9話 マーメイドティアーズ
和訳『泡沫の夢』
薄暗い街灯の下を、トボトボと一人歩く僕の脳裏には……先程までのやり取りが甦っていた。
『私の事は晴希って呼び捨てしてくださいね』
『いっぱい作ろうね、二人の記念日』
「晴希……可愛いよな。性格だって良いし、僕の事をこんなにも想ってくれてる。でも女子高生と関係を持つのは、やっぱりマズいよな」
晴希への想いが増すにつれ……
苦悩も増えてゆき……
僕は、溜め息ばかりを吐いていた。
― 自宅 ―
帰宅してからも晴希の事が頭から離れずに、何も手が付かない……こんな想いをするのは生まれ初
めての事だった。
「はぁ……晴希、僕はいったいどうしたら良いんだよ」
部屋の壁に頭を擦りつけながら……
呆然と晴希の写真を眺めていると……
チャラチャラン……
「うわっ!?」
突如、鳴り響いたスマホの音に、僕は情けない声を上げるとその場から飛び起きた。
「ん?」
内容を確認すると、どうやら晴希から『LINK』でメッセージが届いた様である。
晴希【今、家に着きました】
晴希【直樹さんは何してますか?】
晴希【私の事を考えてくれてたら嬉しいな】
「なっ!?」
晴希の事で思い悩んでいた僕は、その内容を見て固まった。確かに晴希の事を考えていたのは事実だが、そのまま返しては晴希の思う壷だ。
そんな僕が苦悩の末に、閃いたのは……
直樹【無事帰れて良かったよ】
直樹【今、夕食中】
心無い返信にさぞガッカリとしただろうと、嘲ていた僕だったが……当然、晴希の逆襲がココから始まる。
晴希【ちょっとガッカリです】
晴希【夕食は何を食べてるんですか?】
晴希【写真をアップして下さいよ】
「なっ!?」
返信の内容を確認して、僕は再び固まった。まさか、こんな展開が待ち受けていようとは、予想だにしていなかったからだ。
直樹【カップ麺だし、撮るほどの物じゃないよ】
カップ麺になら興味を引かれる事も無いだろうと高を括っていた僕だったが、晴希の反応は全く違った。
晴希【夕食をカップ麺で済ましちゃダメですよ】
晴希【病気になっちゃいますよ】
晴希【私が作りに行きましょうか?】
「なっ!?」
これでは、まるで押し掛け女房だ。それだけは、回避しなければならなかった僕は……
直樹【普段は、ちゃんとした物を食べてるよ】
直樹【晴希の方こそ夕食は?】
この状況を打破しようと、嘘に嘘を重ねたが、このままでは泥沼になると秘かに感じていた僕は、晴希の夕食写真をリクエストして話題を変えようとしたのだが、暫くして送られて来たのは……
晴希【じゃーん。これが今日の夕食だよ】
「えっ!?」
送られてきた画像を見て僕は驚愕した。それも、そのはずだ、テーブルの上に並べられていたのは……
『完熟トマトのガスパチョ』
『アボカドとサーモンのテリーヌ』
『キノコのブラウンパエリヤ』
『小海老のマリアージュ』
まるで高級レストランの様な料理の数々に、僕は驚愕していたのだが、どうやら全て晴希の手作りらしい。
何でも昨夜のうちに下拵えはしていた様だが、それにしても、このクオリティの高さは……まさに圧巻だった。
直樹【どれも美味しいそうだね】
晴希【良かったら今度、作ってあげますよ】
こんなに美味しいそうな食事なら作って貰っても良いかなと、僕が唾を飲み込みながら、スマホに打ち込んでいると……
晴希【直樹さんは、今週末お休みですか?】
「ん?」
この質問には悪い予感しかしなかったが、僕には余裕があった。何故ならば……
直樹【週末は昼から夜までバイトだよ】
直樹【何かあるの?】
晴希【一緒にお買い物へ行きたかったんですけど】
案の定、デートの誘いであった。仕事なら仕方ないと、すぐに諦めてくれると思っていたのだが、すぐに甘かったと気付く事となる。
晴希【じゃあ金曜日、学校が終わってから】
晴希【直樹さんの家へ遊びに行って良いですか?】
晴希【翌日も休みだし】
直樹【流石に、泊まりは駄目だよ】
まさかの展開に僕は額からは汗が滲み出していた。一度やらかしているとは言え、泊まりだけは絶対に避けなければならなかった。
すると晴希は……
晴希【じゃあ、日帰りなら良いんですよね】
「えっ?」
晴希は遊びに来るとは言ったが、泊まるとは一言も言っていない。またしても墓穴を掘ってしまった僕は、まるで死んだ魚の様に生気の失せた目でスマホを眺めていた。
直樹【実は金曜日も用事があって】
直樹【空いてるのは再来週ぐらいかな】
晴希【そんなに先なんですか?】
晴希【でも用事があるんじゃ仕方ないですよね】
本当は用事など無かったが、晴希との接触を避けたかった僕は、逃げるのに必死で嘘をついた。流石に観念したのか、それから数日はゲームや学校の事など、他愛の無いメッセージのやり取りを繰り返すだけだったのだが……
― ミカゲマート ―
晴希と友達になってから一週間程が経過した日の事……ついに、事件は起きた。
遅番だった僕が予定よりも早く到着し、身支度を整えているとテンダイが慌てた様子で声を掛けて来たのだが……
「草原君に、折り入って頼みがあるんだけど……」
「何でしょうか?」
話を伺うと、今日から新人アルバイトが入る様で、経験豊富な僕に教育係になって欲しいらしい。今までにも似た様な事は何度もあったので、快く引き受ける事にしたのだが……
これが、最大の落とし穴だった。
僕が事務所で引き継ぎをしているとテンダイと一緒に新人アルバイトが現れ、みんなの前で紹介されたのだが……
「今日から一緒に働いて貰う事になった『春日野 晴希さん』だ。みんな宜しく頼むね」
「春日野 晴希です。まだ、分からない事ばかりですが、一生懸命頑張りますので宜しくお願いします」
「なっ!?」
――じょ、冗談だろ?
その場でポカンと口を開け、唖然呆然としていた僕は、まさに石像と化していた。まさか、晴希と一緒にアルバイトをする事になろうとは露程にも思っていなかったからだ。
想定外の事態に、僕が頭を抱えながら悩んでいるとテンダイが僕を呼び寄せ……
「春日野さん、彼が教育担当をしてくれる草原君だよ。分からない事があったら何でも聞いてね。草原君も宜しく頼むよ」
「えっ……あっ、はい」
自己紹介が終わると僕は晴希と共に事務所へと取り残されてしまった。晴希は僕に近付くと、ひっそり耳打ちして来た……その顔はどこか嬉しそうに見える。
「ふふふっ……ビックリしました? 今日からは私もバイト仲間だよ。宜しくお願いしますね……直樹先輩」
――どうして、こうなるんだ……
晴希の事を考えなくても済む唯一の聖域が、脅かされてしまった事実を知り、僕は放心状態となっていた。
初めは、僕を追ってアルバイトに入って来たのかと思っていたが、どうやら違うらしい……何でも、このスーパーは学校の帰り道にあって先日、ココで遭遇したのも面接帰りに買物をしていた様だ。
僕は、未だに驚きを隠せなかったが、これもまた運命だと晴希は、飛び跳ねて喜んでいた。
― レジ打ち ―
「あの……それ何?」
「手袋ですよ、可愛くないですか?」
晴希の手にはキャラクター物がプリントされた可愛い手袋が装着されていた。何でも金属アレルギーで直接、小銭に触れると手が荒れてしまうんだとか……
「うっ、うん。まあ良いか」
「?」
気を取り直して早速、僕がレジ打ちのレクチャーを始めたのだが……
「まず、ここにIDカードを翳してパスワードを……」
「こうでしょうか、直樹先輩」
「あのさぁ。その先輩って言うのやめてくれないかな春日野さん」
三十路にもなって先輩呼ばわりされるのは流石に気まずい。正直、止めて欲しいと思っていたのだが、晴希はジト目で見つめると……
「えぇー良いじゃないですかぁ。じゃあ直樹先輩も、その余所余所しい呼び方を止めて下さいよ」
「流石に、ココで呼び捨てはまずいでしょ? なんか偉そうだしさ」
「だったら私も嫌です。それで次はどうするんでしたっけ?直樹先輩」
「…………」
すっかり楽しんでいる様子の晴希に、僕は先行きの不安を感じずにはいられなかった。




