43・覚えてる?
憧れの高層マンションは、近づいてみると思っていた以上に大きくて驚いてしまう。田舎者のように高みを見上げた後、私はエントランスへ足を踏み入れた。オートロックの自動ドア近くには郵便受けが並んでいる。端から目を通していくと、運良くあの人の名前を発見。二、三度深呼吸した後、震える指で部屋番号を押して、家主との接触を図った。
「おいで」と言ったのは向こうだ。終電を逃すという条件にも当てはまっている。あれから「もう来るな」とは言われていない。だから、私がここに来たことは悪くない。
待つこと十秒。諦めようかとくじけかけた時、家主の声が返ってきた。
「入って」
広い廊下を進み、部屋を見つけるとインターホンを押す。ドアはすぐに開いた。
「いらっしゃい」
竹村係長は、スーツのままだった。まだ部屋の奥が暗いところを見ると、帰宅直後だったのかもしれない。竹村係長は玄関に立ち尽くす私の手を引いて、中へ誘った。
「あの……」
まず、なぜここへ来たのかを説明しなくてはならない。おそらく竹村係長は、外へ知り合いを放置して近所迷惑することを恐れた結果、私を中へ招き入れたのだろう。すぐに追い出されないように話をせねば。そう思っていたのに。
「まずは、申し開きを聞こうか」
竹村係長は完全に怒っていた。朝の喧嘩の時の比じゃないぐらいの気迫がある。さすがの私も、大の大人の男性にこうも怒気を放たれると涙が出そうだ。
「あの、今日は、家に帰ってから、寒いから、エアコンをつけて……」
「それじゃない!」
怒鳴られてびくっと身体を強ばらせる私。追い打ちをかけるように、竹村係長はこちらへ急接近してきた。怖くて後ずさると背中が壁に当たる。これ以上逃げられない。なのに、この人は近づいてくる。
「こんな真っ赤なの、毎日つけやがって……」
竹村係長は片手を私の脇の壁にドンとつけると、もう片方の手で私の唇をまさぐった。もしかして、口紅のことだろうか。そして、これは所謂壁ドンか?! 頭の中は混乱のあまりお祭り騒ぎ。
「似合ってない……ですか?」
ようやく絞り出した言葉。でもそれは最後まできちんと言い終えることができなかった。
「ん……んんん?!」
薄暗い玄関先の廊下で、ペチャペチャとした水音が響く。何が起こったのか、すぐには理解できなかった。竹村係長が私の唇を貪って、丁寧に舐め上げている。口紅はすっかり取れてしまったことだろう。あの顔が、あの匂いが、至近距離にある。
息の仕方が分からなくなってクラクラする。涙が溢れ始めると、竹村係長はようやくそれを止めた。でもまだ近い。視界いっぱいに彼がいる。
「別にあいつのこと、好きじゃないんだろ?」
「はい」
「俺だって、化粧品買ってやれるぐらい稼いでるのは知ってるか?」
「はい」
「俺が、ずっと付き合ってやるって言ったのは覚えてる?」
「……そんなこと言いましたっけ?」
またキスされた。舌が口の中に入ってきた。ついついうっかり、それに応えてしまう。竹村係長は私の唾液を啜りとって、私は流れてくる彼のものを喉に流す。身体が熱い。すごく熱い。私が私じゃなくなったみたいで不安になる。でも、ちゃんとここにいることが、いつの間にか握られた竹村係長の手の感触で実感できる。
「ずっとこうしたくて、いつも隣にいて、手を伸ばせば触れられる距離なのに、すっごく遠くて。どこにも行って欲しくないのに、いつの間にか離れてて、寂しくて」
もしかして泣いてる?そう思えるほどに、私の肩のあたりに頭を埋めた竹村係長の声は切なげに響いた。それって、もしかしなくても、私に対することだろうか。ようやく顔を上げた竹村係長の唇はぬらぬら濡れて艶めいていて、これまでの人生で体験したことのないような痛みが私の胸元を走り抜けた。
私、なんて馬鹿だったんだろう。どうしてもっと早く、ここに来なかったのだろう。私に必要だったのは、この温もりだったのに。恐る恐る自分の両手を伸ばして、竹村係長の背中に添えてみる。すると、竹村係長がますます密着してくるものだから、私は壁との間でサンドイッチ状態に。窮屈なのでもぞもぞ動いてみると、すっと身体を離されてしまった。
「寒い、です」
竹村係長が離れたからなのか。再び足元から少しずつ元の冷えが戻ってくる。顔の火照りは、まだ取れない。
「エアコン、つけてもらってもいいですか?」
まさか、もっとキスしてドキドキさせてくださいとか、その勢いで抱きしめてくれたらもっと暖かそうですねとか言えるわけもなく。竹村係長は困ったように頭をかくと、こちらをじっと見つめた。
「もう少し、後にしない?」
「私、冷え症なんです」
竹村係長はしばらく口をへの時に曲げていたが、しばらくすると渋々といった体で廊下を歩いていった。すぐに一番奥の部屋に灯りがともる。そして、ピという電子音が耳に届いた。私は断りもせずに、竹村係長の後ろを追う。
「え?」
ブルーグレーで統一された室内。リビングルームらしき広い部屋だ。対面キッチンになっていて、ダイニングテーブルや自作パソコンらしきものまである。窓の向こうには綺麗な夜景。その中央に置かれた大きな黒いソファで優雅に足を組んで座っていたのは……
小百合だった。
「結恵、お疲れ様」
小百合の声の調子はいつも通り。でも、どことなくニヤニヤしている。これ、どうなってるの?!
「お楽しみだったみたいだね。光一も意気地が無いよ。エアコンつける前に、隣にあった寝室に結恵を連れ込めば良かったんだ」
「なんで……知ってるの?」
小百合は、さらりと長い髪を掻きあげて、フンと鼻を鳴らしてみせた。
「エアコンの電源がついていなくても、風の妖はそこにいる。たとえ姿が見えなくてもね」




