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その5


 新居の照明を購入するとき、Bさんは初めて夫と喧嘩した。どうしてもそのペンダントライトがほしかったのだ。職人が一点一点製作した、オンリーワンの品。丸いガラスのかさは、繊細な模様が刻まれていて、明かりを入れると床や天井に淡い陰影を落としてくれる。

 

 ところが、夫は、あれは嫌だと主張した。理由を尋ねると、「なんとなく」というすっきりしない答えを返す。では他にどのライトならいいのと尋ねれば、「別にこれ以外ならどれでもいい」と言う。

 

 結局、押し切って、Bさんはそのペンダントライトを購入し、新居のリビングに設置した。

 

 Bさんのほうが夫より帰宅が早いので、家でひとりになる時間がある。お気に入りのインテリアに囲まれ、夫が帰ってくる前にお茶を淹れて一息。疲れと一緒に吐き出したその吐息が、詰まった。


 仰ぎ見た、ペンダントライトと目が合った。ガラスの球体のはずのそれに目があるわけはない。ライトを抱えるようにして逆さまにじっと、黄色い顔をした中年の男が、こちらを見ていたのだ。

 

 疲れで見た幻覚なのかもしれない。しかしBさんはすぐにそのライトを手放すことにした。

 夫に話をしたところ「だから言ったじゃん」と事もなげに言われ、もう一度喧嘩に発展したそうだ。

 


 Gさんの飼い犬・コロは、中型の雑種だった。Gさんがダイニングテーブルで食事していると、腿の上にぽふりと顎を乗せ、しっぽをフリフリ、おねだりするのがお決まりのパターン。その様子が可愛くて、Gさんはついつい甘やかし、白米をひとつまみ、もうひとつまみと分け与えてしまうのが常だった。

 コロは十六年生きて、老衰で亡くなった。晩年、足腰が弱っても、おねだりの時はGさんの太ももに顎を乗せ、じっとしていたのだ。

 

 コロが亡くなって二年して、縁あってGさんはペコという犬を飼い始めた。ある晩、Gさんがひとり夕食を摂っていると、腿の上にぽふりと顎を置く感触があって、つい、煮物のなかの里芋を半分、与えてしまった。もはや反射だった。

 そして、ふと気付いた。ペコはウェルシュ・コーギーで、椅子に座ったGさんの腿に顎を乗せるには、両手を椅子に引っ掛けなければならない。それに、ペコのおねだりは、足元に座ってじっとこっちを見つめてくる方法なのだ。

 

 足元を確認したが、里芋は見当たらなかった。

 

 それからもときどき、Gさんが食事していると、腿にぽふりと何かが置かれる感触があり、そんなときは、コロが大好きだった白米を少しだけ差し出すようにしているのだという。

 


 保育士をしているMさんは、その子に会うのは四度目だった。

 

 外遊びから帰ってきた園児たちを、水道の前に並ばせて手を洗わせる。うまく洗えているか確認しながら、ちゃんと綺麗にできた子には、その子のタオルを渡してあげる。その繰り返し。

 ひとり、泡が手首までつたってしまってびしゃびしゃになっている子がいたので、その子に歩み寄り、小さな手を包み込むようにして水で流してあげる。そして、タオルを渡すため、顔を見て――ふとそこに誰もいないことに気づいた。膝で小さな体を支えるようにしていたはずなのに。これが一度目だった。

 

 その後、お昼寝の時間に布団を掛けていくと、ひとりだけ布団が足りなくなることがあって、振り返ると、無人の布団セットがあることがあった。たしかに人数分用意したはずのおやつが、一人分足りなくなることもあった。そんなことがしばしば起きた。

 

 仲の良いベテラン保育士にその話を打ち明けると、「ああ、(とおる)ちゃんね」とこともなげに言った。

 

 なんでも、他の保育士たちもその透ちゃんには度々遭遇してきたのだが、いつのまにかそっと紛れ込んでいるだけなので、気にしなくていい、とのことだ。

 

 透ちゃん、という名前も、何年か前にここを辞めた保育士が付けたあだ名で、その子の本名は誰も知らない。

 ただ、嫌がらずに面倒を見ていてあげると、ときどきお礼をくれるのだそうだ。そのベテラン保育士は、似顔絵をもらったという。彼――彼女? はとても絵が上手だそうだ。



 折れたり曲がったりした針は、きちんと供養しなければいけない。それがQさんのおばあさんのポリシーだった。

 

 しばらく使用してなかった、ピンクッションに挿しっぱなしのまち針を引き抜いたところ、ちょうど布に刺さっていた境目が錆びていた。これでは使えない。Qさんは、折れ針入れを持っていたが、どこにしまったか忘れてしまい、探すのが面倒だったので、自治体の定めた方法でゴミに出すことにした。

 和裁をやっていたおばあさんが存命だった頃は、冬に針供養でまとめて折れ針を処分していたのだが、彼女亡きあと、たまに趣味で刺繍をする程度のQさんだけでは、供養に持っていくほどの数は集まらない。時間をかけて供養しに行くくらいなら、と思ったのだ。

 

 Qさんは、お裁縫のいろはをおばあさんから習った。これもおばあさんに習ったことなのだが、まち針は五本を輪のようにくっつけて刺して、お花の形にしておくといいそうだ。すると、数が足りなかったとき、すぐに気付ける。事故を防ぐための知恵なのだ。Qさんはその言いつけは守り、赤と白の丸い頭のついたまち針を、お花の形にしてピンクッションに刺していた。

 

 その日は、刺繍の一部をしただけで、完成までは至らなかった。図案の転写に時間がかかってしまったせいだ。

 

 翌週、刺繍の続きをしようとしたQさんは、きょとんとした。ピンクッションのお花の形に並んだまち針に、一本余分があった。花の中心にもう一本刺さっていて、六本組になっているのだ。

 おかしいなあ、片付けるときに確認したはずなのに、と思いながらその余分な針を摘んでみると、錆ついていた。先週処分したつもりになって、忘れたかしら。なんだかぼんやりした気持ちで、Qさんはまたその錆びた針を処分したのだが――翌週、刺繍の仕上げをしようとしたら、またピンクッションの花のかたちが変わっていた。余分なのが一本、引き抜けば、錆。

 

 Qさんは溜め息まじりに、重い腰をあげ、押し入れの中から折れ針入れを探し出し、そこにその針をしまいこんだ。年末に供養するのを忘れないようにしなければ、とカレンダーに日付を書き入れて。



 Lさんの中学校の美術室には、出るという噂がある。準備室からすすり泣きの声が聞こえるだとか、視線を感じて振り返ると、古い油絵の人物の目がぎょろりと動いただとか。

 たしかに学校の建物自体が相当古くて、歩けば床がぎしぎし鳴るし、電気は点けるとびしびし嫌な音を立てるし、そういうイメージを持ってもおかしくない様子なのだ。美術部員の子たちも、雰囲気満点のそこで遅くまでひとり残るのは避けたがる。Lさんもその一人だった。

 

 年末になると、部活動ごとで、いつも使用している教室や体育館を大掃除をするのだが、美術部は当然のように美術室の担当になった。ものがたくさんある場所だから、掃除は手間だ。大きなものを一旦廊下に出して、あちこちを拭いたり掃いたりしていく。手分けして。


 Lさんは、準備室の担当になった。基本的に、部員の製作中のカンバスや彫刻などの作品以外の道具、油絵の具や水彩絵の具のセットなどは、個人で管理することになっている。そのため、そこに乱雑に積まれている筆や水入れは、美術の授業で使うための備品がほとんどだ。ろくに手入れもされず、適当に置かれているものも多く、溜め息を禁じ得ない。

 絵の具がかぴかぴに乾いてしまった筆もたくさんあって、Lさんはその筆をまず水に漬けるところから始めた。他の作業をしているあいだに、絵の具が緩んで掃除しやすくなるだろうと考えたのだ。

 

 美術室の窓際にずらりと並んだ蛇口のひとつをひねって、水入れに水を並々注ぎ、そこに筆を突っ込んだ。どろりとした、混色しすぎて何色か判別できない複雑な色の水が出来上がる。

 放置して、準備室のパレットを集めていると、誰かが悲鳴を上げた。ガラスでも割ったかなと、好奇心で顔をだしたLさんの目に飛び込んできたのは、さっき自分で水に漬けた筆の束だ。

 

「やだ、これ、血……?」


 悲鳴を上げた子は、気味悪そうに、水入れを見つめている。あのどろりとした色水は、少し黒ずんだ赤――彼女の言う通り、血液の色に似ている――に変色していた。Lさんは、触りたくないと思いながらも、水入れを傾けてシンクにその汚水を流した。妙にねっとりとしていて、シンクの水分に混ざるとほどけるように赤が拡散していった。恐る恐る、その水を指にとって、においを嗅いでみたら、鉄臭さがあった。これはシンクが金属製だからだと自分に言い聞かせながら、彼女はパレットと筆を洗った。


◆ 


 Jさんが中学生のころ、購読していた雑誌の巻末に、文通仲間募集のコーナーがあった。そこで同じ陸上をやっている、同学年の子が文通相手を探していたので、軽い気持ちで応募してみたところ、返事がきた。相手はCくんという男子だった。同じ部活動をしているということもあって、話したいことも尽きず、かなり頻繁に手紙を送った。時々、綺麗な絵葉書を使ってみたり、かわいい色ペンを使ったりして、JさんはCくんに手紙を書いた。

 Cくんは、字もきれいで話題も大人びていて、Jさんの中ではクラスの男子よりずっと魅力的だった。筆まめではないのか、部活が忙しいのか、返事はJさんの手紙三通に対して一通の割合だったが、気にはならなかった。


『お返事が大変遅くなり、失礼しました』


 そんな丁寧な文言からはじまるのがいつもで、もはや定型文だった。ときどき、話が噛み合わないことがあるが、きっとCくんは頭が良くて、自分の理解が追いつかないからだろうと、Jさんは考えていた。そんなところも魅力に感じていたのだ。

 会ったこともない相手に、恋をしているのかもしれないと気付くのに、さほど時間はかからなかった。

 

 

 

 三年生になり、修学旅行を目前に控え、Jさんはあることを計画していた。実はCくんは、Jさんが修学旅行で行く京都に住んでいるのだ。自由行動になる二日目、会いに行ってみようと思った。グループの友達は、みんな仲良しだったのでその計画を後押ししてくれたし、Cくんもいつか会えたらいいのですが、とちょっと前の手紙に書いてくれていた。

 

 お昼休みの時間を狙って、Cくんの学校の前で待ち伏せをしたJさんは、お土産を片手にわくわくして待っていた。Cくんは、赤いラインの入ったスポーツブランドのスニーカーを履いていると言っていた。

 待つこと十分、校門で待っていたJさんの前に、特徴の一致する男子生徒が通りがかった。

 Jさんは声をかけ、お土産を渡そうとしたが、その男子生徒は怪訝な顔をした。彼は、たしかに名前はCだし、Jさんの把握している住所もあっている。陸上部に所属もしているが、文通なんて知らない、と冷たく言うのだ。そして、友達らしき男子生徒たちと、さっさとトラックを走りに行ってしまった。

 

 もしかすると友達が隣にいたから、恥ずかしかったのかしらとか、会ってみたいというのもただのリップサービスだったのかと、いろいろ考えながら、がっかりした気持ちでJさんは京都から帰ることになった。それっきり、Cくんに手紙を送るのは止めた。

 



 それから十二年経ち、地元の企業に就職したJさんは、都合がいいので実家から職場に通っていた。残業を終え、くたくたになって家に帰ってみると、自宅のドアチャイムをまさに今押そうとしているスーツ姿の男性がいたので、声をかけた。うちになにか御用ですか、と。

 

 男性は、じっとJさんを見た後、「もしかしてJさんですか」と問うた。Jさんは訝しく思いながら「そうです」と返答し、彼を観察した。どこかで見たような顔だが、思い出せない。


「僕は、Cです。以前、一度、お会いしたことがあるはずです」


 言われてようやくJさんは、はるか昔に一度だけ会いに行った、文通相手のことを思い出した。

 Cくんは、戸惑った様子で懐から紙の束を出して言った。


「実はここ一年くらい、気がつくとポストに手紙が投函されていて。全部Jさんからなんですが、――消印の日付が十二年前なんですよ」


 差し出された束の中身は、中学生だったJさんがお小遣いをはたいて買った絵葉書や、可愛らしい封筒だった。


「Jさんが会いに来てくれたとき、本当に心当たりがなくて、びっくりしたんですが、今になってなるほどと思いまして。ひとことなにかお伝えしたかったんですが、あいにく、電話番号も知らず。返事はお送りしたんですが、……届かなかったでしょうか」


 出張のついでにちょっと来てみようと思ったのだ、というCくんを玄関先で待たせて、Jさんは大慌てて自分の部屋へ行き、クローゼットの上の棚からサビの浮いたクッキーの缶を引っ張り出した。なかなか処分できずにいた、十二年前の手紙の束がそこに入っている。

 

 中学生にしては選択が渋い無地の封筒、達筆が振るわれた自分の宛名、その左上に貼られた切手の消印は、今年のものだった。切手も今年の季節もの。

 いろいろと理解の追いつかない頭で、ぐるぐると考えながらも、JさんはCくんに手紙を見せるため、玄関先に戻った。


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