81話 夢の終わり
「きゃあああぁーー!!」
「晴希ぃーー!!」
ドスッ……
何かを貫く……ずっしりと重く、冷たい音が辺りに響くと、無情にも城崎の握るナイフからは、まるで油性絵の具を垂らした様に真っ赤な雫がポトリ、ポトリと滴り落ちた。
「草原君……きっ、君はなんて事を……」
「晴希っ……大丈夫だったか?」
「直樹……さん……どうして?」
城崎の凶刃は、ギリギリの所で晴希には届いていなかった……間一髪の所で、僕が間に入る事が出来たからだ。血の気の引いた様な顔で、崩れ落ちる僕を両手で支えた晴希の顔は、静かに座らせると……
「痛っ、はぁはぁはぁ……」
「直樹さん、直樹さん!!」
ポタッ…………ポタッ…………
ナイフは、僕の右脇腹へと深く突き刺さっており、まるでバーナーで炙られいる様な痛みと激しい熱気により僕の顔を苦悶に歪ませていた。
この日の為に晴希の選んでくれた真っ白なタキシードは、滲んだ血により真っ赤に染まり、地面には小さな血溜まりが出来ている。
――僕は、このまま……死ぬのか?
今まで味わったの無い様な絶望感と痛み……刺されている場所はマグマの様に熱いのに、血を失っているからなのだろう、体は凍死してしまう程に冷たくて……凍えてしまいそうだった。
――でも、これで良かったんだ。最期に晴希を守れたんだから……
「ダメ……血が止まらないよ。直樹さん、しっかりして……」
刺された箇所を必死で抑える晴希の目は、小刻みに揺れその目からは涙が溢れていた。そんな優しい晴希の姿を見て僕は思う……
――君を最期に見れて良かった。笑顔で逝く事が出来るから……君と出会えて、僕は幸せだったんだ。
「はぁはぁはぁ……晴……希……愛してる」
「嫌ぁーー!!誰か……誰か助けてぇーー!! 直樹さんが……直樹さんが死んじゃうよぉーー」
すると晴希の悲痛な叫びが伝わったのか、皆が一斉に外へ飛び出して来ると……
「てっ……テメェ何をやってんだ」
「早く、救急車を……」
ついに限界を迎えてしまったのか、急に視界が狭まってゆき、次第に僕は意識は遠退いてゆく……
――みんな、晴希の事を……頼んだよ。母さん、親不孝な息子でごめ……ん……な……
祈る様にして意識を手放した僕は……
何処か、満足そうな顔をしていた。
― 夢 ―
僕は夢を見ていた……とても不思議な夢だった。
僕の前には晴希がいて、目には涙を溜めている。
「晴希、ごめんな。幸せにする事が出来なくて……」
今にも泣き出しそうな晴希に、僕は必死で声を掛けたが、晴希はただ悲しそうな顔で首を横に振るだけで……言葉は返って来ない。
――たぶん、僕は死んでしまって……神様が最期に晴希と会わせてくれたのかも知れない。
そんな事を考えていると、晴希は僕の手を握り締めて来た。そんな晴希を僕が優しく抱き締めると、体がフワッと軽くなり、辺りが不思議な光で満たされてゆくのが分かった。
――きっと、もう……お別れの時間なんだろう。
「晴希……僕は、君と出会えて本当に幸せだった。だから、僕の分まで生きて……幸せになってくれ」
僕が最期の言葉を送ると、晴希はまるで天気雨の様に、笑顔で涙を流しながら手を振った。距離が遠ざかってゆくと晴希の姿は次第に見えなくなり……僕は光の中へと消えてしまう。
そして……
・
・
・
― 白い部屋 ―
真っ白な天井が見えた。最初はココが天国なのかと思い込んでいたが、すぐに違うと気が付いた。
僕が目を覚ますと、そこには母がいて涙を流しながら手を握ってくれていた。そう、僕は一命を取り留めていたのである。
何でも僕は死の淵を彷徨いながら、2ヶ月以上もの間、目を覚まさなかったらしい。母は、僕の生還を心から喜んでいたが、僕には気になっている事があった……
「晴希は?」
僕の問いに対して、母は目を丸くして驚くとオドオドとしながら視線を横に反らしてしまった。そんな様子を見て、僕は思う……
「また記憶喪失になっちゃったのか?」
目の前で僕が刺されたのを見てパニック症を起こし、晴希は記憶を失ってしまったのだろうと悟った僕が、そう問い掛けると……母は無言で頷いた。
――僕達に、もう障害は無いんだ。大丈夫、今度は、ゆっくりと思い出せば良いんだから……
僕は自分の心にそう言い聞かせると目を閉じて、晴希との幸せな新婚生活に胸を膨らませていた。それから数日の経過観察期間が終えると、すぐに厳しいリハビリ生活が始まった。
「草原さん、歩きますよ」
「いっ、痛たたた……」
刺された傷は既に塞がっていたが、ずっと寝ていた事もあり、筋肉が落ちてしまっていた僕は、思うように動く事が出来ず……リハビリは難航していた。
でも、僕は決して挫けなかった……
――晴希が待ってるんだから、頑張らないと……
晴希に会いたい一心で、厳しいリハビリ生活を堪え抜いた僕は、目覚めてから一ヶ月が経過した頃、漸く退院する事が出来た。
― 退院日 ―
どうやら晴希は僕の実家にいるらしく、車で向う事になったのだが、母の様子が可笑しかった。家に近付く度に溜め息を吐いては、暗い顔をしていたからだ。
――晴希の記憶喪失は、そんなに酷いのか?
不安を胸に実家に着くと僕は沸き立つ感情を抑えきれずに玄関の扉を開ける。
何故か母は晴希に会うのを引き留めて来たが、浮き足立っていた僕は、その手を振り払うと心躍らせながら、二階の居室へと足を急がせた。
一歩、また一歩と階段を駆け上がる度に高鳴る鼓動……こんなドキドキするのは、いつ以来だろう。
――この部屋の中に、晴希がいる……
僕は、大好きな晴希の笑顔を想像しながら襖に手を掛けた。




