48話 ミスティウォール
和訳『霧の壁』
― 藤見が丘公園 ―
夏稀が冨幸と対峙している頃、僕は晴希に呼び出されて公園へと足を運んでいた。
どうやらデート……
と言う訳では無いらしい……
「おーい、晴希」
「あっ、直樹さん。今日は来てくれてありがとう」
晴希は一瞬、悲しそうな顔をすると、そのまま俯いてしまう……いったい何かあったのだろうか?
「急に、どうした? 何かあったの?」
心配した僕が優しく問い掛けると、晴希は俯いたまま、コートのポケットの中で強く手を握り締めていた。
そして……
「私と……別れて欲しいの」
「えっ?」
――冗談……だよな?
僕は半笑いしながら、信じられ無いと言った様子で晴希の肩に手を乗せると顔をジッと見つめていたのだが……何故か晴希は視線を合わせ様としなかった。
「私、なんか勘違いしていたみたいで……ごめん」
「晴希……」
――どうして、そんな事を言うんだよ晴希。
「本当は、ずっと思い悩んでいたの。だってそうでしょ、直樹さんとは歳だって一回りも違うんだしさ」
――僕は、動揺していた。
突然の別れ話もそうだが……
今の晴希は、どこか苦しそうで……
とても辛そうな顔をしていたから……
――これは、晴希の本心なのか?
僕が顔を見上げると……晴希は泣いていた。泣いている晴希の肩を優しく、抱き寄せ様とすると……
「触らないで……」
「あっ……ごめん」
急に声を荒げた晴希に驚いた僕は、晴希の顔を直視する事が出来ないでいた。
すると……
「そろそろ受験にも集中したいし、バイトも今月で止める事にしたから、だから……」
僕は尚も困惑し続けていた……
だって別れたいと口にする度に、晴希は顔を歪ませながら、ずっと涙を流していたのだから……
「きっと……まだ亜紀先生は、直樹さんの事を思ってるはずだよ。私、直樹さんの幸せを願ってるから……」
「…………」
何があったのかはわからないけど、晴希の意志は固く、簡単には折れそうに無かった。それでも何とか繋ぎ止めようと、僕が思考を巡らせていると……
「私、もう行くから。さよなら……直樹さん」
「あっ、ちょっと晴っ……」
そのまま走り去ってしまう晴希を、僕は止める事が出来なかった。晴希が、あまりにも辛そうな顔をしていたから……
――こうして、僕達の短い恋は終わった……
― 帝王学院高校 ―
「あははは……案外とタフじゃないか。でも、その足じゃ、もう立て無いんじゃないかな? さっさと負けを認めた方が、僕は賢明だと思うけどね」
「はぁ、はぁ、はぁ……誰がテメェの言いなりなんかになるか」
相当、鍛えていたのだろう……冨幸の体はまるで砂の様にずっしり重く、その拳は石の様に硬かった。一方的な暴力により、夏稀の体はアッと言う間にボロボロになり地面へ這いつくばっている。
「あはは……その勝ち気な所は、昔から変わって無いな。でも安心しなよ、そんな夏稀君でも、素直になれる素敵なアイテムも用意してあるから……」
冨幸は、カバンの中から注射器の様な物を取り出すと、手に取って夏稀へと見せつけた。
「一本十万円……庶民には少し高いと感じるかも知れないが、これが凄く良いんだ。打つと心も体も解放されて、誰でも簡単に気持ち良くなれる夢の様な薬なんだよ」
「何を考えてやがる。やめろぉ、やめろってば……」
「遠慮するなよ。これは奴隷になる君への……細やかなプレゼントなんだからさ」
冨幸は馬乗りになり、夏稀の両腕に脚を乗せ無理矢理抑えつけると、注射器を片手に押し迫って来た。
その顔は、まるで何かに取り憑かれた様な……
狂気に満ち溢れていた。
「怖がらなくても大丈夫だよ。僕がたっぷり愛でてあげるから……」
「やめろ……やめてくれぇ……」
注射器が10cm……5cm……と首元に押し迫ると、夏稀は観念した様に目を強く瞑ったのだが、何やら様子がおかしかった。
「お前、どうやってココに入って来たんだ。外は俺の配下が見張って……グゴッ」
突然の訪問者に、驚きを隠せなかった冨幸が声を荒げていると、目の前で冨幸が浮き上がった。
夏稀が目を開くとそこには、政斗の姿があった。
「おいナツ。俺のいない所で、知らない男とイチャつくとは何事だ」
「お前の馬鹿か……どこからどう見たら、イチャついてる様に見えるんだよ。俺はコイツに襲われてたんだ」
政斗の勘違いに少し苛立っといた夏稀だが、内心はホッとしていた。そして、状況を理解した政斗は倒れている冨幸を上から圧し潰す様にして睨みつけていると……
「いだだだ……注射器があぁ、僕の左腕に……体がぁ……体がぁ……」
「…………」
冨幸は倒れた衝撃で、注射器を自らの腕に刺してしまった様だが……これは自業自得である。
もし、これが本当に鎮静剤や覚せい剤の類いであれば当然、冨幸に取っても致命となるはずだったのだが……
「嘘ぴょーん……中身は、ただの水でした。あはは……」
全てフェイク……どうやら中身は、ただの生理用食塩水だった様だ。
「テメェ……騙しやがったな」
「騙したなんて人聞きが悪いな……僕はコレが薬物だなんて言った覚えは無いよ。でも、一瞬でも君も可愛くなれただろ?」
冨幸がスマホを取り出すと、夏稀が目を閉じて堪えている写真が撮られていた。
「テメェ……」
怒りの治まらない夏稀は、冨幸の事をギッと睨みつけたが、冨幸の方は全く動揺する素振りも無く、スッと立ち上がると制服をパッと叩いた。
「そんな事より、そこの筋肉ゴリラはいったい何? 僕の可愛い配下共は、いったい何をやってんだよ」
「ああ……呑気に昼寝してるぜ。天気も良いしな」
「いや、曇ってるけど……」
空にはどんよりと雲が広がり、今にも雨が降りそうだった。どうやら冨幸の配下は、政斗達の手によって打ちのめされ、完全に伸びている様だ。
「たくっ、高い金払ってるのに使えない奴等だ……イライラするよ。夏稀君じゃ、ストレス発散にもなら無くてね……君は楽しませてくれるのかな?」
「へぇ……奇遇だな。俺もテメェの女に手を出されてムシャクシャしてた所だ。外の連中じゃ、準備運動にすらならんかったが、お前は良いサンドバッグになってくれるんだよな?」
突如始まってしまった男の闘い…… リーチの差で高身長の政斗が断然、有利かと思われたが、冨幸は華麗なフットワークで鮮やかに交わすと、政斗の懐へと飛び込んでゆき……
ズドッ……
ボゴッ……
「あははっ……君は随分と堅い体をしてるんだね。これは、壊し甲斐があるよ」
「ふん……そんなの、痛くも痒くもねぇよ。歯ぁ食いしばれよ」
シュッ……
振り被った政斗の拳を軽く躱した冨幸は、去り際に政脚を目掛けて蹴りを繰り出したのだったが……
ボッゴーン
「?」
政斗が冨幸の蹴りに合わせて蹴り返すと、冨幸の体が浮いた。
「俺の蹴りを受けても無事とは……頑丈なヤツだ」
「それはお互い様だよ、この筋肉ゴリラめ」
歪み合う二人だが、その力は拮抗している様に見えた。殴って受けて、蹴っては殴って、二人の死闘はそれからも十数分も続いた。
「はぁ……はぁ……はぁ……いい加減倒れろよ。この筋肉ゴリラが……」
「はぁ……はぁ……戯けが、貴様の方こそ良い加減、降参したらどうなんだ」
それでも勝敗はつかず、最終局面へと向かうと思われた、まさにその時……
ファンファンファン……
どこからともなくパトカーのサイレンの音がした。どうやらココに、向かって来ている様である。
「あはは……どうやら時間切れだ。君達は校舎に不法侵入した罪で警察行きになるんだ」
ブオーン……
音のする方にはバイクに跨がる夏稀がいた。この場から逃げようと、政斗達に向かって走って来たのだが、冨幸は二人を逃がすまいと政斗にしがみついて放さない。
「あはは……逃さないよ筋肉ゴリラ君」
「俺は、男と抱き合う趣味はねぇんだ……よっ」
ガツッン
「あっ……あはっ……」
次の瞬間、政斗は冨幸の頭を目掛けて思いっ切り、頭突きをすると朦朧していた冨幸の腕を振り払い、そのまま走り去ってしまった。




