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第37話 それぞれの憂鬱

 鎌田にあるラブホテル・ラムセスの最上階のその部屋は、ゴージャスな露天風呂を備えている割にリーズナブルなので、記念日などに利用するカップルが後を絶たない。


 蜂谷薫は、石張りの段を三段登って、すっかり冷めてしまった湯船に身を沈める。

冷めたお湯が、火照った身体を心地よく冷ましてくれる。

 しばらくそのままでいたが、冷えて来たのでお湯を継ぎ足す。

 徐々に温かみを増すお湯の中で、薫は自己嫌悪に浸っている。


(バカな女ね、また咲山なんかに抱かれるなんて…。)


 自分でもバカだと思うが、誰かの温もりを感じる事で、自分が誰かに必要とされている実感が欲しいのだ。

 お湯に浮かぶ形の良い乳房を自分で撫でると、目を閉じて頭の先までお湯に沈み込んだ。


 水の音しか聞こえない一人きりの空間で、薫は、今朝の事を思い出す。



**********


「おはようございます。」

 ぼうっと翔の瞳を見つめていた薫は、翔に挨拶をされて、我に返った。


「あ、おはようございます。」

 慌てて立ち上がって挨拶を返すが、自分でも分かる位に動揺している。


(私は一体何をやってるんだ、任務中にぼうっとして! 忍者失格だ!)

 焦ってあたふたしている薫の姿が可笑しかったのか、翔は微笑みながら優しい目で薫を見ている。


「この辺の方ですか?」

「えぇ、まぁ、そんな所です。」

 薫は我ながら怪しい答えだと思ったが、接触するつもりは毛頭なかったので、言い訳なんて考えていない。


「当ててみましょうか?」

 翔は薫の方をジーッと探るように見ている。


(バレたか?)

 薫はこわばった笑顔を翔に返す。


「音大の講師の人でしょ!」

 鬼子母神のすぐ近くには、東京音楽大学が(まなびや)を構え、音楽家の卵たちが日々腕を競い合っている。


「え、えぇ、そうなんです。」

(そう思わせておけば、今後の監視も何かと楽だろう。)

 薫は緊張の解けた笑顔を翔に預けた。


「ダメですよ、サボっちゃ!」

 翔は、両手の人差指で✕を作ると、おどけたように睨んだ。


「はーい、サボり終了! 戻りまーす。」

 こちらもおどけた様に返すと、その場を後にした…。


 何気ないやりとりを思い出しながら、頬が緩んでいるのに気が付いて、慌ててお湯から顔を出した。

(私は一体何をやってるんだ、忍者失格だ。)



**********


「ただいま~。」

 翔は<服部茶房>のドアを開けて、イートインコーナーに顔を出した。

 テーブルの上に置かれている卵焼きは、鮮やかな黄金色に輝き、味噌汁から立ち上る香ばしい香りは、食欲を掻き立てる。


「お帰り~、待っとったバイ。」

「ごめんごめん。」

「ナニか、フッきれたようダナ。」

「まぁな。」

「さぁ、ご飯の前にはまず()()だ。」

 半次郎が淹れてくれた玉露(ぎょくろ)のお茶を口に含むと、口の中に渋みの少ないすっきりとしたコクが広がった。


「いただきます!」

 四人は一斉に食事にかぶりついく。


「まぁ、みんなよっぽどお腹空いてたのね。」

「おかわりあるから、みんな一杯食べろよ!」

 半次郎と菜々は、重苦しい雰囲気から解放されて喜んでいるようだ。


「ナニかアッタのか?」

「どうせまたコマしてきたっちゃろ。」

 危うく味噌汁を噴き出しそうになった。

 どうしてこいつの勘はこんな時だけ鋭いのか…。



**********


 2019年(平成31年)4月13日

 ~東京・南光院邸~


 白を基調にした部屋は、モダンな家具で統一され、かわいらしさの欠片(かけら)もない。

 ベッドの脇に置かれたサイドテーブルの上に、ちょこんと置かれたくまモンのぬいぐるみが唯一、十歳の女の子らしさを主張している。

 紗織は、ベッドの上に寝転がると、溢れそうになる涙を堪えた。

 あの日訳も分からず宇佐神宮前の旅館から連れ出されてから、知佐とはロクに口をきいていない。


(せっかくお友達になれたのに。やっと、さぁちゃんと呼んでくれるようになったのに。)


 コンコン

 部屋にノックの音が響く。


「はい。」

「失礼します、紗織様。」

 入って来たのは、知佐だった。

 テーブルの上に手つかずになっている食事を見てため息を漏らす。


「紗織様、少しは召し上がって頂きませんと。」

「もういい! 出てって!」

 知佐に向かってくまモンを投げつける。


「紗織様、これは投げるモノではありません。」

 知佐は、片手でくまモンをキャッチすると、サイドテーブルの上に戻す。


「暖かい食事を運ばせますので。」

「いらない! もう出てって!」

 紗織は頭から布団を被って拒絶の意思表示をする。

 知佐は、ため息をついて部屋を出て行った。


 ドアが閉じた音を確認して、布団から顔を出すと、サイドテーブルで間の抜けた表情をしているくまモンに問いかける。

「ねぇ、くまモン、さぁちゃんは変わっちゃったの?」

 くまモンは、間の抜けた視線を返すだけだ。


**********


 後ろ手にドアを閉じた知佐は、大きくため息を吐いた。

 本当は、さぁちゃんと呼んで頭を撫でてあげたかったが、至る所に監視カメラが仕掛けてあるので、それは出来ない。


(さぁちゃん、私だけはあなたの味方だよ。)


 皇宮警察に入り、裏の任務に就いた時の知佐からは、想像もできない心境の変化だった。

 知佐は、裏の歴史を父から聞かされた時、自分の警察人生を、裏の歴史を守ることに捧げる事に迷いはなかった。

 自分が皇宮警察という職を選んだのはこの為だったと、誇りにさえ思ったほどだ。


 だが、幼い兄妹との出会いが、その心を変えた。

 月並みな言葉で言えば、<()()()>のだ。


(何とか翔君に連絡をとって…いや、それは無理ね、私だけでやるのよ、知佐!)


 そう自分に言い聞かせると、(きびす)を返して紗織の部屋を後にした。

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