38話 ウェイニングブレイズ
和訳『消えゆく恋の炎』
ただ真っ直ぐ見つる亜紀の瞳に……
僕の視界は完全に奪われていた……
ただ無言のまま見つめ合う時間が続いていた……
カラン……カランカランカラン……
茶碗が転げ落ちる音がすると……
僕の太股には、焼ける様な痛みが走った。
「アチチッ……」
「だっ……大丈夫ですか、直樹さん」
あまりの痛みに堪え切れなかった僕は声を上げた。あろう事か持っていたお椀を落とし、ズボンへお粥を撒き散らしてしまったのである。
亜紀は心配そうな面持ちで、僕へと詰め寄ると……
「すぐズボンを脱いで下さい」
すると亜紀は、僕のズボンを脱がせた。そして、火傷した太股を確認すると、持っていたハンカチに保冷剤を包み、優しく冷やしてくれた。
「亜紀さん、ごめん。僕、ぼーっとしてて、折角のお粥も、こんなに……」
「風邪引いてるんですから仕方無いですよ。それより、火傷は大丈夫ですか? 痛く無いですか? 痕が残らなければ良いのですが……」
こんな時でも自分の事の様に心配してくれる亜紀の優しさに僕は心から感謝していた。暫くして火傷の痛みが落ち着いてくると、亜紀が視線を横に反らしているのに気付いた。
その顔は、少し赤くなっている様に見える……
――あっ……そうか。
咄嗟の出来事だったとは言え、目の前には下着姿の僕……しかも、急に患部を冷やされた事により、パンツには小さな山脈が出来上がっていた。これは純潔無垢な亜紀に取っては、少々刺激が強かった様だ。
「ごめん、もう大丈夫……あとは自分でやるから」
「……はい」
下を向きながら小さく頷く亜紀を見て、僕はドキドキしていた。いつも冷静な亜紀が、こんなにも取り乱していたのだから……
そんな亜紀と目を合わせられずに視線を下げると亜紀のスカートにもお粥が飛んでしまっているのに気付き……
「あっ!! 亜紀さんのスカートにもお粥が……すっすぐにタオルを出しますから」
「あっ、お気になさらないで下さい。これくらい大丈夫ですから……」
綺麗なタオルを出そうと慌ててタンスを漁ったのだが、出てくるのは使い古されたボロ雑巾の様なタオルばかり……僕が次々とタオルを出してゆくと、綺麗に折り畳まれたピンクな布がフサっと亜紀の目の前へ落ちた。
「直樹さん、良かったらこのハンカチを使わせて……えっ!?」
「あっ、すみません。何かタオルの間に挟まっていたみたいで……えっ!?」
亜紀が持っていた物……
それはあの日、返し損ねた……
晴希のブラであった。
暫くの間、固まって動かない二人……
「ちっ、違うんだ。これはその……えっと……」
「昔の彼女さんの物ですよね。そっ、それとも直樹さんにはこう言った趣味があったりとか……あっ、いえ何でもありません……すみません」
慌てて火消しへと走る僕だったが、すぐには言い訳など思い浮かぶはずも無く、言葉に詰まっていると、動揺した亜紀が先に口火を切ったのだが……更に気まずい空気になってしまった。
この場を丸く治めようとした僕は、何を思ったのか爆弾処理にでも向かう様に、そろそろと亜紀の持つブラの方に歩みを進めたのだが……
カチッ……
道中、特大の地雷を踏んでしまった。
『私のあげたブラ、大切にしてくれてますか?
またいつか、一緒に楽しい夜を過ごしましょうね』
「はっ……晴希!?」
部屋をキョロキョロと見渡す僕だったが、そこに晴希の姿は無かった。
そう……声の主はハルルン人形だったのだ。
どうやら僕が誤って尻尾を踏んでしまった様だが、今回のプレミアムボイスは……まさに僕を地獄の底へと突き落とす事となった。
あまりにも突然の事で咄嗟に晴希の名前を上げてしまった僕だったが、亜紀は静かに俯くと、その顔を暗く陰らせてゆき……
「亜紀さん、違うんだ。これには深い訳が……」
ピシャ……
――えっ?
右頬に感じる強烈な痛みにより、僕は現実へと引き戻された。亜紀は大粒の涙を流しながら僕を軽蔑する様な目で、グッと睨みつけると……
「直樹さん、最低です。晴希ちゃんは、まだ女子高生なんですよ。あんなに無垢な子になんて事を……」
晴希と肉体関係があると勘違いをした亜紀は、激しい怒りを露にすると、目を真っ赤に染めていた……こんなに怒った亜紀の顔は、見た事が無かった。
「…………」
何から話して良いのかわからず、半ば放心状態で僕が立ち尽くしていると、見兼ねた亜紀は静かに立ち上がり……
「……失礼します」
「あっ、ちょっと……亜紀さん、」
溢れた涙を左腕で拭いながら亜紀は扉を開け、出て行ってしまった。僕は急いで後を追い掛けたのだが……
「亜紀さーん……」
パンツ姿のままではこれ以上、亜紀を追う事が出来ず、走り去ってゆく亜紀の姿を後ろから見ている事しか出来なかった。
――最悪だ……
亜紀に嫌われてしまった事を後悔したが……最早、後の祭りである。僕が仕方無く、家へと戻ろうしていると……
ガサッ
直ぐ後ろで、何か袋の様なものが落ちる様な音がした。気になって振り返るとそこには……俯きながら立ち尽くす、晴希がいた。
「はっ……晴……」
ピシャ……
――えっ?
今度は、僕の左頬には痛烈な痛みが走った。
突然の出来事に、驚きを隠せなかった僕は左頬を掌で覆いながら、恐る恐る晴希の顔を覗き込むと……晴希は泣いていた。
「最低……そんな人だと思わなかった」
どうやら晴希は僕が亜紀を襲おうとしていたと、勘違いしていた様で、怒りに体を震わせながらキツく睨みつけていた。
「さよなら……」
「あっ……晴……」
何も言い訳出来ない僕は、その場から走り去ってゆく晴希の背中に、声を掛ける事が出来ず、黙って見ている事しか出来なかった。
二兎追うものは一兎も得ず……
今まで、好意を持ってくれていた二人は、くしくも最悪な形で僕の下から離れてゆく事になった。
晴希が置き去りにしたビニール袋を手に取ると中には……大量の栄養ドリンクとお粥を作る為の材料が入っていた。
「晴希……ごめんな」
罪悪感に押し潰されながら、部屋へと入った僕はは後悔していた。そのままベッドに横たわると、目に浮かぶのは……二人の泣き顔だった。
これは、恋を選べなかった自分自身の未熟さが招いた結果。それは分かっていたけど……
――これが夢なら、覚めてくれ……
僕は嘆きながらも、体調の悪さから再び、眠りへと落ちてゆくのだった。
※晴希のブラを手に入れた経緯は『6話 ビタースイート』『8話 ファッシネイトロックス』をご覧下さい。




