30話 サターンバレー
和訳『悪魔の潜む渓谷』
灼熱のバーベキューから一夜が明け、目を覚ますと午前7時。疲れていた事もあり、僕は二度寝を試みたのだが……
『おはようございます、ご主人様。今日は寂しいからギューって抱き締めて欲しいよぉ』
「晴希!? あっ……」
ドタドタドタ……
予想だにしない晴希の声に、スッカリ驚かされてしまった僕は、体制を崩すと……そのままベッドから転げ落ちてしまった。
「痛たたた……また、ハルルンちゃんか。もう、ビックリさせないでくれよ」
声の主がハルルン人形だとわかると、僕は安堵を浮かべた。今日のアラームはいつもと違った様だが、これが説明書に書いてあったシークレットボイスなのだろうか?
僕は、ハルルン人形を抱き締めながら……
目を瞑り深く考え込んでいた。
晴希と亜紀……
二人の女性を愛してしまった事で、激しいジレンマに苦悩する僕だったが、いくら悩んでも答えは見つからず、そのままバイトへと向かう事なってしまった。
― ミカゲマート ―
僕がセカセカと商品の品出しをしていると、突然……後ろから誰かに声を掛けられた。
「こんにちは、直樹さん。お仕事も捗っているみたいですね」
「あっ、亜紀さん? どうしてここに……」
声の主は、なんと亜紀であった。
先日、約束を破った事もあり、少し気まずかった僕は目を合わす事が出来ず、品出しをしながら話を続けたのだが、その傷付いた顔を見た途端、亜紀は、心配そうな顔で押し迫まると……
「直樹さん、その怪我はいったい……あぁ、もうこんなアザになっちゃって……痛いですよね? ちゃんと病院には行ったんですか?」
「あっいや、そんな大した怪我じゃないですから、大丈夫ですよ。あはは……」
尚も心配して詰めよってくる亜紀に、僕は軽く手を振ると、大丈夫だと宥めようとしたのだが……
「全然、大丈夫じゃないですよ。いったい何があったんですか? もしかして、喧嘩でも……」
「…………」
心配で仕方が無かった亜紀は、それでも食い下がらず、迫って来た。流石の僕も、これにはすっかり黙り込んでしまい……益々気まずい空気が流れている。
まさに絶体絶命の時に……
天から救いの声が囁かれた。
「草原さんは、喧嘩なんてしてないよ。その怪我は、俺達を守るために負った物だ」
後ろを振り返ると、そこには夏稀がいた。助言により助かったと、僕は息を吐いたが、事態は思いもよらない方向へと進んでゆく……
「あれっ? もしかして小湊さんなの? ふふふっ……すっかり大人らしくなって……私の事、覚えてるかしら?」
「えっ? 桐月先生……桐月先生じゃ無いですか。お久し振りです、お元気でしたか?」
――ん? 先生?
どうやら亜紀と、夏稀は面識があるようだが……いったい、どんな間柄なのだろうか?
「でさぁ、その時は俺がこうやって押し付けて……」
「小湊さんは、本当に頼もしいわね……ふふふっ」
「………………」
僕は二人の関係が気になっていたが、話が盛り上がり過ぎて、中に入り込めず……ただ立ち尽くしていた。
話が一区切りすると……
僕は慌てて二人の間へと入り……
「あのさぁ……盛り上がってる所、悪いんだけど、亜紀さんとナツは知り合いなの?」
「ふふふっ……実はね」
話を伺うと、中学校時代、亜紀は夏稀の担任を務めていたらしい。非常に生徒思いの先生で、夏稀は何度も窮地から救って貰った恩があるんだとか……
普段、なかなか心を開かない夏稀だが、この亜紀だけは特別で、心を許す事が出来る数少ない先生だったらしい。
「でも、なんで先生がココに? 俺が転校する時、遠くの学校へ転勤になったって聞いたけど」
「ふふふっ……こっちの学校が、人手不足らしくてね。臨時で戻って来たのよ」
嘗ての教え子との再開に、自然と亜紀の顔にも笑みが溢れていた。夏稀の方も珍しく、何だか舞い上がっている様に見える。
そんな二人の事を、優しく見守っていた訳だが……ココで僕の脳裏に恐ろしい考えが過ぎった。夏稀が亜紀の元生徒だとすると当然、同じ学校に通っていた晴希とも、面識があるのでは無いだろうか?
――まさか、そんな偶然が……
不都合な事実から目を背ける様に、僕が自身へ言い聞かせていると……
「ああっーー!! 亜紀先生だぁ、ずっと会いたかったんですよ……うわぁあああん」
すると、亜紀を呼ぶ大きな声がホール中に響き渡る……声の正体は勿論、晴希だった。
駆け寄って来た晴希は、その温もり確かめる様に亜紀へと抱き付くと、優しく宥めるようにして亜紀の方も抱き締めた。
「先生が転勤になっちゃって、ちゃんとお別れも出来ず、寂しかったんですよ……グスッ」
「本当に急だったの……ごめんなさいね。でも、こうやってまた、晴希ちゃんとも会えて嬉しいわ」
「ううぅぅ……先生ぇーー」
どうやら亜紀は晴希に取っても相当、思い入れのある先生だった様だ。泣きながら再開を喜ぶ晴希を見て、僕の顔は完全に引き攣っていた。
――これは……運命の悪戯なのだろうか?
既に絶望の縁へと立たされた僕だったが、これは悪魔のシナリオの序章に過ぎなかった。
「桐月先生は、このあと時間ありますか? 折角の再会ですし、お茶でも一緒にどうかなって」
「あっ、私も賛成。ねぇ、先生良いでしょ? 一緒に行きましょうよぉ」
夏稀と晴希は二人掛かりで、亜紀をお茶へと誘った。恩師との再会に、テンションが上がっているのは十分に分かるのだが、僕に取っては崖っぷちに片足で立たされている状況だった。
「私なら大丈夫よ。じゃあ、みんなで行きましょうか」
「やったーお茶会、お茶会。勿論、直樹さんも一緒に来ますよね?」
「えっ? あはは……」
なんとかやり過ごそうと、僕は思考を張り巡らせていたのだが、突然の晴希からの誘いに固まってしまう。
――僕は、どうしたら……
絶体絶命へと追い込まれた僕は……最早、言葉を発する事が出来ず、ピエロの様に不気味な顔で笑う事しか出来なかった。




