その1
次男がキャンプに行くために車を貸してほしいというので、Hさんはそれを許可した。二年前に新品で買ったコンパクトカーで、日曜ドライバーのHさんはまだ全然距離を走っていなかった。次男坊はN県まで行くというので、たまにはそのくらい走らせてやったほうが車にもいいだろうと思った。
一泊二日で帰ってきた次男は、Hさんに鍵を返しながら、実はさ……と、言いづらそうに切り出した。それでぴんと来た。さては擦ったかぶつけたかしたな、と。しかし、そうではなかった。
今日、帰る直前になって車を見てみたら、トランクから天井まで、リアウィンドウを縦断して泥がついていた。
はじめ、猫が泥だらけの足で登ったのだと思ったのだが、違う。子供の手型だったのだ、という。気味悪いから、洗車してきたんだけど、と言いながら次男は嫌そうな顔をして、スマートフォンで撮った写真を見せてくれた。
彼の言う通り、泥が小さな手の形でついていた。Hさんは不気味に思いながら、目を眇め、あることに気付いた。手の向きは指先が上ではなく、下に向いている。これではまるで、天井に登ったのではなく、天井からトランクに向かったように見えるではないか。
しかもね、親父、悪いんだけど、なんだかトランクの調子が悪くて開かないんだよ、と次男は申し訳なさそうに語った。
◆
誰しも、秘密基地という響きに憧れたことがあるのではないだろうか。
Pくんも、もちろんそのひとりで、家にある傘をありったけ集めてきて、公園で広げて屋根を作ってみたり、ダンボールを並べて小屋を作ろうとしてみたり。そんなことに夢中だった。
とあるアニメに出ている、押し入れで寝ているキャラクターに憧れて、お母さんにおねだりして、中を空っぽにしてもらったこともある。押入れの中は、想像していたより広々していて、引き戸で完全にプライバシーを守れるところも気に入った。難点といえば、暗いことだ。布団と漫画を持ち込んで、寝転んでいたのだが、漫画を読むには暗すぎる。かと言って、戸を開けてしまえば、意味がない。考えた末、Pくんは懐中電灯を持ち込むことにした。
ところが、うまくいかなかった。懐中電灯が古いからか、電池がないのか、ちかちか明滅してしまって、用をなさない。Pくんは、おばあちゃんがテレビを叩いているのを思い出して、懐中電灯をぽこんと叩いた。さすが、おばあちゃん、懐中電灯は今度こそしっかり光った。
その光がさっと過ったとき、一瞬だが、足元に膝を抱えた男の子がいるのが見えた。戸の方をじっと見ている、タンクトップに半ズボンの男の子。
Pくんは、押入れの秘密基地を閉鎖し、二度と押入れに入ろうとしなかった。
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Nさんがよく冬に泊まる旅館は、冬期限定、一室限りの特別プランがある。支配人と友達のNさんだけが利用できる、まさに特別仕様だ。美しい雪山の景色を一望できるそのプランには、窓に結露で女の泣き顔が浮かび上がるという、他にはないサービスもついている。Nさんにとっては、それも風流で悪くないらしい。
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Oさんの勤める小さなスーパーは、個人商店に毛が生えたような規模だが、田舎で他に買い物をするところがほとんどないからか、それなりに客が来る。商品の回転も悪くない。だが、一点、食料の棚の一番奥の端っこに、ほとんど動きのないものがある。ハッカ飴だ。Oさんは、店主に他の品物にしてはどうかと提案したのだが、あそこにはあれを置いておかないといけないのよ、と受け入れてもらえなかった。
誰かお得意さんでもいるのか、気になっていたものの、いつになっても売れる気配はない。もっと美味しくておしゃれなお菓子がいっぱいあるのだから、当然ではあった。パッケージに付着した埃を、買う人もいないのになと思いながら払う毎日だった。
小雨がしとしと降る日、客足はイマイチで、店主も用事があって出かけてしまった。暇だったOさんは、奥のレジの横に椅子を出して座り、ポップを書いていた。古臭い照明器具を使っているため、店の隅っこの方はやや薄暗く、雨音が都合よく子守唄に聞こえてきて――Oさんはうとうとしてしまった。
はっと目を覚ましたとき、あのハッカ飴の袋が目に入った。飴のてかてかしたビニール袋を、小さくて白い手がむんずと掴み、持ち去る瞬間だった。万引きだ、と思ったOさんは、反射的に「こらっ」と大声を出し、駆け寄った。
ところが、そこには誰もいなかった。あっという間に逃げられたのか。Oさんは雨の降る外へ飛び出したが、道にはそのとき誰もいなかった。逃げ足の早いやつだと舌打ちして、店の中に引っ込み、はっとした。
さっき、がたがた音を立てる旧式の自動ドアの音がしなかった。もしかすると店内に隠れているのかも。
きょろきょろ見回して見つけたのは、さきほどOさんが椅子に座っていたのと対角線上にある棚の下に、ハッカ飴の袋がすっと吸い込まれるところだった。棚の下は隙間と言っても大人の手が入るかどうかという細さで、とても人が入れるものではない。たとえ、相手が子供だったとしても。
信じがたい光景を見たOさんは、店主に叱られるのを覚悟で、そっくりそのまま報告した。すると店主は「だから、そこに置いておかないといけないって言ったでしょう」と小さく笑ったのだ。
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Vさんは、とても失礼な美容師にあたり、非常にくさくさした気分で、椅子に座っていた。シャンプーをしてもらって、これからカラー、というところだったのだ。タオルを外して、目が粗い櫛でざっくり髪を梳かしてもらった。そこで、若い男性の美容師が「げっ」とつぶやいて、あからさまに嫌そうな態度をとり、理由を説明もせずにバックヤードに引っ込んだのだ。
この駅ビルの中にある美容室に通い始めて、三年になる。実は、先月までお願いしていた女性の美容師が、退職してしまったということで、新しい担当についてもらったのだ。とくに誰という希望もなかったので、美容院側にお任せしたのだが、――げ、とはなんだ、げ、とは。なにかトラブルがあったら、ちゃんと言ってほしい。
だが、とVさんは思う。いったい、どうしてそんな驚いた様子だったのだろうか、彼は。
待つこと、十分。顔見知りの店長が、困り顔ででてきて、頭を下げた。
「失礼しました。あの、こちらへ」
「なんなんですか」
理由も説明されないまま、席を移動しろと促されても納得できない。渋るVさんを見て、店長はさらに困った顔になって、頭を掻いた。顔を少し近づけて、小声でぼそぼそと言う。
「申し訳ありません、お客様の頭皮にできものがありまして、このままカラーをすると悪化する可能性があります。一度、鏡で見ていただいた方がよろしいかと思うのですが、ここですと……」
「できもの?」
Vさんは首をかしげた。たしかに、シャンプーを換えたときに肌に合わなくて、ひりひりしたりすることはある。だがここ最近、そういうことはない。それより、この場では見せられないほど酷いできものなのか、という方が問題だった。ちょうどVさんの座っている席は、店の真ん中の鏡の前で、合せ鏡にしたら周りの人に見えるかもしれない。店長はそれを気遣ってくれたのだろう。だけれども、他の人達はおしゃべりや自身のスタイリングに夢中で、誰も自分のことを気にしている様子はないのだが。
そこまで言うなら、と多少釈然としないものと、不安を覚えながら、Vさんは一番端っこの席に移動した。さっき施術しようとしていた若い男性の美容師が、バックヤードの前に立っていて、暗い顔をしている。客商売ならもっとにこやかにしないと、と心中で文句をつけた。
「見えますか、ここなんですが」
店長が合せ鏡にしてくれたので、少し顔を傾けてVさんは自分の頭皮を見た。櫛の先で髪をかき分けているその先に、もっこり盛り上がり赤くなっている部分がある。
思わず息を飲んで、Vさんはぎゅっと手を握った。今なら、さっき「げっ」と言った、あの美容師の気持もわかる。自分の頭皮だと信じたくないくらいだ。
こぶし大くらいの範囲で赤く腫れた頭皮は、ところどころ黄色く膿んでいた。その膿は横一文字に三本――まるで人の目と口のような配置になっていた。つむじの部分にうまく当たっているからか、ちょうど髪の毛の生えた、女の人の顔に見える。
結局、Vさんはカラーもカットもせずに、髪を乾かしてもらうだけで美容院を出て、その足で皮膚科に向かった。駅ビルの二つ上の階にある皮膚科は、会社員などをターゲットにしているのか、診察時間が夜九時までと設定されていた。
不思議なことに、膿んでいてもまったく痛くも痒くもないのだ。
その旨伝えて診てもらうと、医師は首を傾げた。
「ただのかぶれですよ、季節の変わり目には起こりやすい皮膚トラブルです。今、流行ってるみたいですしね。あなたで四人目ですよ、美容院で皮膚炎に気付いてうちに駆け込むの」
「これは、伝染るものなんですか?」
「いや、それはないです。もしかすると、使っているシャンプーとリンスが合わないのかもしれません。新商品を使ったりしてます? 念の為、銘柄を聞いてもいいですか」
しかし、皮膚科医はメモを確認して、首を振った。
「うーん、特に問題は聞いてないですね。ただ合わないだけかもしれません。ちゃんと治りきるまでは、低刺激のものを使ってください。カラーリングも避けてくださいね」
「ありがとうございます。それにしても、助かりました。遅くまでやってらっしゃるから、美容院も通院も、このビル一軒で済んでしまいました」
ほっとしたので、冗談が口から出た。そんな∨さんに、皮膚科医は「ああ、Vさんも下の美容院に」と怪訝な顔をしていた。
会計を終え、Vさんは医師のあの表情の意味を考えながら、帰路についた。はじめ、この先生もあの美容院に通っているのか、と思ったのだが――もしかしたら、違うのではないか、と思い至ったのだ。も、という言葉にぶら下がっているのは、同じ症状で通院した、他の患者たちだったのではないか。
これもただの気のせいかもしれないが、このかぶれ、辞めた女性の美容師に似ていないか。垂れた目に大きな口、デフォルメしたらそっくりだ。
医師の言葉に、とくに深い意味はなかったのかもしれない。そう思いながらも、Vさんはいつの間にかその美容院からは足が遠のき、別の美容院に通うようになった。