24話 センチメンタル
和訳『哀愁の時』
恋のジレンマによって疲弊しきっていた僕に取って、この布団の中だけが唯一の憩いの場であり、穏やかな顔で眠っていると、その平穏を破壊したのは……
『朝だよぉ!朝だよぉ!!直樹さん起きて下さい』
「なっ……晴希!?」
突然聞こえてきた晴希の声に驚き、布団の中から飛び起きると、僕は辺りをキョロキョロと見回し警戒していた。
――あっ!! ハルルンちゃんか!!
目の前にいたハルルン人形を手に取ると僕にはフゥーと息を吐き、ホッとしていた。二度寝を試みたが、あまりの衝撃に目が冴えてしまい寝る事が出来ず、ハルルン人形を抱き上げると、優しい口調で話掛ける。
「なぁハルルンちゃん。僕はいったい、どうしたら良いんだろう……教えてくれよ」
『直樹さん……大好きだよ。心はいつも一緒だからね』
晴希を想う程に募ってゆく……
亜紀への深い罪悪感……
今日こそは晴希の事を亜紀にも伝えようと意気込みながら、僕はアルバイトへと出掛けた。
― ミカゲマート ―
寝不足が祟っているのか、体が重くて、思うように動かない。倉庫の整理をしている時も何も無い所で躓いてしまい、積んであった空コンテナを崩してしまった。
その後、ミスを重ねながらも何とか仕事を進め、
退勤時間になると……交代でやって来た晴希が満面の笑みを浮かべながら近付いて来た。
「直樹さんお疲れ様です。ハルルンちゃんは可愛がってくれてますか?」
「あっ……うん、可愛がってるよ。ありがとな晴希」
僕にお礼を言われた晴希は手を握りながら、まるで子供の様に飛び跳ねて喜んでいた。
まるで小さな太陽……
僕の荒ん心は、この暖かな陽射しによって照らされ、澄んでゆく様であった。僕達がハルルン人形の話で盛り上がっていると、不機嫌そうな顔をした夏稀が腕を組みながら後ろで仁王立ちしていた。
「終わったんならサッサと帰れよ。営業妨害で、店長に報告するぞ」
「ひょっとして、妬いてんのか?」
僕の軽はずみな発言に、目を釣り上げた夏稀は更に迫って来ると胸ぐらを掴みながら……
「だっ……誰がテメェなんかに、ぶっ殺されてぇのか」
出会った頃の夏稀であれば間違い無く半殺しにされていただろう。ある意味、この数週間のアルバイトの成果とも言えるが、相変わらず口は悪く……和解に至るまでには、まだまだ時間が掛かりそうに思えた。
「じょ、冗談だよ。あっ、エプロンにラベルが付いてるぞ」
ムニュ……
「んっ?」
エプロンに付いたラベルを剥がす際に、僕は誤って夏稀の胸に手が触れてしまったのだが、その感触には少し違和感があった。
日夜、喧嘩に明け暮れている夏稀の体は、さぞかし鍛え込まれているだろうと、僕は勝手に想像していたのだが、意外と筋肉質ではないのかも知れない。
僕がそんな考察していると、夏稀は指をポキポキ鳴らしながら、鋭い目つきで迫り……
「俺の体に触れるとは、良い度胸だな。今すぐ血祭りに上げてやろうか」
「まあまあ。直樹さんだって悪気があったわけじゃないしさ……ねっ」
夏稀が掴んだ首元を更に引き上げ、殴り掛ろうとした瞬間、晴希が止めに入ってくれた。晴希の説得もあり、夏稀は落ち着きを取り戻した様だが……
――女性じゃあるまいし、少し胸に触れただけで、あんなに怒らなくても良いのに……
どうにも腑に落ち無かったが、僕は穏便に済ます為にも素直に夏稀へと謝罪する事にした。
「ごめんな……ナツ」
「チッ……今回だけは目を瞑ってやる。次やったらマジでぶっ殺すからな」
相変わらず喧嘩っ早い性格をしているが、こうやって一緒に過ごしてある根は悪い奴じゃない事だけは分かった。
「あっ……そろそろ帰らなきゃ」
「今日は用事があるって言ってたよね、お疲れ様」
「お疲れ」
格好良くて、頼りになる夏稀……
優しくて可愛い晴希……
誰から見ても二人は、理想のカップルに違い無い。晴希の事を思えば夏稀と、一緒になった方が幸せなのは一目瞭然だろう。
そして、僕も齢が近くて気が合う亜紀と……
そんな想像を膨らませながら、激しいジレンマの中で揺さぶられ、僕は再び迷走してしまう。
――もう、どうしたら良いんだよ。
僕は苦悩を繰り返していた……
こんな気持ちは、生まれて初めてだった。
― デート 1時間前 ―
僕はクリーニング袋へ包まれたままだったスーツに着替えると、財布の中に5万を忍ばせ、外へ出ようとしたのだが……
ピピピ……
突如、スマホが鳴り響いた。
着信は公衆電話からだったが、一体誰だろうか?
「もしもし、直樹さんですか……晴希です」
僕が恐る恐る電話に出ると相手は、なんと晴希であった。
「晴希? 緊急事態以外は使わないって言っ……」
「緊急事態なの。ナツが……ナツが……お願い助けて下さい」
普段から落ち着いている晴希が、こんなに取り乱している事からも、只ならない事態が起きたのは容易に想像がついた。
話を聞く僕の耳にも、緊張が走る……
「実は……」
話を伺うと夏稀が暴走族のチームを抜けた事がキッカケでマズイ事になっているらしい。
― 1時間程前 ―
バイトが終わり、駐車場で夏稀がバイクを吹かしていると……3人組の男達が周りを囲んだらしい。
「ちょっと、ナツさん。チームそっちのけでバイトっすか?」
「テメェら……俺はもうチームから抜けたはずだぞ。何をしに来やがった」
冷たい鋭い視線で静かに睨み続けた夏稀だったが、何故か不良達は動じない……それどころか、まるで夏稀の威嚇を鼻で笑うような素振りさえみせていたのだ。
「くくくっ……バカな奴」
「テメェ、何がおかしい……ぶっ殺されてぇのか」
「ナツ、着替えてきたよ。お待た……えっ!?」
着替えを終えた晴希が後ろから声を掛けると、不良達はニタニタと舐め回す様な嫌らしい目つきで、晴希をジロジロと見ると……
「あれっ? この子めちゃくちゃ可愛くない。俺、超タイプなんだけど……良かったら付き合わない?」
「俺のツレをナンパするとは、良い度胸だな」
ギラッ……
夏稀が不良の一人の胸ぐらを掴むと、リーダー格と思わしき男が、ポケットからジャックナイフを取り出し、晴希の前へと突き付けた。
「ひっ……」
ナイフを目の当たりにした晴希の顔は青ざめ……苦虫を噛み潰した様な顔をしながら、夏稀は掴んでいた手を放した。
「……要件はなんだ?」
「今晩17時……港の廃倉庫でナツさんの脱退式をやるんで、是非参加して欲しいんッスよ。チームの仕来りは……ご存知ッスよね?」
額から大量の汗を流しなから俯いてしまう夏稀……その暗く重い表情はこれから起こる悲劇を予期する様であった。
「百殴の制裁……か」
「流石はナツさん、物分りが良いですね。無論、断れば……分かってますね」
晴希の方に目を向けニタニタしていた不良達は、夏稀を嘲笑う様にして、そのままバイクで走り去ってしまった。
「ナツ……行っちゃ駄目だよ、危険だよ」
「これは俺のケジメだ。大丈夫だから……ハルは先に帰っててくれ」
引き止め様とした晴希だったが、夏稀は大丈夫だと笑顔で言うと、晴希の頭を優しく撫でた。
「でっ、でも……」
「良いから帰ってくれ……これ以上、ハルを巻き込む訳には行かないんだ。それと、この事は誰にも話すなよ……じゃあな」
ブオーン……ブオーン……
晴希の必死の説得も虚しく、夏稀は一人でケジメを付けに廃倉庫へと向かってしまったらしい……
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いくらバイト仲間であるとは言え、今回の件は完全に夏稀の落ち度であり、僕には亜紀との約束も控えている。晴希のお願いとは言え、助けに向かう義理など無かった。
そう、普通の人だったら……
「分かった、僕はどこに向かえば良いんだ?」
だが、僕は迷う事なく、夏稀の救出へ向う事を決意した。自らの幸せを省みず、茨の道へと突き進んでゆく……今まで幸せになれなかったのも、もしかしたら、こんな損な役回りをして来た事が影響していたのかも知れない。
僕はスーツ姿のまま自転車へ飛び乗ると、ギコギコとした油切れの音を立てながら廃倉庫を目指した。




