その10
Aくんが言うには、そのときは暗かったから、もしかすると記憶違いかなとは思うんですが、とのことだ。
彼は映画館でポップコーンを食べていた。塩キャラメルソースの、甘じょっぱいやつだ。一緒にいた彼女の好みで買ったのだが、食べてみるとなかなか美味しい。映画の内容があまり好みじゃなかったこともあって、食べるのに集中していて、あっという間に空になった。
つい、いつもの癖で、カップを口に当てて一気飲みするようにして、残っている欠片を掻き込んだ。
まだあまり食べてないのに、とあとから彼女に怒られたらしい。それから、ポップコーンは食べなくなった。彼女に悪いと思ったからじゃない。膨らみきらなかった豆だと思って吐き出した硬いものを、よくよく見てみると、歯肉のついた犬歯だったのだ。
Aくんは驚いて口の中を舌で探ったが、歯が抜けるどころか欠けたところひとつなかった。もう一度手のひらにあった歯を見たが、そのときにはそれはなくなっていた。もしかすると、苦手なホラー映画を見たせいで、ストレスで幻覚でも見たのかもしれないといいつつも、彼はポップコーンを積極的に食べなくなったらしい。
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Kさんは、道で手袋を拾った。白い薄手の革の手袋で、デザインからして女性用だった。両手分落ちていることなんて滅多にないなと思いつつ、あたりをきょろきょろと見回して持ち主を探したが、人気はなかった。近くの民家の塀にぶら下げておいてあげれば、持ち主が見つけるかと思ったが、その上品な感じが気に入って、ポケットに突っ込んで持ち帰った。魔が差したのだ。
一人暮らしのアパートに帰り、コートを脱いで壁に掛けた。手袋をコートのポケットに引っ掛けてみる。コートも着古しているが、手袋が綺麗だからかそれなりに見える気がして、Kさんは満足した。
そして明日、講義へ行くときさっそく着けていこうと決めたのだ。
その夜、とんとんとんというノックの音で、Kさんは目を覚ました。誰だろうと玄関の方を見やったが、よくよく耳を澄ませてみると、音源はそちらではなかった。窓側だ。
寒さ対策で鼻まで持ち上げていた布団の下で寝返りをうち、窓を見た。カーテンの閉まった窓を、白い手がとんとんとノックしていた。出して欲しいというように。Kさんはぎょっとして、目を凝らした。人の手首かと思ったそれは、あの白い手袋だった。左右で交互に、アピールするように窓を叩いている。一定のリズムで。
次にはっとしたときは、もう朝だった。ネコババしたという後ろめたさが、あんな夢を見せたのだろう。Kさんは、大学に行きがてら、昨日手袋を拾った場所に寄り、近くの民家の塀に引っ掛けてきた。
だが、それから一冬、夜ごと、窓を誰かがとんとんと叩く音がして、目を覚ましたという。Kさんの部屋は、三階である。
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同じアパートで同じ階の角部屋が、同じ値段で借りられるというのに、Hさんが別の部屋を借りると決めたのは、そこに残置物のエアコンがあったからだ。いずれまた引っ越すつもりだから、エアコンを自腹で購入して、次の引越し先に設備として置かれていたら、処分にも困るしお金も無駄だ。そんな理由で、他の部屋よりちょっとだけ広くて窓がひとつ多い角部屋よりも、エアコン付きのその部屋を選んだ。
そのエアコンは、まだまだ新しく、外装も最近よくあるつるりとしたオフホワイトだった。センサーも搭載されていて、自分で買ったら高いだろうなあと思った。こんないいエアコンを残していくなんて、前の住人はお金に余裕があったのか、あるいは次に越した先にエアコンが設置済みだったのか、などとよけいなことを考えつつ、フィルターを掃除して、さっそくその恩恵に預かった。
うだるような熱帯夜、Hさんはエアコンのおかげで快適だった。スマートフォンでしばらくゲームを楽しんでいたが、午前一時を回ったころ、寝ることにした。
寝付いて、どれくらいしただろう。異臭で目を覚ました。甘いにおいが部屋中に充満している。なんのにおいかわからないが、かなり強烈だ。吐き気を誘うほど。だが、どこかで嗅いだことがあるような気もする。
窓を開けて眠ってしまったのだろうか。それで外からなにかのにおいが漏れ込んでいるのかと考えたが、窓もドアもしっかり閉まっていた。
鼻をひくひくさせたHさんは、においの元がエアコンだと突き止めた。ちゃんとフィルターを掃除したのになと思いつつ、もう一度カバーを開けた。もしかすると掃除の仕方が悪くて洗剤が残っていたのか、あるいは変な取り付け方をしてしまったのかと。においがむっと強くなり、Hさんは顔をしかめた。
フィルターには、粘つく桃色のなにかが貼り付いていた。ねっとりと、全面に。カビや埃ではなさそうだ。そこから漂うにおいが、学生の頃、実習でやった豚の目玉の解剖のときに嗅いだものに似ていると思い出した。
Hさんは、結局、自分でエアコンを購入して設置したという。
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誰も信じてくれないんだけど、とNくんは言う。小学生の時、夏休みの最終日、ようやく手を付けた宿題が終わらなくて、嫌になってカレンダーの八月三十一日を黒く鉛筆で塗りつぶした。なんとか夜遅くまで粘って、宿題を仕上げ、翌日へろへろになって学校へ行ったのだが、先生に雷を落とされたのだ。
なんと、死に物狂いで仕上げたはずの宿題が、どれも白紙に戻っていたのだ。カレンダーを塗りつぶしたせいだというNくんの主張は、当然先生には受け入れられず、お母さんに報告されてしこたま叱られた。
ただ、Nくんいわく、他に使いみちのない僕の消しゴムが、三分の一まで減ったのは、ドリルを一生懸命やったからであれは夢でも嘘でもないんだ、とか。
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Sさんの上司、O氏が語っていたことらしい。
O氏が事務所でひとり、深夜に残業していると、視界の隅に、誰かの足が映ることがある。紺色のソックスに包まれ、つま先は浮いている。それが向こうのほうでゆらり、ゆらりと小さな幅で揺れているのだ、と。それを無視していると、今度は首筋に冷えて湿った風が当たるようになる。
O氏いわく、数年前に事務所で首を吊ったTさんが、自分を恨んでいるのだとか。
それは、O氏お得意の話題で、飲みの席になると、必ず引っ張り出してくる。部長という立場にあるO氏にはっきり「不謹慎ですよ」と言えるのは、いわゆるお局と言われている事務職のお姉さま一人だけで、その人がいないと絶対にその話を持ち出すのだという。そして、最後に「言いたいことがあるなら死ぬ前に言えばよかったのに」と笑いをとろうとするのだ。周囲は、不謹慎だと思っても、立場があるので指摘できずに、曖昧な返事をしてその話題が終わるのを待つのだという。
Sさんと亡くなったTさんは同期で、特別親しかったわけではなかったが、TさんがO氏の鬱憤のはけ口になっていることに悩んでいたことは知っていた。相談を何度か受け、外部機関に助けを求めるべきだとアドヴァイスをしたが――本音では関わり合いになりたくないと考えていた。ふとした拍子に、O氏の癇癪の標的が自分に移ったりしたらたまらないと思っていたのだ。
いつしかTさんが目に見えて衰弱してきて、病院へ行くようすすめたのだが、その数日後、遺書も残さず、事務所の梁にネクタイを引っ掛け首を吊ってしまった。O氏の机の上で、靴を揃えて。
Tさんの最後の抗議だったんだろうと、同僚たちは噂した。そして、自分がO氏のターゲットにはなりたくないと、口を揃えて言うのだった。
しかし、その後一年もしないうちに、今度はO氏が自宅で首を吊った。O氏の場合は、遺書が残っていて、家庭内不和に悩んでいたのだと書いてあったそうだ。もしかすると、ああやって飲み会の席で不謹慎な話をしてまで関心をひこうとしていたのは、O氏がひっそりと精神的に追い詰められていたからなのではないかと、Sさんたちは話したという。
Sさんは、今でも同じ会社に勤め続けているが、なるべく、深夜にひとりで残業しないように気をつけているという。O氏が亡くなった後、たった一度だが、彼と同じように、靴下のつま先がデスクの上で揺れているのを見たのだ。疲れや、思い込みからくる勘違いの可能性もあるが――だからこそ、一人で深夜残業はしない、ということにしている。
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元サナトリウム――結核患者の療養施設――だったというそのホテルは、清涼な空気と、緑豊かな景色、そして夏でも冷涼な気候に恵まれ、Lさんを満足させてくれた。設備自体は、当時の洋館に似たレトロな雰囲気を残しつつも新しくされており、快適である。内装の、どこかノスタルジックなところも気に入ったし、山の幸をふんだんに使った食事も好ましかった。
別館は、そのホテルがサナトリウムだった当時のまま残っており、資料館として機能している。廃墟好きが見学に訪れる、定番スポットでもある。
Lさんも、その廃墟好きで、ここに到着してから二度ほど足を運んだ。昼間の明るい光が差し込む、ガラス面の大きな窓は、夕方には趣を変える。それに感動して、写真も動画もたくさん撮ってしまった。
惜しむらくは、同行予定だった友人が、親戚に不幸があって来られなくなってしまったことだ。楽しみにしていたのだが。
夜、自室で、昼間撮った写真と動画をチェックして、Lさんはほくほくしていた。また明日の朝、別館に赴いて写真を取りたい。夜にも撮りたいくらいなのだが、閉館されてしまうので、それはできなかった。
SNSにアップする写真を選別するために、写真のデータを再度確認して、首をかしげた。指が写り込んでしまっている写真があったのだ。あった、というより、ほとんどがそうだ。ぼやっとした光が写り込んだり、肝心の建物を遮ったりしている。さっき一度確認した時は、こんなのなかったのに。
拡大してその部分を見て、Lさんはぷつぷつと腕に鳥肌が立つ感覚に見舞われた。
指が写り込んだと思ったそれは、よく見れば、顔のようなものがある。苦しげに口を大きく開けて喘ぐ男に女、老人、子供。
写真は山程撮ってきたが、こんなものが写り込むのは初めてだった。光の加減で変なものが撮れることはある。でも、ここまではっきり人の顔が何枚にも渡って映ることなんて、ありえない。
恐ろしくなって、Lさんはせっかく撮った写真をフォルダごとごっそり削除した。動画もだ。そんなことより、今すぐここから帰りたい気持ちだったが、駅までの移動手段が、ホテルから定時で出る送迎バス以外にない。不安に蝕まれながら、布団を頭の上までかぶり、ベッドの上で小さくなった。
朝まであと何時間あるのだろう。眠気は欠片もない。
長い沈黙に耐えられず、Lさんは布団から手を伸ばして、枕の横に置いたスマートフォンを掴んだ。気を紛らわせるために、動物の可愛い動画を見る。いつもであれば間違いなく廃墟の写真を見ていただろうが、今日はそんな気分にならなかった。
ポメラニアンの子どもがころころ走り回る可愛らしさに、頬が緩み、ようやく人心地ついた。自分の笑った声が、ふ、と漏れた――と思った。だが、その吐息は、断続的に、ふうふう、はあはあと耳元で続いている。スマートフォンの画面をスワイプしていた指が動かない。じっとりと背中に嫌な汗が浮かんできて、Lさんは自由になる目だけ動かし、周囲を伺った。明かりをつけたままなので、くまなく見渡せる。誰もいないはずだ。
だが、自分の後ろからはせわしなく、苦しげな呼吸音が続いている。ひんやりした風が首筋を撫でていく。
瞬きし、その次の瞬間、カーテンの向こうからは朝日が差し込んでいた。電源の落ちたスマートフォンが、枕の横にぼとりと落ちている。Lさんは、全身に強い疲労を感じながら身を起こし、息を飲んだ。自分が頭を預けていた枕の後ろに、べったり、黒っぽい染みができていた。まるで、血でも固まったかのように。
喪が明けて、もしよかったら撮影に行かないかと誘ってくれた友人に、Lさんはもう廃墟の撮影はやめたのだと告げ、以来、そういうところに赴くこともしなくなったそうだ。