72話 エスケープゴート
和訳『囮作戦』
― 数十分前 ―
「お言葉ですが、天音様。どうにも腑に落ちない点がございます」
何でもテンダイは、蓮華の間に誘導されている様な気がしてならなかったとの事。通り越し苦労なら良いが、冨幸の劣悪な性格を考えると胸騒ぎがした様だ。
「でも藤代さん。時計台に入るには、この部屋しか残って無くってよ」
「たぶん、そう仕向けたのでしょう。でもどうやら冨幸様にも見落としがあった様です」
そう言ってテンダイは地図を広げると、とある部屋を指し示した。
『桔梗の間』
「春日野さんは、既に時計台の中にいます。1つ上の階にはなりますが、上手く橋渡しが出来れば中に入る事は可能なはずです」
テンダイの話では、ロープの様な物があれば、何とか入り込めそうだとの事。天音は咄嗟にベルトの事を思い出し、僕へと伝えて来た。桔梗の間の窓から顔を出した僕は、晴希の姿を見つけるとベルトを丸めて投げ渡した。
「ベルトを受け取ったら、バックルをどこかに括り付けて垂らして……早く」
「うっ、うん」
僕は晴希の垂らしたベルトを掴むと、何とか時計台の中へ入る事に成功した。
「天音さん、無事に時計台に入れました。春日野さんも一緒です」
「それは朗報ですわ。それではプランC……時計台の中の階段を降りて来て下さい。地下室で落ち合いましょう」
そう言うと天音は、自室の裏にある扉を開いた。
「あらっ、藤代さん。そんなに険しい顔をして、どうかされましたの?」
「僕は、ココに残って蓮華の間に向かいます」
どうやら、テンダイは囮になって部屋に入るつもりらしい。中にどんな罠が待ち受けているかも分からない為、天音は必死に引き留めたのが……
「誰かが犠牲にならなければ、逃亡が明るみになってしまいます。それなら責めて、僕が……」
そう言って数分後に自ら罠へと掛かりに行ったテンダイは、警備員達に抱えられ病院へと搬送された。
― 時計台の地下 ―
「暗いから、足下に気を付けて……」
「はい。でも何か脱出ゲームしてるみたいでワクワクしますね」
相変わらず能天気な晴希に、少し困惑しつつも下へ下へと降りて行った僕達は、ついに最深部へと辿り着いた。
「天音さんは、ココで待ってて欲しいと言ってたけど……」
すると、晴希は僕のスーツの袖を引っ張り、少し困惑した様な顔をしながら……
「草原さんは、命の危険を侵してまで、どうして私の事を助けてくれるんですか?」
「そっ、それは……」
僕は、戸惑いから真実を語るのを躊躇していた。
好きだからと言うのは簡単だった。でも今の晴希に本当の気持ちが伝わるか分からず、言葉にするないが怖かった。
そんな僕の口から出たのは……
「約束したから……」
「約束?」
僕は誤魔化す様にして晴希に答えたが、これはどうやら失敗だったらしい。
「もしかして、ナツとの約束かな。あの子は少し強引な所があるから……」
「違う……」
「ごっ、ごめんなさい」
少し強い口調で返してしまった事もあり、晴希は謝罪をすると、そのまま俯いてしまった。
――悪いのは、僕の方なのに……
僕達が沈黙のまま暫く立ち尽くしていると、奥の扉が開き、中からは……
「お待たせしましたわね。隠蔽と撹乱工作を行っていましたら、遅くなってしまいましたの」
「あっ、天音ちゃん。今日は、ありがとうね」
すると、天音は手招きで僕達を呼び寄せ更に地下へと誘導した。
「事は一刻を争いますわ。お話は『海』に出てからにしますわよ」
「うっ、海?」
どうやら時計台の下には緊急用のボートが用意されており一旦、海に出てから町へと潜伏する気の様だ。
「では、参りますわよ」
ブブブブ……
操作に慣れているのか簡単にボートのエンジンを吹かせた天音は、海へと走り出した。どうやら敷地から海までは近かった様で、物の数分で海へと出る事が出来た。
日が昇る前に港へ下船した僕達は、陸へ上がると、天音が取り出したのは……なんとサンドイッチだった。
「お腹の足しには、なりましてよ」
「ありがとう」
そう言って一同はサンドイッチを食べ始めたのだが、晴希の表情は暗かった。
僕は申し訳なさそうに近付くと……
「いや、その……さっきはごめんね」
「えっ、あっ……大丈夫です。あはは……」
「何があったんですの?」
「実は……」
ギクシャクしている二人に、何があったのか訪ねた天音は凛とした表情で淡々と……
「そんなの決まっているじゃありませんの。ハルお姉様の事が好きだからですわ」
「ちょっ……もう……」
――そんな事を今の晴希に知られたら、嫌われてしまうに決まってる。
晴希の反応を見るのが怖くなってしまった僕は、いても立ってもいられなくなってしまい、その場から走り去ってしまった。
そんな僕の姿を見て、晴希は……
――何だろう? 凄く胸が痛い……心臓がバクバクする。私は何か、凄く大事な事を忘れている様な気がする。
呆然と立ち尽くす晴希は、少し困った顔をしながら天音に問い掛けた。
「私、草原さんの事を思うと胸が痛いの。でも、どうしてだろうな、何も思い出せなくて……天音ちゃん、草原さんは私の何なんだったの?」
「恋人ですわよ」
天音の言葉に一瞬、驚いた顔をした晴希は、悲しそうに俯くと今度は……
「じゃ、じゃあ何で言ってくれなかったの。私達、付き合ってたんだったら……」
「ハルお姉様を傷付けたく無かったんじゃありませんの。底無しに優しい人ですから……」
パラ……パラ……
すると、空から雨が降ってきた……
「私が出来るのは、ココまで……後は二人の問題ですのよ。慶恩寺の不祥事は私に任せて、早く追い掛けた方が宜しいんじゃありませんの」
「ありがとう、天音ちゃん。私、行って来るよ」
雨の強さは次第にましてゆき、気付けば晴希は、ずぶ濡れになっていた。
だけど……
――前にも、こんな事があった気がする……
『じゃあ、アイツらがいなくなるまで、ウチに来なよ』
『えっ?』
――どこに行ったの?
『晴希は……僕が守る』
――会いたい……凄く会いたいよ……
辺りを走り回る晴希、その目には次第に涙が溜まっていた。
『僕僕はやっぱり、晴希の事が好きなんだ。こんな僕で良ければ……付き合って下さい』
『はい……宜しくお願いします』
――直樹さん……
『好きだよ……晴希』
『私も……直樹さんの事が大好きです』
――私、いっぱい謝らなきゃならない事がある……
気が付くと晴希は、パン屋 『ル・シエル』の前にいた。先客がいるのか階段の柵が空いていた。階段を登ると見えたのは短冊板、そこに書かれていたのは……
【晴希と付き合う事が出来ますように 草原 直樹】
屋上の椅子にはズブ濡れの僕が凭れていた。この時の僕は、天音に本当の事を言われて……何もかも、どうでも良くなっていたのかも知れない。
そんな僕の姿を見て、晴希は……
「直樹さん……ごめんなさい。私、ずっと……ずっと忘れてたの……大切な事」
「晴希……」
僕は立ち上がると、晴希が腕を広げながら抱きしめて来た。ハッとした僕が咄嗟に腕を掴もうとすると……
「私、思い出したから……直樹さんの事、直樹さんが好きだった事、火事の時に身を呈して守ってくれた事」
――晴希……
僕は振り上げた腕をそのまま晴希の背中に回すと、優しく抱き締めた。晴希の目からは雨に混じりながら大量の涙が溢れていた。
「直樹さん、好きだよ……大好き」
「僕も晴希の事を愛してる」
抱き合った晴希は温かくて、優しくて……ふわっと良い香りがした。そして、僕は改めて決意すると晴希の顔を優しく見つめながら……
「晴希……僕と結婚しよう」
「直樹さん……うぅぅ……ありがとう」
これから、どれだけの困難が待ち受けているかは分からない。でも僕は逃げずに立ち向かう事を決めた。この晴希の笑顔を絶やさない為にも……
過去描写
※雨の日の出会い 『2話 トランスルーセント』
※晴希を守る直樹 『26話 ツイストリング』
※告白の時 『42話 ドーニングフルムーン』
※イブのキス 『51話 タースティレイク』
※短冊板の願い事 『18話 サマーバレンタイン』




