哀想な草原君、君は心まで魔女に支配されてしまったんだね。だったら、せめて……最期は僕の手で解放したあげなきゃ」
最早、逃げられないと悟った城崎は、懐からもう一本のナイフを取り出すと僕へトドメを刺す為、ギラリと光る刃を降り上げたのだったが……
「今度は、私が直樹さんを守る番だから……」
手を大きく広げた晴希は、僕を守る様にして城崎の前に立ったらしい。
「そこをどけ、魔女。お前のせいで草原君は……草原君は……」
凛と見つめた晴希の眼差しは、どこか哀れんでいる様にも、悲しんでいる様にも見え、逆上した城崎は……
「そんな目で、僕を見るなよ……この魔女がぁーーっ!!」
ドスッ
無情にも突き刺さる刃が、晴希の華奢な体を貫くと純白だったドレスが忽ちに真っ赤へ変貌してゆく、それはまるで散りゆく染め花の様だった。
「直……樹……さん……」
虚ろな瞳で一歩、また一歩と歩み寄った晴希は、僕の懐までくると静かに倒れ込んだ様だ。
まるで僕に、寄り添う様にして……
「あはっ、あははっ……魔女を狩ってやったぞ。これで……これで草原君は、僕だけの物だ。さあ、一緒に楽園へ行こう」
そう言うと城崎は、引き抜いたナイフを自ら首に突き刺し、笑いながら死んでしまったらしい。
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その後、救急車で病院へと搬送された晴希だったが、ナイフは肺にまで達しており、懸命な治療も虚しく、帰らぬ人となってしまった様だ。
――晴希が死んだなんて……嘘だよ。こんなの作り話に決まってる……
母の話を聞いても現実を受け入れる事が出来ず、僕は何度も晴希の名前を呼びながら、色んな部屋を駆け回った……
「晴希ぃ……晴希ぃ……晴希ぃ……」
――どうして……どうしてだよ。どうして、どこにもいないんだよ……
追ってきた来た母が、僕の腕を掴むと真っ赤に腫らした目で、真っ直ぐと僕の顔を見ながら叫ぶ……
「晴希ちゃんはね……もういないの。ごめんね……ごめんね、直樹」
「嘘だ……嘘だぁあああぁーーーああぁあああぁーーあぁあああああぁぁーー」
言葉にならない声で、僕は叫んでいた……
喉が枯れても……涙が枯れ様とも……
「うわあぁあああーーああぁあああぁーーあぁあああああぁぁーー」
手当たり次第に、部屋にあった物をひっくり返した僕は……気が付くと部屋の端にあった柱に頭を叩き付けていた。
ズンッ!! ズンッ!! ズンッ!!!
――覚めろ……覚めろよ。こんな夢、もう早く覚めちまえよ……
これが悪夢である事を只管に願いながら……僕は何度も、何度も頭を打ち付けた。そうしているうちに僕の頭は割れ、視界が赤く歪んでも止まることはなかった。
「どうして、僕だけ生きてるんだよ。何で、一緒に死なせてくれなかったんだよ」
晴希のいない人生なんて……
晴希のいない世界なんて……
もう、どうでも良かった……
このまま死んだって、構わないと思っていた。この先、何十年とこんな苦しみの中で生きていくぐらいなら、今すぐに晴希の下へと……
そんな事に考えながら、頭を打付け続けていると……
「もう止めて、直樹。これ以上、ぶつかったら死んじゃう」
「死んだって良いよ、晴希に会えるなら……僕は、もう死んだって良いんだぁーー」
ピシャッ
僕の頬に突如、衝撃が走った……
僕を叩いた母は目を赤くしながら……
僕へと押し迫ると……
「貴方の命は、晴希ちゃんから貰った物なのよ。簡単に棄てる事だけは、絶対に許さない」
「うっ……うわあぁあああーーああぁあああぁーーあぁあああああぁぁーー」
憎むべき相手も失い……
どんなに辛くても、死ぬ事すら許されない……
そんな残酷な運命を、僕は……呪っていた。
太陽を失った月が夜空で輝けない様に……
晴希のいない、このモノクロの世界で……
笑顔を失った僕は、いったい何を求めて……
生きてゆけば良いのだろう……
――会いたい……会いたいよ、晴希……
僕は、あと何回……
晴希のいない孤独な夜を……
一人、泣きながら過ごすだろう……
僕は、あと何回……
晴希のいない凍てつく冬を……
一人、震えながら越すのだろう……
無慈悲な時間が刻一刻と過ぎてゆく中でも、僕の時計の針は止まったままだった。
起きては、晴希の事を探し回り……
声が枯れるまで泣いては眠る……
そんな日々が何日も……何ヵ月も続いた。




