37話 クレセントピアーズ
和訳『揺れる想い』
― 自宅 ―
帰宅した僕はシャワーをしながら、ずっと考えていた。
晴希の事……
亜紀の事……
――晴希、喜んでたな……
夏稀との和解が出来たら付き合うと約束していた事もあり、きっとトライフルランドでのデートを楽しみにしているのだろう。
だけど……
――亜紀さんも、期待してるよな……
亜紀さんとは、母親の紹介でお見合いをした間柄だ。結婚を視野に考えている身であれば、当然、トライフルランドでのデートも楽しみにしているだろう。
「ああぁぁ……もう、僕はどうしたら良いんだ」
僕はゴシゴシと泡立てシャンプーをしながら、藻掻き苦しんでいた……
やはり、世間体を考えるなら亜紀だろう。だが、晴希には病気もある。僕が裏切ってしまえば相当なショックを受けるだろう。
タオルで体を拭きながら、冷静になって考えてみても答えは一向に見付からない。そんな僕が迷走していると……
チャラチャラン……
突然、スマホが鳴った。
どうやら晴希からのメッセージの様だ。
「えっ?」
だが内容を確認すると、そこにはトライフルランドでのデートプランが事細かに書かれていた。
効率良くアトラクションを回るにはどうしたら良いのか、考えに考え抜かれた分刻みスケジュール……まさに休み無しのハードプランである。
そして、極めつけは……
「シフォンの丘で……きっ、キス!?」
あまりにも飛躍した晴希のプランに驚きを隠せず、僕は火照った顔を冷やす様に窓を開けると夜空を見上げた。
「僕はいったい、どうしたら……」
空に輝く若月の天秤は……
どちらを選んだら良いのか分からず……
揺れ動く僕の心を写し出した様であった。
「はぁ……」
晴希と亜紀の事を考えるのに疲れた僕は、深い溜息を漏らすと、既に心が折れそうになっていた。明日には結論を出さなければと思うと、やり切れない気持ちから、胸が苦しくなった。
そんな時だった……
チャラチャラン……
「えっ!?」
またも、スマホがなったのだ……
――きっと、晴希からの催促だろう……
返信してなかった事もあり、晴希からのメッセージかと、思い込んでいた僕だったが、中身を確認すると……なんと、今度は亜紀の方からだった。
メッセージには、今日のデートのお礼と、明日の夕食のお誘いが書かれていた。どうやら、抽選で当てた調理器具を使って料理を振る舞ってくれるらしい。
大事な話を告白だと勘違いしていた亜紀は、僕との距離を縮めようと猛アピールして来ている様だった。
「…………」
直樹【ダイエット中で夕食を控えてるから……】
――これ以上、亜紀の好意を踏みにじる訳にはいかないよな……
苦悩の末、僕は夕食の誘いを断る事にした……
亜紀は、受け入れてくれた様だが、その罪悪感は図り知れず、僕は壁に凭れ掛かる様に眠りへと就いてしまった。
― 翌朝 ―
僕が酷い寒気で目を覚ますと、ひんやりとした床の上で寝てしまっていた。
それだけじゃない……
「ゴホッ……ゴホッゴホッゴホッ」
酷い咳と、鼻水……
体も怠く、頭も痛い……
噴水へ落ちてから冷たい風に晒されていた事もあり、どうやら僕は風邪引いてしまったらしい。
ピピピッ……
――えっ、体温……39.2℃!?
普段から病院とは無縁だった僕に取って、これ程の高熱を出すのは珍しい事であった。
「もしもし、草原です。風邪を拗らせてしまったみだいで今日は、お休みを頂きたいのですが……はい……はい」
バイトを始めてから一度も休んだ事が無かった僕だったが、今日は体を動かす事もまま成らず……仕事を休む事にした。
しかも、運が悪い事に今日は日曜……今から空いている病院を探すのも手間であり、自室でゆっくりする事にした僕だったが、亜紀との約束が気掛かりだった。
以前にも無断で約束を破った事のあり、これ以上の失態を重ねる訳に行かなかった。ずっしりと重い体を突き動かし、何とか食事だけでもしようと、立ち上がったのだが……
――あれっ……目眩が……
突然、辺りがフラッシュを炊いた様にチカチカと霞むと、フラフラとした足取りで僕は倒れ込む様にしてベッド横たわった。
――ダメだ、こりゃ……
白く霞む目を何度も擦りながら、亜紀へと謝罪のメールを送ると、そのまま僕は眠りへと落ちて行った。
― ミカゲマート ―
「えっ? 直樹さん今日、お休みなんですか?」
僕が体調不良でバイト休んだ事を知った晴希は、心配してくれていたらしい……
――直樹さん、大丈夫かな……あっ!!
「そうだ……ふふふっ」
突然、何か閃いた手を打つと、晴希は不敵な笑みを浮かべながら頷いた。
「春日野さん、草原さん休みだから品出しお願いしても良いかな?」
「はーい」
パートのおばちゃんから仕事を頼まれると、いつもの元気な声で返事をしながら、晴希は品出しへと向かって行った。
― 自宅 ―
――あれから何時間経ったのだろうか……
お昼を過ぎた頃に僕は目を覚ました。まだ倦怠感はあったが、眩暈も治まり、熱も37.5℃まで下がっていた。
――これなら、明日には動けそうだな。
体調の回復により、少し気持ちも楽になった僕は腰を起こし、両腕を上げて固くなった背中を伸ばしていると……
ピンポーン!!
突然、玄関のチャイムが鳴った。
――宅配かな?
「はーい」
立ち上がって、ゆっくり扉を開けると……そこには、亜紀が立っていた。
「あれっ……どうして?」
「中々、メールの返信が来なかったので、迷惑かなとは思ったんですが、心配で見に来ちゃいました」
寝ていて気付かなかったが、スマホには亜紀からのメールが連なっていた。
「ごめん。僕、ずっと寝てしまって……」
「私の方こそ、起こしてしまってすみません」
「ちょうど起きた所だったので、大丈夫です」
僕の言葉を聞くと、ホッとした顔をしていた亜紀だったが、その背中には……
カーキ色のワンピースにベージュのカーディガン……その背中にはカジュアルな格好には似つかわしく無い、登山バックを背負っていた。
――こんな格好で山登り?
グゥウウ……
思考を張り巡らせていると……僕よりも先にお腹が声を上げた。
そんな僕を見て、亜紀は口に手を当てながらクスクスと笑うと……
「ふふっ……ちょうど良かったです。お部屋に入っても大丈夫ですか?」
「えっ? あっ、別に構わないですけど」
特に断る理由も無く……折角、来てくれたのだからと、僕は亜紀を部屋に招き入れる事にした。
「広くて綺麗なお部屋ですね」
「あはは……何も無いだけですよ」
亜紀はキッチンに重そうな登山バックを、下ろすと中から使い込まれた紺色のエプロンを取り出した。
「吐き気やお腹を下したりして無いですか?」
「えっ? あっ、大丈夫です」
すると、亜紀は登山バックの中から鍋やら、包丁やら、大量の食材やらを取り出した。
「じゃあ、元気の出そうな物を作ります。キッチンをお借りしますね」
「えっ? あっ……はい」
亜紀はニッコリと笑うと、キッチンへと立ち調理を始めた。
タンタンタン……
軽快なリズムで……
トクトクトク……
流れる様な早さで……
グツグツ……グツグツ……
瞬く間に食材が捌かれてゆくと……
得も言われぬ、芳しい香りが部屋いっぱいに広がった。
「はい、出来ました。良かったら温かいうちに召し上がって下さい……お口に合いますよーに」
「あっ……ありがとう。いただきます」
僕の目の前には、色鮮やかな野菜で満たされた、雅やかなお粥とお吸い物が用意されていた。あのお爺さんの言った通り亜紀は、かなり料理の腕が立つ様だ。
――ん? こっ、これは……
均一に火を通されたお米は一粒一粒が星の様にキラキラと輝きを放ち、口の中へ入れるとホロホロと溶けてしまう……柔らかな野菜の自然な甘さと、出汁の旨味は絶妙のコンツェルトを奏でている。
――これは、美味い。匙が止まんないよ……
亜紀の作ったお粥を口に入れては、その幸せを噛み締め、僕は光悦の表情を浮かべる……お椀に装ったお粥は瞬く間に空となった。
「亜紀さん、美味しいよ。こんな美味しいお粥……僕、初めて食べました」
「ふふっ……お口にあったなら良かったです。お代り装いましょうか?」
「うん、ありがとう」
――これは、決してお世辞などでは無い……
たぶん今まで食べてきた料理の中でも、三本の指に入る程に美味かった。そのあまりの美味しさに僕が、夢中になっていると……亜紀が静かに、僕の事を見つめている事に気付いた。




