46話 サワーグレープ
和訳『負け犬の遠吠え』
※直訳すると、酸っぱい葡萄。イソップ童話の中では、負け惜しみと言う意味があるそうです。
晴希を最寄り駅まで送り届けると、僕は晴希の誓約について考えながら帰宅していた。
「この誓約を掻い潜るには入籍。つまり、僕が晴希と結婚するしか……」
迫る結婚へのプレッシャーが僕の胸を圧迫すると、その握り締めた手には汗が滲んだ。
――僕が、本当に晴希の事を幸せに出来るのか?
そもそも恋人とは違い、結婚なんてそう簡単に出来る物では無い。女子高生の晴希とフリーターの僕……普通の親なら、まず反対するだろう。
「やっぱり無謀なのかな。いや、晴希の為を思えば、僕がやるしか……」
頭を抱えながら苦悩を重ねた僕は、打開策を模索しながら一夜を過ごしていた。
― 晴希の部屋 ―
布団に抱き着く様な形で座り込んでいる晴希もまた……深く考え込んでいた。
――あんな話をして、直樹さんには嫌な気持ちにさせちゃったよね。
「でも直樹さんなら、きっと……」
晴希もまた、僕を信じて待つ事に決めたのだったが……邪魔をしてくるであろう冨幸の事を思うと、不安で食事も喉を通らなかったらしい。
― 翌朝 ―
考えながら寝落ちしてしまった僕だったが……結局、良い打開策は思い付かず、冨幸の言葉を思い出しては苛立ちを募らせていた。
――晴希は、絶対に渡さない……
そう意気込んで、僕はバイトへと向った。
この日は午後から晴希や夏稀と同じシフトで入っていたのだが……ココでとんでもない事件が起きた。
「この店の商品を全部、僕に下さい」
この店の商品を買い占めた男、よく見るとそれは冨幸であった。
小さなスーパーとは言え、全ての商品を購入するとなると、膨大なお金が掛かる事は容易に想像がついた。いったい、何を考えているのだろうか?
「これで、午後のアルバイターは不要ですよね、店長さん」
どうやらこれが、冨幸の狙いだったらしい。それにしてもこんな無駄に商品を購入して、どうするつもりなのだろうか?
不思議に思っていた僕を他所に、少し怒った様子の晴希が慌てて詰め寄ると……
「ちょっと商品、全部買い占めて、どうするつもりなのよ」
声を荒げた晴希に対して、冨幸はニタっと気持ち悪い笑みを浮かべながら晴希の肩へと手を回すと……
「あはは……僕の事を心配してくれるのかい? 晴希は優しいなぁ。全ては君と一緒に過ごす為だよ、こんなの僕に取っては、大した事じゃない」
どうやら、この男は晴希との時間を割く為だけに店の商品を買い占めたらしい。あまりにも、自己中で逸脱した考え方を持つ冨幸に、流石の僕も……
――コイツ、狂ってる……
そんな冨幸から晴希を守ろうと、僕が考えを模索していると、騒ぎを聞き付けて来た夏稀が凄い形相でやって来て……
「てっ、テメェ……」
「おやおや、これは夏稀君じゃ無いか。こんな所で何をしているんだい?」
どうやら夏稀も冨幸とは面識がある様だが、その関係は、かなり険悪そうに見える。
「性懲りも無く、晴希に近付きやがって……また、病院送りにされてぇのか」
「あははっ……でも、今の君には無理じゃ無いかな。僕はあれから毎日、鍛えてるんだよ」
自身の鍛え込まれた腕や腹筋を、自慢げに見せ付けて来る冨幸を見て、夏稀は威嚇する様に冷たく睨みつけていた。
まさに、一触即発……
店内に異様な空気が漂うと……
「じゅあ、賭けをしようか。今から君に好きな所を一発だけ殴らせてやろう。僕を一発で倒せたなら……」
賭けは、一発勝負……無防備な冨幸に対して夏稀が一撃で倒せたら今日の所は潔く引いてくれるらしい。逆に堪えられた時には、晴希とのデートを邪魔しない事で合意した。
「君は貧弱そうだから、特別に蹴りも許可してあげよう」
あまりにも分が悪い賭けに内心、気が気じゃなかった僕だが夏稀には勝算があるのか、この申し出を快く受ける事にした。
「……本当に良いんだな」
「あはは……構わないよ。何処からでも掛かってきたまえ。精々、悔いが残らない様に思いっ……キョッ!!」
「キョッ?」
冨幸は変な声を上げると、その場で苦しそうに蹲りながら悶えていた……口からは泡を吹き、途轍もなく苦しそうだった。
「なおおぅぅぅ……おまっ……お前、股間を蹴るなんて汚いぞ」
どうやら夏稀が、冨幸の股間を目掛けて思いっ切り、蹴飛ばしたらしい。卑怯だと喚き散らす冨幸だったが、夏稀は上から見下ろすと……冷やかな目をしながら笑っていた。
「くくくっ……股間は駄目だなんて、俺は一言も聞いてねぇぜ。ハル、草原さん、こんな奴は放といてサッサと行こうぜ」
「うっ、うん」
「あっ……ああ」
走り去ってゆく僕達を、這いずりながら……恨めしそうに見ていた冨幸は静かに復習の炎を燃やしていた。
――あっ……アイツら、絶対に許さないからな……
その場から逃げ出した僕達は、気分転換にと、カラオケに行く事にした。
― カラオケ ―
「ハッピピース……トゥルゥーラブ……私のハートは……」
「あのさ……ナツ」
気持ち良さそうに歌っている晴希を他所に、僕が冨幸の事について夏稀へと問い掛けると……
「アイツは……いや何でも無い」
「??」
頑なに口を開こうとしない夏稀……余程、嫌な思い出でもあるのだろうか?
「何、コソコソと話してるのよ。さぁ次は二人でデュエットだよ」
「なっ……僕とナツが……」
「デュエット……だと?」
突然のデュエットにお互い目を合わせると気まずそうに目を反らしてしまう。そんな僕達などお構い無しにマイクを手渡してくる晴希は何だか、無理して元気を装っている様にも見えた。
カラオケを終え、外に出ると辺りは日が落ちてスッカリ暗くなっていた。
「二人共、今日は付き合ってくれてありがとうね。じゃあ、私はこっちだから……またね」
「ああ……またな」
「気を付けて帰れよ」
笑顔で去ってゆく晴希の背中は、どこか寂しそうに見えた。二人きりになった僕は、何とか冨幸の情報を聞き出せないかと、夏稀に声を掛けようとすると……
「草原さんはアイツの事……どこまで知ってるんだ?」
「えっ? 晴希の婚約者って所までは聞いたけど。なんか誓約書があるとか、何とかって……」
「!?」
次の瞬間、夏稀の顔色が変わった……何か、まずい事でも言ったのだろうか?
「アイツ……本当に、そんな事を言ってたのか?」
「えっ? ああ……間違い無いと思うけど」
「まさか……」
夏稀は、何か確信を得た様に目を丸くすると……頭を抱えながら考え込んでいた。
「何かあったのか?」
「いや……何でも無い」
僕の問い掛けに対して、気丈に振る舞っていた夏稀だが、その反応は明らかに動揺している様に見えた。
すると、夏稀は、僕の顔を神妙な面持ちで見つめながら……
「草原さんも、アイツとは関わらない方が良い。きっと、ロクな目に合わないから……」
どうやら冨幸には、言葉で言い表せない程の問題がある様だ。
それは昨日からのやり取りからも一目瞭然だったのだが、夏稀の伝えたかったのは、これが忠告では無く、警告だと言う事だったらしい。
会話を終えた夏稀は、バイクに跨がると、そのまま、どこかへ走り去ってしまった。
結局、取り残されてしまった僕は、トボトボと一人で家に帰る事になったのだが……この時の夏稀には何か考えがあった様だ。




