その6
「こんにちは」
人影に反射的に挨拶して、いつもZさんは思うのだ。そうだ、この人に挨拶しても仕方ないのだ、と。
Zさんの住むアパートは三階建て。そして部屋は最上階の一番奥だ。玄関のドアから出たときによく顔を合わせるその女性は、青いコートを着ていてほっそりした印象の人なのだが、いつも返事をしてくれない。もしかすると、できないのかもしれない。
外廊下を歩いてきた彼女は、すっと、Zさんの家の前を通り過ぎて、行き止まりのアパートの外壁の中に消えてしまう。ふんわり微笑んで。
その笑顔が儚げなので、ついつい、挨拶してしまうのだ。
◆
Dさんのお姉さんはマメな人で、歯磨きをしながらちゃちゃっと洗面台を掃除する。スポンジで洗面台全体を磨いて、排水口のゴミを指でつまんですて、使い捨ての小さなメラミンスポンジでもう一度洗面台全体を磨く。最後に麺棒でオーバーフロー口の汚れを掻き出して水を流して終わりだ。
Dさんは、お姉さんと歯磨きのタイミングがかぶるのが嫌だった。自分がうがいをしたくても、後にしてと言ってなかなか譲ってくれないからだ。その日もお姉さんの掃除が始まって、口中にたまった歯磨き粉を吐き出したくて苛々していた。早くしてくれと心の中で祈っていると、ようやくオーバーフロー口の掃除になった。
麺棒を金属のプレートのはめ込まれたその穴に突っ込んだお姉さんは、一瞬怪訝な顔をしたが、弟の非難がましい顔を見て、やれやれという様子で掃除を切り上げた。Dさんはお姉さんが退くとさっそく、うがいをしてさっぱりした。歯ブラシを水で濯ぎ、スタンドに立てて片付ける。
ふと、オーバーフロー口を見ると、白くて細い指がおずおずと外に出ていた。Dさんが絶句しているうちに、その指はゆるゆると中に引っ込み、二度と出てこなかった。
◆
コンビニでのバイトが終わると、雨が降っていた。少しだったらいいのだが、家まで傘を差さずにいたらぐっしょりしてしまう降雨量だ。Iくんは、バックヤードにずっと置きっぱなしになっていたビニール傘を失敬することにした。以前、バックヤードの片付けをしているときに、持ち主を探したが見つからず、処分しようという話になってそのままになっていたものだ。柄の部分に、薄汚れた水色の犬のマスコットがついていたので、持ち主は女性なのかもしれない。明日、晴れたらまたそっと戻しておけばいいだろうと考えた。
マンションに帰って、お弁当を温め夕食をとっていたら、ドアを乱暴に叩く音がした。チャイムを使えばいいのに、勧誘だったら怒鳴ってやろうと思いながら、Iくんは玄関のドアの覗き穴から外を見たが、誰もいなかった。そういえば、オートロックなのに、エントランスでインターフォンを使わずにどうやって上がってきたのだろうと疑問に思いながら、ドアを開けた。もしかすると、別の部屋と間違えてドアを叩いたのかもしれない。
やはり、部屋の前には誰もいなかった。だが、エレベーターからIくんの部屋の前までは、まるで極大のなめくじが這ったように、濡れたあとが続いていた。誰かが全身ずぶ濡れで歩いてきたようにも見える。
Iくんは急に不安になって、深夜だと言うのに傘を持って、バイト先に戻った。その傘はまだ、バックヤードの隅で埃を被っているという。
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Jさんは、子供の頃、お母さんとお父さん、それからお兄さんと同じ部屋で寝ていた。朝は一番早くに起きるお母さんにあわせて、タイマーの仕掛けられたラジオがオンになる。そこで一旦目を覚ましたあと、一時間くらい二度寝してから、Jさんとお兄さんは起きるのだ。
しかしこのラジオ、壊れているのかときどき夜中に勝手に鳴り出す。おまけに、Jさん以外の家族はみんな、しっかり寝付いていて起きない。だから、貧乏くじを引いたような気分になりながら、Jさんはいつもラジオをオフにするのだった。
その晩も、午前三時の少し手前でラジオが鳴り出した。オペラだ。なんの曲かわからないが、甲高い女声がうるさくて目が覚めた。部屋の中は暗い。そして、いつものように、家族は誰も目を覚ます気配がない。隣に寝ているお兄さんの足を蹴っ飛ばして、たまには止める役をやってくれと思ったが、よっぽど眠りが深いのか、お兄さんはいっこうに目を覚ます気配はなかった。仕方なしに起きだしたが、スイッチを押すとき、お父さんの呑気ないびきが頭にきて、Jさんはラジオのコンセントを引っこ抜いた。翌朝みんなで寝坊して怒られたっていいと、投げやりな気持ちだったのだ。
静かになったので、Jさんも間もなくまた眠りについた。今度は朝までぐっすり眠れるだろうと期待して。ふわっと意識が曖昧になって、睡魔に身を委ねたとき。耳を聾する爆音のノイズが響き渡った。ざあざあという、波の音にも似たノイズ。それはさっきコンセントを抜いたはずのラジオから流れている。眠りを邪魔されてかっとなったJさんだったが、すぐに怖くなって、布団を頭まで引き上げ、小さくなった。それだけの音がしても、家族は誰も目を覚ます気配を見せなかった。
どれくらいしただろう、お母さんに肩を揺すられ、Jさんは目を覚ました。お母さんはかんかんだった。ラジオが鳴らなかったから、寝坊してしまったと、起き抜けのJさんを叱った。
「ねえ、お母さん、ラジオ、コンセント抜けてた?」
「抜いたのはあんたでしょ」
冷たく言い放ち、大慌てでお母さんは台所へ駆けて行った。
◆
築四〇年、リフォーム済み、2LDK、風呂トイレ別、駅徒歩八分。
その条件のとあるアパートの二〇四号室は、事故物件扱いでQさんのところに回ってきた。不動産会社で、インターネット上に物件情報を掲載することを担務しているQさんは、必要な写真を撮るために、しぶしぶその物件へ向かったのだ。
あまり気分がいい仕事ではない。すでにリフォームも終わりクリーニングも入ったからと先輩に言われて送り出されたが、足取りは重かった。
なにせ、そのアパート、これまでそういう事故のあった回数は四回である。十年に一人の割合で死んでいる。それは結構な確率じゃないだろうか。なんとなくだが、そういう部屋なのではないかと思ってしまう。
Qさんはカメラを抱えてそのアパートの外階段を登り、借り受けていた鍵でドアを開けた。アパートの外観は手入れされていて綺麗だった。玄関を開けたところ、内装もリフォームのおかげで近代的になっていて、白を基調とした女性ウケしそうな感じだった。言われなければ、事故物件だとは思わないだろう明るさだ。
「へえ……」
思わず感嘆の声が出た。事情を知らなければ、ここに住んでもいいと思ったのだ。
とくに、居室の窓から見える景色がすばらしい。下がちょっと急な坂になっているから見晴らしがよく、真っ青な海がよく見えた。
カメラを床に置いて、Qさんはその窓に歩み寄ってみた。美しい景色だ。もっとじっくり見たいほど。カメラで撮るなら、つまらない空き部屋の様子より、この綺麗な海の方がふさわしいのでは、とまで思った。きっと歩いて海まで行けるだろう。天気のいい日は散歩にもってこいだし、窓を開けると波音や潮風を楽しめる。なんていい部屋だろう。できればゆっくり、この景色を楽しみたい。海だけを見つめていきたい――至福のひとときに水を差したのは、事務所からの電話だった。
ジャケットのポケットから取り出した携帯電話で応対しながら、Qさんははっとした。
いつの間にか窓を開け、窓枠に腰を下ろしていた。華奢な作りのフラワーボックスから、脚がぶらりと外へ飛び出ている。あと一押で、アイアン製の柵ごと真っ逆さまに転落するところだった。下は、硬いコンクリートの坂で、頭から落ちたら死んでいただろう。
海の見える窓は素晴らしいが、脚元がおろそかになるほどだと、やはり、問題があるのではないか。
Qさんは、窓の外の景色が見えないように写真を撮ることを考えた。
◆
Gさんは、個人で配達業をしている。小型のトラック一台を相棒に、依頼があったところへ荷受けに行き、配送先まで運ぶのだ。いわゆるチャーター便扱いなので、距離と時間で金額が変わる。荷物の量は、車に積めるだけ。大手の配達業者が手が足りなくて下請け的な形で依頼を回してくることも多い。
いろんな会社に出入りしているうちに、同業者と顔を合わせることもある。同じ会社に何度も呼ばれていると、同業のよしみで話をすることも。
とある会社の倉庫で、荷物の積み下ろしが終わり、依頼主の確認を待っているとき、Gさんに声を掛けてきた人がいた。Gさんより少し年上に見えるその初老の男性は、配達ルートを確認しているGさんに「気をつけろよ」と言う。
「あんたのまわるあたり、ほら、この神社の周辺だけど」
彼が指さしたのは、なんてことない小さな神社で、ナビ上には記されているけれど、名前を聞いたこともないような場所だった。ぐねぐねした坂道が続いている場所だというのは、知っている。
「この辺り、迷い道になっていて、戻ってこなくなるやつがいるんだよ。前に一緒に仕事したあんちゃんが、トラックごと戻ってこなくなって、警察も出てきて捜索したんだが、見つからなかったんだよな、結局は。古い人間なら知ってるんだけどよ、この神社、もともと周辺が悪い土地だったからって、よそから神さま連れてきて建てたらしいんだけどな、それでも神隠しはなくならねえんだわ。だから、変だなと思ったら、引き返してこいよ」
たった一度顔を合わせただけの、年寄りの話なんて、と心中で笑い飛ばしたものの、表向きは「どうも」と笑顔を作ってGさんはその場を切り上げた。
配送は、道路が空いていたこともあってスムーズに進み、残すところあと一軒となった。目的地は例の神社の周辺だ。
ところが、もう少しで神社というところで、真っ昼間だというのに、道路に霧が立ち込めてきたのだ。Gさんはライトを焚いた。見通しがすこぶる悪い。ナビを頼りに慎重に進んでいたら、そのナビもおかしくなってきた。進行方向を地図の上に向ける設定にしているが、地図がぐるぐる回転してしまうのだ。車は回っていないのに。
いったい、なんなんだ、と毒づいて、Gさんは路肩に車を停めた。住所はすぐそばなので、細い道をおっかなびっくり走るより、荷物を持って歩いていってしまったほうが安全だと判断したのだ。荷物自体も、軽い箱がひとつ。目印は、神社。道を挟んで反対側の家が、配送先である。
念の為、スマートフォンで地図を表示したのだが、ここでもナビはうまく動かなかった。くるくる、進行方向の矢印が回転してしまう。出発前にある程度道を把握していてよかった。
霧の中を泳ぐようにして歩いて、ふと立ち止まる。狭い道の路肩に、何台も車が止まっていた。大きさも種類もばらばらで、中には運送会社のロゴ入りの幌車もあった。どれもこれも、何年も放置されていたのか、車体には錆が浮き、天井からタイヤに至るまで、みっちりと濃い緑の蔓草が絡んでいる。中は無人だ。
あまりにも、何台もそれが続いていて――そろそろ曲がり角だと言うのに、一向にその角が見えてこないこともあって――Gさんは背中に冷えた汗が浮くのを感じた。
トラックに駆け戻ると、荷物を積んだまま元来た道を引き返す。Uターンするほどの道幅がないので、バックで坂を下った。激しい衝突音と衝撃で、ハンドルに胸を強かに打つまでは。
しまった、事故だ。そう思ったGさんは運転席を飛び出して、ぶつかったと思われる車の後部を確認に行った。ガードレールに右側面ががっつり当たっていた。歪んでしまったガードレールの下には、崖と見紛うばかりの、切り立った斜面がある。あと少し進んでいたら、転落していたかもしれない。
どくどく鳴る心臓をなだめすかして、事故の報告をしようとスマートフォンを取り出したGさんの前で、すうっと霧が引いた。坂のずっと下の方に、神社が見えた。最初に車を降りた時は、まだ神社まで到達していなかったはずなのに。
Gさんは、その後、事故のことや配達の遅れであちこちに頭を下げることになった。
現在は、配達先があの神社の周辺の依頼は、「対象範囲外です」とお断りすることにしているらしい。