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その15


 Hくんは、走るのが好きだった。リレーではいつも学年で一番だし、上級生と走っても、相手が一学年上くらいだったらたいてい上位に食い込める。中学に上がったら、陸上部で短距離をやるのだと、早いうちから決めていた。


 運動会のクラス対抗リレーは、もちろん、アンカーだった。タスキをかけたHくんにバトンが渡るとき、クラスは三位だった。アンカーは校庭を一周するのだが、一位と四分の一周の差をつけられていたHくんは、それでも優勝できると踏んでいた。果たして、予想通り、前の二人を抜き去り、彼はゴールラインを突っ切ろうとした。しかし、その直前、誰かがすっと先に出たのだ。


 わっと周囲が興奮で沸くなか、信じられない気持ちでHくんは辺りを見回した。先生たちが小走りに近付いてきて、口々に「一位おめでとう」と言ってくれたのだが――自分はたしかに、ゴール直前、誰かに抜かれたのだ。


◆ 

 

 保育園で手影絵あそびを教わったあと、Qくんはお母さんにそれを披露するため、庭でひとり練習していた。両手首を重ね合わせて、手のひらをひらひらさせる、鳥さん。保育士の先生にも褒められた、自信のある演目なのである。

 

 庭にお父さんがしつらえてくれた鉄棒を電線に見立て、その上で翼を広げる鳥を演じた。ちょうど鉄棒の影と自分の手の影が交わる位置を探し、どの角度が一番よく見えるだろうか、と研究しながら。


 ばさばさばさっという羽音がして、Qくんは顔を上げた。本物の鳥がいるのかと思ったのだ。だが、近くに鳥はいなかった。目を戻して、彼は「あっ」と声を上げた。自分の手影絵の鳥を囲むように、影の鳥が何羽も鉄棒の影の上に止まっていた。

 しかし鉄棒本体の上には何もいない。

 驚いたQくんは組み合わせていた手首を解いてしまった。その途端、影の鳥たちは一斉に羽ばたき、消えていった。

 

 両親にその話をしても、信じてはもらえなかったが、彼は今でも鮮明にそのときのことを覚えている。


◆ 


 Aさんの友達のTさんの家には、ぺらぺら様がいるらしい。ぺらぺら様が家の中を自由に動けるようにするため、ドアをぴったり閉めてはいけないそうだ。もしぴったり閉めてしまい、ぺらぺら様が動けなくなると、大変恐ろしい事が起こるという。それがどんなことなのか、具体的にはわからないが、家族皆で遵守しているルールなので、Tさんも気をつけているというのだ。

 

 初めてTさんの家に遊びに行ったとき、それを聞かされたAさんは、いたずらを思いついた。トイレから帰ってきたとき、Tさんの部屋のドアをぱたんと閉めたのだ。Tさんは、ゲームに夢中になっていたが、音で気付いたのか、さっと顔を青くして「ドアを開けて」と鋭く言った。なにをそんなに慌てているのか。どうせ、迷信、あるいは僕をからかってやろうという魂胆なのだろう。Aさんはにやりとして、Tさんに向けて、肩を竦めてみせた。

 

「ほら、なにもいないじゃないか」


 ドアに向き直り、Aさんはぎょっとした。ドアの下にある隙間から、黒くて薄っぺらいものが侵入してきて、蜘蛛の足のように枝分かれして立ち上がると、がりがりと床を掻くではないか。

 悲鳴を上げたAさんを突き飛ばして、Tさんはドアを開けた。その向こうの床に、ぺっとりと水たまりのような黒いものがあった。その黒い影は、穴に逃げ込むネズミのように俊敏に、さっとTさんの影に同化したのだ。

 

 それ以来、AさんはTさんと遊ばなくなった。Tさんとは気まずくなってしまったが、仕方がない。だがぺらぺら様のことは、誰にも話していない。

 ぺらぺら様の祟りかどうかはわからないが、帰り道で転んで大怪我をし、あのときのことを話してはいけないのだと思ったのだ。


◆ 


 Fさんは、着物の絵付けを生業としていた。ある日、お金持ちから、これと同じ柄の反物を作ってくれと、古い着物を渡された。上等な色打掛だったが、黒っぽい大きな染みと裂け目があって、着用には耐えられない状態だった。はっきりいって不気味な依頼で、Fさんは断ることにした。やんわりと、まったく同じものは作れないという理由を持ち出して。

 すると、お金持ちは涙ながらに語った。事故があって、一人娘が亡くなってしまったのだと。

 事情を詳しくは聞かなかったが、目の前でほろほろと初老の夫婦に泣かれては、寝覚めが悪い。仕方なく、Fさんはその着物に似たものを作ることにした。

 

 着物を受け取ってから、何日か経ったその晩、Fさんは、深夜まで作業をしていた。衣紋掛けにかけた汚れた着物の向こうに、ろうそくの明かりでゆらゆらと人影が映っているのに気付いたのは、一息つくため筆を置いたときだった。人影は、髪を結い上げ、襟抜きのされた着物を着ていて、袖を顔にあてている。泣いているように見えたという。


「もし。今にその着物に負けないくらい美しいものを仕上げて差し上げますからね」


 話しかけると、人影はすうっと消えた。依頼の品が仕上がるまで、毎夜のように人影は現れ、Fさんが声をかけるまで打ちひしがれたように、むせび泣いた。


 やがて、品物を引き渡す日が来た。お金持ちの夫婦は、泣き笑いで新しい反物と、汚れてしまった色打掛を抱えて、Fさんに何度も礼を言いながら、辞去した。同じ依頼を他の絵付師何人かにしてきたらしいのだが、みな途中で作業を投げ出してしまい、誰一人として完成させてくれなかったのだという。

 そのとき初めて聞かされた事情に、Fさんは、もっと早く言って欲しかったと思ったが、夫婦の影法師を追いかけるように、髪を結い上げ打ち掛けを羽織った人影が地面を滑っていき、門扉を出るとき、ぺこりと一礼したので、不平不満は飲み込んだのだという。



 Xさんは、幼い頃から何度か、同じ夢を見てきた。同じというのは正確ではない。ひとつの夢の続きを、思い出したように突然見ることがあるのだという。

 夢の中で、Xさんは誰かと一緒に走って逃げている。場所は家の近所の道、行ったこともないようなどこかの森、なにもない廊下、よく行くショッピングモールの中と、規則性はない。ただ、なにかに追いかけられて、必死に逃げているのだ。

 

 最初にその夢を見たとき、手を繋いで一緒に逃げていたのは、おじいさんだった。息を切らして逃げ惑っていると、おじいさんは諦めたように足を止め、Xさんの手を離してしまう。そして後ろにいるなにかに、ぱっくり頭から食われてしまった。Xさんは、なにかがおじいさんを咀嚼し足を止めている間に、逃げおおせたのだ。

 

 翌日の昼過ぎ、入院していたおじいさんが亡くなった。

 

 次に一緒に逃げたのは、近所のおじさんだった。学校帰りによく行きあって、挨拶をする程度の関係だ。手をつないではいなかったが、二人して後ろを気にしながら走り続けた。おじさんは足をもつれさせ、転倒し、うしろのなにかにつま先からじわじわと飲み込まれてしまった。咀嚼しているそのなにかの姿を見極めようと目を眇めても、正体がつかめない。霞のように黒い固まりが、黒いハエのように膨らんだり集まったりしているように見える。じっくり観察している暇もなく、Xさんは逃げ出した。

 

 翌朝、学校へ行く途中、救急車がそのおじさんの家の前に停まっているのを見た。数日後、喪服を着た奥さんが意気消沈した顔で車に乗り込むところも。

 

 次の夢の共演者は、おばあさん、その次は、校長先生だった。そして、そのどちらも、夢を見た次の日に、亡くなった。

 おそらく、夢であのなにかに食われた人は、現実でも死んでしまうのだ。

 

 あるとき、Xさんはまた逃げていて、隣には誰もいなかった。背後からは、耐え難い圧迫感が追ってくる。あれが近付いている。肌でそれを感じていた。そこは誰もいない遊園地で、錆の浮いた手摺や、中身がなくて崩れ落ちた気ぐるみが放り出されていたり、音程のずれたメリーゴーラウンドの曲が流れていて、廃墟じみていた。

 息が上がって足がもつれる。逃げ場がなくなり、コーヒーカップの回転台を突っ切ろうと、手摺をまたいだそのときに、右足首に激痛が走った。持っていかれた、と悟った。そして、バランスを崩し、黄色の塗装が剥げかけ赤く錆びついた金属の床に、強かに額を打ち付けた。

 

 衝撃で、覚醒した。目を瞬かせると、白っぽい天井が広がっていた。周囲には、ビニールのカーテンが吊るされて、奥で規則的に波形を描く機械が可動していた。

 

 Xさんは、仕事中に意識を失って倒れ、手術によって一命をとりとめた。しかし、右足には麻痺が残ったそうだ。

 次にあの「なにか」に追われる夢を見た時は、足が不自由になった今、きっと逃げ切れないでしょうね、と彼は語る。



 長らく、Iさんは上司といわゆる不倫関係にあった。十歳上のその男性は同い年の奥さんと結婚十五年目だった。奥さんは儚い印象の美人で、お見合いのとき一目で気に入って結婚を決めたが、一緒になってみると気も利かないし話もつまらないし、いつも言いなりなので飽きてしまったのだとか。

 

 Iさんは結婚願望は特にないから楽しければいいと思い、関係を続けていたが、相手の男性を特に魅力的だとは思っていなかった。そもそも自慢話ばかりでつまらない。ただ、稼いではいるので、デートや食事は豪華だし、プレゼントもたくさんくれるのだ。その点だけは魅力的と認めてやってもよかった。

 ただ、上司のプレゼントはあまり趣味が良くないので、数度身につけたらたいてい売り払ってしまった。ある時もらった真っ赤なストールなんて、けばけばしすぎてIさんの好みではない。奥さんにも同じものを贈ったら喜ばれたからと言う理由で、買ってくれたのだが、十歳も年齢が違うのだから、考慮してほしいと思った。それでいてもしこれが奥さんにバレたら私は刺されるかもしれないと、他人事のように思いもした。ハイブランドのそれも、一度お義理で身に付けて、こっそり手放したのだった。

 

 ある日、Iさんは上司が自宅マンションから帰ったあと、カーテンを閉めようとして、ふと窓の外を見た。八階から見下ろすエントランスの前、オレンジ色の街灯に照らされて、女の人が立っているのが見えた。黒くて長い髪、淡い色のコート、足元はやはり淡い色のパンプス。大雨でずぶ濡れになっているのに、その人はじっとこちらを見つめていたのだ。距離があるので詳細はわからないが、なんとなく、上司の奥さんに似ているなと思った。赤いストールを巻いていたからだろうか。遠目でもはっきりわかる、きつい赤色のストール。彼女の柔らかい色でまとめたコーディネートには差し色というにも強すぎるそれが、どうしてか、上司が彼女とIさんに贈ったストールに見えたのだ。

 

 その日から毎日、仕事から帰ったとき、あるいは上司が帰った後、暗くなってきたときにカーテンを閉めようとその窓に近づくと、女性が佇んでいるのが見えた。服装はつど違うが、同じ人だ。淡い色の服を着て、雨でも雪でも深夜でも、ぽつんと街灯の下に立っている。首には、赤いストールを巻いているのだ。

 一度、上司に問うた。奥さん、毎日家にいるの、と。上司は基本的には、といぶかしむ顔をして返答した。

 

 初めてその女性を見た日から一月後、Iさんは上司との関係を終えることにした。

 その女性のことを、友人におもしろ半分で話したら、それって生霊ってやつなんじゃないの、あんた恨み買ってるから殺されるよ、と真面目な顔で諭されたのだ。だが、生霊が怖くて、関係を清算したんじゃない、とIさんは言う。むしろ、あれが本当に生身の奥さんで、毎晩毎晩ああやって見張られてるのかと思ったら、そっちの方が怖くなったのだと。触れもしない生霊なんかより、包丁持って襲ってくるかもしれない相手のほうが、切実に怖い。刺されてまでほしい相手でもないし。

 

 上司と関係を断ってしばらく経つが、もうあの女性を見ることはないそうだ。


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