そうして私は鬼に捨てられた
ハッピーエンドではありません
苦しい。
苦しい。
苦しい。
必死にあがいて、何かを掴もうとした手は何も掴めなくて、体の奥にまで入り込むたびに苦しくて。
あがいてあがいてあがいて、ごぼっと音がした。
「マヨイゴとは珍しい」
聞こえてきた声に息も絶え絶えに顔を上げると、潤んだ視界の向こうに美しい美しい――――鬼がいた。
それから一年後、私は鬼に捨てられた。
「マイー、こっちも洗っておいて!」
どんと置かれた桶に「はーい」と快活に返事をする。
鬼に捨てられてから数か月、身を寄せているのはとても大きなお屋敷で、私はそこで小間使いをしている。
鬼にぽいっと捨てられた私を拾ってくれたのはこの国を治めるホウテイだった。庭先に捨てられていた私にホウテイは「さてどうしたものか」と困ったように眉を下げていたのを、今も覚えている。
不審者まっしぐらな私をホウテイは小間使いとして雇ってくれた。
「湖が……、鬼が、えと、捨てられた……!?」
たどたどしい説明しかできなかった私を雇う決心をしてくれたホウテイには足を向けて眠れない。感謝してもしきれないぐらいで、しかもこの世界の常識を教えてくれる先生までつけてくれた。
ここは剣と魔法のファンタジーな世界――ではない。
魔と呼ばれる魑魅魍魎蔓延る世界だった。
そんな世界に迷い込んだ私は、確かに「迷い子」だ。
小間使いとして雇われた私の仕事はリキュウと呼ばれる場所での洗濯が主となっていて、人手不足の時は芋の皮むきとかにも駆り出される。
最初の頃はホウテイが連れてきたとはいえ、警戒されていた。食事に近づくなんてとんでもないとばかりの様子が、芋の皮むきを任せられるほどになった。
この世界の人たちは皆いい人で、不審者でしかない私に優しくしてくれた。
「マイ、あなたってどこの国から来たの?」
同じ小間使い仲間のリフィーのちょっとした雑談に私は頭を悩ませた。
それと言うのも、ホウテイからマヨイゴであることは伏せるようにと直々に言われているからだ。
私が世話になっているこの国は和風と中華の折衷案のような服装と生活をしているのに、人は洋風で、名前も洋風だった。
そんな中でザ・和風な私は目立つ。この国の生まれではないことは、口にせずとも誰もが思っていたはずだ。
それでも拾われてきたのだから事情があるのだろうと、深く追求してくる人はいなかった。リフィーが聞いてくるまでは。
ファンタジーなお話では東に日本風の島があることが多い。だからこの世界にももしかしたら、と期待をこめて曖昧に東とだけ告げた。
「東? 東にマイみたいな人たちが生活している国なんてあったかな」
パキリと煎餅のようなお菓子をかじるリフィーに、私は曖昧に笑うことしかできなかった。
そんな様子の私に何か勘づいたのか、リフィーはすぐに話題を変えてくれた。新しい話に上ったのは、リキュウに住む人たちの力関係や派閥について。
「マイはのんびりしてるから、変な人に目をつけられないようにね」
二枚目の煎餅もどきに手を伸ばすリフィーに私は引きつった笑みを返した。
リフィーの忠告もむなしく、私はすでに変な人にからまれていた。
リキュウに住むお偉いさんのひとりで、私がお世話になりはじめて早々に私を訪ねにきた。
「まあ、みすぼらしい子」
それがミレイルさまの第一声だった。
「あなたまだそんなみすぼらしい恰好でいるの」
盥で衣服を洗っていた私に降ってきた侮辱のような言葉に、またかと気づかれないように小さく息を吐く。
「小間使いですので」
「ホウテイが拾った方がみすぼらしいとあっては、品位を疑われるのはあの方なのよ」
「きらびやかな格好で洗濯はできません」
視線を巡らせると、扇を口元に当て信じられないとばかりに目を見開くミレイルさまを見つけた。お付きの者が三名、ミレイルさまを囲っている。
「あれを」
ミレイルさまが顎をしゃくると、お付きのひとりが恭しく私に向けて小さな壺を差し出してきた。
「せめて手の手入れぐらいはなさい。あかぎれた指ではみすぼらしさがより増すわ」
ミレイルさまはきっと悪い人ではないのだろう。
だけど間違いなく、変な人だ。
この世界の人たち、少なくとも私の周りにいるのはいい人ばかりだ。
それでも、ふとした瞬間に思い出すのは「舞」と本来の音で私の名前を呼んでくれた鬼のこと。
「マヨイゴとは珍しい」
そう言って、私を湖から引き上げた鬼は小さく首を傾げていた。
その時の私は体の中に入り込んだ水を吐き出すのに必死で、言われた言葉の意味も、私を助けてくれたのが何かもわかっていなかった。
必死に咳き込んで、涙目のままお礼を言おうと顔を上げて――目を丸くした。
長く赤い髪、赤い瞳。そのどちらもが非現実的だった。そして何よりも、額から生えた二本の角が人間ではないと視覚的に訴えてきた。
思わず鬼と呟いてしまった私は間違いなく意識が朦朧としていた。
「ああ、そうだね。確かに私は鬼と呼ばれてるよ」
からからと、何が面白いのか鬼は快活に笑ってから。
「さて、そんな鬼にお前はどうするのかな?」
赤い瞳を細め口角を上げて嘲るような笑みを浮かべた。
――それが私と美しい赤い鬼との出会いだった。
この時の私は鬼に腕を掴まれて宙ぶらりんの状態だった。それでも必死に頭を下げようと首を俯けて、お礼の言葉を頑張って紡いだ。
再度言うが、この時の私は溺れていたこともあり意識が朦朧としていた。
助けられたのだから相手が誰だろうと――何であろうとお礼を言わねば、と安直に考えてしまった。
鬼はきょとんと目を瞬かせてから、それはそれは楽しそうに声を上げて笑った。
それに釣られて私も笑った。何度でも言うが、この時の私は意識が朦朧としていた。
それから、私と鬼の摩訶不思議な共同生活が始まった。
共同生活と言うには、私が依存し過ぎていたが、生活を共にしていたのだから間違ってはいないだろう。
「舞は小さいねぇ」
膝に乗せた私の頭を撫でながら赤い瞳を細める鬼に私が何をしてやれたのかと言うと、別に何もない。
ここが私がこれまでいた世界ではないことはすぐにわかった。何しろ鬼がいるのだから、気づくなと言うほうが無理がある。
「そんなに細くてはいざという時に困るかな」
鬼は私のために果物やら運んできてくれた。
ただ惜しむらくは、その大半が私にとって毒だったということだ。鬼と人間では食生活も違った。
「これも受け付けないのかい? 舞は何が食べられるんだろうねぇ」
お腹を壊し、熱を出して寝込む私の額にひんやりとした手を当てながら鬼は困ったように眉を下げていた。
ただ幸い、死ぬことはなかった。どれだけ熱を出そうと、お腹を壊そうと、私は死ななかった。頑丈、というわけではない。
猛毒すぎる果物を食べていなかっただけだ。
「舞は肉は食べれるのかな」
何かよくわからない肉を持ってきた時にも辞退した。
肉は危ない。食中毒とか。
私は鬼が根城にしているらしい洞窟で生活していた。
ごつごつとした岩肌は寝心地が悪く、そこらへんを虫が這っていたので快適な生活とは言えなかった。
「ゆっくりおやすみ」
いつからか――私が眠れず虫に叫んだりしていたからだろうけど――私は鬼の膝に座り、胸に頭を預けて眠るようになっていた。そんな私の頭を撫でながら、鬼は壁に背中を預けて目を瞑っていた。
鬼の眠りはひどく浅かった。むしろ寝ていないのではと思うほどに。
ある日、好奇心に駆られた私は目を瞑っている鬼の顔に手を伸ばした。顔というか、額に生えている角に触れてみたかった。冷たいのか、温かいのか、柔らかいのか硬いのか、気になってしまったからだ。
「どうしたんだい?」
後少しというところで、伸ばした手を鬼に捕まれた。悪戯が見つかった子供のようにわたわたとした私を見て、鬼は眉を顰めた。
「舞、害を加えようとするのなら容赦はしないよ」
冷たく見下ろす赤い瞳に私は慌てて弁解した。必死に謝って、そんなつもりはなかったと言い募った。
鬼は私の頬を撫でると、苦笑を浮かべた。
「あまり鬼に気を許してはいけないよ」
そう言いながら触らせてくれた角は硬くて暖かかった。
そんな鬼と私の奇妙な生活は、ある日突然捨てられることによって終わった。
今日も今日で私は洗濯をしている。乾いた服を取りこみ、収納場所にしまうために盥を抱えてリキュウの中を歩いていた。
「彼女はマヨイゴでは?」
ふと聞こえてきた声に足を止めた。
盗み聞きはよくないと思いつつ、マヨイゴという言葉が気になって、声が聞こえてきた扉に耳を寄せた。
「ジングウに報告はされていないのですか」
「報告しては帰されてしまうだろう?」
片方は聞き覚えがないが、もう片方の声には覚えがあった。
私を拾ってくれたホウテイだ。
「彼女が来てからというもの、魔の討伐が進んでいるからね。見つかるまでは有効活用させてもらうよ」
「しかし、黙っていたことがばれれば――」
「そもそもとして、本当に神の身許に帰されているのかどうかも定かではないだろう?」
どういうことだ、と扉に張り付きながら頭上に疑問符を浮かべていた私の顔の横に手が現れた。
「ここで何をしている」
手の先を辿ると、険しい顔をした青年が立っていた。腰に下げている剣を見るに兵士が何かなのだろう。
対して私は盥を抱え、扉にへばりついている。間違いなく不審者だ。
「なんだ」
開いた扉に押し出されるような形になりよろけた私を兵士風の青年が支えてくれた。不審すぎる人物を支えるとは、この青年もいい人なのだろう。
「マイ」
扉の向こうから現れたホウテイが目を丸くして、私を見下ろした。
「そうか、聞いていたのか」
額に手を当てて溜息を零すホウテイに、私は必死で情状酌量を求めた。盗み聞きはよくないし、処罰されてもしかたないことはわかっている。
だけれども、マヨイゴと聞こえてしまって自分のことだとわかってるから思わず聞いてしまったのだと、言い訳にもならない言い訳を重ねた。
兵士風の青年が可哀相なものを見る目で私を見ていたが、処罰から逃れるために必死な私は意識の片隅に置くだけにして、気にしないように努めた。
「……ああ、いや、よい。いつかは話すつもりだったからな」
ホウテイは苦笑いしながら私の頭に手を置いてぽんぽんと柔らかく二度叩いた。
「マヨイゴは魔を惹きつける。そして俺たちは魔の討伐を目的としていてね。君がここに滞在するようになってから、普段は人里に降りてこないような魔も現れるようになった」
それは中々困った状態なのではないだろうか。
魔がどんなものなのかわからないが、少なくとも益になる存在ではないだろう。そんなものが大量発生しているとなると、生活にも影響を及ぼしてしまうのではないか。
「魔を探して山を駆け回らなくて済むようになったから助かってるよ」
人里にいてはいけないのではと危惧していた私をあやすように、ホウテイは柔らかく微笑んだ。
詳しい話を聞くとホウジュツシと呼ばれる職があり、ホウジュツシは魔を討伐したりしないといけないらしい。ホウテイはホウテイでありながらホウジュツシの統括でもあるようで、定期的に魔を討伐するために山や森にこもらなくてはいけない生活を送っていたそうだ。
魔が増えすぎると世界の均衡が崩れるので、被害に関係なく魔を倒さなくてはいけない、とかなんとか。
ホウジュツシの使う術式とかはちんぷんかんぷんなので専門的なことを省くと、そういう話だった。
「だからマイにはここにいてほしい」
真剣に見つめられて思わず頷きかけた私だが、盗み聞きしていた中に出てきたジングウとは何かを聞いてから結論を出そうと思い直す。
報告がどうとか言っていたので、そのジングウとやらに私の存在が見つかるとなんらかの責を負ってしまうのではないかと不安になったからだ。
「……マヨイゴは元来た道に戻すことによって神のみもとに帰る、と言われているんだ。過去に現れたマヨイゴは地から這い出た者もいれば、空から落ちてきた者もいる。……それを地に沈め、空に打ち上げた」
つまり、私の場合は水に沈められるのか。
「ジングウはマヨイゴが見つかれば即座に神に帰そうとするだろう」
戦々恐々としている私をよそにホウテイは話を進めていく。
「そうするべきだとわかってはいるのだが、本当に神のみもとに帰っている保証はないか。遺体が出ていないので、帰っていない保証もないのだが……無論、マイが望むのなら帰すこともやぶさかではない」
私は全力で首を横に振った。
マヨイゴは魔を惹きつける。それを意識しながら周囲を見てみると、確かに変な物体があちこちに見受けられた。
黒い靄のようなものに長い脚が何本も生えたものや、ぎょろっとした目玉の虫とか――この世界の虫はそういうものなのだろうと思っていたら、魔だった。
リキュウにまで入ってきてるのは低級の魔で、定期的に掃除しているがこの程度では世界の均衡を維持するのには足りなくて、中級、あるいは上級の魔も掃討しなくてはいけないらしい。
私の周りが騒がしくなったのは、ホウテイと話してふた月が経ってからだった。
兵士風の人がリキュウを駆け回り、小間使いも慌ただしく仕事をしている。血に濡れた衣類を洗う私も必死な毎日を送っていた。
「あなたはいつ見てもみすぼらしいわね」
ミレイルさまはそんな日々の中でも相変わらずだ。
「原色の鬼が出たそうよ。あなたみたいな子はすぐに捕まって食べられるでしょうから、外に出ないように注意することね」
つんと顎をしゃくって言うミレイルさまに私は非礼や不敬も忘れて詰め寄った。ぎょっとしたように目を丸くミレイルさまに鬼とはどういうことだと何度も何度も、聞いた。
「な、なによ。そんなに鬼のことが気になるの?」
おろおろしているミレイルさまに私は頷いて返した。
「原色の鬼は気にかけないほうがいいわ」
鬼と聞いて思い出すのは、私を捨てた鬼だ。
原色かどうとかはどうでもよくて、最近慌ただしいのはあの鬼が出たからなのかとか、ホウジュツシによって討伐されてしまうのかとか、そんなことばかりが頭の中を巡っていた。
ミレイルさまにどこに鬼がいたのか聞きだした私は、止める声を置き去りにリキュウを飛び出した。
都のすぐ近くにある野原は戦場だった。
お札のようなものを掲げる人に、剣を構えている人、血まみれで地面に転がる人。熱気と血の匂いに頭がくらくらしそうだったけど、その中に見慣れた姿を見つけた私は一心不乱にそれに近づいた。
赤い髪は別の赤に染まり、赤い瞳はどこを見ているのかわからない虚ろなもので、赤い着物は赤黒く変色している。
腕が欠け、傷を負い、それでも兵士をなぎ倒す姿は恐ろしかったが、それでも私は鬼に駆け寄った。
一言、たった一言、言いたい言葉があった。
「近づくな!」
そんな声も無視して近づく私に、鬼は虚ろな目を向けた。
~~~~
「捨てるなら最初から拾わないでよ!」
そんな声がどこか遠くから聞こえた。
芳しい匂いに惹かれてたどり着いた先は湖だった。水面が揺れ、水の底であがいている人間を見つけた鬼は、手を伸ばしてそれを引き上げた。
小さく細い、今にも死にそうな人間は鬼を見て目を丸くし、ぱちくりと何度も目を瞬かせていた。
「助けてくれてありがとうございます」
鬼に礼を言う奇妙な人間を飼うことにしたのは、ほんの気まぐれだった。
この人間が魔にとって途方もない馳走であることはわかっていた。肉を食らえば気が満ち、血を啜れば命を伸ばせる。
だが舞と名乗った人間は食うにしては細すぎて、別の方法で楽しむにしても小さすぎた。
だからそう、太らせることにした。
それだけの話のはずだった。
洞窟の中で眠る舞に寄ってくる低級魔を追い払うのに辟易してきた鬼は、舞を抱えて眠ることを選んだ。
原色の鬼である彼に近づこうとする魔は少ない。しかもその腕に抱えられた人間を襲おうと思う魔もそういないだろう。
首筋から香る匂いは芳しく、舐めた頬は甘く、気を抜けば齧りつきそうな鬼を前にして、舞は恥ずかしそうに頬を染め身をよじっていた。
その身が馳走であるなどと思いもしていない姿に、鬼は耐え難い食欲を抑えながら舞を太らせるべく食物を運んだ。
だけれども、運んだ食物のほとんどは舞にとっては受け付けられないものばかりだった。食べては吐き、熱を出して寝込む舞の頬を撫で、額に流れる汗を拭いながら鬼が抱いたのは、なんと弱い生き物なのだろうという憐憫の情だった。
少しでも力を加えれば折れそうな細い体をしながらも、舞は懸命に鬼の後を追った。山の中は歩きにくく、枝で肌が突き破られても舞はめげることなく鬼の後ろを歩いた。
先に折れたのは鬼だった。
血の匂いを滴らせながら歩かれては困るという思いもあったが、鬼は舞を抱えて山道を歩いた。
視点の高くなった情景にはしゃぎ、首にすがりつく舞に気をよくしたことは否定しきれない。だがそれでも、鬼にとって舞は馳走にほかならず、太らせてから食うことは変わっていなかった。
その思いが変わったのは、ほんの些細な出来事がきっかけだった。
いつものように熱を出しうなされる舞を抱え、いつものように目を瞑っていたら腕の中にある小さな体が動くのを感じた。
鬼が小さく目を開けると、こちらに向けて手を伸ばす舞の姿が視界に映る。熱によって赤く上気した頬と、小さな唇から漏れる熱い吐息に鬼は心の中で溜息を零すと伸ばされていた手を握った。
爪が食い込み苦痛に歪む顔と、怯えを含ませた黒い瞳に見つめられ、鬼はふと思った。
気分が悪い、と。
おかしな術でも使っているのではと危惧した鬼は容赦のない言葉を浴びせかけた。そのはずなのに、舞は首を振り角に触れてみたかったと幼子のように懇願した。
触れた頬は熱く、術を行使できるような状態ではない。それを確認した鬼は、掴んでいた手を角に添えさせた。
嬉しそうに頬を綻ばせる舞に呆れながらも、鬼は忠告した。食おうとしている身でありながら、気を許してはいけないと、そう言ってしまった。
このままそばに置きつづければ、いつかは耐え切れず食らってしまう。肉を血を堪能し、骨の髄までしゃぶりつくしてしまうだろう。だけれども、もしもそうすれば童子のように無邪気な顔は苦痛に歪むだろう。鬼にとってそれは、想像するだけで気分が悪くなるものだった。
かといって、自身の手で神の身許に帰すのも癪だった。人間ならば舞を帰すだろうとそう考えて、鬼は舞を人里に捨てた。
馳走を前にしながらも食らわず、それどころか捨て置いたことにより鬼の飢餓感は強まっていた。山にすら香ってくる上質の餌の匂いに、鬼はおびき出されるように山を降り、匂いの漂う都に向かった。
舞を拾ってから一年、食欲に抗い続けていた鬼の限界は近かった。
靄がかったような意識の中でも、鬼は迫りくる人間を薙ぎ、その血肉を啜った。
それでも欲は満たされず、上質な餌を求めて鬼は歩を進めた。
朦朧とした意識の中で聞こえた声はひどく遠く、その意味も、その声が誰のものなのかも鬼にはわからなかった。
ただわかるのは、ようやくありつけたということだけ。
鼻をくすぐる芳醇な香りと、口の中に広がる甘みに、ただ一心にそれを貪った。
「気を許すなと言ったのに、馬鹿な子だねぇ」
欲が満たされ、明瞭とした視界に映し出されたのは、自身の腕の中でぐったりと四肢を投げ出している少女の姿だった。
欠けていたはずの手で頬を撫で、赤く染まった唇に指を這わせると、絶え絶えながらもか細く息をしていることに気がついた。
「本当に、頑丈な子だ」
どれだけ熱を出そうと、山歩きで肌が傷つこうと、舞はすぐに回復した。そして今も、肩の肉が抉れ失われていても、口から血を吐こうとも、息をしている。
「法術師はいるのだろう? この子を治しておやり」
鬼は囲っている人間の顔色はどれも悪い。
上質な餌を食らった魔は力を付ける。失われた四肢すらも取り戻す力を。
だから彼らは動けずにいた。上質な餌を食らう鬼を前にしても、止めることはできず、ただ自分の命がいつ終わるのかの時間を数えることしかできなかった。
「それともまさか、封術師しか連れてきていないのかい?」
「いや、いる。いるが……いいのか」
真っ先に我に返った青年を見て、鬼はゆるく首を傾げた。
「この子を食らいつくせと言うのかい? その後はお前らを食うが、それが望みならばしかたないねぇ」
どうせ問答をしていれば舞は死ぬ。ならば一片たりとも残さず食らってしまうのが鬼としては最良だろう。
虚ろな瞳を収める瞼に唇を寄せ、薄く微笑む鬼を前にして青年は慌てて指示を飛ばした。
「もう二度と私に近づくんじゃないよ。お前は食いたくない」
耳元で囁くように言うと、鬼は法術師に舞を渡した。
魔を酔わせ、狂わせる。
故に魔酔子と呼ばれるそれは、鬼すらも狂わせた。
法術師…傷を治したりする札を扱う。
封術師…魔を払うための札を扱う。
封帝…魔を払うことを役目としている。
理宮…世界の均衡を保つための人たちが生活している。
陣宮…封術師たちの統括をしている機関。
魔酔子…魔を惹きつけ、食らった者の力を高める。