その13
ボーイスカウトのイベントで、Nくんは隣の町の河原でキャンプをした。一日が終わり、お風呂に入れないことを不満に思いながらも、テントの中の寝袋で横になると、すぐに眠気がやってきた。一日歩きまわっていたのでくたくただったのだ。
夜中、同じテントの男の子の悲鳴で、Nくんは目を覚ました。そして、テントの幕をみてぎょっとした。たくさんの人影が映っていた。みんな、転びそうになりながらも、必死に逃げていく。男の人、女の人、子供、老人。服の形が古く、着物のようにも見えた。彼らは何人も横切り、唐突に消えた。
翌日、その話を別のテントの上級生にすると、彼はこともなげに答えた。戦争中、みんな近くの壕に逃げ込んだけれど、残念ながら助からなかったらしいよ、と。だから、ここでキャンプすると、たまに見えちゃうんだ。
◆
「お客様、恐れ入りますが入り口のマットのご使用をお願いいたします」
申し訳なさそうに、店員にそう言われることは、たまにある。そのとき、Rさんは、ああしまったと思うそうだ。
雨の日、雪の日、あるいは霜の降りた日など、地面がぬかるんでいるときには、なるべくお店には行かないようにしている。たくさんの人が出入りして、特にそういうことを気にしないようなお店――たとえばホームセンターや、ファミレスなんか――では、あまり注意されないが、こんなふうに、ぴかぴかに床を磨き上げたセレクトショップなんかだと、店員に指摘されたり、露骨に嫌な顔をされる。もちろん、店員が悪いわけではない、とRさんは理解している。ちなみに、自分も悪くない、と思っている。
これは体質に近いもので、自分でコントロールできないのだ。予防策もいまのところ思いつかない。だから、なるべく足元の悪い日は、お店に入らないことにしているのだ。
無数の足跡が――どれも裸足で小さなものだ――べたべたと付いてしまったタイルを踏み越えて、店員に謝りながら、Rさんは店を後にした。
◆
Dさんは、向かいのアパートの部屋の電気が、夜中にちかちかしていることが気になっていた。普段、自分が起きているときは自室も明るいので気にならないが、電気を消した途端、道を挟んだ正面のアパートの部屋の明かりが、一定のリズムで点いたり消えたりしているのが気になるのだ。
ぱっぱっぱっ、と短く明滅し、しばらくすると、数秒ついて消え、数秒ついて消え、数秒ついて、消える。そしてまたぱっぱっぱっと短く明滅する。そこで一分程度暗くなったあと、また最初から繰り返すのだという。
あまりにリズムよくそうなるので、電気が切れかけているというよりは、人為的なものではないかと思う。かといって、お向かいのアパートの見ず知らずの人に、やめてくれないかと頼みに行くのは気が引けるので、結局、遮光性の高いカーテンを導入することで、その問題を解決した。
快適に眠れるようになってしばらくし、恋人が遊びに来た。カーテンが変わっていることに気付いた彼は「模様替えしたのか」と言ったので、Dさんは何気なく事情を語った。すると、恋人は真剣な顔になった。
「それは、SOSの信号のリズムじゃないか?」
ぎくりとしたDさんは、少し悩んだが、恋人に着いてきてもらって、向かいのアパートの様子を見に行った。もしなにか、住人が本当に危機的な状況に陥っていて、誰かに助けを求めていたのだったら――拉致監禁されているとか、DVにあっているとか、あるいは病気で動けないのだとか――そういう想像が膨らんでしまって、落ち着かなかったからだ。
それは夕方のことだったのだが、件の部屋を道から見上げると、人が住んでいる様子がないどころか、カーテンもない素通しの窓ガラスの向こうに見えた天井には、照明器具のたぐいは一切ついていなかったのだ。
◆
Fくんのおじいちゃんの家は、とても古くて、お風呂の壁もタイルではなくて木だった。もちろん、旅館などにある風流な「総檜」などではない。風呂釜は新しくなっていて――とはいえ、いわゆるバランス釜というもの――壁だけが、水とカビで変色した木なのだ。
小学生のFくんは、おじいちゃんとお風呂に入っているとき、気になっていた壁の穴に指をいれてみた。虫食いなのか、もともとその板の癖だったのか、子供が指を入れられるような穴が空いていたのだ。
虫が住んでるかもしれんぞ、というおじいちゃんの言葉が気になった。Fくんは虫が大好きな子だったからだ。ここに住んでいるのはどんな虫だろうとわくわくしながら、人差し指をさしこんだ。意外と穴は深くて、第二関節近くまでずぼっと入ってしまった。
Fくんはぎょっとした。
「噛まれた!」
大慌てて指を引っこ抜いて、おじいちゃんに見せたら苦笑された。
「ムカデでもいたか」
「違う、なんだか柔らかかった。痛くない」
「あとで、懐中電灯で中を照らしてみたらいい。虫なら光に寄ってくるから、出てくるかもしれんぞ」
言われたとおり、お風呂を終えた後、懐中電灯で穴を照らしてみたけれど、何も出てこなかった。
その晩、お母さんとお父さん、それからFくんと生まれたばかりのFくんの妹は、四人で並んで蚊帳の中で寝ることになった。
寝る前、お風呂であった出来事をお母さんに話したところ、「いやだ気持ち悪い」と渋い顔をされてしまった。お父さんに聞いてほしかったが、お父さんは長い運転で疲れていたのか、もうとっくに夢の中だ。
しかたなく、Fくんは、お母さんがうちわで風を送ってやっている妹の横にごろりと横になって、ふわふわのほっぺたをつついた。すると、妹は、お乳と勘違いして、Fくんの指先にちゅうちゅうと吸い付いてきた。
Fくんは、思ったそうだ。お風呂の壁の穴で感じたのと、よく似ている、と。
◆
Cちゃんはちょっと鬱陶しい子だった。わざと、人が嫌がることをやる。そして、嫌がられるほど燃えるのか、どんどんエスカレートするのだ。
あの日は一斉清掃の日で、Cちゃんのクラスは体育館裏の草むしりの担当だった。おしゃべりしながらも、女の子たちはせっせと草をむしっていたのだが、それに飽きたCちゃんが、Qちゃんの真似をはじめた。
やった、大きいの抜けた、とQちゃんが言えば、何も取れてないのにCちゃんまでも、やった、大きいの抜けた、という。Qちゃんが、真似しないでといえば、Cちゃんもまた、真似しないで、という。
虫は出るし、腰は痛いしでいらいらしている子もいて、そんな子にはCちゃんの態度は相当腹立たしいものだったらしい。
「Cちゃん、いい加減にしなよ」
きつい調子でそう注意すると、Cちゃんもまったく同じことを言った。女の子たちは、そっぽを向いて、Cちゃんのことを無視した。相手してくれる人がいないとわかったCちゃんは、別のグループに行って同じことを繰り返した。
ところが、掃除が終わるころ。Cちゃんは顔をぐしょぐしょにして泣いていた。先生に叱られているのだ。あまりにしつこいから、誰かが報告したらしい。さすがに先生に叱られたらやめるかと思いきや、彼女は先生の真似まで始めた。
「いいですか、先生が真面目にお話しているのに、真似をするのはおやめなさい。叱られて泣くほど悲しいなら、なおのこと」
「いいですか、先生が真面目にお話しているのに、真似をするのはおやめなさい。叱られて泣くほど悲しいなら、なおのこと」
先生が眦を吊り上げても、Cちゃんは同じことを繰り返した。泣きながら。なんだか様子がおかしいなと思いつつ、みんな、先生に話しかけるのを躊躇い、泣きじゃくるCちゃんを遠巻きに見ていた。やがて先生も呆れてしまったのか、保護者の方にご報告します、と言って踵を返した。そのときもCちゃんは「保護者の方にご報告します」と真似をした。
その後、Cちゃんはお母さんを呼ばれて、こってり絞られたらしい。
中学生になってから、Cちゃんにあの日のことを尋ねた子がいた。Cちゃんは嫌そうな顔をして、あれは思い出したくない、という。先生に叱られたから、というわけではない。あのときは、どうしてか、真似したくない、もうだめだと思っても、勝手に口が、みんなの真似をしてしまったのだというのだ。
さすがCちゃん、反省してないと言う子もいたし、Cちゃんもバツが悪くてそんなことを言うんだろうという子もいるが、そのことを話すときのCちゃんは、どこか怯えているようにも見えたそうだ。
◆
父とは、亡くなってからのほうが仲がいいんですよ、とQさんは言っていた。
Qさんのお父さんは、大学の教授で、研究と仕事に全力で取り組んでいた。つまり家庭に割く余力はなく、あまりに家にいないものだから、幼いQさんが顔を忘れて、親戚のおじさんだと思っていた、ということもあったらしい。
そんなお父さんは、年のはじめに癌で亡くなった。亡くなるまでも、力の限り仕事に取り組んでいた。Qさんが「少し休んで」と苦言を呈しても、聞き入れもしなかった。
お母さんは既に亡くなっていたので、Qさんがお父さんの遺品を整理することになった。特に大変そうだと思われたのは、書庫だ。元々はQさんが使っていた部屋を、独立後、お父さんが本棚を設置して、書庫にしたのだ。そこには、お父さんが長年かけて集めた、そして選り抜いた本がずらりと並んでいる。
価値がありそうなものは図書館や大学に寄付しようと思って、予めその方法などを調べてから、Qさんは作業に着手した。
お父さんは、分類も好きだったらしい。本棚にはちゃんとラベルがつけられていて、何の棚なのわかるようになっていた。マメな人だったんだなあと感心しながら、Qさんは数冊取り出しては状態のいいものとそうでないものを選別し、箱に詰めた。
ふと、お父さんのデスクに置いてある一冊のノートが目に留まった。読書ノートだった。とはいえ、読んでいるものはほとんどが論文や学術雑誌なので、小説の感想のようなものではない。それでも、ひとつひとつ、覚書がされていた。図表が多く表現が平易なため、理解しやすい、入門編に使える、貴重な写真あり……などなど。
几帳面な文字で、枠外までびっしり埋め尽くされたノートは数冊あって、最終記入日は、最後に入院した日だった。
片付けするときにアルバムを見てはいけないのに。そう思いつつも、Qさんは腰をおろして、そのノートを読んでしまった。父親があれだけ熱意を傾けていた先を、少し知ってみたい気になったのだ。
ページを繰っていた指を止めたのは、小さく、枠外に書かれた文字に目が止まったから。そこには「Qに読ませたい」という文字があった。
背後で、どさり、音がして、Qさんは振り返った。本が一冊床に落ちて、真ん中からぱっかり開いていた。拾い上げてみれば、ちょうど、ノートにかかれていた「Qに読ませたい本」だった。
「お父さん?」
呼びかけてみても、返事はなかったが、Qさんは手を止めて、その本を読むことにした。
以来、Qさんが一冊読み終えるころに、机上に次のお勧めの本が用意されているようになった。ふと気づくと、いつの間にか置かれているのだ。
なんとなく、Qさんは思いついて、本を数冊購入して、お父さんのデスクの上に置いてみたそうだ。すると、翌日、本は二箇所に分けられている。デスクの上に残されたままのものと、本棚にしまわれたもの。おそらく、前者はコレクションに値しないというのだろう。
きっと、父は私にコレクションを捨ててほしくない、価値を知ってほしいと思っているんですよ。そんなことなら、生きてるうちに直接言ってよって感じですけどね、とQさんは朗らかに微笑んだ。