第37話 それぞれの憂鬱
鎌田にあるラブホテル・ラムセスの最上階のその部屋は、ゴージャスな露天風呂を備えている割にリーズナブルなので、記念日などに利用するカップルが後を絶たない。
蜂谷薫は、石張りの段を三段登って、すっかり冷めてしまった湯船に身を沈める。
冷めたお湯が、火照った身体を心地よく冷ましてくれる。
しばらくそのままでいたが、冷えて来たのでお湯を継ぎ足す。
徐々に温かみを増すお湯の中で、薫は自己嫌悪に浸っている。
(バカな女ね、また咲山なんかに抱かれるなんて…。)
自分でもバカだと思うが、誰かの温もりを感じる事で、自分が誰かに必要とされている実感が欲しいのだ。
お湯に浮かぶ形の良い乳房を自分で撫でると、目を閉じて頭の先までお湯に沈み込んだ。
水の音しか聞こえない一人きりの空間で、薫は、今朝の事を思い出す。
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「おはようございます。」
ぼうっと翔の瞳を見つめていた薫は、翔に挨拶をされて、我に返った。
「あ、おはようございます。」
慌てて立ち上がって挨拶を返すが、自分でも分かる位に動揺している。
(私は一体何をやってるんだ、任務中にぼうっとして! 忍者失格だ!)
焦ってあたふたしている薫の姿が可笑しかったのか、翔は微笑みながら優しい目で薫を見ている。
「この辺の方ですか?」
「えぇ、まぁ、そんな所です。」
薫は我ながら怪しい答えだと思ったが、接触するつもりは毛頭なかったので、言い訳なんて考えていない。
「当ててみましょうか?」
翔は薫の方をジーッと探るように見ている。
(バレたか?)
薫はこわばった笑顔を翔に返す。
「音大の講師の人でしょ!」
鬼子母神のすぐ近くには、東京音楽大学が舎を構え、音楽家の卵たちが日々腕を競い合っている。
「え、えぇ、そうなんです。」
(そう思わせておけば、今後の監視も何かと楽だろう。)
薫は緊張の解けた笑顔を翔に預けた。
「ダメですよ、サボっちゃ!」
翔は、両手の人差指で✕を作ると、おどけたように睨んだ。
「はーい、サボり終了! 戻りまーす。」
こちらもおどけた様に返すと、その場を後にした…。
何気ないやりとりを思い出しながら、頬が緩んでいるのに気が付いて、慌ててお湯から顔を出した。
(私は一体何をやってるんだ、忍者失格だ。)
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「ただいま~。」
翔は<服部茶房>のドアを開けて、イートインコーナーに顔を出した。
テーブルの上に置かれている卵焼きは、鮮やかな黄金色に輝き、味噌汁から立ち上る香ばしい香りは、食欲を掻き立てる。
「お帰り~、待っとったバイ。」
「ごめんごめん。」
「ナニか、フッきれたようダナ。」
「まぁな。」
「さぁ、ご飯の前にはまずお茶だ。」
半次郎が淹れてくれた玉露のお茶を口に含むと、口の中に渋みの少ないすっきりとしたコクが広がった。
「いただきます!」
四人は一斉に食事にかぶりついく。
「まぁ、みんなよっぽどお腹空いてたのね。」
「おかわりあるから、みんな一杯食べろよ!」
半次郎と菜々は、重苦しい雰囲気から解放されて喜んでいるようだ。
「ナニかアッタのか?」
「どうせまたコマしてきたっちゃろ。」
危うく味噌汁を噴き出しそうになった。
どうしてこいつの勘はこんな時だけ鋭いのか…。
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2019年(平成31年)4月13日
~東京・南光院邸~
白を基調にした部屋は、モダンな家具で統一され、かわいらしさの欠片もない。
ベッドの脇に置かれたサイドテーブルの上に、ちょこんと置かれたくまモンのぬいぐるみが唯一、十歳の女の子らしさを主張している。
紗織は、ベッドの上に寝転がると、溢れそうになる涙を堪えた。
あの日訳も分からず宇佐神宮前の旅館から連れ出されてから、知佐とはロクに口をきいていない。
(せっかくお友達になれたのに。やっと、さぁちゃんと呼んでくれるようになったのに。)
コンコン
部屋にノックの音が響く。
「はい。」
「失礼します、紗織様。」
入って来たのは、知佐だった。
テーブルの上に手つかずになっている食事を見てため息を漏らす。
「紗織様、少しは召し上がって頂きませんと。」
「もういい! 出てって!」
知佐に向かってくまモンを投げつける。
「紗織様、これは投げるモノではありません。」
知佐は、片手でくまモンをキャッチすると、サイドテーブルの上に戻す。
「暖かい食事を運ばせますので。」
「いらない! もう出てって!」
紗織は頭から布団を被って拒絶の意思表示をする。
知佐は、ため息をついて部屋を出て行った。
ドアが閉じた音を確認して、布団から顔を出すと、サイドテーブルで間の抜けた表情をしているくまモンに問いかける。
「ねぇ、くまモン、さぁちゃんは変わっちゃったの?」
くまモンは、間の抜けた視線を返すだけだ。
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後ろ手にドアを閉じた知佐は、大きくため息を吐いた。
本当は、さぁちゃんと呼んで頭を撫でてあげたかったが、至る所に監視カメラが仕掛けてあるので、それは出来ない。
(さぁちゃん、私だけはあなたの味方だよ。)
皇宮警察に入り、裏の任務に就いた時の知佐からは、想像もできない心境の変化だった。
知佐は、裏の歴史を父から聞かされた時、自分の警察人生を、裏の歴史を守ることに捧げる事に迷いはなかった。
自分が皇宮警察という職を選んだのはこの為だったと、誇りにさえ思ったほどだ。
だが、幼い兄妹との出会いが、その心を変えた。
月並みな言葉で言えば、<惚れた>のだ。
(何とか翔君に連絡をとって…いや、それは無理ね、私だけでやるのよ、知佐!)
そう自分に言い聞かせると、踵を返して紗織の部屋を後にした。




