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ひとでなし≒かみさま  作者: 夏みかん
第4話 同調する記憶
7/20

前編

そこはついこの間まではごく普通の家でしかなかった。大きめの一軒家がずらりと建ち並ぶ閑静な住宅街。その中心部には緑豊かで大きな公園もあり、子供たちの声が響くどこにでもある街になっていた。だが、ここ一ヶ月ほど、この住宅街で異変が起きている。多くいた猫もその姿を消し、公園にいる鳩もその数を減らしていた。飼っている犬は何かに怯えたようにして犬小屋にこもり、周囲の家庭もどこか暗くなっていた。赤い屋根の家から溢れる重たい空気。いや、よく見ればその家から立ち上る黒い気配を感じる。いつからこんな風になったのだろうか。そんな風に自分の家を見上げる山崎礼子は深いため息をついた。いや、原因はわかっている。仲の良かった夫との関係も悪くなり、全てがおかしくなったその原因は家の中にある。かといってもうどうすることもできない。礼子はもう疲れきっていた。何度も死のうと考えたほど神経は擦り切れている。礼子は家に入ってドアを閉めた。家の中は外よりも黒くて重い空気で満ちている。その元凶である2階を見上げるが、そこへ足を運ぶ勇気はなかった。もう何もかも終わりにして死のう、そう思った矢先に掛かってきた1本の電話が転機となった。



夏休みに入り、暑さはさらに増している。今日もまた大きな入道雲が空を覆うが、青い空に輝く太陽はそんな雲を押しのけるようにしてまばゆい光を降らせていた。アスファルトが揺らめく中を歩いている神手司は暑さで溶けそうになりつつその太陽を恨めしそうに見やった。電車に乗ること2時間、その後で歩き始めてもう20分は経つだだろうか。汗は出っ放しで唾は

枯れていた。


「ちょっと、しゃきっとしてよね」

「できるかバカ」

「バカァ?それはあんたでしょうが!」

「俺がバカならお前は超バカだよ」

「ぬぁんですってぇぇ!」


言いながら司の耳を引っ張る蓬莱未来ほうらいみくを見た未来の母、真帆は大きなため息つきつつ司を引っ張る未来の手をひねった。そんな真帆に不満そうな顔をするが、司は舌を出してさらにバカにしたような態度を取る。そんな司に暑さもあってさらに怒りに燃える未来が鉄拳を食らわそうと拳を振り上げた刹那、司の顔が引き締まった。


「これ・・・デカイ霊圧だけど不安定?」


その言葉に前を向くが、未来には何も感じない。言い逃れの嘘かと思うがそういう顔でもないために手を下ろした。そんな2人を見た真帆が前方を指差した。少し先にある赤い屋根をした大きな家が目当ての家だ。

「うわぁ・・・なんつー妖気・・・周辺に充満しちゃってるし」


暑さよりもげんなりさせるそのおかしな霊圧に司はぐったりとした。山崎と書かれた表札のあるこの赤い屋根の家から発せられている異様な霊圧が周辺にも放射されてこの辺一体を覆っているのだ。


「なんとかなりそう?」


真帆の心配そうな声に家を見たままの司は頷くが、その表情にはどこか戸惑いがあった。


「今まで感じたことのない変わった霊圧だけどね」


その言葉を聞きつつインターホンを押せば、中から現れたのはおおよそ真帆とは同級生には見えない容姿の女性だった。白髪も多くしわも多い。同じ年の真帆と比べて10歳は年を取って見える。そんな女性を見た真帆はその変わり果てた姿に思わず涙を浮かべた。


「礼子・・・・・・」

「真帆・・・・」


そう言って抱きしめあい、涙を流した。戸惑う未来をよそに司は抱きしめ合う2人に近づくとじっと礼子を見つめた。そんな司に気づいた礼子が不思議そうな顔を向ければ、司は小さく微笑んでから左手を礼子の胸に置いた。一瞬何をされたのかが理解できない礼子が悲鳴をあげようとした刹那、今度は右手が背中を叩く。その瞬間、何かを吐くようにしてみせた礼子は体がすっと軽くなる自分に驚いていた。


「暑いんで、中に入れてもらえる?」


目の前の少年が何をしたかはわからないが、どんな病院に通っても一向に良くならなかった体調の悪さが嘘のように治っている。重かった頭も軽く、気分もいい。常に吐き気と疲労に見舞われていたこの半年はなんだったのかと思えるほどだ。とりあえず3人を中へと入れた礼子だが、玄関に上がったさっきの少年、司が右手をかざしながら何かを口にするのを見ていた。


たち


そう言った瞬間、さっきまでどことなく暗かった家の中がすっと明るくなる。気のせいなのだろうが、確かに明るくなったように感じるのだ。そうしてリビングへと案内する中、司は階段の下で立ち止まって上を見上げた。同じように未来もそうするが、変わったところはない。


「誰がいるの?」


司の言葉に酷く動揺した礼子を見た真帆が今からそれを説明するからとリビングへ向かった。そうして3人にお茶を出した礼子がソファではなく床に座り、どこかためらいがちに言葉を発し始めた。


「2階にいるのは娘です・・・娘の理恵、中学3年になるの」


その言葉に未来が真帆を見るが、真帆は少し目を細めただけだった。司は冷えたお茶を飲んで満足そうにしているが、未来の中の不安は大きくなるばかりだった。



松林の向こうに広がる青い海。風もあまりなく、白い波はゆっくりと押し寄せては返している。いつもは制服姿の同級生女子の水着姿に鼻の下も伸びる男子は実に健全である。ビキニタイプにワンピースと様々な水着に目は釘付けだ。ひときわ目を引くのはいつもかけている眼鏡を外し、長い黒髪をアップにした桜園凛おうぞのりんである。薄いブルーとグリーンが合わさったような色合いのビキニタイプの水着がよく似合っている。大きな胸をしながらもしっかりくびれた腰周り。元芸能人とあってスタイルは抜群だ。


「おい」

「なに?」

「格安で頼むぞ」

「アングルによる」


腕組みをしつつ凛を見つめる未生来武みしょうらいむの言葉にそう切り返すのは鈴木裕子だ。裕子はオレンジを基調としたワンピースタイプの水着を着ていた。あまり胸がないこともあってビキニは着たくても着られない。対する田原万里子はそこそこ胸もあり、今日を目標にダイエットも成功して赤いビキニを着用していた。今日は3年2組のクラスの有志が集まった1泊2日のキャンプの日だった。男女17人の大所帯で、バンガロー3棟を借りてのキャンプだった。受験勉強の羽休めとして裕子が企画し、実現に至っていた。これは以前に企画していた肝試し旅行の補填でもあるが、みんなでわいわい騒ぐ高校生活最後の思い出を作る目的もあり、凛が参加するとあって誘った全員が参加していた。裕子にしてみればこれもまた稼ぎになる。凛の水着写真を撮り、あわよくば風呂場での写真も狙っている。もちろん男子も各々のカメラで凛を激写するが、警戒される上に他の女子の視線もあっていいものが撮りづらい状態にもなっていた。来武は凛を見つめつつ、動くたびに揺れる胸に釘付けとなる。


「いかんな、鼻血が出そうだ・・・」

「下半身もヤバそうね?」

「・・・・いや、失礼」


いまだに腕組みをして凛を見つめる来武が座るようにして下半身を海に浸ける。その横に立つ裕子は写真を撮っていた。もちろん凛だけではなく、みんなとの思い出の写真もたくさん撮っているのだ。防水機能もついたデジカメを手に、腰近くまで海に浸かりながらの撮影だ。そんな裕子に気づいて背中を向けた凛は青い空を眩しそうに見上げてみせた。


「神手君も誘えばよかったかな?」


背後から聞こえてきた万里子の声にそっちを向いた凛は首を横に振ってみせた。


「これはクラスでの思い出だもん」

「そっか」

「それに、誘っても来ないよ。暑いの苦手みたいだし」


暑くなってからは毎日クーラーのついた部屋でゲームをしていた司を思い出す。時々神社に相談に来る人たちを除霊していたが、暑さのせいかいつもにも増してやる気がなさそうだった。


「この旅行の間にあの幼馴染の子に取られちゃうかもね」

「ないない」


万里子が横目で意味ありげにそう言うが、凛は涼しい顔でそう返す。おそらく未来は今でも司を好きでいるのだろう。だが、つらい想いから逃げているのも確かだ。司は相変わらずで、あの祭の日にキスをしたがそれ以降はそういったことも要求せず、進展も何もない。キスをした時は少し期待したものの、司の心は壊れたままなのだ。


「そっか」

「そう」


そう言った矢先、後ろから急に胸を鷲掴みにされた凛はビキニがずれそうになるのを押さえつつその元凶を睨みつけた。


「こら!裕子!やめなさいって!」

「サービスしなさいって!」

「ちょ!マジやばいって!」


大きな胸が上下左右に動き回る。男子はここぞとばかりにシャッターを切り、来武はその光景を自分の脳裏に焼き付ける。女子たちはそんな男子に向かって水を掛け、カメラをかばう男子が悲鳴を上げた。裕子は凛から離れると同時にお尻に蹴りを入れられた。


「まったく!この変態!」

「神手にされてると思ったらいいじゃん」

「・・・どういう発想なの」


胸を隠すようにした凛は赤い顔をして裕子を睨んだ。その左手に光る金のブレスレットがまぶしい。


「欲求不満の解消のつもりだったんだけど」

「・・・・もうね、言葉もないよ」


心底呆れた凛は愛想笑いする裕子に背を向けて自分を呼ぶ万里子の方へと向かった。そんな凛を見つつ小さく微笑んだ裕子は焼けて熱くなってきた肌を感じて下半身が海に浸かるように座り込んだ。


「何食ったらあんなでっかい胸になるんだか」


自分の胸を触りつつそう呟く裕子はそのあまりの違いにショックを受けつつ立ち上がり、カメラを置きに浜辺へと上がるのだった。



たまたまの電話だった。同窓会の案内が届いたことがきっかけで高校時代に仲の良かった礼子に電話をかけた真帆は泣きながら死にたいと言った礼子の言葉に驚いた。電話の向こうで泣きじゃくる礼子の様子に只事ではないと察した真帆が話を聞けば、半年前から娘の様子が変だと言うのだ。ある日学校から戻った娘の理恵の様子が明らかにおかしい。目は虚ろで何かわけのわからないことをぶつぶつと繰り返しているのだという。夕食になっても部屋から出てこない理恵を気遣って部屋に入れば、壁に向かって突っ立ったままぶつぶつとつぶやく姿がそこにあった。どんなに声をかけても体を揺すっても変化はない。とにかく下に降ろして何かを食べさせようとするが、理恵は手で鷲掴みにして食べていくではないか。父親が怒鳴り、礼子が止めようとしても止まらず、全部を食べるとまたフラフラと自室にこもって壁を見つめてぶつぶつと言うのみだった。寝ることもせず、ずっとそうしている理恵を家から出して病院へ連れて行くが効果もなく、精神科も原因が不明と診断した。そこで何かに憑かれたのかと高名な霊能者にも見てもらってお祓いをするが効果はなく、ただ法外なお金を取られただけになっていた。いつしか礼子もやつれていき、夫はあまり家に帰らないようになった。そしてここ最近は死ぬことばかりを考えている自分がいた。理恵を殺して自分も死のう。そう決意した矢先に電話を取れば、それが真帆からのものだったのだ。真帆は事情を聞くとすぐに司に連絡を取った。電話をしただけで霊圧の乱れを感知したこともあって興味を示し、今日、礼子の家に来たのだ。


「でも、どんな霊能者に見せても2、3日で治りますって・・・・」


ただ高いお金だけを取って何の効果も出せなかった霊能者に憤慨するも、後の祭りだ。それ以降、霊能者など信用はしていない。お茶を飲み干してリビングを徘徊するようにする司を見つつそう思う礼子だが、さっき司が自分にしてみせたこともあって少しは信用をしている。ただ、だからといって理恵を治せるとは考えていなかった。


「司君は大丈夫。私を信じて」


礼子の手を握ってそう微笑む真帆がテレビボードの上に飾られた家族の写真を見つめている司を見た。礼子もまた司を見やれば、司はリビングを出て玄関からキッチン、そして1階の全ての部屋を回ってみせた。やがて風呂場に行き、そこで頷く。


「塩、ある?あとお酢とお酒、酒っても日本酒ね・・・なるべく多い方がいいな」


その言葉を聞いた礼子がどこか怯えたようにするが、真帆に連れられてキッチンへと向かった。


「電話でも言ったけど、彼は神社の跡取りで、最高で最強の霊能者・・・大丈夫、信じて」

「・・・・そうしたいけど」

「大丈夫。彼でダメならもう無理。その時は、私も殺して、あなたも理恵ちゃんも死になさい」


その言葉に驚き、涙がこぼれる。もはや礼子の精神状態は限界に来ていた。それでもこうまで司を信頼する真帆に賭けてみようと思う。袋ごと塩を取り出し、お酢と日本酒も用意する。司はそれを見ると満足そうに頷き、それらを風呂場に置いた。


「いつでも風呂に入れるようにしておいて。未来もそのつもりでな」

「えぇ!?私も?」

「俺がその子と一緒に入ってもいいけど、ま、常識的にマズイだろ?」

「まぁ、ね」


微笑む司の意図がわからないが、とりあえず言うとおりにそのつもりでいる未来。ただ、今までの除霊でそんな指示はなかっただけに困惑してしまう。


「さて、そんじゃ案内してもらえる?」


そう言いながらにっこり微笑んだ司が礼子にそう言うと、礼子は真帆を見てからゆっくりと歩き出した。その足取りはかなり重そうだ。向かう先は2階にある理恵の部屋。実際に階段を上がる足が重く感じる。霊感などない真帆や未来でさえ体の変調を覚えるほどだ。司は礼子が立った部屋の前に来ると両手の数珠を外す。そしてそれをズボンのポケットに入れてから左手をドアにそっと当てた。


「何がいるのかわかんねーけど・・・これ、10や20じゃないよね」


その言葉に未来はぶるっと全身を震わせ、真帆の体にも鳥肌が立つ。礼子が怯えた目をして司を見れば、にっこり笑って頷いた。それを見た礼子がそっとドアノブに手を置いた。そして再度司を見る。


「大丈夫」


相変わらずの笑顔がそこにある。礼子はゆっくりと息を吸い込んだ。


「理恵、入るわね」


そう言い、ドアノブが回される。司はゆっくりと左手を部屋に向かってかざしながらその笑みを消した。ドアの向こうはいたって普通の女の子部屋だった。アイドルらしきポスターが机の横に貼られ、少女マンガがずらりと並んだ本棚や、綺麗に整理された机がある。ただ異様なのは布団も枕もないベッド。そしてそのベッドの端に立って部屋の角にくっつくようにしたままそこを見つめている髪も傷みきってボサボサになったパジャマ姿の女の子がいる光景だ。異様なまでに重く、そして暗い空気が部屋の外まで出てくるような気がした。


「うわぁ・・・なんだこれ」


司はうんざりしたようにそう言うとその場で部屋の中を見渡すようにする。未来は部屋と司とを交互に見やり、真帆は礼子を支えるように肩を抱いていた。


「な、なに・・・なんなの?」


怯えた声で未来が司にそう聞くが、司はただ理恵を見ていた。


「多分、軽く100はいるよ・・・わけのわからない、霊の集合体?なんかこう、ぐちゃぐちゃに無理矢理合体させたみたいなのが彼女に憑いてる。こんなの初めて見たなぁ」


感心するような司がそう言うが未来たちにはもちろん何も見えない。礼子も半信半疑だが、今まで来た霊能者は皆男の霊が憑いているとしか言わなかったことを思い出す。こうまで具体的に表現したのは司が始めてだ。


「他にも猫やら犬やらの霊が部屋の中でくつろいでる」


その言葉にどこか和む空気。


「誰も入らないでね」


そう言い、司は部屋の中に入ると右手をかざした。だが何も言わずに振り返る。


「状況、見たい?同調させようか?」


その言葉に未来は一瞬迷ったが、さっきの司の反応を見て首を横に振った。真帆もそうするが、礼子は理恵の状態が知りたくて頷く。司は右手を下ろすと礼子の手を引いて部屋の中に入れた。相変わらず理恵は壁にくっつくようにしてぶつぶつ何かを言いながらじっと立っているのみだ。


「じゃ、見せるけど、キモイよ」


司はそう言うと礼子の背後に回って両手を肩に置く。その瞬間、礼子の目に映る部屋の光景が一変した。すぐ足元に猫や犬が寝転がり、細長い黒いもやのようなものがいくつも部屋の中を浮遊している。そしてベッドに立つ理恵の周囲には手や足、顔や体が無数に絡み合い、変形したものがぐちゃぐちゃになるように混ざり合ったものが蠢いていた。男とも女ともわからぬ顔がひしめき合い、融合している。思わず吐きそうになった礼子が目を閉じた時、司が左手でぽんと背中を押すと吐き気は急に収まった。すると部屋の中の光景が元に戻っている。綺麗な部屋になっているのだ。


「どこから連れてきたのか知らないけど、アレが元凶だな」


ため息混じりにそう言うと顔の青い礼子を部屋の外に出した。信じられないものを見て震える礼子を抱きしめるようにした真帆が司を見れば、司は理恵の方を見ている。


「普通憑くっていっても、その人の魂に同調したり、姿を見られたことが嬉しくて一緒に来たりするんだよ。でもこいつは違う・・何年、何十年どこかにいた地縛霊がいつしか集まって、お互いに溶け合ったんだろうな」


そしてそれがどういうはずみでかは分からないが理恵に憑いた。これだけ強烈な集合体に憑かれた瞬間、彼女の魂と意識はその集合体に押しつぶされ、心の奥の方へと封印されてしまったのだ。


「霊の元いた場所が分かれば簡単に引き剥がすこともできるけど・・・こんなに合体しちゃそれも無理。かわいそうだけど、消すしかないな」

「かわいそう?」


何気ない司の言葉を聞いた礼子がフラフラと司の方に歩み寄る。そんな礼子をただ見ていた司に飛び掛り、部屋に押し倒した礼子はそのまま馬乗りになって司を殴りつけた。


「かわいそう?あの子に憑いたものがかわいそう?かわいそうなのはあの子でしょうがぁ!」


感情をむき出しにした礼子が何度も殴りつける。司はされるがままでいたが、真帆と未来がなんとか引き剥がす。それでも叫びながら司を怒りの目で見つめる礼子を見つつ、司は立ち上がった。鼻血を拭き、そうして理恵を見た。


「お前の母さん、気性荒いな」


苦笑してそう言う司にさらなる怒りを向けた礼子の動きが止まった。真帆も未来も驚いた顔をしている。理恵は礼子を見ていた。虚ろな目をし、口からよだれを垂らしながらも。その目から一筋だけ涙が零れ落ちた。


「理恵・・・」


それを見て泣き崩れる礼子を支えつつ、真帆は司を見た。司が愛情や恋愛感情を失くした、心が壊れたということは真帆も知っている。だが、真帆は壊れた部分はそこだけだとは思っていなかった。さっきの言動のように時々常識外れなことを口にすることがあることに気づいていたからだ。人の心情も理解できない。そういった部分も壊れている、そう思っていた。


「さて、部屋に住結界じゅうけっかいを張って除霊するよ。こっちからいいって言うまで部屋を開けないでね」


その言葉にハッとなった未来が思わず司の腕を掴んだ。気がつけば部屋に入ってそうしていたが、不思議と重い気分にはならない。そんな未来の左手ではブレスレットが銀色の光を反射している。


「つ、司・・・大丈夫なの?」

「何が?」

「だって、これって・・・・」

「大丈夫だって、いつもと同じじゃん」

「そうじゃなくって!」


司は全く気にしていないが、これはあの時と同じ状況だ。3年前、司の心が壊れる原因となった事件、長谷川望はせがわのぞみの除霊をした際と同じ状況だった。あの時もうずくまって虚ろな目をしていた望を除霊するために部屋の中に住結界を張り、1人で中に入ったまま望を除霊した。そして望に憑いていた高い霊圧を持つ霊が司の恋心を利用して迫り、結果除霊は成功したが、浄霊を前に母親が踏み込んでしまったあの事件。司は忘れてしまったのだろうか。


「大丈夫だから、出てろ」


微笑んでそう言うが、不安は尽きない。あの時の記憶すら壊れてしまったのか。それとも過去のことだと気にならないのか。だが、未来は固い決意を持った。


「絶対にドアは開けさせないから、絶対に!」

「肩の力抜けよ・・・まぁ、任せた」


にっこり笑った司を見てもなお不安は消えない。それでも未来は部屋を出ると不安いっぱいの顔を司に向ける。司は微笑んだままドアを閉めた。真帆は礼子を1階へと連れて行くが、未来はドアを前に壁にもたれるようにしてその場に座り込んだ。


「今度は絶対に開けさせないから」

未来はそう呟くと睨むような目をドアへと向けるのだった。



司は両手を組み合わせると両方の人差し指を立てた。それを壁に当てるとそのままそれを沿わせて部屋の中を一周していく。理恵に当たらないように気をつけつつ一周し、手を解いてから両手を壁にそっと当てた。


「じゃ、いきますか」


住結界は完成し、これで外に霊は出られない。その瞬間、さっきまでなかった感情が心にわきあがる。


『すぐ治してやるからな!』


自分の声が頭に響いた。その声に激しく動揺し、後ずさる。


「お、俺の声?」


その瞬間、頭にノイズのようなものが駆け抜けた。


『長谷川、大丈夫だから』

「長谷川って、あの長谷川望?」


自分の声が頭の中に響くたびにノイズが走った。


『お前、出て行けよ!』

「俺の声が・・・頭の中で・・・」


司は頭を振って目の前に立つ理恵に集中した。少し荒くなった息を整えると右手をかざす。まずはこの集合体を分解する必要があった。


たち!」


そう叫んでみるが、集合体に変化はない。


「あれ?なんでだ?」


もう一度右手をかざしてたちを使うが、目の前の集合体には一向に変化が現れない。霊圧も込めているのに集合体はずっとそのままそこにいる。そう、理恵にまとわりつく形でそこにいるだけだ。何をするでもなくくっついているだけ。悪さをしようだとか、生気を吸おうだとか、そういう邪念も感じなかった。司がかわいそうだと言った理由がそれだ。だが、何故こうも反応がないのかが気になる。


『抱きたいんでしょ?』


声とともに目の前の光景にノイズのようなものが走った。一瞬部屋の様子が変わる。本やCDが散乱し、手足がもがれたぬいぐるみがあちこちに転がっている。そして目の前にいるのは全裸の少女だ。


『抱かせてあげるよ・・・好きなんでしょ?私のこと・・・・』

「長谷川、なのか?」

『さぁ、抱いてよ、神手君・・・好きにしていいよ・・・』


司は息を荒くする。急に襲ってくる激しい頭痛に声も出せず膝をついた。頭を片手で押さえつつ床にもう片方の手を着く。頭痛はどんどん酷くなり、目をぎゅっとつぶった。


『ほら、こうしたかったんでしょう?』


望が司の手を取って自分の胸に当てた。胸が高鳴り、そのまま流されそうになってしまう。そのまま望は司にキスをした。動揺しながらも心が満たされていく。


「くそ・・・忘れていた・・・・そうか、長谷川、あの時の・・・・記憶か」


望を除霊したことは覚えている。ただ詳細ははっきりと思い出せない。いや、記憶がそれを消去したのだ。心に大きなダメージを負った苦い経験を心の奥底に封じていたのだ。同時に愛や恋愛などといった感情を破壊した。そうすることで心が完全に失われてしまうことを無意識的に防いだのだ。頭痛はますます酷くなる。


『ほら、ここ、見てよ』


そう言った望が座ったままで両足を大きく開いた。それが望の意思ではなく、憑いているものがさせていることは理解している。だが、望を好きな司は目を逸らせなかった。そんな司を見た望の口が歪んだ。赤い、とにかく口が赤い印象が濃い。そして醜悪な笑みだ。望はゆっくりと司に覆いかぶさるとキスをしてきた。


『ひとつになりたいんでしょ?なろうよ、一緒に』

「違う・・・お前は、長谷川じゃ・・・ない」


記憶と現実が融合し、過去と今がシンクロしている。頭痛が酷くなり、吐き気もする。司は仰向けに倒れこみ、その上に誰かの重みを感じていた。微笑む望がそこにいる。


『なろうよ、1つに』

「1つに?」

『そう、好きだから、さ』

「俺も、長谷川が・・・・・・・・」


再度キスをされた司の言葉が消える。口を塞がれているために言葉は出ないが、愛おしさが満ちていく。


「ああ、長谷川・・・・・・・俺は、お前を・・・」


もはや過去に戻ってしまった司が微笑んだ。



ひとしきり遊んで浜辺に上がった凛はパラソルの下でバスタオルを羽織り、喉の渇きを潤すためにジュースを飲んだ。みんなは海でしゃぎまわり、波を蹴って駆け回っている。そんな様子を見ながらシートの上に座った。バッグに入れていた眼鏡をかけ、綺麗な景色へと目を向ける。青い海と青い空。違う青がそこにある。


「いい気持ち」


日焼け止めも効果が薄いのか、焼けてじんじんする肌も気持ちがよかった。芸能活動をしていた時は日焼けもできず、学校の水泳も欠席して常日頃から長袖を着て気をつけていた。今年はそんな心配もいらない。ジュースを飲みながら夏を満喫していることが楽しくなっていた。空になったペットボトルを置いて眼鏡をしまう。そしてバスタオルをシートの上に置いてパラソルを出れば、肌を焼く暑い太陽の光に目を細めた。その瞬間、司の声が聞こえた気がした。無意識的に左手のブレスレットに目をやるが、なにも感じない。気のせいかと裕子たちの下へ走る。だがその足が不意に止まった。


「司君?」


近くに司を感じる。だがそれはありえない。今日は未来の母親の依頼で電車で2時間の場所にある知り合いの家に行っているからだ。こことは正反対の場所。凛はもう一度ブレスレットを見るが、太陽の光を反射してまぶしい光をきらめかせているだけだった。


「んー・・・なんだろ」


不安もなければ嫌な予感もしない。ただ司を感じるだけだ。


「会いたいってこと?」


自問自答するが、さっきまでそんな気持ちにもならなかった。夏休みの間に司たちと海に来たいとは思ったが、その程度だ。


「りーん!」


離れた場所で自分を呼ぶ万里子の声に手を振り、凛はそちらへ向かって駆け出した。



長いキスが終わり、望は小さく微笑んだ。ずっと好きだった望と夢にまで見たキス。胸のドキドキは最高潮で歯止めがきかない。司は自分から望の唇をむさぼるように吸い、その膨らみかけた小さな胸に手を置いた。欲望は止まらず、もう暴発しそうな勢いだ。


『どんな気分』


その声に司は目を開いた。そこにいるのは自分の手を胸に当てている凛だ。あきらかに望のものとは違う柔らかい弾力がそこにある。


『本当に何も感じない?ドキドキしない?』


悲しそうな顔をする凛がそこにいた。そして凛は泣いた。何故泣いたのだろう。何故そんな悲しい目をするのだろう。何故そんなことをしたのだろう。


『神手君?』


望の声に我に返るが、そこにあった顔は凛でもなく、望のものではなかった。醜く歪んだ口、黒目だけの大きな瞳、そして邪悪な気配。飲み込まれかけた自意識が蘇り、司は望の体を突き飛ばした。だがその女は司を組み伏せると再度唇をふさぐ。


『ちょ・・・・長いよ』


またも聞こえる凛の声に目を開き、とっさに司は右手を望の胸に当てた。


『したいんでしょ?』


望であり、黒目の女であるものがそう言った。それと同時に重なる凛の泣き顔を見る。その瞬間、司は右手をぎゅっと握り、叫んだ。


「絶っ!」


途端に響き渡る絶叫。司の魂さえ震わす絶叫に耳を塞ぎそうになるが、目の前の望が倒れこみ、黒目の女が苦しそうな目をして自分を睨んでいた。その身を滅ぼす封神十七式ほうしんじゅうななしきの十五、ぜつを受けてもなお消滅しない霊圧にさすがの司も戸惑った。だが司は戦った。あらゆる術を駆使し、自分の持つ全ての霊圧を叩き込んで怨念の塊である黒目の女を消滅させた。霊圧もほとんど失い、意識も朦朧の状態で。そのまま倒れている望にゆっくりと近づいた。もう他の霊圧は感じなかった。その瞬間、激しい頭痛が司を襲う。そのまま意識を失い、司は床に倒れこんだ。だがそれは一瞬のことで、すぐに目を開く。がばっと置きあがった司はきょろきょろし、頭を掻いた。もう頭痛は治まっている。


「あれ?なんで寝てた?」


わけがわからないが、頭が痛くなったと思ったら倒れていたのだ。何をしていたかも思い出せず、思い出そうとしても無理だった。


「なんか、夢を見てたような・・・」


そう、夢を見ていた気がする。なにか気持ちよく、それでいて不快な夢を。


「おっと・・・遊んでる場合じゃないか」


そう言って立ち上がると、壁を向いたままぶつぶつと言っている理恵を見やった。


「さて、引き剥がし作業、開始っと」


そう言うと右手をかざす。


たち!」


そう叫ぶと苦悶の表情を浮かべた何体かが剥がれ落ちた。今度はそちらへと右手をかざす。


ぜつ!」


拳を握り、人差し指と中指を立てながらそう言うと剥がれたものは消え失せた。


「うへぇ・・・なんちゅう手間だよ」


うんざりしながらその作業を何度も何度も繰り返す。そして残りが5体ほどになったとき、突然憑いているものの霊圧が爆発的に膨れ上がった。


「ようやく大元の登場か」


集合体が蠢き、グニャグニャとした動きで理恵の体を這い回る。理恵は苦痛も不快も感じずにずっと変わらぬ様子でぼーっとしていた。


「憑いているってか、ただ引っ付いているってな感じか?こりゃ前代未聞な霊だな」


人に憑いて魂と同調する霊は数多いが、なにもせずに引っ付いているだけというタイプは初めてだ。だが引っ付いているとはいえ、あれだけの数になれば理恵の魂も隅へと追いやられてしまう。その結果がこれだった。元いた場所でそうしていたように、ただその場にいるだけの状態。理恵の体も霊の集合体の影響でそうしていただけのことだ。全てを引き剥がし、その魂を引っ張り上げれば元に戻るだろう。司は右手をかざし、女の顔だけが出ているそこに右手をかざした時だった。突然その女が絶叫する。同調した理恵もまた同じ声を上げていた。


「助けてぇぇぇぇぇ、消えたくないぃぃぃぃ!」


絶叫しつつも理恵の表情に変化はない。憑いている集合体の中にいる女が消される恐怖感からそう叫んでいるのだ。女が叫ぶと連動して理恵が叫ぶ。それでも司は右手を女の顔に向ければ、突然理恵がその手を掴んだ。


「あー、もう、めんどくせーなぁ!」


その手を振りほどこうとするがなかなか取れず、絶叫はさらに大きくなっていく。


「いやだぁぁぁぁ、殺されるぅぅぅ、あぁぁぁぁぁぁ!」


家中に響くようなその声に外にいた未来も体をびくつかせた。


「な、なに・・・」


壁にへばりつくようにして耳を塞ぐが、声はまったく小さくならない。霊が発している声だと理解するが、どうすることもできずに耳を塞ぎ続けた。



突然響き渡るその声に礼子は顔を上げた。リビングでお茶を飲みつつ礼子を慰めていた真帆もまたとっさに天井を見上げる。明らかに女性の叫び声だ。礼子はおもむろに立ち上がると階段へと向かい、一気に階段を駆け上がる。


「理恵!理恵ぇ!」


叫びながら、泣きながら階段を上がって来る礼子を見た未来はあわてて立ち上がるとドアの前に立ちふさがる。それでもなおドアノブに手をかけようとした礼子の手を掴み、必死に押し戻す未来は暴れる礼子を壁に押し付けた。


「おばさん!ダメ!まだダメ!」

「離しなさい!理恵ぇっ!」


部屋に入ろうと暴れる礼子を背後から羽交い絞めする真帆、正面から押さえる未来。それでも半狂乱で暴れる礼子は完全に自我を失っていた。愛する娘が助けを求めている。部屋に入ろうと暴れ、ドアノブを掴もうと手を伸ばし続けた。


「礼子!しっかりしなさい!理恵ちゃんも戦ってるの!」

「離せ!」

「だめ!」


暴れる礼子は真帆を振りほどくと未来を殴りつけながら壁に叩きつけた。激しく頭を打つ未来がドアノブに手をかける礼子を見て痛みもそのままに飛びかかった。礼子は反動で床に倒れ、馬乗りになった未来は額から血を流しつつも礼子を押さえ込む。真帆は未来を気遣いながらも礼子の両手を床に押し付けた。


「離せ!理恵を、理恵を助けるんだ!」

「行かせない!絶対に!今度は、絶対に行かせない!」


血走る目をして暴れる礼子を抑えつつ、こちらも必死の形相でそう言う。未来は泣いていた。涙が血と混ざり合う。


「私が止めていれば、あの時、行かせなきゃ、司は・・・・私が司を壊したんだ・・・私がっ!」


真帆は何も言わず礼子を押さえ込む。未来は全身で礼子を押さえつつ泣いていた。3年前、全てが終わって静かになった部屋に勝手に入った望の母親。未来は終わったことにホッとして止めることすら出来なかった。部屋に入った司は全裸で倒れている望の胸に左手を置いていた。それを見た母親は部屋に入るなり司を蹴り飛ばし、望を抱きしめたのだ。


「何をしたの!ウチの子に、望に何をしたの!」

「何って・・・浄霊を・・・」

「何で裸なの!胸を触っていたじゃない!」

「憑いてたのが俺を誘惑してきただけです!それに、手を当てていたのは浄霊・・・」

「犯したのね?この子を、霊が憑いているとかなんとかで!レイプしたんでしょう!」

「ち、違う、俺はただ・・・」

「黙れこの変態がっ!」


その様子を部屋の外から見ていた未来は呆然とするしかなかった。自分には司が望の胸に手を置いていたことが浄霊だとわかっている。かつて自分もそうされたし、何度もそういう司を見てきている。なのに何も言えなかった。震えて涙を流す司を見ることしかできなかった。


「この犯罪者が!」


母親は望を抱きしめつつ呆然とする司を蹴り続けた。司は抵抗もせずされるがままだ。鼻から口から血を流しても、ただ蹴られ続けていた。そうしていると望が意識を取り戻す。


「望!」

「おかあ・・・さん?」

「そうよ、大丈夫?」

「うん」

「あんた、何かされたんじゃないの?」


そう言われた瞬間、司が自分の胸を触る映像やキスをする映像が頭の中に流れてきていた。それは自分から誘った行為、それも認識している。だが、恐怖も残っており、錯乱した望がガクガクと震えだした。体の中に、意識の中に残る霊の思念が同調した結果だった。浄霊を行わなかったゆえに起こった同調が事態をさらに悪化させる。ぐったりして顔から血を流す司を見た望がただ震えている。そしてその口から震える声が言葉を発した。目は虚ろで表情も固い望から出た信じられない言葉に未来も耳を疑った。


「私・・・・あいつに・・・・・・体を・・・・・犯された」


その言葉に司は血まみれの顔をあげた。信じられないというその表情は今でも脳裏にはっきりと焼きついている。ひときわ強く司の頭を蹴った母親は望を抱きしめて泣いた。望は倒れこんで動かない司を見つつ、ただ震えるばかりだった。司は意識を失い、母親が警察に連絡をしてそのまま救急車で病院へと搬送される。頭を蹴られたショックか、それとも望に裏切られたショックか、司の記憶は曖昧だった。その後、望の父親が訴えると言い出して証拠集めをするが、検査の結果望は処女であることが判明し、精神鑑定を受けた結果、彼女自体に犯された記憶がないとされて訴えは棄却される。未来は司が犯罪者にならずホッとしたが、噂はあっという間に広がって司はレイプ犯だというレッテルを貼られてしまったのだ。そして未来は司を見舞い、そこで司に告白をした。自分が司を支えると。一緒にいて支えたい、どんなに世間の目から蔑まれようとも好きだから。そう告げたのだ。だが、直後に絶望する。


「好きって、意味がわからない」

「え?・・・・だ、だから、ずっと好きだった。だからさ、一緒にいるから、大丈夫だからさ・・・」

「何なんだよ、その好きっての。どういう意味?」

「だから!あんたが好きってこと!」

「好き?んー、わっかんねぇなぁ」


その言葉にそばにいた美咲も信司も怪訝な顔をしてみせた。それは未来が自分を好きな意味が分からないのではない、好きという感情そのものが理解できないのだと悟った。そのまま入院している病院の精神科に行けば、司の心は欠けていると診断された。恋愛、愛情、好きだとか愛するだとか、そういう感情が完全に欠落していた。そして女性を女性とは見れないことも判明したのだ。女性も男性もない、だたの人間だという認識でしかない。男性的な機能も完全に停止、性欲も消失している事実に信司は愕然となった。元に戻るかどうかは本人次第だが、はっきりいって希望は持たない方がいいと言われてしまった。どんなに大きな病院へ行っても同じ診断が下され、司はその時の記憶も曖昧なまま学校に通った。もちろんクラスメイトからも避けられ、犯罪者扱いを受ける。望は転校し、さらに司への風当たりは強くなったが本人は気にする素振りも見せない。それでもずっとそばにいた未来だが、司にしてみればどうしてそんなに献身的にしてくれるのかが理解できないでいた。未来はあの時、望の母親を止めなかった罪悪感もあって司への気持ちを封印してしまった。自分さえあの時止めていれば、そういう自責の念に駆られていたのだ。それ以来、司をただの幼馴染だとして付き合ってきた。未来の心も深い傷を負ったのだ。


「理恵!」


礼子の叫びに我に返る。3年前を思い出していた未来は苦い顔をしつつも礼子を押さえる手を緩めなかった。もう司が泣く姿は見たくない。これ以上心を壊したくない。ただその一心だった。それは蘇った恋心が突き動かす衝動だったが、未来は気づいていない。ただ司を守る、それだけだった。そんな未来がドアが開く音にそっちを見た。礼子も真帆も同じようにすれば、ドアを開けて立っている司が目に飛び込んできた。


「終わったよ、全部な」


普段と変わらぬ笑顔がそこにある。礼子は力の緩んだ2人から離れると急いで部屋に入った。ベッドの上で寝かされている娘がゆっくりと礼子の方に顔を向けると小さく微笑んだ。


「おかあさん・・・・」

「理恵ぇぇ!」


礼子は理恵を抱きしめ、理恵もまたか細い腕をそっと母親の背にやった。真帆はハンカチを未来の額に当てつつその様子を見ていた。傷は深いわけでもなく、壁に叩きつけられたさいに擦り剥いた程度だった。司も部屋の入り口に立って2人の様子を見ていたが、座り込んでいる未来の前のしゃがみこむとにんまりと微笑んだ。


「ありがとな」

「え?」

「お前があのおばさんを止めてくれてたこと、聞こえてた。助かったよ、ありがとう」


満面の笑みでそう言う司に思わず抱きつき、未来は泣いた。3年前に出来なかったことをようやく達成できた。今度は司を守れたのだ。何故泣くかが理解できない司が戸惑いつつ真帆に助けを求めるように見ると、真帆はぎゅっとしてやれというような素振りをみせた。仕方なく未来の背中に手を回して抱きしめる。未来はわんわん泣き、司はただただ戸惑うだけだった。



理恵はかなり衰弱していたが、意識ははっきりとしていた。この半年、まともな食生活も送っておらずにやせ細っていたが、それでも元気そうに微笑んだ。司は風呂が沸いているのを確認し、理恵を抱きかかえながら風呂場に向かった。脱衣所に理恵を座らせると浴槽に一掴みの塩を溶かす。


「よし、じゃぁ、彼女を湯船に浸けてくれ」

「私が、だよね?」

「他に誰がいんの?」

「私じゃダメなんですか?」


礼子の言葉に司は頷いた。


「未来はずっとあのブレスレットをしてる。俺の霊圧が込められたものをね。彼女は大量の霊に憑かれていたから、体も完全に浄化しないといけないんだ。それには少しでも霊圧がいる」


そう言って詳細を説明する。半年に渡ってあれだけの霊が引っ付いていた理恵の体も魂もそうとう疲弊している。浄霊もして塩と酢と酒の儀式も済ませたが体は今でもまだ霊媒体質のように霊を引き寄せる状態にあるのだ。そこで体を完全に清めてその体質を消滅させる必要がある。霊圧のある者が彼女の体を洗うことでそれは達成できると説明した司は本来なら自分がするところだが普通に考えてそれは不可能なので、ここはブレスレットをしていることで霊圧がある未来を指名したのだ。


「まぁ、そう言うことなら」

「俺はここで指示するからな」


脱衣所で指示を出すことにした司を残し、司の指示で礼子と真帆もそこを離れる。手足が弱っている理恵を支えつつ服を脱がせて自分も裸になった未来は理恵を支えつつゆっくりと湯船に浸けた。


「次は?」

「タオルに酢と酒を少し染み込ませろ」

「少しって?」

「・・・・もう、面倒くさいなぁ」


そう言うと司は浴室のドア開けた。思わず両手で胸を隠す未来だったが、理恵はただ呆然としている。


「あ、あんた・・・」

「タオルと瓶よこせ」


司の目が金色であることを確認した未来はほっとし、理恵はその目を見て驚いた顔をしていた。司はタオルを渡されると霊視眼を解除してタオルにお酢とお酒をまぶすようにしてみせた。それを未来に渡しつつ次の指示もする。


「湯船から出して、彼女の頭にぱらぱらでいいから塩をかけてからこのタオルを体に掛けてあげて」

「わかった」


そう言ってタオルを受け取る未来が自分の胸を凝視している司に気づく。


「凛もお前もでっかい胸してるけどさ、これって重くないわけ?」


完全に黒目になっている司を引きつった顔をして見やる未来。そんな未来を見てにんまり笑う司。


「あんたは・・・・出てけぇぇ!」


桶で頭を殴りつけ、脱衣所に戻した未来はぴしゃりと扉を閉じる。普通にタオルを渡された時に気づくべきだったとは思うが、思いっきりそのままの胸を見られた羞恥心に顔を赤くし、それでもゆっくりと丁寧に理恵を湯船から出した。殴られた痛みを消すように頭をさする司は不満そうな顔をしつつ霊視眼で中の様子を探る。


「あの人・・・変わってますね」


弱弱しい声ながらそう言う理恵に未来は苦笑した。


「そう、変人だよ」


胸の上からタオルをかけ、下腹部にかけてそれを伸ばす。


「したけど?」

「そしたら左手を胸に添えろ」

「した」

「よし」


司は未来がはめているブレスレットに霊圧を送る。ぶつぶつと祝詞を口にしながら目を閉じた。


「なんか、熱い感じ」


理恵がそう言うが、実際に未来の左手も熱くなっていた。そのまま3分ほど経った頃、その熱さは消え失せた。


「後はお前の手に塩と酢と酒を適当にまぶしたら、そのままの手で彼女の体を洗うようにしろ」

「手で?」

「そう。隅から隅まで全部だぞ」


その言葉に思わず赤面した顔を見合わせる2人。未来は愛想笑いをしてから言われた通りに両手に塩と酢と酒をまぶし、まずは首筋から体を洗うようにしていった。


「憑かれていた時、お風呂入ってたの?」

「さぁ?」

「だよね・・・」


意識を封じられていた理恵が知る由もない。未来は背中に胸、腕と上半身を手で洗っていった。変な感じに照れてしまうが、これも大事な仕事なのだ。


「じゃ、じゃぁ、その・・・失礼しますね」


未来は困った笑顔を見せつつそう言うと、理恵も顔を赤くしてうなずいた。そうして下腹部へと手を置く。


「あの人、凄いんですね」

「え?」


お尻と股間を洗われつつ理恵がそう言った。そのまま腰を洗い、太ももに移動する。


「気がついたら、あの人がいて、なんか怖くって暴れてたら、大丈夫だよって言われた」

「あぁ、みんなそうだよ。んで、あいつがああ言うとさ、安心できるよね」


自分にも経験があるだけに理恵の気持ちは理解できた。理恵はその言葉に頷き、小さく微笑んだ。


「大丈夫、もう怖いものはいないよ・・・・たったそれだけの言葉で安心できた」

「うん、安心するよね」

「本当に助かったんだって思った」


足の裏がくすぐったいのか、少し身をよじるようにしながらそう言う理恵に微笑む。


「できたよ」

「おう。じゃぁシャワーで流して、髪洗ってやれ。それでおしまい」

「髪は普通でいいの?」

「ああ、いいよ。じゃぁよろしく」

「どこ行くの?」

「リビング・・・ここ暑い」


そう言うと司はさっさと出て行った。未来は相変わらずな司にため息をつき、そんな未来を見た理恵は小さく苦笑するのだった。



リビングに戻った司の前に冷たいジュースを置いた礼子は深々と頭を下げた。どんな病院もどんな霊能者も治せなかった理恵を完全に元に戻した司にはどんなに礼をしてもしきれない、そんな気持ちだった。


「ありがとうございました。どんなにお礼を言っても足りないぐらいです・・・」

「未来にも言ってやってよね。あいつも頑張ってくれたから」


その言葉に申し訳のない顔をした礼子が再度頭を下げた。未来に暴力を振るったことは真帆には謝っている。真帆にすれば母親ならばみんなああすると思い、気にしないでと返していた。現に未来の怪我はそう大したことはない。


「主人もすぐに戻ると言ってました」

「あ、そう。喜ぶんじゃない?」


自分が除霊をしておいてまるで他人事のような言い方が実に司らしい。真帆はそう思いつつ、苦笑を漏らした。礼子は理恵の着替えを用意しに部屋に戻り、残された司はソファにもたれるようにしながらジュースを飲む。そんな司を見た真帆は軽く司に頭を下げた。


「ありがとう、司君」

「ああ、いいって。でも、未来のおかげかな」

「ドアの阻止?」

「うん。開けられてたら、あいつら部屋から逃げ出してたからね」


そう言って笑う。あいつらが霊を指すことがわかったものの、3年前のトラウマはないのかと思った。ドアを開けられてしまったことで犯罪者のレッテルを貼られたことは記憶が封印しているのか。


「長谷川さんのこと、覚えてる?」


その言葉に司は頷く。表情に変化もなければ雰囲気もそのままだ。


「そりゃあね・・・」

「その時のこと、全部覚えてるの?」

「全部が全部じゃない・・・ただ、祓ったことは覚えてるよ」


望とその母親から受けた仕打ちも、訴訟問題も、司は覚えていない。ただ憑いていたものを祓ったという記憶しかないのだ。心が壊れた、いや、心が死んでしまうことから逃げた結果だろう。その結果、自分が望を好きだったという記憶をその感情ごと消したのだ。そうすることで自我を失うことを回避したと推測できた。憑いていたものを祓った、だがその過程はところどころ曖昧になっている。自分でもはっきりしない記憶に戸惑いもしたが、今となってはそれもどうでも良かった。そして今日、理恵の部屋でのフラッシュバックすらも記憶から消している。それほどまでに傷は深く、治る兆候さえなかった。ただ、なんとなく凛の泣き顔を見た気がしている。いつ、何をしていたときにそれを見たのかは覚えていないが、ただぼんやりとそういう記憶はあった。何故泣き顔だったのかも覚えていない、けれどそれに助けられたような気もしていた。そうしていると未来が風呂から上がり、礼子が理恵を拭いて服を着させる。司は服を着た理恵をお姫様抱っこするとリビングへと運んだ。


「しっかり食べて、栄養つけろ。すぐまた元気になるからな」


抱きかかえられながらそう言う司に頷く。半年で体重はかなり落ち、腕も骨と皮に近い状態だ。未来はあばらも浮き上がった理恵の体が一刻も早く元に戻るように願う。


「ありがとうございます」


理恵はか細い声でそう言うと笑った。


「あとで未来に聞くといい」


その言葉に横にいる未来が怪訝な顔をした。


「何をよ?」

「何食ったらあんなでっかい胸になるのかをね」

「あんたね・・・」


こめかみに青筋を立てた未来が拳を握る。額には絆創膏が貼られていた。礼子が暴力を詫びた後で貼ってくれたものだった。


「そうします」


にっこり微笑む理恵の笑顔を見ればその怒りも消えていく。苦笑する未来ににんまり笑う司。2人を見た理恵は心の底から2人へ感謝をするのだった。

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