その14
Kさんの住む町には、有名な銭湯がある。昔ながらの、庶民的なつくりのそこには、これぞ銭湯と名乗りを上げんばかりの富士の絵が、壁一面に描かれている。天辺を雪化粧で白くして、堂々とした青い威容を見せる富士。しかしその富士、ときおり赤く染まることがあるのだとか。そして、その富士が色を変えた翌日は、なにか大きなことが――良いことも悪いことも――起こるのだという。
実際、Kさんも子供の頃一度だけ、富士が赤く染まるのを見たことがあったのだが、その翌日、隣の県で記録に残る大火事があった。
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通勤電車がトンネルを通過する、その約十二秒間、Aさんは目を閉じることにしている。行きはともかく、帰りはどの電車に乗るか、残業の都合で変わるのに、トンネルに突入するといつも必ず目が合う人がいるのだ。その人は、窓の外、あるいは天井、もしくは席の下にある暖房器具の隙間に潜んでいて、べったり濡れた黒い髪を白い頬に張り付かせ、赤いワンピースをまとっている。
たまに、帰りのラッシュに当たって、押し合いへし合いでバランスを崩し、ぱっと目を開けたりすると思わぬところに彼女がいる。自分のスーツの上着にしがみついて、青白い顔をじっと向けていたこともあった。白目のない黒い目が、ねっとりと見つめてくるその視線に耐えるのが辛く、Aさんはなるべくきつく目をつぶってその時間をやり過ごす。
入社四年目にして県外転勤になり、都内の支店に配属されたAさんは、今、仕事を辞めるか悩んでいるのだとか。地下鉄での通勤で毎日彼女と目があうのが、精神的に苦痛だから。
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Cさんは、会社のシステム管理部門に所属している。社内のコンピューター関連のことを担当しているのだが、パソコン関係だったら全部システム管理部にという不文律があるため、配線からシステムメンテナンスまでこなす日々を送っていた。
ある日、朝一番でトラブルが発生した。ネットワークがつながらない、というのだ。
あちこちでいろんな人のパソコンをひらいて確認し原因がわからず、物理的にコードを抜き差ししてようやく、OAフロアの下にある配線自体が駄目になっているらしいということに気付いた。旧社屋では、二重床になっていなかったので社員の誰かがコードにつまずいて断線したり、引っこ抜けたりという事故が多発していたが、半年前、新築した新社屋に引っ越してからはなかったトラブルだ。コード自体が経年劣化でもしていたか、一体どうして。不思議に思いながら、タイルカーペットを剥がしていく。後輩がひとり手伝ってくれた。
「ネズミ、ですかねえ」
コードは途中でざっくりちぎれていた。刃物で切ったような感じではない。引きちぎられたようにも見える。
「おいおい。まだ築一年経ってないんだぞ」
喋りながら、床の下に新しいコードを這わせていく。金属製の短い柱で支えられた床と、下のコンクリの床の隙間は十五センチほどだろうか。それでも腰をかがめて作業をしていると、腰が痛くなってきた。
いったい、何が原因でちぎれたんだろう。疑問に思いながら、後輩にコードの端を手渡したとき、薄暗い床下に、すうっと動くものを見た。
まさか、あるわけない。疲れ目のせいで、なにかと見間違えたんだ。そうは思ったが、どうしてもそのとき見えた影が、ぺったり床に張り付いた女のようで――以来、床下を見る時は必ず、誰か一緒にいてもらうようにしている。
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Aさんのアパートは、玄関に集合ポストがなく、各部屋のドアに付けられたポストに郵便物を入れてもらう作りになっている。そんな彼女の部屋にその日、気味の悪いチラシが投函されていた。質の悪い、インクジェットプリンターで印刷されたとわかる、手作り感のあるチラシだ。モノクロ印刷、『呪い方、教えます』のタイトルに、トカゲの干物なのかヒトガタなのか判別できない、変な絵。お困りの方、憎い相手がいらっしゃる方、まずはご連絡をと書かれた、怪しい――見ようによっては面白い――チラシである。
ろくに内容も読まずに、Aさんはそのチラシを捨てた。
しかし、翌日も、その翌日もそのチラシは投函されていた。バイトが終わって家に帰り、ポストを確認すると、必ずそのチラシが入っているのだ。何度も何度も。さすがに嫌悪感が強まって、彼女はアパートの管理会社に連絡した。『宗教勧誘お断り』のレッテルをもらったので、それをドアに貼った。
だが、その翌日も、チラシは投函されていた。管理会社に再度連絡し、防犯カメラを仕掛けてくれないかと頼んだが、大家さんと相談するからと、保留にされてしまった。
頭にきたAさんは、翌日、誰が投函しているのか見張ることにした。ちょうど講義もバイトもない日だ。1Kの部屋で、居室とキッチンを隔てるドアを開け放ち、玄関のドアの外で誰かが動く気配がしたら、覗き穴から外を見る。
しかし、その日は、郵便局の人が役所の手紙を一通持ってきただけで、他に誰も来なかった。タイミングが悪いなあと、Aさんは落胆しながらポストを開けた。
『呪い方、教えます』のチラシが、そこに入っていた。
それからというもの、Aさんはチラシを入れていく犯人を探すのはやめた。チラシをそのままポストに入れておけば、追加されることがないという法則に気付いたからだ。気味が悪いが、実害はないので放っておくことにしたらしい。
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学校で流れている噂はただのガセで、根も葉もないものだとGさんは高をくくっていた。告白とリンチの定番スポット・体育館裏で、前者の告白がうまくいくと、「メグミさん」に呪われるのだという噂。
件のメグミさんは、この学校に通っていた昔の女子生徒で、とある男子に恋をしていた。勇気を出して告白したところ、その男子生徒は彼女を振り、しかもそれをみんなに言いふらして笑いものにしたのだ。傷ついたメグミさんは家に帰る途中、泣きながら下ばっかり見ていたせいで、赤信号に気付かず車道に出てしまい、車に跳ねられ亡くなった。以来、彼女が告白を失敗した体育館裏で、恋が成就すると、様々な不幸に見舞われるようになった、という。
Gさんは、はっきり言ってモテたので、これまでも何度となく男の子たちから告白されたり、デートのお誘いを受けてきた。ただ、体育館裏に呼び出されての告白というシチュエーションは、初めてだった。草がずいぶん伸びていて、虫もいそうだし、足元はぬかるんでいるし薄暗いし、告白にはあまり向かない場所だと思う。正直、相手が気になっていたSくんでなければ、絶対に顔を出さなかっただろう。
Sくんが、ちょっと緊張した様子で、当たり障りない取っ掛かりの話題を口走る様子を見ながら、Gさんはオッケーしたあと、どこへデートに行こうか、と先のことを考えていた。バスケ部員の彼は背も高くいかにも爽やかな好男子なので、手をつないで駅ビルの中を冷やかして皆に見せびらかしてもいい。得意顔できるし。
心中でほくそ笑んで、ふと、じっとり張り付く視線を感じ、Gさんは周囲を見回した。Sくんはクラスで人気のある男子だから、物見高いクラスメイトが覗きにきているのではないかと考えたのだ。
視線の主を見つけた。体育館の大きな引き戸の隙間から、じっとこちらに向けられている目がある。張り付くようにして、戸に手を掛け、じっくり行末を見つめている。
誰だろう、女子か男子かわからないけれど、そんなに人の告白シーンが気になるのかしら。なんなら全部見ていっていいのよ、どうせ明日には噂が駆け巡っているだろうから。
そんな得意な気分になったのは、束の間だった。ふと下に向けた目に飛び込んできたのは、薄っすら開いた戸の隙間から、コンクリの外廊下へ流れ出す黒っぽい水。つうっと、こぼれていくそれが、夕日の加減で血のような赤に見えた。その水がなんなのか、縦に目が並んでいるのはどうしてなのかなどと考えだすと、じんわり脇の下に嫌な汗が滲んできて、Gさんは、「悪いんだけど、今、誰かと付き合うつもりないの」とSくんの言葉を遮った。
本当は、Sくんと付き合ってみたかったけれど。恋愛なんて命あっての物種で、怖い思いをしてまですることじゃないから、というのがGさんの持論だ。
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Tさんは、大学へ向かうバスに乗るため、バス停にいた。都心では数分に一本来るだろうバスも、二十三区外の市であるここでは、二十分に一本がいいところだ。運悪く土砂降りの雨に見舞われて、下ろしたばかりのチノパンの裾が泥で汚れてしまった。バス停には、透明なルーフがついているので、傘を差さずにいられるが、まだまだ降り止む様子のない暗い空と打ち付ける雨粒に、辟易していた。待ち時間が長いので、ベンチに座る。
早足でバス停にやってきた人物がいた。ダークグレーのスーツを来て、ネクタイを締めた中年の男性だ。いかにもサラリーマンという出で立ち。黄色いワンピースの女の子を連れていて、ルーフの中にさっと入ってきた。三つ編みを二本肩に垂らした女の子は、十歳くらいだろうか、エクボの可愛い子で、Tさんと目が合うとにこっとした。子供が好きで、教師を目指していたTさんも、つい笑い返していた。人見知りしない子なのだろう。
時刻表を確認した男性が、舌打ちした。Tさんと目が合うと、バツが悪そうに苦笑してぼそぼそと言い訳した。
「すみません、実は今、家内が産気づいてて。大急ぎで仕事を抜けたんですがね」
「次のバス、十五分後ですもんね」
「そうなんですよ」
深い溜め息をついて、男性はベンチに腰を下ろした。Tさんと少し距離を開けて。その向こうに女の子もちょこんと座った。男性はそわそわと携帯電話を見たり、腕時計を確認したりしている。
二人目か、三人目かわからないけれど、やっぱり奥さんが出産となると、旦那さんも慌てるのかなあと、まだ結婚の予定のないTさんはぼんやり思った。
バスが来て、女の子が誰より早く立ち上がった。Tさんは笑って、男性に先を譲った。そうしたところで、到着時間が早くなるわけではないのだが、気分の問題だった。男性はきょとんとしたが、じゃあ、と不思議そうな顔をして乗り込んだ。
定期を取り出して運転手に見せながら、Tさんはおやっと思った。男性は、ICカードを認証させたが、人数を変更しなかったのだ。運転手も、女の子について何も言わない。女の子はさっと奥の空いていた二人席に歩いていって座った。運悪く、空いている席はもうそこしかなかった。
立つために、ポールのあるところで立ち止まったTさんに、あの男性が小声で言った。
「こちら、空いてますよ」
Tさんはきょろきょろした。我先にと椅子に座ったはずの女の子が見当たらない。車内のどこにも、だ。まさか運転席の衝立の向こうに隠れていることはないだろう。
なんだか狐に化かされたような気になりながら、Tさんはおずおずと男性の隣に腰をおろした。やはり、女の子はいなかった。
バスが走りだして、すぐに、隣の男性が溜め息をついた。とくに親しいわけではないが、挨拶を交わした仲だしと思い、ちらりと視線をやると、彼は苦笑していた。携帯電話を持って。
「残念ながら、生まれてしまいました。立ち会いたかったんだけどなあ、初産だし。女の子だそうです」
はあ、と間の抜けた返事をするTさんに、男性ははにかんだ笑顔を向けた。性別は生まれるまで聞かないようにしてたんですよ、と。