第10話 九条 知佐
現場の処理をダニエル達に任せた翔は、知佐たち三人をザ・ビートル・カブリオレに詰め込んで、事務所へと急いだ。
ハンドルを操りながら、脳みそをフル回転させて事態の把握に努めるが、寝不足で疲れた脳は酸欠状態だ。
とにかく、分からない事だらけだが、ヤバい事態に巻き込まれてる事だけは分かっている。
憂鬱な気持ちのまま、大博通りの朝のラッシュに捕まると、更に気分が落ち込んだ。
新進気鋭の市長は、渋滞緩和のためのモノレール構想を取り下げて、キックボード特区構想なるものをブチ上げたが、そんなものがチョロチョロするのを考えただけでも気が滅入る。
ふと、助手席に目をやると、乱れ髪の知佐が端正な横顔で後部座席の二人に心配そうな目を向けていた。
特に、幼い女の子の事は心配のようで、
「紗織様、大丈夫ですか、お寒くありませんか?」
とか
「紗織様、大丈夫ですか、お腹は減っていませんか?」
などと問いかけている。
「うん、大丈夫!」
女の子の方も気を使っているのだろう、その度に努めて元気に頷いてみせている。
三人を載せたビートルは、混雑する大博通りを右折し、冷泉通りに入ると冷泉公園の一本手前の道に入る。
知佐はと言えば、紗織と呼んでいる少女の方を心配しつくして安心したのか、今度は男の子の方に問いかけた。
「若様、大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫ですよ、知佐さん。」
気のせいか、今度の「大丈夫」には違う意味が含まれている気がした。
<不忍探偵社>は冷泉公園の一本手前の厨子町通り沿いにある。
今にも倒壊しそうなビルには、エレベーターなどというシャレた設備はない。
そのオンボロビルの三階が<不忍探偵社>だ。
住居としても利用している事務所の内装は、外観に劣らず安普請で殺風景だが、その代わり、広さは充分過ぎるほど広い。
入ってすぐのだだっ広い三十帖ほどの部屋には、大の男がゆっくり眠れる程の大きな灰色の布張りソファーが向かい合わせに2つ置いてあり、窓際に置かれたスチールの古臭い事務机は、乱雑に放置された書類の山に埋もれている。
その隣のクリアボックスには、所狭しと飾られた自慢のプラモデルが精いっぱいの自己主張をしている。
部屋の片隅には、ミニキッチンとドイツ製の2ドアの業務用冷蔵庫、その隣に鎮座するカップボードは、量販店で買った安物だ。
右手の部屋はシャワールーム付きのベッドルームで、セミダブルの脚付きマットレスの上には、有名テニスプレーヤーも愛用しているマットレスが、我が物顔で自分の居場所を主張している。
左手の部屋は、上客が来た時のための応接室だ。
高級感のある黒の革張りソファーセットの背後には、四十cm角の抽象的な絵画が二段✕三列に飾られ、モダンな雰囲気を演出しているが、もちろんどれも量販店で買った安物だ。
翔は、入ってすぐの大きな布張りソファーに三人を通した。
カップボードに備えてあるカプセル式のコーヒーメーカーのスイッチを入れると、スロットにエスプレッソのカプセルをセットして、コーヒーを淹れる。
普段は自分一人だから良いが、カプセル式はこういう大人数の時に不便だ。
機械が激しい動作音と共に一杯目のコーヒーを入れている間に、冷蔵庫を開けてオレンジジュースをグラスに注ぐ。
「紗織ちゃんは、こっちがいいよね。」
得体の知れない機械が、黒い液体をカップに注ぐ様を不安げに見ていた紗織は、安心したような笑顔で頷く。
「で、君…えーっと…」
「崇継です。」
「崇継くんはどっちにする?」
崇継は、しばらく迷っていたが、固い表情のまま目を合わせずに答えた。
「コーヒーでお願いします。」
コーヒーを美味しいと思う中学生は稀だ。
大人ぶりたい年ごろに背伸びをして飲み続ける事で、やがて美味しいと思うようになっていくものだ。
(だが、こんな時にまで大人ぶることもなかろうに。)
そう思った翔は助け船を出す。
「このマシーンは本格的なラテも作れるんだよ、試してみるか?」
崇継は少しほっとしたような微笑みで、目を見て答えた。
「では、お願いします。」
「よし、きた!」
翔はミルクマシーンに牛乳を注ぎ、機械にセットした。
スイッチを押すと、甲高い蒸気の音と共に、白い泡となったミルクがカップに注がれる。
「わぁ。」
今度は紗織も興味を示している。
「紗織ちゃんは牛乳好きなの?」
「はい!」
満面の笑みで頷く。
この子の笑顔には、人の心を溶かしてしまう不思議な柔らかさがある。
しかし、崇継もそうだが、時折見せる寂しげな表情が気になっていた。
「じゃあ、今度ホットミルク作ってあげるよ。」
「ありがとうございます!」
紗織がペコリと頭を下げる。
そのやりとりをにこやかに見守っていた知佐は、苦いエスプレッソを一口飲むと、苦みの力を借りて真剣な表情を作ると、口を開いた。
「翔くん、改めてお礼を言わせて、助けてくれてありがとう。」
「気にするなよ。」
翔は、いつもの作り物の笑顔でなく、心からの笑顔で返す。
「でも、聞きたい事は山ほどある。」
「そうでしょうね。」
知佐は俯き加減に目を伏せる。
何から話すか、どこまで話すか迷っているのだろう、あるいは彼女自身にも分からない所が多いのかもしれない。
「まず、今朝の暴漢についてだ。九条たちが狙われる理由に心当たりはあるのか?」
「あるわ。」
顔を上げて、力強く見返す目からは決意が感じられる。
「でも、今朝のあいつらは…」
「警察でしょ?」
「知ってたのか?」
「えぇ、多分だけど。」
あっさりと言い当てられて動揺したが、次の情報を確認する
「しかも、ただの警官じゃないみたいだぞ。」
「えぇ、皇宮警察よね。」
「それも知ってたのか?」
「知ってた訳じゃないけど、私の方を襲って来た男に見覚えがあったのよ。」
知佐はそういうと、胸の内ポケットから、見覚えのある黒い手帳を取り出して見せる。
(皇宮警察特務課第7係 皇宮警部補 九条 知佐)
識別票の彼女は、実物の彼女と同じように力強く見返していた。




