7話 インタンジブル
和訳『見えないの壁』
僕が目を覚ますと、1時間が経過していた。寝た事で頭の中はスッキリしていたが、目に浮かぶのは……晴希の笑顔だけだった。
「晴希ちゃん、可愛いかったな。しかも、僕なんかの事を好きだなんて……あり得ないよな」
女性に好意を持たれた事が無かった僕に取って、この期待と不安の入り混じる気持ちは、初めて味わう蜜の味……どこか温かで冷たい様な不思議な気持ちだった。
――あと10年……いや5年でも若ければ、晴希ちゃんと付き合う事になんの躊躇いなんて無かったのに……
「はぁ……」
年齢の壁……
目には見えない、この壁さえ無ければきっと晴希とも、分け隔てなく接する事が出来たのかも知れない……
電話を掛けるべきか……
このまま、終わりにするべきか……
晴希からメッセージを手に取っては、僕の心は激しく揺さぶられ……気付けば、溜め息ばかりを吐いていた。
こうしている間にも時間だけは過ぎてゆき、何もしないままアルバイトへ出掛ける時間になってしまっていた。冷たい水でサッと顔を洗い流した僕は、濡れた手で軽く髪を整えると家を後にした。
― 聖女高校の教室 ―
お昼休みになると、クラスでは仲良しグループ毎に分かれて食事をしていた。そんな中、晴希だけはスマホを見つめながら一人……溜め息を吐いている。
「はぁー……連絡来ないなぁ。もしかして私、嫌われちゃったのかな」
お昼を過ぎたのに未だに僕からの連絡が来る気配は無く、不安に思った晴希はお弁当もそっちのけで机に肘をつき、空を見上げていた。
その顔は、どこか儚げで……
寂しい曇天の様だった。
「どうしたの、ハル? ご飯も食べずに浮かない顔しちゃって……もしかして、恋とか?」
窓越しで黄昏ている晴希を見て仲良しグループの桃香が心配そうに声を掛けてくれたのだが……
「この男嫌いが、恋なんてする訳無いやん。しけた顔せんと学校終わったら歌い行こか……夕方までならウチが付き合ったるさかい」
すると話へと割り込んで来た賑やか担当の陽菜は真っ向から晴希の恋愛説を否定しただけでは無く、空気も読まずに二人をカラオケに誘って来た。
桃香はやれやれといった顔をすると……
「私、パース。今日は彼氏と付き合って一ヶ月記念日だし」
「このリア充女め、勝手にイチャついてろや。勿論、ハルやんは来るやろ?」
彼氏持ちの桃香が陽菜の誘いをあっさり受け流すと、ターゲットは晴希へと絞られたのだが……
「ごめん陽菜。私も今日は、用事が……」
「嘘やろ……」
流石の陽菜もこれにはガッカリしたようで肩を落とすと、そのまま一人で教室を出ていってしまった。
― ミカゲマート ―
家から徒歩20分程の所にあるスーパーマーケット『ミカゲマート』は、僕のアルバイト先であった。
付近にライバル店が少ない事もあり、タイムセールや夕方のラッシュ時にはかなり忙しく、時給の割に仕事はハードだった。
ロッカーの中からから青いロゴの入ったエプロンを取り出していると暗がりから誰かが声を掛けてきた。
「やあ草原君、良いところに来てくれた。ちょっと
、お願いしたい事があるんだけど」
この長身スーツ男は、藤代店長代理……通称『テンダイ』である。多忙な業務にも関わらず、常に周りへの配慮は怠らない……このスーパーを陰で支えるベテラン社員であった。
「急遽、バイトの面接が入ってしまって……この荷物を第二倉庫の方に移動しといて貰えないかな?」
「そんなのお安い御用ですよ」
テンダイが後ろ頭を描きながら苦笑いでお願いして来ると、僕は快く引き受ける事にした。
そもそも店長代理の肩書きがあるにも関わらず、進んでこんな肉体労働をしている事が可笑しいのだが、テンダイは率先して人が嫌がる仕事を熟していた。
そこがテンダイの良い所でもあり、非正規社員からの信頼が厚い理由でもあった。
実は僕がこのお店に勤ているのも、実は面接の時にテンダイがフォローしてくれた事が起因していて、感謝していると同時に憧れの存在でもあった。
「いやぁ……本当に助かるよ。後で店長には報告しておくから、ちゃんと残業を付けるんだよ。じゃあ、宜しくね」
「そんなに大した作業じゃないですから……って行っちゃったか。相変わらず、忙しそうだな」
テンダイの姿が見えなくなると僕は、黙々と荷物を台車に乗せ替え倉庫へ運び入れて行った。いつもならキツイ肉体労働だったが、今は晴希の事を考えずに済むので仕事をしている方が精神的には楽だった。
「すみません」
荷物の移動を終え、僕がホールの品出しをしていると、後ろからお客さんに声を掛けられた。
どうやら女性客の様だが……
「あのぅ『新鮮組』ってお醤油を探しているんですけど、全然見つからなくて……」
「あぁ『新鮮組』ですね。今日は特売なので特設コーナーに置いてありますよ。良かったらご案内を……って、ええっー!?」
突然、僕は驚きで叫んでしまったのだが……驚くのも無理は無かった。なんと声を掛けて来たのが、あの女子高生『晴希』だったのだから……
「あれっ……直樹さん? ホールの品出しをしてるって事はひょっとして、このスーパーのバイトさんですか?」
これは予期せぬ遭遇だった。
晴希には……晴希にだけは、自身がフリーターである事実を知られたくなかったからだ。僕は視線を落とすと、誤魔化す様に笑いながら……
「まあ、そんな所だよ……ガッカリしたか?」
「ガッカリって、何をですか?」
きっと晴希は幻滅したに違いない……
僕はネガティブな妄想ばかりを膨らませていたが、当の晴希はキョトンとした顔をしながら首を傾げていた。
「何をって、三十路にもなって定職にもつかず、フリーターだし。情けないと言うか……恥ずかしいと言うか……」
バレてしまった以上、隠し立てしても意味がない。僕は視線を横に向けながら正直に話をしたのだが……
「社員さんもバイトさんも関係無いですよ。私は頑張ってる人を職種で差別したりなんてしませんよ」
そう言うと晴希は、右手でピースを作りながら僕へ優しく返した。
三十路でフリーターなんて世間から見れば全く誇れる事じゃない。現に母からも、何度も定職を進められている。
それでも晴希は、僕を否定する所か寛大な心で受け入れてくれた……ただそれだけで僕の心は救われる思いだった。
感極まって目頭を熱くしていると、晴希は何かを思い出した様に目をキラキラと輝かせながら……
「今朝は何も言わずに出ていってしまってすみませんでした。メッセージ……読んでくれましたか?」
「へっ?」
晴希の思いもよらない発言に、気付けば僕は目を泳がせながら動揺していた……連絡が欲しいと書かれていたにも関わらず、今後の方針を決め兼ねて放置していたからだ。
「あぁ……連絡が欲しいってメモだよね。ごめん、メッセージアプリの送り方が良く分からなくて、後で送ろうと思ってたんだ」
「なんだぁ、そうだったんですね。私、嫌われちゃったのかと思って、心配してたんですよ」
咄嗟に口から出てしまった嘘だが、晴希は疑う様子もなく……嫌われていなかった事に安心すると、胸に手を当てながらホッとしている様だった。
そして……
「じゃあ、お仕事が終ったら私が教えますよ。外のベンチで待ってるので、声を掛けて下さいね」
「えっ!?」
急過ぎる晴希の申し出に、僕は動揺を隠す事が出来ず、咄嗟に口から出たのは……
「でででっ……でもさ、あと30分ぐらいはかかっちゃうし、そんなに待たせる訳には……」
本来、こんな可愛い子と連絡先を交換出来るのは、喜ばしい事だろう。
でも晴希と距離を置きたかった僕は、苦し紛れに言い訳をしてしまったのだが……
「全然、気にしないで良いですよ。もう用事は済みましたし、この後は何も予定無いですから……スマホでも弄りながら待ってます」
外で待つと言った晴希をどうしても帰せたかった僕は、良い言い訳を模索していたが、結局のところ何も思い浮かばず……
「でも、それだと晴希ちゃんに悪いから……」
「私達、二人の仲じゃないですか。水くさいですよ、直樹さん」
言い訳を重ねる僕に対しても、晴希は『良いから良いから』と手振り素振りでアピールして来る……こうなるとすっかり晴希のペースに乗せられてしまい、完全に手詰まりだった。
連絡先ぐらいなら交換しても問題ないだろうと、僕は受け入れる覚悟をしていたのだが……何やら晴希の様子が可笑しかった。
両手の人差し指を合わせながらモジモジと、はにかみながら迫ると、今度は上目遣いに……
「あのぅ……裏面に書いてあったメッセージも読んでくれましたか?」
「裏面!?」
勿論、裏面に書かれていたのは『お付き合いしたいです……お返事下さい』という晴希からの告白である。
「えっ……あっ……裏面か。あはは……全然、気付いてなかったな。帰ったら確認してみるよ」
恋心を抱いている晴希としては当然、早く返事が欲しかった様だが、優柔不断な僕は決め兼ねており、先延ばしにするようにメッセージを見ていない事にしてしまった。
そんな態とらしい僕の態度には、流石の晴希も察したのか、ジト目で近付いてくると……とんでもない事を言い放つのだった。
「じゃあ、今からココで直接お話しますね。私は直樹さんの事が……」
「ダァーー……ダメダメダメ。ココでそんな事を言ったら噂になっちゃうから」
あまりにも真っ直ぐな晴希の言葉に、手をバタバタとさせながら取り乱す僕だったが……どうやら、これは晴希の仕掛けたトラップだった様だ。
「まだ何も言ってませんよ。本当は直樹さん、裏面のメッセージも見てたんじゃないですか?」
僕の嘘を見抜いた晴希は、腰に手を当てがうと強い剣幕で押し迫って来た。そのあまりの迫力に、押し負けてしまった僕は……
「それは、その……つまり……ごめん。仕事中だし、ココでそう言う話はマズイかなって思って……」
僕が正直に話すと、晴希も納得してくれた様で先程までのキツかった表情を緩ませると、その顔にはいつもの笑顔が戻っていた。
「確かに、ココじゃマズイかも知れないですね。ふふっ……じゃあ、待ってますから後でお返事聞かせて下さいね」
嬉しそうにウインクをした晴希は、買物を済ませると、本当に外のベンチで座って待っていた。完全に逃げ場を失ってしまった僕は、意気消沈としながら、仕事へ戻った。




