前編
どんな番組だろうとも、ジャンルと時間を問わず彼女たちの姿をテレビから見ない日はなかった。現在の芸能界を牛耳るような形で君臨する女性アイドルグループ、それがサークルと呼ばれる5人組だった。様々なアイドルを育て、演出や曲の作成、映像から画像まで全てを取り仕切る総合プロデューサーである浦川康男の絶大なる力をもって雑誌もテレビも彼女たちの姿で埋め尽くされていた。リリースした曲とタイアップしたCMも数多く、固定のファンも多いがアンチも多いアイドルグループ、それがサークルである。浦川の豊富なバックボーンからの莫大な資金もあって、彼女たちはそれぞれが芸能界を仕切る大物資産家たちの女としても権力を握っていた。そんな浦川が密かに凛を狙っていたことは誰も知らない。噂では廃病院のロケで霊的な影響を受けて引退したと言われているが、実際は事務所の不祥事を絡めたことで再契約をしなかったことが原因であるとされていた。各部署からもったいないと言われた凛の突然の引退。浦川にしてみれば凛の全てを手に入れようと動き始めた矢先の出来事だっただけに心残りにもなっていた。ただ、凛が引退を決意した噂を利用すればサークルの5人の話題にも繋がる。そう考えた浦川はサークルにもどこか肝試し的なロケを敢行すべく候補地を探していた。そんな浦川が見つけたのがインターネットでも噂になっていない場所。失われた村にある井戸だった。ただ、その井戸にはかつて他の番組で何回か撮影に及んだ経緯もあり、都度関係者が亡くなるということが相次いで封印された場所になっていた。そういうこともあってあえてそこを選び、各担当マネージャーに日程と場所を告げた。そのマネージャーの1人、大杉南はある不安を抱えていた。凛と同時に芸能関係の仕事から手を引いた元タレントの古賀麻美。タレント時代から友人であったその麻美から聞かされた引退を決めた経緯と凛の引退の真相。そして霊能力少年の話。ロケ地となった井戸でかつての恩師を失った過去を持つ南は麻美に相談しようとコンタクトを取った。そう、言い知れない不安が突き動かした結果だった。それが自分の中にある霊力のせいだとは気づかずに。
6月は地元の祭が行われる行事があり、神咲神社からも神輿が出たり、出店が出たりと大賑わいすることになっていた。信司はその祭りの準備に追われ、この時ばかりは司も美咲もそれを手伝うことになっていた。未来も毎年のように巫女装束に身を包んで行事に参加し、社務所でおみくじやお守りといったものを売る売り子のアルバイトをするのが常になっていた。司も未来も学校が終われば神社に向かってその手伝いをしていた。未来は社務所で物品の整理をし、美咲は屋台の業者に書類を配る。司は拝殿に出された神輿の様子を見に行けば、そこには巫女装束に身を包んだ凛の姿があった。白衣に緋袴姿の凛は元々長い黒髪をしていることもあってかなり似合っている。司は小さく微笑むとそれに気づいて少々顔を赤らめた凛に近づいていった。
「似合ってるじゃん。未来より様になってる感じ」
「そ、そうかな?」
「うんうん、いい客寄せになるよ」
「ひっどい言い方」
「冗談だって」
ケラケラと笑う司の格好も信司と同じ宮司の格好をしていた。元々跡を継ぐのがこの司なだけに、こういった行事では前に出ることが多かった。それに、霊的なことでも近くの神社の宮司たちからも一目置かれている立場でもある。そんな2人を見ていた信司は未来には悪いがお似合いの2人だと思い、目を細めた。
「さて、神輿は・・・・うん、いい感じ」
満足そうにそう言うと司は頷いた。凛も神輿を見れば神々しい輝きに満ちている。近所に住む子供たちがこれを担いで商店街など、近辺を歩くのだ。それに付き添うのが司の役目であり、毎年の楽しみでもあった。
「凛ちゃんには未来ちゃんと2人で社務所にいてもらう」
「それがいい。元アイドルの凛がいるとなれば大賑わいだしな。コスプレもあって大人気間違いない」
にんまり笑う司はそう言うが、凛は自分がアイドルだったとは思っていない。むしろタレントであり、モデルだったと思っている。そんな凛の衣装合わせも終わり、着替えて社務所に戻れば、そこにいたのはなんと麻美と南のコンビだった。何の連絡もなく現れた麻美に驚きつつ、凛は久々の再会を喜んだ。どうやら家に行ったようだが留守だったので神社に来たところ、顔見知りである未来の姿を見てここに案内されたと言うわけだ。
「凛・・・なんかすっかり垢抜けたって言うか、でも綺麗なままね」
「麻美さん・・・あんまりメールも返してくれないし、心配してたんですよぉ?」
凛は目に涙を浮かべながら麻美に抱きついた。あの事件以降、麻美は事務職に就き、完全に芸能関係から足を洗っていた。連絡はちょくちょく取っていたものの、再就職直後で忙しくもあってなかなかメールすら返せていなかったのだ。凛は麻美から離れると隣で微笑む南にも抱きついた。タレント時代はお世話になったこともあり、麻美を通じて親交もあったからだ。そんな様子を見ていた未来も思わず涙ぐんでいると、こちらも着替えた司が社務所に入ってきた。麻美は司に丁寧に頭を下げ、司は一瞬誰かを考えた後でにこやかに微笑んだ。
「その節はお世話になりました」
「いえ、そうでもなく」
相変わらずな態度に麻美は微笑んだ。
「紹介するね、こちら大杉南さん。麻美さんの友人で、私もお世話になった人」
凛の紹介で南が丁寧に頭を下げた。司もまた軽く頭を下げ、お茶を運んできた未来の横に座った。
「普通なんですね・・・」
司を見た南の感想に凛と麻美が顔を見合わせて笑う。霊能者という前情報だけで想像していれば、どこかお気楽な感じの司は予想外にしかならない。
「異常ですけどね、ホントは」
そう言って笑いながらお茶を飲む司に苦笑し、南もまたお茶を飲んだ。
「で、今日はどうしたんですか?」
凛の言葉に麻美は真剣な顔になり、南を見た。南は湯飲みを置くと少し困った顔を麻美に向け、それから凛と司を見た。未来はそれだけで霊的な相談だと判断し、少し下がって様子を観察することにした。
「サークルというアイドルを知っていますか?」
その言葉に未来は頷き、凛は麻美を見た。司は頷くが、明らかに興味がないといった顔をしている。そんな司を見つつ、南は続きを口にする。
「元々事務所でも仕事がなかったような子たちが、演出家の浦川さんの立ち上げたプロジェクトに抜擢されてサークルを結成しました」
ほとんど売れないタレントを5人選抜し、地域に密着したアイドルとして密かに活動をさせてきた。その裏で財界や芸能関係の大物の相手をさせつつ資金を得て大々的に売り出したのがサークルの5人だ。CDの売り上げも金の力で捏造し、あらゆるメディアを買収して彼女たちを特集させた。反対的な記事を書きそうな写真誌すら買収し、彼女たちを強引な手で国民的アイドルに押し上げていったのだ。誰も浦川には逆らえず、ここ最近は彼女たちもまたその権力を笠に着て不遜な態度を取るようになっていると南は告げた。その5人の中でも絶大なる人気を誇る安藤レオナのマネージャーをしている南もまたレオナの態度の変化に戸惑っているという。だが、今回相談に来たのはそんな話をするためではない。
「浦川さんが凛の事件の噂を聞いてね、業界内にあるそれを利用してサークルの人気をさらにあげようと考えているの・・・」
「それって」
そう言う凛が麻美を見れば、麻美も頷く。
「心霊ロケよ」
南の言葉に司を見れば、一応話を聞きながらも素知らぬ顔で携帯をいじっている。そんな司を司らしいと思いつつ、凛は南に続きを促した。
「凛の引退のことも話に混ぜつつロケを行い、注目を集めるってことね」
「でも・・・」
「事件を知っているフリーの広田さんや、他のスタッフもやめるよう進言したそうだけど、聞く人じゃないしね。現に芸能界で彼に意見できる人などそうはいない」
南はそう言うと渋い顔をしてみせる。凛は麻美を見た。麻美は苦笑しつつも頷く。
「止めようとしても無駄だし、そこで麻美に相談したら、例の事件と彼のことを聞いて」
そう言い、南は司を見た。司は携帯をしまうと退屈そうにあくびをしてみせた。
「勝手にさせりゃいいじゃん」
そう言うと司は立ち上がる。
「ま、どこでするのか知らないけどさ、怖い目をしたらいいんじゃない?」
肝試しとか、霊場を荒らすような真似をすることが嫌いな司らしい言葉だ。現に先月の肝試しでの経験があるだけに、凛もまた司を説得することはできない。
「そこ、何度かロケをしたことがあるけど、お蔵入りになるほどいろんなことが起こってるの」
扉に手をかけた司は麻美の言葉を聞いてその動きを止めた。そして顔だけを麻美に向ける。
「どんな?」
ようやくまともな興味を示した司だが、凛からすればそれは興味というほどでもないことは分かる。ただその現象を知りたいと思っただけのことだ。
「ロケの時は異常ないけど、編集中にディレクターが心臓発作で死んだりとか・・・必ず死人が出てる」
「ってことは、その井戸になんかいるんでしょ」
「司ぁ、行ってあげたら?」
あまりに素っ気無い司に対して未来がそう言うが、司は深いため息をついた。
「そいつらがそういうのを知ってて行くわけでょ?覚悟があろうがなかろうが、知ったこっちゃない」
「司君・・・止めることはできないかな?」
戸を開けかけた凛の言葉に再度動きを止めた。そんな司は戸を見つめたままだ。
「助けるんじゃなく、止めに行けたら・・・」
「止めて、そいつらが止まるならね」
そう言うと司は出て行った。未来はため息をつき、凛は苦い顔をしてみせた。確かに司の言うとおりだ。止めに行ったからといって止まるとは思えない。それに井戸に何かがいたとして、それを倒した司に浦川が注目するのも目に見えている。
「彼の言うとおりだね」
麻美もそう呟き、顔を伏せて苦い顔をする南を見やった。助けてもらえると期待していただけに落ち込む南を気遣いつつ、麻美はロケの日にちと場所を凛に告げた。明後日の深夜、場所はここから近い山の中にある廃墟だった。
「もし、彼がその気になったら連絡ちょうだい」
南は薄く笑うとそう言い、麻美と一緒に神社を後にした。残された凛と未来は顔を見合わせるが、どう考えても司が動くとは思えなかった。危険を承知し、好きで行くのを止めることはしない。ましてや、危険な場所だと知って遊び感覚でロケに行くなどバカのすることなのだ。そんな連中に力を貸すほど司は寛大ではない。井戸の中にいるものがなんであれ、一番命を危険にさらすのは司なのだ。それはあの肝試しで知った事実であり、現にそういう司を見ている。未来も司を説得できる術もなく、そのまま帰宅したのだった。
今日の夕食の当番は美咲であり、美咲の得意なハンバーグになっていた。4人が揃ってご飯を食べる中、凛はチラチラと司を見ている。それに気づきながらもあえて無視をする司を見た信司が美咲を見るが、美咲は小さく首を横に振るだけだった。早々に司が食事を終えて自室に向かう。凛はため息をついてそんな司を見送り、苦い顔をするのだった。
「なんかあったの?」
美咲の言葉に顔をそっちに向けた凛は南から受けた相談を2人に話す。信司にしても美咲にしても司の言うことも一理あるとしていいアドバイスも浮かばない。
「美咲ちゃんの力でその井戸に何がいるかわかんないかな?」
「無理だよ。どこかわかんないし。イメージ湧かないし」
「そっか」
地元の場所ならいざ知らず、よく知らない場所の霊圧を感知することは難しい。知り合いの誰かがそこに行った経験があれば話は別だが、さすがの美咲でも無理があった。
「サークルって人気あるの?」
信司の言葉に美咲と凛が顔を合わせた。
「人気はあるよ。でも、テレビなんかで言うより人気はない感じかな」
美咲の言葉に凛も頷いた。所詮は作られた人気なのだ。その辺は世間でも認識はあり、あまりのゴリ押しに彼女たちを嫌う主婦も多かった。
「まぁ、司は色仕掛けも通じない相手だしね。でも、言い方によっちゃ、行くかもよ」
信司はそう言うと小さく微笑む。そんな信司を見た凛は首を傾げた。
「でも、そういうのを止めてって言ったけど、ダメだったし・・・」
「そういうのがダメなことを見せ付けてやればって言えばどうかな?」
「同じじゃないのぉ?」
美咲はお茶を飲みながらそう言うが、信司はにんまりと微笑んだ。
「そういうのがいかにダメかを説教しに行くって言えば、少なくとも悪い気はしないよな」
「それでも行かないと思うよ」
「言い方次第だと思うけどね」
信司はそう言うと風呂場へと向かった。残された凛が美咲を見れば肩をすくめている。美咲は片付けに入り、凛もそれを手伝う。今聞いたアドバイスを未来に相談してみようと思う凛はいい言い回しを考えつつ洗い物をしていくのだった。
「でも、大丈夫なんですか?」
全裸の体を隠すことなくベッドに座るレオナを見た浦川は白いガウンを着たままビールを口にした。ここは都内のホテルの一室。妻子もいる浦川はよくこのホテルを利用していた。いろいろなアイドルや女優と夜を共にするこのホテルの支配人とはかなり懇意な関係にあり、セキュリティや週刊誌の取材などを完全にシャットアウトしたホテルになっていた。そのため、安心して女を連れ込める便利な場所になっているのだ。妻も元アイドルで、こうした関係の後に結婚をしている。そのため、夫が誰と寝ようが咎めることはしなかった。よそで子供だけは絶対に作らない、その条件の元で容認しているのだ。
「所詮は噂だよ」
眼下に広がる見事な夜景を見つつそう言う浦川は目の前に広がる大都会の光すら支配しているような気分になっていた。
「でも死人が出てるって・・・」
「偶然だ」
「先生がそう言うなら」
サークルの5人は浦川を先生と呼んでいる。これは浦川が育ててきた者たち全てがそう呼んでいたからだ。レオナはそう言いながらもどこか不満そうにしながらあぐらをかく。到底アイドルとは思えぬ態度だ。
「でも、桜園凛を利用しなくていいんじゃないですか?」
ますます不満そうにそう言うレオナを見つつ苦笑した浦川はビールを飲み干し、立ち上がった。
「どんな手を使っても視聴率は上げる。それがプロだからね」
「桜園を抱きたかった恨み、でしょう?」
レオナの嫌味に苦笑を濃くした裏川はベッドを降りて背後に立つレオナをガラス越しに見やった。
「そういう意味では霊はいないが、生霊はいるかもしれんな」
笑みを消した浦川の言葉にレオナが苦笑する。
「無理矢理抱いた女の怨念、ですかね」
「言うね、君も」
そう言って微笑む浦川は凛のことを思い出していた。テレビ局で何度か会った程度だが、ああいう清楚系の女を無理矢理汚す快感を得られなかったのが残念だと思いつつ、彼女が霊体験を機に芸能界を引退したという噂は最大限に利用するつもりでいた。霊などいない。怖くもない。怖いのは生きている女の方だ。背後から自分に抱きつくレオナを感じつつそれを実感する。サークルの5人が5人、全員がお互いに敵意を持って活動をしていることも知っている。全員を抱き、全員が自分を独り占めして恩恵を得ようとしている。それが快感なのだ。それにそういう気持ちがさらなる向上心を生んでいるのもまた事実なのだから。
「何も怖いものはない」
「はい」
浦川に抱きつくレオナはそう答えつつも表情は曇っていた。それはロケが怖いのではない。浦川が自分に飽きてしまうことが怖かった。
未来に相談しても返事は同じだった。司はそういうことに首を突っ込むタイプではないということだけが確認出来ただけだ。麻美の事件の際は自分の体内にあったものに興味を示した結果だった。前回は同じ学校の生徒が絡んでいたこともあって嫌々ながら参加した結果でしかない。今回は司が興味を示す事柄でもなく、知り合いに被害が及ぶこともない。勝手にそういう場所に行って勝手に呪われる、ただそれだけのことなのだ。それでも凛にすれば南もよく知っている人物だけになんとか力になりたい。そう考え、明日に迫ったロケを前にもう一度司の部屋をノックした。夕食も終わって入浴も済んでいる。中からの返事を確認してドアを開けばベッドに転がって漫画を読んでいる司が見えた。凛は軽く息を吸い込みつつベッドに腰掛けると、最後のお願いを始めた。
「司君・・・明日のことなんだけど、やっぱり一緒に行ってくれないかな?」
その言葉を聞いた司は漫画を置くと体を回転させて仰向けになった。乗り気でないのは表情を見ればわかるが、それでも凛は言葉を続けた。
「そりゃ、自業自得なんだろうけど・・・でも、南さんには本当にお世話になったし・・・その南さんも危険なわけだし・・・」
「もし井戸の呪いで人が死んでるんなら、俺も危険なんだけどね」
司は小さく微笑みながらそう言う。その言葉を聞いた凛は俯いた。それは痛いほど理解している。その場で何かあれば戦うのは司だ。現に前回の司を見ているだけにそういう不安は常に頭をよぎっている。それでも頼れるのは司しかいないのだ。
「うん・・・それは重々分かってる。だから戦ってほしいわけじゃないの・・・ただ、止めたいだけ」
その言葉に司は身を起こすと頭を掻いた。長めの前髪をかきあげ、長く伸びた襟足も揺れている。
「いいぜ」
「え?」
凛は顔を上げて司を見た。司はどこか不満そうにしつつもあぐらをかき、ため息をついた。
「肝試し反対運動してるからな・・・止めるために行くのなら、行くさ」
「すっごい不満そうだけど?」
「まぁな」
「でも、ありがとう」
「あいあい」
司はそう言うと寝転がり、漫画を開く。そんな司を見つつますます司が好きになっていく。なんだかんだ言いつつも、いつも力を貸してくれる。でも司に傷ついてほしくもない。そう、目的は止めること、それだけだ。凛は司に抱きつきたい衝動を堪えて立ち上がる。そんな凛を横目で見た司は漫画を置くと頭の後ろで手を組んで正面から凛を見た。
「芸能界に未練はないの?」
突然の言葉にその意図を探ろうとするが、分かるはずもない。凛は少し考え、それから答えを口にした。
「未練はないよ。1人で生きていくために働いていたってだけだし」
「そっか」
「なんでそんなことを?」
「確認しただけ」
「確認?」
意味がわからず怪訝な顔をした凛に司は小さく微笑んだ。
「撮影を見たら心が動くかなってさ」
その言葉に微笑を返し、凛は司に近づいた。
「それはないよ。今の生活の方が楽しいし、充実してる。それに、司君といると退屈しないし」
「怖い思いも、もれなくついてくるけどな」
「怖くないよ」
「え?」
「司君が一緒なら、怖くないよ」
きっぱりとそう言う凛に口元が緩む。
「どんだけ信頼してんだか」
「心の底から信頼してる」
凛の言葉に嘘はない。司がいれば大丈夫、そう思っている。そんな凛を見た司はため息をつくと身を起こし、手でベッドに座るように指示した。思わずドキッとするが、期待するだけ無駄だ。
「左手をかざして強く願うんだ・・・怖いものはあっちに行けってね。それだけで霊的な防御は働くんだよ、誰にでも」
「それだけで?」
「死んだ人間の感情よりも生きた人間のそれの方が厚みがあるから」
「そうなんだ」
「だから、いざとなったらそうしてみな」
「わかった」
左手のブレスレットを見つめつつそう返事をした凛ににっこり笑った司はまたもベッドに伏せるように寝転がって漫画を読んだ。相変わらず照れもなければ緊張も見えない。自分はこんなに愛おしくて苦しい想いをしているのに。そう思った凛は司の背中に重なるように乗っかった。凛の重みで漫画を読めなくなってしまった司は手足をばたつかせて抵抗するが、凛はわき腹をくすぐって攻撃する。身をよじってそれから逃れた司が逆襲に転じて凛をくすぐり、2人は狭いベッドの上を転がりながらくすぐりあった。やがて息も切れてベッドの上で息を切らす。上下に逆さまになった2人は服も息も乱して動けずにいた。そんな2人の様子を見ているのはあまりの騒がしさにドアを開けてやって来た美咲だった。腹を放り出して髪も乱れた司が息切れをし、凛も胸が見えかけまでパジャマがめくれあがった状態で激しく息を切らせている。そんな2人を見た美咲はため息をつくと何も言わずにドアを閉めた。
「普通ならエッチした後みたいな感じなのかな?」
理解不能といった感じで自分の部屋に戻った美咲はテレビを見るのだった。
通学時間は同居しているとはいえ3人ともバラバラだった。中学校の方が遠いために美咲が先に家を出て、それから凛が出かける。凛は時間的に未来と同じになることも多く、最後に遅刻寸前で司が登校するのが日常だった。今日は未来には会わず、下駄箱の前で裕子に遭遇した凛はにこやかな顔で挨拶をする。
「あら、今日は早いんじゃない?」
「おはよう。うん、早い」
裕子がいつも登校してくるのはもう少し遅い。だが時折こうして一緒になるか、もしくは凛より早い時がある。肝試しを計画した際など、イベントが絡むと早いのが裕子の特徴だった。
「来週のお祭り、凛の晴れ姿を見に行くからね」
その言葉を聞いた凛は一瞬顔を赤くするが小さく微笑んで頷いた。凛が巫女として働くことは連絡している。アルバイトということになっているが、信司からお金をもらうことは拒否している凛は、それはせめてもの恩返しと考えていたのだ。
「巫女装束の凛の写真も撮るね」
「みんなとも撮りたい」
「もちろん!でも単体もたくさん撮れば、儲かるしねぇ」
その言葉に凛は深いため息をついた。どことなく想像がついたこともあってのため息だが、裕子はニヤニヤしているだけだった。
「未生にだけは売らないでね」
「えー、一番高値で売れそうなのに」
裕子の言葉に睨みをきかせつつ教室へと向かう。
「神手とのツーショットも撮ってあげるからさ」
「別にいいよ」
「遠慮しなさんな!それ見て夜な夜な悶々としなさいって」
「・・・しません!」
少し顔を赤くした凛の言葉に裕子は苦笑する。はっきりと司の心のことを聞いたわけではないが、自分を浄化させるために自分も上半身裸になってみせたことや、その他の言動からして凛の気持ちは理解している。だが、噂通り司の心が壊れている以上、裕子にはどうすることもできない。ただ来武の空回りや、それをあしらう凛を見るのが楽しいこともあって興味は尽きない状態にあった。教室に着き、すでに登校していた万里子に挨拶をすれば、今日もさわやかな笑顔と共に来武が近づいてきた。
「やぁ、おはよう」
「おはよう」
女子3人に挨拶されてご満悦の来武は今日も眼鏡に髪を束ねた凛を見つめていた。想いは募るばかりだが、凛の心には司がいる。もっとも、その司は凛を女とは見ていない。ここは押して押して押しまくる、そう決めている来武は今日も今日とて空回りを始めるのだった。
「凛、祭りで巫女になるんだって?いや、神の巫女・・・凛にふさわしいね」
「ただのアルバイトだけどね」
「いやいや、まさに巫女だよ、高潔で純粋なる巫女だ」
まるで自分に酔いしれているような台詞に凛はため息をつき、裕子と万里子は顔を見合わせて苦笑した。
「なら神様は神手かな」
わざとかき回すような裕子の言葉に来武の眉がピクリと動く。そう、実際にわざと来武を煽った裕子を睨むが、裕子はそっぽを向いてニヤついていた。
「ありえない・・・しいて言うなら、あいつはただの神主だな」
「神主と巫女、神社を継ぐならお似合いだね」
万里子の煽りも効果抜群だ。来武は咳払いをして場の空気を変えると凛に向き直った。
「愛を知らない神主など、実に非常識だよ」
「それはそうかも」
万里子の納得に裕子が肘で突いて無言のツッコミを入れた。万里子は舌を出して誤魔化すが、来武を増長させるのには十分だった。
「ま、その辺は確かにそうだね。でも私が勝手に好きなだけだし」
思わず本音が出た凛はあわてて両手で口を塞ぐがもう手遅れだ。来武ははっきりと凛の口から司が好きだという言葉を聞いて意識を失ったかのように立ち尽くし、裕子と万里子は最大のニヤニヤで凛を見ていた。凛は顔を赤くするとそそくさと自分の席に着いてしまう。
「応援しようがないけど、幸せは祈りたいね」
その言葉に万里子も頷くが、来武は死んだように動かないままだった。
授業中にも関わらず豪快に眠る司を無視する教師に、教室では失笑が飛び交っていた。遅刻ギリギリにやって来た司はそのままほとんど1日を寝て過ごすという荒業をやってのけ、昼休みと放課後に担任に呼び出されてこっぴどく説教をされたが効果はない。本日唯一の活動になる渡り廊下の掃除をしつつもあくびをする司に近づいた同じ掃除当番の未来はほうきをバットのようにスイングさせてそのお尻を叩いた。パシーンという小気味いい音が響き渡る。
「いってーな!何するんだよ!」
ズボンが裂けたかのような衝撃に眠気も吹き飛ぶとお尻をさすって未来を睨む。未来はほうきを床に立てながらそんな司を睨み返した。
「なんなの、あんたは!寝っぱなしじゃん!」
「だってしょうがないだろ?今日の夜中はお出かけなんだからさぁ。今寝ておかねーと辛いもん」
他の掃除当番の子が遠巻きに見ている中、2人は睨み合う。例の噂もあって司は孤立状態にあるが、絡んでいる未来が幼馴染であるために未来も仲間はずれにされることはなかった。そんな2人を残し、掃除を終えた生徒たちはさっさと廊下を後にする。
「出かけるって?」
「そ」
「ってことは・・・あんた行くんだ?」
「そういうこと」
「へぇ。凛さんの言うことは聞くんだ」
軽い嫉妬がそこにある。だが、司は涼しい顔をしてほうきを担ぐようにしてみせた。
「別に。止めたいって気持ちがわかるからな・・・まぁ、行くだけ行くって感じで」
「ふぅん」
司はそういう人間だ。元々優しく、頼み事はほとんど断らない。そんな司に表情を緩めた未来は鼻でため息をつくと司に近づいた。
「サークルのサイン、貰ってきてよ」
「やだよめんどくせー」
「じゃあ凛さんに頼むか」
そう言うとそそくさと廊下を後にしていく。そんな未来の後ろ姿を見つつ司も教室に向かうが、昨日からどうにも嫌な予感が止まらない。こういう時は必ず何か危険なことが起きる、そんな気がしていた。
問題の井戸があるのは住宅地の外れにある開発が途中で破棄された山を切り崩した場所にあった。うっそうと生える竹やぶの中にあり、それだけで不気味な感じを漂わせている。ここは地元の人も祟られるということで絶対に近づかない場所であり、肝試しすら行われることがない禁断の場所になっていた。廃屋は大きな一軒家であり、木造2階建ての古い日本家屋だ。屋根も壁も少し傷んでいるものの崩れてはいない。中も埃っぽいが家具もそのままで、掃除をすれば今でも十分住めるほどの状態を保っているのだった。その家の裏に庭のような場所があり、そこに問題の井戸があった。正面入り口ではなく、裏の壊れた勝手口から入ればすぐ正面に位置している。そこで勝手口付近にライトを設置し、そこを照らす。また、正面入り口にもライトを配置して廃屋の全景を撮影できるようにしていた。それに加えてテレビ局お抱えの霊能者も呼んでいる。司に言わせればほとんど霊力も霊圧もないただの人間だったが、それでも霊を感じることができるほどの霊力は備えている人物だった。サークルの5人は移動用のマイクロバス内で待機しつつも会話はない。普段は仲の良さをアピールしているが、実際は泥沼の関係にある。正直こんなロケなどやる気は出ないが、今日は浦川も参加とあって緊張感もあった。なによりこういったロケが怖いという気持ちもあってバスの中はいつもにも増して静かなものだった。まずは外観を撮影しつつスタッフが動き回る。レオナのマネージャーである南は何度も時計を確認するが、まだ麻美たちの姿はなかった。昨日、凛からの報告を受けて麻美が2人を連れてくることになっている。だが、遅れているのかメールも電話もない状態になっていた。もっとも、ここは圏外ギリギリの場所であり、アンテナは立っても1本程度でしかない。
「楽しみですねぇ」
「何がですか?」
南を含めた各マネージャーに近づいてきた浦川はそう尋ねる南を見て小さく微笑みを見せた。
「何が出るか、だよ」
「出れば霊能者が反応しますよね?」
メンバーの1人である中村アイルのマネージャーをしている三田が不安そうに霊能者を見ながらそう言う。霊能者はゆっくりと廃屋の周りを見ているだけで何の反応も示していなかった。
「霊などいないよ」
浦川はバカにしたようにそう言うとディレクターに指示を出した。やがて5人が呼び出されて本格的な撮影が開始される。まずは正面入り口に立った形で撮影が行われる運びとなっていた。
「井戸の中、見ました?」
南の言葉にフンとため息をついた裏川は腕組みをして玄関先に並ぶ5人を見つめていた。
「小さな社に人形・・・リカちゃん人形みたいなのが転がってたよ。明るいうちに撮影させておいた。仕込みでいろいろ持ってきたけど、いらなかったな」
その言葉に三田も、他のマネージャーもゴクリと唾を飲み込んだ。仕込み、いわゆるやらせではなく本当に放置されているものだとすれば、恐怖は煽られる。
「霊能者に言わせれば、どっかのバカが入れたものだとさ」
浦川の言葉にホッとする面々だったが、南の不安は尽きなかった。
「じゃぁ冒頭からいきまーす」
ADの声に5人が並び、撮影が始まった。家が放置された経緯を話し、見ている者の恐怖を煽るが、実際は全てでたらめだ。一家惨殺があったことで呪いを受けた家だとレオナが説明するも、それはすべて台本に書いているいわば脚本にすぎない。やがて正面玄関から中へと入り、各階で撮影が進んでいった。不気味さはあれど撮影スタッフも多いので恐怖心はそう大きくはならない。それでも5人は寄り添いながら撮影を続け、ここでようやく井戸のある裏側へと移動することになった。結局麻美たちが来ないまま裏側の勝手口前に5人が並ぶ。
「この井戸には惨殺された死体が投げ込まれ、それを鎮めるためにある物が置かれているそうなのですが」
「さて問題!それは何でしょう?」
「クイズ番組じゃないって!」
台本どおりのやり取りの中でいよいよ井戸に近づく5人。と、その時すぐ近くに車が止まり、中から3人が出てきた。怪訝そうにする浦川たちをよそにホッとした表情の南が手を振った。麻美はあわてて南に近づくと、麻美を見た浦川もそこへとやってきた。
「古賀・・・久しぶりだが、どうした?」
「浦川さん、ここ、ヤバイです!」
「はぁ?」
「すぐに撤収を!」
あわてた様子の麻美はどこか震えていた。ここに来るまでに何かあったのかと思った南がそれを問いかけようとした矢先、裏口の撮影チームに怒声があがった。
「こら!撮影中だぞ!」
「カットカット!」
その声を聞いた浦川が小走りでそっちに行けば、5人を押しのけた司がじっと井戸を見つめていた。
「ちょっとぉ・・・なに?あんた、さ・・・」
レオナの声にも反応を示さない司はそのまま屋敷を見上げる。
「なんだお前は!」
詰め寄るディレクターを押しのけた浦川の登場にスタッフが少し下がれば、そこにいる人物に驚きの顔をした浦川がすぐにそれを笑みへと変えた。
「これはこれは・・・桜園凛じゃないか・・・」
「浦川さん、お久しぶりです」
「ああ。で、なに?」
「ここ、危険です。すぐに撤収をしてください」
その言葉に浦川も、そしてサークルの5人もバカにしたように小さく笑った。
「危険などない」
「あるんです」
「あったら霊能者が反応している」
その言葉に頷く女霊能者を横目で見た司は呆れた顔をしてみせた。
「おばさん・・・少ない霊力でもわかるでしょ?こいつ、ヤバイってさ」
そう言って井戸を指差す司を見た浦川は不機嫌そうな顔をすると凛の肩を掴んだ。
「あれがお前を助けた霊能者か?」
その言葉に凛は頷く。さらにくすくす笑う5人を無視し、浦川に詰め寄った。
「逃げましょう、本当に危ないんです!」
「ほぉ」
そう言い、浦川は凛の周りをゆっくりと歩く。その間、司はただじっと井戸だけを見つめていた。そんな司の瞳が金色に見えるレオナだったが、ライトのせいだと気にも留めなかった。
「なぁんにも起こらないな・・・」
確かに何も起こらない。凛は司を見るが井戸を見たまま動いていない。ただ、女霊能者が勝手口から出て行くのが目の端に見えているぐらいだ。
「こういう撮影ってさ、時間との勝負って知ってるだろう!」
怒声に凛が体をビクつかせた。周囲の緊張も張りつめる。それでも凛はしっかりと浦川を見ていた。
「どう償うつもりだ?ええ!」
「とにかく撤収を」
「撤収したら大損害だぞ?お前にそれが補填できるのか?」
その言葉に黙る凛が司を見ると、司は手をかざそうともせずただ井戸を見ているだけだ。車の中で強烈で邪悪な霊圧を感じると言っていた司だけに何かあると思ったが、ここにはいないのだろうか。
「どうするんだよ!おい!」
よそ見をする凛が気に入らない裏川の怒鳴り声に凛は激しく動揺していた。そんな凛を見た浦川は醜悪な顔を凛へと近づけた。レオナはそんな浦川から視線を外す。
「お前が俺の女になるなら、補填してやってもいいが?」
その言葉にレオナはピクリと反応をする。今は誰よりも浦川の心を掴んでいるという自負があった。他のメンバーよりも、他の女優やアイドルよりも寵愛を受けているという自負が。それなのに浦川の興味は凛に向いている。激しい嫉妬をする中、レオナは凛を睨んでいた。
「全員、ここから離れろ」
ようやくそう口にした司の言葉に全員がそっちを向いた瞬間だった。ズズズという地鳴りのような振動の後、井戸の中で何かが動くような音が響いた。
「この家自体がヤツの住結界だったのか」
司はそう言うと井戸から離れつつ左手をかざす。その手首に数珠はなかった。あわてて駆け出す凛は敷地を出ると麻美と南の手を取って車へと向かう。何かあればそうしろという司の指示だった。
「桜園ぉ!逃げるのか!」
「みんなも早く車に!」
「逃がすかよ!」
浦川がそう叫んだ瞬間だった。ガチャガチャという金属音が井戸から聞こえてくる。それはまるで井戸から這い上がってくるかのような気配を持っていた。
「こいつは・・・化け物だ」
額に汗を浮かべた司は井戸から出てくる黒い霧状のものを見てそう呟いた。サークルの5人はそれを見てその場にへたりこみ、スタッフも言葉をなくしてただ震えている。やがて霧状のものはその先端を尖らせ、無数の刀を持ったような形に変形を始めた。
「断!」
右手をかざしてそう言うと5人の元に駆け寄って左手をかざした。呆けていた5人は正気を取り戻すと恐怖にかられて絶叫しつつ外に向かって駆けた。その絶叫に我に返ったスタッフも逃げ出し、裏庭には司だけとなる。
「竜神を呪ったのか、竜神が裏返ったのか・・・」
その強烈な霊圧は自分と同等だ。ヘタをすれば全員が殺されるかもしれない強烈な邪気に司は両手をかざしてみせた。ついさっきまで井戸からは何も感じなかった。それでも何かいる気配はしていたが、まさか井戸の中にいるモノが住結界を張って司にすら自分の居場所をかく乱するとは予想外のことだった。スタッフたちは皆バスに乗り込んでエンジンをかけようとするが掛からない。それは麻美の車も同じだった。
「あいつのせいなの?」
「多分」
麻美の質問に凛が答えた瞬間、激しく車体が揺さぶられる。悲鳴を上げつつシートに掴まるが、揺れは収まる気配を見せない。それはマイクロバスも同じだった。
「なんだこれは!」
浦川の絶叫すらかき消す全員の悲鳴。それを見た司は舌打ちし、左手をそっちに向かって振るった。
「二の術、防!」
その瞬間、車の揺れが止まった。窓から裏庭の方を見た凛はこっちに霊圧を割いた司を見て前回の肝試しを思い出していた。果たしてこちらに霊圧を割いてなんとか出来る相手なのだろうか。不安がよぎるが自分にはどうすることもできない。井戸から出てきた刃物の塊のような黒いものはガチャガチャと不快な音を鳴らしつつ徐々に司に近づいた。
「乱!」
その瞬間いくつかの刃物が霧散するが、それはすぐに再生する。
「人形か・・・誰かがあの人形を動かして、それで・・・・」
そう呟く司は右手を差し出したが、その右手に黒い刃物が突き刺さる。いや、それは手のひらで受け止められているが、容赦なく数十本の刃がそこに集中して飛来した。たちまち片膝をつき、左手で右手首を押さえつつなんとかそれに耐える。そうした瞬間、また車が激しく揺れだした。
「あっちの『防』程度の霊圧じゃ・・・・くそ」
地面にめり込む司の膝。さらに無数の刃が司に迫り来る。
再び揺れ始めた車だったが、さっきよりはまだましだ。だがあの井戸の怪物が司の霊圧よりも上なのだろうことは凛にでも理解できた。凛はブレスレットを右手で押さえながら必死で揺れに耐える。そんな時、昨日司から聞いた言葉を思い出していた。凛は揺れる体を右手で支えつつ天井に左手をかざす。それを見た麻美はハンドルを握り締めたまま動けないでいた。南もまた助手席でシートベルトに掴まるのがやっとだ。徐々に心は恐怖で支配されていく。死にたいとすら思えるほどの恐怖に心が汚染されつつあった。
「怖いもの、どっかへいけ!向こうへいけ!いっちゃえ!」
絶叫する凛の言葉と同時に揺れが少しましになる。前で揺れているバスに比べれば止まっているようなものだ。凛は叫び続けた。怖い気持ちはみんな同じなのだ。麻美も、南も、そして司も。それでも司は怖くないと思いながら戦っている。そう思える凛はありったけの勇気で叫び続けた。
「向こうへいけ!消えちゃえ!」
ただ自分の中の恐怖と戦う。
「消えちゃえ!」
いつも笑っている司の顔を思い出す。
「向こうへ行け!」
フラフラになりながらも戦った司の姿を思い出す。
「怖いもの、消えろ!」
優しい笑顔を思い出す。
「来るなぁ!」
少しでも司の力になりたい。ただそう思って叫び続けた。
凛たちに回している分の霊圧が少し厚みを増すのを感じる。今にも突き刺さりそうな無数の刃を右手で受け止めつつそちらを見れば、霊圧のバリアが見えていた。
「凛、か・・・」
そう呟き、司は小さく笑った。その瞬間、膝を浮かして刃を押し返した。
「そっちの霊圧、回収だ」
そうして左手を振るう。
「防、断!」
両手をかざしてそう言えば、刃は大きく後退して井戸の上で霧状になり、再度刃の形をとり始めた。
「浄化も消滅も無理・・・なら・・・」
そう言うと胸の前でなにやら指を組み合わせて印を作るとそれを霧に向けた。
「十六の術、禁!」
その言葉と同時に刃が全て消滅した。その隙に裏庭を出た司はマイクロバスへと走る。揺れは収まっており、運転手が悲壮な顔をしてハンドルに掴まっていた。
「エンジンを掛けてここを離れろ!近くのコンビニの駐車場へ行け!」
そう言い、ドアを右手で大きく叩く。運転手はあわててエンジンをかければそれは呆気なく掛かり、運転手はすぐにバスを走らせた。そのまま麻美の車に向かった司が同じようにしようとした刹那、無数の槍状の黒いものが雨のように降り注ぐ。左手を天にかざして目に見えない壁でそれを受け止めつつ、麻美にエンジンをかけるよう指示した。
「『禁』が少ししか効果ないとか・・・やっぱ堕ちた神か」
左手をかざしつつ攻撃に耐える司は車のエンジンが掛かったのを確認した後、両手を空に向けた。
「正直、疲れるんだけど・・・・・言ってる場合じゃないかぁ」
そう呟くと祝詞を唱える。
「まったく・・・凛、大きな貸しだからな」
その声は車内で左手をかざす凛の頭に直接響いた。思わず頷く。そんな凛の気配を感じた司が小さく笑った後、その表情がぐっと引き締まった。
「くらえ!封神十七式、重ね・・・・流星乱舞!」
左手を右手首に沿え、その右手を天にかざした。そこから光の矢が黒い霧に向けて放出される。何本、何十本、何百本、いや数え切れないほどの光の矢が右手からほとばしり、黒い霧を押し返しているのだ。
「すごい・・・・」
凛のつぶやきが理解できないのか、麻美と南は顔を見合わせる。凛には見えている無数の光の矢、それが2人には見えていない。ただ黒い靄も消えうせ、司が天に右手をかざしているだけだ。光の矢は霧を天に押し上げ、今度はそれを下へと打ち下ろす。そこは井戸だ。黒い霧は光の矢で強引に井戸の中へと押し返されていた。完全に霧が井戸に消えてもその中に振り注ぐ億千の光の矢。そのまま司は目を閉じると井戸の方へと意識の目を向けた。そしてその目を開く。金色に光る目を。
「人形を・・・・」
光の矢は黒い霧を井戸の底のさらに下に追いやり、そのまま倒れていた人形を動かしていく。そうして人形は社にもたれかかるようにして座ると、髪を揺らしつつ両手を前に突き出した。
「よし」
つぶやいた司が車の後部座席に乗り込んだ。
「出して!」
その声に麻美が反応して車を急発進させる。最後の矢の束が井戸に消えた頃、車はもうそこにはなかった。残されたのは撮影機材によって照らされた廃墟だけだ。大きく肩で息をした司は両手に数珠をはめつつ、汗だくの顔をしてシートに身を任せていた。そんな司の汗を拭く凛。
「凛、なかなか見事な術だったよ」
汗を拭き終えた凛を見ずにそう言い、口元がほころぶ。凛はその言葉にブレスレットを見て、それから司を見やった。
「夢中だった・・・司君を助けたくて」
「助かった」
微笑む司が凛を見れば、申し訳なさそうな顔をしている。
「ゴメンね・・・また、危険な目に・・・」
「折り込み済みだよ」
そう言って微笑んだままの司を見た凛は小さな声でありがとうと言った。端から見ればいい雰囲気なのだろうが、実際はそうではない。それが悲しくもありつつ、それでも凛はどこか心が満たされるような気がするのだった。