エピローグ
蝉の声がする。それから、夕立のにおい。湿った土と、青々した草花の、むせ返りそうなにおい。い草のにおいがしなくなった畳が、正座した私のすねの下でちょっとじっとりしている。
私は、祖母と向かいあって、洗濯物を畳んでいた。数が多いのは、入院中の母のものがあるからだ。長患いしている彼女の身の回りのものを、一気に回収してきたから。網戸の向こうはとっぷり日が暮れ、わずかに涼しくなった夏の夜風が室内に吹き込んでくる。
洗濯物がちゃんと乾いてよかった。それに、夕立のおかげで今晩は幾分寝やすい涼しさになるだろう。母も涼しければいい――いや、彼女は空調のきいた病室にいるから、関係ないか。
ちりん、と風鈴の音がしたとき、正面の祖母がすっと顔をあげた。タオルを畳んでいた手を膝の上で止めて。
「裕子」
そう、母の名を呼ぶ祖母の目は、ちらつく電灯の明かりの下で、ぬるりと黒く光って見えた。
振り返った私は、自分の背後、開け放たれた古めかしい襖の向こうの廊下を、足早に去っていく足を見た。黄みがかった白い肌、右足の甲に大きな切り傷のあと。いつか母が包丁を落として切ってしまったときと同じ位置、同じ見た目の傷。足首から上は廊下の暗さのせいか、ぼんやりとして見えなかった。
硬直した私の横を、ばたばたと祖母が小走りに通過し廊下に出た。足が向かった方を彼女は確認したが、結局その場に立ちすくみ、追いかけることはしなかった。
「おばーちゃん」
私の声を遮るようにして、電話が鳴った。ぎくりとするほど、その音は鋭く聞こえる。
祖母は、なにかを諦めたかのように、肩を落とし、体側に手を下ろして、下を向いた。
ああ、これは、母の亡くなった日の記憶だ。
× × × × ×
「まあちゃん」
祖母の声がして、私ははっとした。
起き上がる。
電気をつけっぱなしで、また寝落ちしてしまったらしい。壁の時計は、午前一時。相変わらず雨音が聞こえた。肌寒いくらいなのに、背中にはぐっしょり汗を掻いていて気持ち悪かった。頭痛薬の効果が切れるにはまだ早いのに、こめかみが脈打つように痛む。吐き気を催すほどだ。
寝ぼけたのか、と一息つき、ベッドの隣を見た。足があった。年齢のせいか、肉が削げ落ちて骨の形がはっきりわかるようになった白い足。外反母趾の。腰が辛くてかがめないと言うから、爪の手入れを何度もしてあげた祖母のものとよく似た足。左足首の小さな痣まで同じだ。
「おばーちゃん」
呼びかけに対する返事はなく、電灯がちらついた刹那、その足は虚空へ消えていた。
デスクの上に置いていたスマートフォンが、軽快な音楽を流し始める。着信に設定していたメロディだ。
<了>




