6話 ビタースイート
和訳『意馬心猿』
ジャーー
あまりにも急過ぎる展開に、その場から逃げ出してしまった僕は、風呂場の椅子へ腰掛けると頭からシャワーを浴びながら一人、悩んでいた。
「せめて、晴希ちゃんが女子高生じゃ無ければな」
流れるお湯が悲痛な叫びを一緒に流してゆく……
バイト以外では、殆ど女性と会話などした事など無かった僕に取って、晴希の存在は異例であり、出会った翌日にプロポーズまでされるなんて夢にも思わなかった。
勿論、晴希の事が嫌いな訳では無いのだが……世間体を考えると、どうしても躊躇してしまう自分がいて、苦悩に押し潰されそうになっていると……1匹の小さな悪魔が現れた。
「なぁ兄ちゃん、聞こえてるだろう?」
「………………」
「おい!! 無視すんじゃねぇよ」
突如、現れた悪魔の存在に僕は気にも止めていなかったが、耳や頬を引っ張ったりと動きがエスカレートしてくると、僕のイライラは限界へと達し……
「もううるさいな。今、僕は考え事をしてるんだから話し掛けないでくれよ……ってか、君は誰?」
「ケケケ……俺様は、お前の中に眠る悪意だ。そんな事より、さっき女……可愛いじゃねぇか、このまま付き合っちゃえよ」
「そっ、そんな事出来る訳が無いだろ。大体、あんな純粋な子を僕なんかが、どうにか出来る訳がないだろ?」
悪魔の言葉を薙ぎ払う様に手を振ると、僕は激しく抵抗した。これは晴希の事を思っての事だったが、そんな気持ちを引き裂く様に悪魔は囁き続ける。
「お前は、それで良いのか? 30年間、恋人は疎か女友達すら出来なかったんだぞ。念願の彼女は目前だ……悩む必要なんてナッシングだろ」
「確かに、そうなのかも知れないけど、それじゃ晴希ちゃんが……」
悪魔の言葉に唆されそうになっていた僕が苦悶の表情で必死に堪えていると……今度は白い双子の天使が現れ……
「私達は貴方の中に眠る良心。遊び心で付き合ってはなりません。相手は、まだ女子高生なんですよ」
「それに貴方は凡庸な三十路フリーター……分を弁えるのです」
天使達の提唱に我を取り戻した僕は、内なる欲望と身勝手さに不甲斐無さを感じ、激しく後悔した。
「そうだよな。やっぱりこんなのは間違っているよ。晴希ちゃんは良い子だし、僕のせいで不幸にさせる訳にはいかない」
濡れた体を拭き取った僕は、清々しい顔となり、天使達の助言を受け入れる事にした。
――もう……迷わない。
鏡に映るパンツ姿の自分に向かって誓いを立てる僕だったが、不気味に笑い続ける悪魔はフワっと飛び上がると耳元で何かを囁こうとしていた。
「もう騙されないぞ。僕は、晴希ちゃんを……」
「ケケケ……兄ちゃん。そう言わずに、まずはコレを見てくれよぉ」
「こっ……これは……」
悪魔が指差す先に吊るしてあった物……それは『ピンクのブラ』だった。
――思ってたより、ずっと大きい……
初めて見る母親以外のブラは、僕に取ってはあまりにも未知で、その大きさに圧倒されていると機を伺っていた悪魔は、口角を上げながら口八丁に僕を誑かす様に……
「ケケケ……お前、まだわかんないのかよ? 良いか、良く聞け。ココにあの女のブラが干してあるって事は当然……これ以上は言わなくても分かるよな?」
「つっ、つまり晴希は胸は今……」
ブラがココにあるという事実は同時に、晴希が今、無防備へと晒されている事を意味していた……つまり、ノーブラなのである。
「可哀想だよなぁ。あの女はお前に抱いて貰う為に、無防備なまま待ち侘びているって言うのに……そんな健気な女の願いを、お前は踏み躙るのか?」
――晴希も抱かれる事を……望んでいる?
その瞬間、僕の頭の中で何かが音を立てて崩れた。
嘗て無い高揚感と……
高鳴る鼓動……
最早、僕の心には何も響かなかった。
「なりません。貴方が禁を犯し、非道に走れば、あの女子高生の未来は……キャーー」
この暴挙を止めようと大慌てで飛んできた天使だったが……その姿は目に映っておらず、まるでハエでも払らうように弾かれると淡雪の様に消えてしまった。
「お前もサッサと消えるんだよ……オラッ」
「キャーー」
生き残った方の天使が悪魔によってトドメを刺されると……微かにあった良心までもが、完全に消え去ってしまった。
「ケケケ……精々、エンジョイするんだな兄ちゃん」
そう言い残すと、悪魔は笑いながら闇の中へと消えてしまう。欲望のままに歩き出した僕はロボットの様だった。
理性の壊れた僕は、何を血迷ったのかパンツ姿のまま脱衣所の扉を開けると……
「は……るき……ちゃん?」
だけど、そこに晴希の姿はなかった。
辺りを見渡すとテーブルの上には折り畳まれたスエット……そして、一枚のメモ紙が残されていた。
【dear 直樹さん 昨日は助けてくれて、ありがとうございました。学校に遅れそうだったので失礼します。電話番号を書いておいたので、後で連絡して下さいね。また会える日を楽しみにしてます。 from 晴希】
晴希からのメッセージを読んで、落ち着きを取り戻した僕は内心ホッとしていた。もしもこの場に晴希がいたなら……力任せに襲っていたかも知れないからだ。
高ぶった感情は……
時として理性を破壊し……
絶望へと誘う麻薬の様な物……
僕は己の不甲斐なさと晴希へ対する罪悪感に苛まれながら、ベッドに横になると右腕で両目を覆いながら深く溜め息を吐いていた。
「はぁ……最低だな。やっぱり僕には晴希ちゃんと付き合う資格なんて……」
――僕はもう、晴希ちゃんとは会わない方が良いのかも知れない……
窓越しに覗く、ボンヤリとした空は分厚い雲によって太陽が隠れていて、少し寂しそうな顔をしていた。
まるで、一つの恋が終わったか様に……
ビューー
吹き込んだ風が晴希のメモ紙を裏返すとそこには、なんと……別のメッセージが書かれていた。
【P.S. 私、やっぱり直樹さんの事が好きです。結婚は言い過ぎましたが、本気でお付き合いしたいと考えてます。直樹さんからの良いお返事待ってますね】
「……晴希ちゃん」
春の気まぐれな風の様に晴希への想いもまた、大きく揺らいでいた。ベッドに寝そべりながら、メモ紙を見ると思いだす……太陽の様な晴希の笑顔。
『じゃあ、付き合っちゃいましょうよ』
『やっぱり直樹さんは私の運命の人です』
あんな可愛い子に出会えるなんて……
こんなにも好きになってくれるなんて……
きっと、こんな幸福は二度と訪れる事は無いのかも知れない。
『私の乙女を奪って……』
夢の様な出会いに、想いを馳せながらも女子高生である晴希の為を思えば、このまま連絡をせずに終わらせた方が良いのではないかと苦悩し……僕は、再び眠りへ就くのだった。




