後編
ひとしきり遊び終えた凛たちは夕方になる前に海が見えるキャンプ場に戻っていた。近くにある温泉に浸かり、昼間の疲れと塩を洗い流す。焼けた肌に悲鳴をあげ、みんなで笑いあった。今は女子たちが夕食のバーベキューの支度をして男子が火を起こしていた。今日1日でなかなかいい感じになった男女もいて、場の雰囲気も盛り上がる。みんなで支度する料理も楽しい凛はいつもよりもよくしゃべり、よく笑っていた。
「でもさすがに手際がいいね」
裕子の言葉にまぁねとだけ返事をして玉ねぎを切っていく。
「いい奥さんになるよ」
「ありがと」
「まぁ、そのためにはデッカイ障害もあるけどね」
その言葉に裕子を睨むが効果はない。
「え?どういうこと?」
何も知らない中原美星の言葉に凛は渋い顔をし、裕子はニヤリと微笑んだ。
「凛の恋には大きな障害があるのだよ・・・それはもう大きな大きなね」
「へぇ、何々?相手が政治家の息子とか?」
「発想が貧相だよ、美星くん!」
「えー、じゃぁ何?」
「愛を知らない男・・・そんな男に恋する眼鏡巨乳な美女・・・・あぁ、なんというもどかしさ!」
最早自分に酔いしれた芝居を交えての言葉に凛は完全に無視を決め込んだが、美星はますます食いつく。
「ああ・・・愛を知らぬ男に、果たして愛を説くことができるのか!」
「愛を知らないって?」
「まぁ、ようするにそういう感情が欠落してんのよ、神手はさ」
はっきりと凛の好きな相手の名前を口にした裕子に包丁を握った手が止まる。しまったと思った時にはもう遅く、凛は包丁を自分の顔の方へ持ってきてニヤリと笑った。
「死にたいのかな?」
「長生きしたいッス」
顔を引きつらせた裕子が包丁の刃を摘みながらそっと下へと下げた。だが、面白い話を聞いた美星は目をキラキラさせて凛を見つめていた。もう嫌な予感しかしない。
「神手ってあの霊感少年でしょ?でもあの噂が・・・」
「あー、あれはデマね」
「そうなんだ」
「そそ」
裕子はそう言うと凛が切った玉ねぎをボールに入れた。準備が終わった凛は手を洗いつつ包丁とまな板も綺麗に洗う。その間は一切無言だった。
「てっきり凛は未生くんと、って思ってた」
「絶対ないから」
「そうなの?」
「ないねぇ」
凛自らが否定しつつも裕子に確認する美星だが、裕子もばっさり切り捨てる。
「まぁ、神手はそういう感情がないけど、中身はいい男だもんね」
「へぇ、そうなんだ。でもなんでそういう感情がないの?霊感のせい?」
「そうみたい。よく知らないけどさ」
本当は自身もいろいろ経験し、その上凛から相談を受けている裕子だけに全てを知っているのだが、こういうところはとぼけてくれる。だからこそ心を許して相談ができるのだが、いかんせん気を緩めれば口が軽い。それさえなければと思う凛だが、それは性格なのでどうしようもなかった。とにかくこれ以上ボロを出す前に話題を変える必要がある。このままだと同居していることまで話しかねない。凛は火もおこっている方に食材を運び、裕子と美星、それに他の場所で作業をしていた女子たちも集結した。アルコールはいろいろ問題を起こしそう、とりわけ男子が女子に何かをしそうということでなしになっており、全員がジュースを持った。
「じゃぁ、みんな、今日一日お疲れ様!」
来武の言葉を合図に乾杯し、夕食のバーベキューがスタートした。みんなで騒ぎながら食べる食事は美味しく、そして楽しい。普段あまり話をしない者とも打ち解けあい、有意義な時間が流れていった。そうして食事が終わって全員で片づけをし、花火をする。ひと夏の思い出となって強烈に残るであろう今日の日は忘れることはないだろう。その後はバンガローに戻る者や、急増カップルになってその辺を散歩する者にそれを追跡する者など自由な時間になっていた。凛は裕子と万里子と一緒に海の見える場所でジュースを飲みながら倒れた木に腰掛けていた。
「またこうして来たいね」
「私らは同じ大学受験だし、合格したらまた一緒だしね。来れるよ」
「そうだね」
凛の言葉に万里子が賛同し、嬉しくなる。
「凛は彼と来たいんでしょうけどね」
余計な一言は予想済みなために凛は何も言わずに海を眺めていた。その後は他愛のない会話をし、万里子が美星に呼ばれてそっちへ移る。凛はこっちへ来たそうにしている来武を見てため息をつくが、他の女子に囲まれているためにそうそう動けないようだ。それを幸いと裕子を誘い、海へと向かう。長い急な下り坂を下りれば、そこは昼間泳いだ砂浜だった。砂浜と道路の境目に位置するコンクリートの上に腰掛ければ、昼間の熱さが嘘のようにどこかひんやりと気持ちがいい。月に照らされた海の上にその光が道になって広がっている。波の音以外何も聞こえないと思いきや、上の方から声が聞こえた。どうやら急造カップルが襲撃を受けたようだ。そんな声もやがて聞こえなくなり、裕子は持ってきていたペットボトルのジュースを飲んだ。
「最近ちょっと、なんか気持ちが沈みがちだったからいい気分転換になったよ」
海を見たままそう言う凛を見ず、裕子は口元を緩ませた。
「神手かい?」
「ん?んー、それだけじゃないよ」
浦川の死後、凛の元へも芸能関係者からの電話が多く掛かってきていた。それは復帰を求める声であり、事件の真相を聞く声であり、そして噂になっている霊能少年に関する情報を得ようとするものでもあった。インターネットでも色々と噂されており、司の名前こそ挙がらないものの少しばかり正確な情報も含まれていた。凛はあの事件以降、司が除霊に携わることが嫌になっていた。現に司を頼って神社に来る人も多く、それも大抵はすぐに祓える弱い霊ばかりだった。司はいつも笑顔でそれらに対応し、しっかりと除霊を行っている。だが、ここ最近で凛が関わったものはどれも司を危険にさらしているだけに、怖い気持ちが強かった。司を好きでいるための過剰な反応だったが、それでも常に危険は付きまとうのは事実だ。司の心がこれ以上壊れることが怖い。そして、万が一にも命を失うことが怖かった。
「あんたが本気で好きになった相手が、そういう感情がないってさ・・・なんか、こう、笑っちゃうよね」
「笑わないでよ」
「そういう意味じゃなくてさ」
「うん、わかってる」
波が寄せては返す。その音が心を穏やかにしてくれる気がしていた。
「でもキスしたじゃん」
「うん、まぁ、ね」
祭の日、たまたま美咲に凛の居場所を聞いて拝殿に向かえば、その傍でキスをしている2人を目撃した。見事にそれをシャッターに収めたものの司はそれに気づいてピースサインをしていたのだ。
「でも、あれはただ、司君がキスがどんなのかを知りたかっただけだよ」
「そうなの?」
「うん」
「でも興味を持ったってことは前進じゃないの?」
その言葉に凛は薄い笑みを浮かべて首を横に振った。あれは安藤レオナの気持ちが司に流れ込んでの結果だ。浦川を愛し、憎んで生きてきた。そんなレオナが自分と浦川を繋げていたのが体の関係だった。それを感じた司がただキスをすることで本当にそんな風に繋がるのかを知りたくてした結果だった。
「後で聞いたら、そう言ってた」
「そうなんだ」
「でもね、正直、私は嬉しかった。同時に悲しかったけど」
好きな人の気持ちがどうであれ、キスをしたことは素直に嬉しい。だがそこに愛情などない。かといって欲望ですらもない。司にすればただ唇を重ねただけの行為にすぎないのだ。それ以降も何の変化もない。
「未来ちゃんが逃げた気持ち、よくわかるよ・・・だってさ、辛いもん」
「まぁね」
一方通行の恋。そう、自分が進む道はずっと一方通行なのだ。愛の裏返しが憎しみ。いつかは自分も裏返りそうで、それが怖くもあった。
「何の進展もないのは分かってる。でも、不安ばかりが大きくなるしさ・・・好きだからこそ、相手の気持ちが見えないから・・・」
「相手を理解してても、気持ちは揺れるよ」
裕子はそう言うと小さく微笑んだ。凛はもう司しか見えていない。だからこそ、彼の中に愛がないことがはっきりと分かっている。どんなに気持ちを送ろうが、それは届かない。
「でも、私は前進してると思ってるよ」
裕子の意外な言葉にそっちを見る。日焼けしたせいか、夜の闇に黒い顔が浮かんでいるように見えた。
「理由がどうあれ、あいつはあんたとキスしたいと思ったわけでしょ?」
「安藤さんの後で、すぐに私に会ったからね」
「でも、神社には蓬莱さんもいた。あんたよりも付き合いの長い幼馴染がね」
「そこに未来ちゃんがいたら、未来ちゃんとしてたよ」
「違う」
きっぱりとそう言いきった裕子を見れば、目の前に広がる黒い海を見つめている。月明かり以外にまともな明かりはない。月の光が照らす裕子の顔は真剣だった。
「あいつはあんたとしてみたくなったんだよ。確かにキスにどんな意味があるのかを知りたかっただけかもしれない・・・で、結果は何もなし。本当にそうかな?」
裕子の言葉は理解できるが、肯定はできない。自分としてはたまたまそういうものを知りたくなった時に自分と会い、キスをした。それだけだと思っている。
「気持ちがどうであれ、キスをしたいと思った。それってさ、小さな小さな前進だよ」
「でも・・・」
「壊れた心はもうない。でも、新しく生まれる可能性はあるよね?」
裕子はそう言ってそっと凛の手に自分の手を重ねた。
「心が恋を消し去った。自分を守るために、人の悪意を受けないために。消えたものは戻らない。でも、新しく生まれる可能性ってあるよ」
裕子は優しく微笑むとぎゅっと凛の手を握る。凛もまたそっと握り返した。いつのまにか目に涙が溜まっていた。そんな目で裕子を見つめる。
「自信を持て、桜園凛。あんたは可愛いし、いい子だし、胸も大きい。神手司はそんなあんたを好きになる」
涙が頬を伝う。何の保障もない言葉。ただ凛を勇気付けるためだけの嘘かもしれない。それでもその言葉には温かさが込められていた。
「なんなら色仕掛け、しまくってやれ!一緒に風呂に入り、一緒に寝る。キスもしろ」
どんなアドバイスだと苦笑するが、それも素直に受け入れられる。
「相手の気持ちがあいつに伝わるのなら、感じることが出来るのなら、好きな気持ち、いっぱい感じさせてやれ!」
裕子の言葉に大きく頷く。涙が頬を伝わり、それが月の光を浴びて輝いた。裕子はそんな涙を指で拭い、そっと頭を撫でた。
「私は無条件であんたを応援するからさ」
その言葉と気持ちが嬉しかった。裕子と友達でよかったと心底思える。肝試しを機に司を理解し、味方になってくれたことは運命だと思える。
「裕子、ありがと・・・大好き」
そう言って裕子の胸に飛び込んだ。裕子はこけそうになりつつも凛を受け止め、よしよしと背中をさする。月の光は癒しの光と言われている。そんな光を浴びたせいか、それとも裕子は月の女神なのか、凛の心は癒されて、以前よりも強くなっていくのだった。
裕子の言葉のせいか、無性に司に会いたくなる。明日になれば会えるし、勿論毎日会えるのだが、それでも会いたいと思ってメールをすれば、今日は除霊してきた家で焼肉をご馳走になったという報告があった。未来も一緒ということだが、嫉妬などない。相手にそういう感情がないと理解していれば、嫉妬もなかった。それはかなり救いになっている事柄だ。最後に司は土産を期待すると送っていた。かといってお菓子を買って帰るのも変かと思った凛はさっき拾ったうずまきの形をした巻貝の貝殻を持って帰ることにした。食べ物を期待しているであろう司のへこむ顔を想像してニヤついてしまう。それもあって眠気も覚めた凛が時計を見れば午前2時だ。いわゆる丑三つ時、霊が徘徊する時間だった。凛は眠れずにそっとバンガローを後にする。そうして階段状になった玄関先に座った。月が明るさを提供するが生い茂った木のせいか浜辺よりはずっと暗い。背後は森だが、怖くはない。左手に着けたブレスレットを見れば怖さは感じなかった。凛は立ち上がり、移動して食事をした木でできたテーブルと椅子のある場所に座る。そっと指で唇に触れてみた。長い長いキスをした感触は今でもはっきりと覚えている。本当に裕子の言うように自分としたかったのだろうか。そう考えていると背後に気配を感じて立ち上がり、振り返った。
「驚かすつもりはなかったんだけどな」
そこにいた来武にホッとし、薄く笑った。
「悪霊かと思った」
「人間だよ」
以前の来武ならそんなものはいないと突っぱねていただろう。そう思う凛は苦笑していた。
「なんか眠れなくてな」
「うん。私も」
凛はそう言うが、来武に背を向けた。来武もまたそっぽを向く形で立っている。
「前からさ、この夏でって決めてた」
その言葉にかすかに頭を動かす凛だが、来武を見ない。来武は凛の背中を見つめていた。
「何を?」
分かっていてそう聞く自分は意地悪だと思う。それに何かを期待させてしまうような気もする。そう考えていた矢先、背後から来武に抱きしめられた。腕が胸の辺りに回される。予期せぬ行動に硬直してしまい動けない凛がそれを振りほどこうとした刹那、来武が口を開く。
「好きだ」
凛は頭を揺らし、挙げようとした腕も動かないほど固まっていた。
「ずっと、好きだった」
さらに抱きしめる手に力がこもる。密着した背中に当たる来武の胸の鼓動が激しく動いているのが分かった。凛はゆっくりと手を動かしてそっと腕に触れると、あまり力をいれずにそれを解いていく。来武はされるがままに腕を離し、体も離れた。凛はゆっくりと振り返る。束ねていない髪がさらりと流れ、眼鏡の奥の瞳が潤んだように月の光を揺らしていた。綺麗だと思う。
「ゴメン・・・でも、ありがとう」
実に凛らしい簡潔な答えだった。来武はぎゅっと拳を握り締め、まっすぐに凛を見据える。
「神手に出会ってなければ、俺を好きになってくれたか?」
その言葉に静かに首を横に振る。来武は歯を食いしばるようにしたまま凛を見つめていた。中学の頃から凛だけを見ていた。仲はいいという自負もある。少なからず心が繋がっていると思っていた。そう、司が現れるまでは。
「司君と会ってなくても、未生の気持ちは受け取ってないよ」
「そうか・・・」
きっぱりとそう言われては返す言葉はない。だが、もやもやした気持ちは消えなかった。
「あいつは、壊れてるんだろう?」
思わず睨むようにしてそう言葉にした。激しい嫉妬は抑えきれない。自分はこんなにも凛を愛している。なのに凛が好きな相手はそんな心を持っていない。はっきりと聞いたわけではないが、過去の事件のトラウマが原因でそうなったとは知っている。
「そう、壊れてる」
凛はそう言うと来武から視線を外した。来武はそんな凛の左手に光る金色のブレスレットを見つめた。
「なら・・・なら俺にしろ。俺はお前を愛している。絶対に不幸にはしない」
一歩踏み出してそう言うが、凛は来武を見ない。
「そうかもしれない・・・でも、私が好きなのは司君だから」
ここでまっすぐに来武を見た。その目に宿るのは司への愛だった。何がそんなにさせるのか、あいつのどこがいいのかわからない。司は凛のその愛情さえ理解できないのだ。
「あいつはお前に愛を返せない」
「そうね」
「なのにずっと想い続けるのか?」
その言葉に凛は再び視線を外すと小さく微笑んだ。来武にはその笑みの意味が理解できずに苛立ちばかりが募っていく。普通に振られたのなら諦めもつく。だが、相手が司となればそう簡単に引き下がることは出来なかった。
「司君って、素っ気無かったり、すぐ嫌味言うし、人の気持ちを考えないんだよね。まるで子供」
月を見上げる凛はまるで絵のように美しい。そんな凛を見つめる来武は黙ったまま自分へと顔を巡らす愛しい人を見ていた。
「でも、すごく優しいの」
自分には決して見せない笑みが浮かんでいた。愛情に満ちた、恋をした笑顔が。
「嫌だって言いながら、結局最後には一緒に怖い場所に行ってくれる・・・相手が誰であれ、怖い思いをした人には優しく大丈夫だよって声をかけるし・・・受けた恩は必ず返してくれる」
司を褒める凛の言葉に込められた愛情。その大きさに来武は打ちひしがれてしまった。自分が凛を好きな以上に凛は司を好きでいる。それが分かるほどに。
「そんな司君が好きなの」
理屈ではない。司の全てが好きなのだ。屈託のない、子供ような笑顔も。司に出会って人の本当の優しさを知った。芸能界という特殊な場所でもみくちゃにされ、事故で両親や親戚を失った悲しみの中でさえ自分を利用しようとした事務所の社長。そんな社長を利用していた自分。狂った日常の中で心が汚れていた自分を浄化してくれたのが司だ。彼が祓ったのは悪霊だけではない。その汚れさえも祓ってくれたのだ。
「確かに司君は壊れてる。愛も恋もわからない、意味を知ろうともしない。でも、壊れた部分は直らなくても、いつかはまた生まれる」
さっき裕子に言われた言葉は凛の支えになった。だからこそ、もう自分は迷わない。
「たとえ何年、何十年先でも・・・それで無理なら来世でも、生まれ変わってでも、私は司君を元に戻すよ」
そう言い、凛はバンガローへと向けて歩き出した。すれ違いざまにおやすみという言葉を残して。来武はそんな凛を見れずに月を見上げた。横に長い雲が月を半分に割っている。自分は振られたのだ。愛のない人間に敗れたおまけ付きで。自分にもあの能力があればとも思うが、それは自分の持論、超常現象などは科学で解明できるということに反する。凛が司と出会わなければ、廃病院でロケなどせず、わけのわからないものに憑かれなければ。あの朝、司が遅刻をしていなかったら。たら、れば、そればかりが頭に浮かぶ。いつか凛の心が疲れ果て、司から離れた時がくればと思っていた。だが、凛の決意は固い。今生で結ばれなくても来世で、それほどまでに強い想いを抱いている。そこまで愛をもらいながらそれを理解できないなどありえない。そう考えると許せない。司が恨めしい。それは来武の心の中に黒いものが芽生えた瞬間だった。
翌日も午前中は自由に過ごし、昼2時の電車で帰路に着く。そうして凛が帰ってきたのは5時を回っていた。夕方でもかなり暑く、日焼けしたせいで肌が痛い。元気に帰宅した凛を出迎えた美咲はその黒さに驚きつつも羨ましがった。美咲は日焼けすると赤くなるだけで黒くはならない体質だった。母親がそうだったようで、それを受け継いでいるのだ。とりあえず自室に戻って荷物の整理をする凛がキャンプでの洗濯物を持って下に降りれば、買い物から帰ってきた司と出くわした。自然と笑顔になり、顔が赤くなる。
「おうお帰り。また随分と焼けたなぁ」
にんまり笑う司を見た凛は微笑み、両手に荷物を持った司に抱きついた。
「ただいま」
「おい、暑苦しいな・・・離れろよ」
相変わらずの言葉に微笑む凛はさらに体を密着させた。胸が押しつぶされるように変形するがお構いなしだ。
「何の嫌がらせだ?」
「会いたかったなぁってさ」
「どこの子供だよ」
引き剥がそうにも両手の荷物が邪魔をする。仕方なくそれを床に置いて離そうとすれば、凛は司から離れた。司はため息をつくと凛を睨むようにしながらキッチンへと消えた。凛はにんまり笑って幸せを満喫しているとリビングから顔を出して自分を見ている、どこかまぶしそうにしている美咲に気づく。そんな美咲が親指を突き立てれば、凛もまた同じように返した。今日の夕食は野菜炒めになっていた。本当はそうめんにしたかったのだが、昨日がそうめんだったようで却下されたのだ。手抜き料理が続くと怒る信司を想像しての選択であった。
「昨日の焼肉、美味しかったの?」
当番ではないが一応手伝いに来た凛の言葉にその味を思い出したのか幸せそうな顔をしてみせる。
「美味かったなぁ・・・まぁ、でも、半年もろくに食ってない子がいたから遠慮がちだったけどな」
そう言い、昨日の除霊のことを話しながら準備は進む。そこでふとお土産のことを思い出した凛は部屋に戻り、貝殻を手に取った。一応お菓子のお土産も買っているが、それはひとまず置いておく。そうしてキッチンに戻れば司が豚肉を切っている後ろ姿が見えた。不意に昨夜、来武に抱きつかれたことを思い出した。凛は暗い顔をしてみせるが、すぐにそれを消した。包丁を置いた司がフライパンに手をかけるのを見た凛は来武がしたように後ろから司に抱きつくとそっと腕を前に回した。
「お、おい、なんなの?」
「んー・・・なんかこうしたかったから」
「さっきは前からで今度は後ろからとはね・・・フライパンが取れないだろ?」
「嬉しいでしょ?」
「話を聞かないやつだなぁ・・・それにくっつくと暑いって」
「もっと暑くしてあげようか?」
そう言ってさらに密着する。凛がさらに体を密着させると胸の上に回されている腕にも力がこもるので、司は首が絞まるようになってしまった。
「く、苦しいって・・・わかったから、もう、参ったから」
凛の腕を叩いてギブアップを宣告すると、ここでようやく凛は離れた。予想通りというか、司はまったく動揺を見せていない。
「うっし!」
「うっしじゃねーし」
睨む司の前にそっと貝殻を差し出した。何かを言い掛けた司は口を閉じるとその巻貝をじっと見つめてから凛を見やった。
「これ、お土産」
「え?・・・・・・あ、そう」
それを受け取り、手のひらに乗せてまじまじと見つめる。思っていたものと違うリアクションに凛は少し戸惑ってしまった。もっと文句を言うものと思っていただけに困惑も大きい。
「海に行ってきましたって証明なわけね」
「そうだね」
「ありがとさん」
司はにっこり微笑むとそれをテーブルの上に置いて料理の続きに入る。凛は素直に受け取ってくれたことが嬉しくてもう一度背後から抱きつき、またも司に怒られた。そうこうしていると信司も帰り、夕食となった。
「司、昨日の除霊はうまくいったのか?」
昨日は帰ってきたのが遅かったのもあり、信司は司と顔を合わすことがなかったのだ。昨日、除霊の後は家にも霊的防御を施し、簡単なアドバイスも送っていた。そうして理恵の父親も帰宅して礼を言われ、その後はすぐ近くにある焼肉店へと向かったのだ。もちろん理恵は胃にやさしいものを食べるだけだったが、未来と司はがっつりと食事を楽しんだのだった。
「問題ないよ、完璧に終わらせた」
「そうか。真帆さんからの依頼だからな、失敗は考えてなかったけども、ちょっと気になってた」
「あ、そう」
信司の言葉も半分しか聞いていない風な司は食べることに必死だった。
「でも初めてだったよ、あんなお化けみたいなの」
「お化け?」
司の口から出た珍しい言葉に凛が反応した。大抵の霊を見てもそう驚かない司が珍しくそういう風な感想を口にしたからだ。
「霊の集合体だったんだよな。100は合体してたなぁ」
その言葉にどんなものか想像もできないが、なにか気味が悪いのは確かだ。自分に霊力がなくて良かったと思う凛だったが、海で感じた司の気配を思い出していた。
「そのせいかな?私、海で司君を感じたよ・・・なんかこう、近くにいるような・・・」
その言葉に信司と美咲は目線を交わしてニヤリと微笑む。信司と美咲の理想としては、司が感情を取り戻して凛と結婚し、みんなが本当の家族になることだ。可能性は完全にゼロだが、それでも理想は理想として掲げていた。
「あるかもな」
「これのせい?」
そう言って左手のブレスレットを揺らした。司は頷くと、そのブレスレットが自分の霊圧に反応した可能性があると指摘する。
「俺も凛を感じた気もするし」
その言葉にますますニヤけた顔を見合わせる信司と美咲。今の司の発言から可能性はゼロから、限りなくゼロに近いに昇格だ。
「そ、そうなんだ」
照れた顔をする凛はそれを隠すようにお茶を飲む。あからさまに照れた凛を可愛いと思う信司だが、味噌汁の入ったお椀を持つ司の顔は至って普通だった。
「泣き顔だったけどな」
「泣き顔?」
その言葉に凛はコップを置き、信司と美咲は怪訝な顔を司に向けた。何故泣き顔の凛が浮かんだのかは司にもわからない。その辺の記憶は曖昧で、ほとんど忘れてしまっている。ただ、何故か凛の泣き顔が浮かんだことだけは鮮明に覚えていた。
「ほら、前にお前が俺の部屋でさ、俺の手を胸に当てたじゃん?」
その言葉に信司は箸を落とし、美咲は驚いた顔をしてみせる。凛は激しく動揺してそんな2人を見つつ顔を赤くしていた。そんな3人に対してお構い無しに言葉を続ける。
「パジャマめくって胸に手を置いたとき、泣いただろ?あの時に見た顔だよ」
そう言って味噌汁を口にする。凛は顔を真っ赤にしつつ弁解しようと信司を見れば、顔を伏せて肩をわなわなと震わせていた。
「司・・・・」
「ん?」
「お前!凛ちゃんの胸を触ったのか!」
突然立ち上がった信司はいつになく怖い顔を司に向けていた。そのあまりの顔に凛は驚き、美咲も呆然としている。司は味噌汁の器を置くと不満そうな顔を向けた。
「触ったっていうかさ、凛が自分で俺の手を取ってパジャマの下に・・・」
「つ、司君っ!ち、違うんですよ・・・あの・・・そうじゃなくって」
「違わねーじゃん。パジャマの下に俺の手をやってさ、胸に当てて泣いたじゃん」
女性の体も男性と同じ、人の体でしかない司にとってそれは気にする事柄でもない。平然とする司に焦る凛が信司を見れば、信司はじっと凛の胸を見つめていた。
「結局、お前はあの凛ちゃんのおっきな生乳を触ったんだろう?」
「お父さん、言い方が最低だよ!」
「ぐう・・・なんという、うらやまけしからん!」
「マジサイテーだよ」
美咲は心底軽蔑した顔をして野菜を食べた。場の空気も最悪である。
「お前の手が何かしたから凛ちゃんが泣いた・・・そうだろう?」
司から凛へと視線を変える信司にため息をついた凛はそうではないと首を横に振った。
「ち、違うんですよ・・・その、本当に何も感じないのかなって、実際そうで、それが悲しくて・・・」
「ほれ、俺は関係ないじゃん」
「お前、関係大有りだろ!・・・あれだけの大きな生乳を触った上に何も感じず凛ちゃんを泣かすとは!」
「もうね、最低の中の最低だよ」
睨み合う司と信司を無視してそう呟く美咲は食事に集中した。凛ももう何も言う気にもなれずお茶を飲む。
「じゃぁ親父も触れば?ごちそうさん」
そう言うと食器を片付ける。信司はそう言われて凛の胸を見るが、隣に座る美咲の蹴りをすねに受けて悶絶した。司は自分の分の食器を洗うとさっさとキッチンを出て行った。
「こんな家族でゴメンね、お姉ちゃん」
「あ、うん・・・なんか、今日ので随分・・・・慣れたっていうか、なんというか」
美咲の言葉にそう答えて困った顔に苦笑をする凛。信司も冷静になったのか、凛に詫びるが美咲にきつく睨まれて食事もそこそこにキッチンを出て行った。残された2人は顔を見合わせて微笑み、食事を進めるのだった。
翌日、またも除霊を希望の客が来たとかで司は信司と一緒に家を出て行った。2人は昨夜の険悪なムードのまま出かけていったが、そんな2人を見送る凛も複雑な心境で掃除機をかけていた。自分が司を感じたとき、司もまた自分を感じていた。だが、何故司は自分の泣き顔を感じたのだろうか。海で楽しんでいた時だっただけに、何も悲しくはなかった。とすれば、司の心の状態がそれを見させたということになるのだろうか。除霊は問題なかったと言っていただけに疑問が残る。司自身もよくわからないと言っていたこともあって、答えは出なかった。そうしているとスマホがメロディを奏で出す。見れば裕子からの電話であり、掃除機を置いてそれに出た。
「もしもし、裕子?」
『おはようさん。突然なんだけどさ、明日さ、時間取れる?』
「んー、別に予定ないけど?」
『実はさ、神手も一緒に来てほしいんだよね』
「・・・危険なことには司君は貸せないよ」
『出たな奥さん的発言!』
「どこがよ」
凛のその言葉にケラケラと笑う裕子だったが、それはすぐに消えた。
『未生の親父さんが呪いの箱とかいうのを調べるそうなんだよ。それで、神手の噂を聞いて是非見解を聞きたいんだそうだよ』
それを聞いて納得できるが、何故直接来武から連絡がこないのかと考えた凛はそれも当然だと気づく。来武には自分の携帯の番号もアドレスも教えていない。その上、かつてのマンションの自宅電話もなくなっているためにコンタクトが取れないのだ。
「わざわざゴメン」
『さっきたまたま犬の散歩中に会ったからさ』
「そっか」
『神手は大丈夫かな?』
ふとそう言われて考えるが、そういうものには興味を示しそうな司だけに一応確認は取るが大丈夫だと思う。そう考えた凛がそれを言おうとした矢先、裕子が先に口を開いた。
『ところで今日さ、泊まりに行ってもいい?』
突然の言葉に戸惑う。信司の了解を得る必要もあるが、自分としては問題はない。
「司君のお父さんに聞いてみるけど、私は大丈夫」
『じゃあ聞いたらまた連絡ちょうだい』
「うん、わかった。掃除終わったら神社に行って聞いてみるよ」
『さすが若奥様、主婦してますな』
「・・・それ止めて」
『嬉しいくせに!』
またもケラケラ笑う裕子にため息をついた凛はその後少し話をしてから電話を切った。まだ寝ている美咲をたたき起こし、掃除を進める。確かにこの家のお母さんのようであり、嫁のような感じがする。それも悪くないと凛は思っていた。両親も親戚も失った凛が求めた家族がここにある。気の優しい信司、よく懐いている本当の妹のような美咲、そして家族としては申し分のない司。いつか司と結婚して本当の家族になりたいと思うが、それはあまりに贅沢な望みでしかない。そんな凛が司の部屋を掃除しに入れば、いつも綺麗に片付いていることに感心する。そんな司の机の上を見れば、紫色した布の上に置かれた巻貝の貝殻を見つけた。大事にしてくれていることが嬉しくて思わず微笑んだ。心が壊れていてもそういう気持ちは大事にしてくれている。それを考えればいつかはまたそういう感情が生まれてきそうだと目を細めた。その後掃除を終えた凛は洗濯を干し、リビングでくつろぐ美咲に一言言ってから家を出た。今日も日差しはきつく、神社の楠木に群がる蝉の声がけたたましく聞こえてくる。そんな凛が神社の手前の角まで来た時、白い眉毛が長く垂れたスーツ姿の老人に気づく。この暑い中で黒いスーツを着込んでいるが、汗一つかいていないことが不気味だった。そんな老人の前を通ろうとしたときだった。
「あなた・・・不思議な光を放ってますな」
突然そう言われた凛は立ち止まって振り返る。スーツの老人は口元に優しい笑みを浮かべたまま眉に隠れるようにして存在している細い目を凛に向けた。
「初めて見ましたよ・・・七色のオーラなど」
「オーラ?」
「生命の息吹、とでも言うのかな?そういうものが見えるもので」
そう言われれば普通の人ならばこの老人を頭のおかしい人だと思うだろう。だが凛は違う。あきらかに常識を外れた司を知っているだけにそんな気にもならなかった。
「ただ、なんというか、あなたの大事な人の死も見える」
「え?」
思わず浮かぶ司の顔。そして司の言った自分の泣き顔が見えたという言葉。
「死は新生の始まり。そして新生は新たなる死への歩み・・・」
そう言うと老人は凛に背を向けた。
「ちょ!ちょっと待ってください!死ぬって、それって・・・」
「彼は死ぬ」
老人は振り返らずにはっきりとそう言った。彼という言葉から男性を意味し、そして凛の大事な人、司へと結びついた。
「まだもう少し先じゃがね」
明日のことが原因かと思ったが、そうでもないと知ってホッとするが不安が消えることがない。この先、司が死ぬと言われているのだ。
「死にません!司君は、死なない!」
「死は新生の始まり・・・新たなる魂への浄化・・・その死は決められた運命じゃよ」
老人はそう言うと歩き出した。凛はその後を追おうとするが金縛りにあったかのように動けないでいた。汗だけが異常に流れていく。声も出せずにただ老人を見送ることしか出来ない自分が歯がゆい。老人は少し先の角を曲がった。その瞬間、金縛りが解けて自由になった凛はそこへと駆けた。老人が消えた角を曲がるが、そこには誰もいなかった。横道もない一本道の道路なのに、老人はいないのだ。
「死なない!司君は死なない!死なせないから!」
どこにいるかわからない老人に向かってそう叫んだ凛は泣きそうになりながら神社へと走った。今すぐ司に会いたい。会ってこのことを伝えたい。いや、ただ無事な姿が見たい、それだけだった。社務所に行くが、司は現在拝殿で除霊中だと三田さんに言われ、仕方なく拝殿の脇にある入り口の前に座って待つことにした。生い茂る木で日陰になっているおかげで涼しい。そんな凛の頭の中で蝉の声に混じって頭の中に響く老人の声。
『彼は死ぬ』
凛は大きく被りを振ってその声を消した。あの老人がなんであれ、絶対に死なせない、そう強く願った。
『大丈夫』
その瞬間、そう感じた。声が聞こえたわけでもない、そう、感じたのだ。凛は周囲を見渡すが誰もいない。ただ感じたのはその言葉と、優しい風。さっきまであれほど不安だった心がそれを感じた瞬間に落ち着きを取り戻していた。それは除霊の際に司が言う言葉、その効果と同じようだ。
「信じていいの?大丈夫なの?」
立ち上がって声を出すが、何も答えてはくれなかった。蝉の声がうるさい中、少しの風が凛の髪の毛の先を揺らす。涼しさもほとんど感じない風を受け、凛はそこに座った。その時、背後で扉が開く。振り返った先には袴姿の司が驚いた顔をしてそこに立っている。
「あれ?なにしてんの?」
その言葉が終わる前に凛は司に抱きついていた。わけもわからず困る司を無視して凛は司を強く抱きしめる。
「何かあったのか?」
その様子に司はそう言うが、凛は司の胸に顔を埋めたまま横に首を振った。司の温もり、司の匂い、そして鼓動を感じる。絶対に死なせない。あの老人の言うことが本当でも、大丈夫だ。自分が司を守る。さらに強く司を抱きしめる凛は強くそう決意し、大丈夫と頭の中で何度も繰り返すのだった。