前編
地元の山には廃村というものが存在している。山といっても普通の山ではなく、森に近いものだった。住宅地の外れに位置するその森を少し進んだ場所にそれはあった。実際には村と言いながら朽ち果てた家が4軒ほどある程度だ。森は地すべりの危険性があるとかでバリケードで進入できないようになっていたが、子供たちの遊び場にはもってこいの場所でもあった。ただ、絶対にその廃墟には近づかない、それが暗黙のルールになっている。数年前、ここに忍び込んだ小学生5人のうち1人が行方不明、4人が事故死するという事件があってからここに近づく者は呪われると噂されて、子供たちは皆親にきつく言われているのだった。もちろん、その他にも結構な被害が出ているが、それは子供を怖がらせる親の嘘ということになっている。そんな中でも肝試しを行う愚かな者もいる。だが、年に数人はその肝試しの後で死人が出ているのもまた事実だった。森を切り崩して再開発するということも検討されたが、業者が入るたびにいろいろな事故が発生してからは誰もここに手を出すことはなくなった。この廃村には何かがいる、そういう噂だけが浸透しているのだった。
ようやくの週末にテンションも上がった。昨日新しく買った携帯ゲーム機の新作人気ソフトを徹夜でする気満々な神手司は帰宅してしばらくしてからお風呂に入ろうと考えた。さっさと風呂に入り、さっさとご飯を食べてさっさとゲームをする。それしか頭になかった。キッチンへ向かうとご飯の下準備が出来ていた。いい香りに空腹感が増大するのがわかる。司はリビングのソファに座って漫画を読んでいる妹の美咲に声をかけた。
「凛は?」
「しらなーい、部屋じゃないの?」
「あ、そう」
桜園凛が居候するようになって一ヶ月が経っていた。夕食など、家事は全員で分担している。日替わりでローテーションを組んでいるのだ。母親を亡くしているために美咲も司も料理はできる。なので美咲、司、凛の順番で家事を回していた。用があればローテーションをずらして交代する。そこは臨機応変に動いていた。今日は凛の当番だ。あと15分もすれば一家の主である信司が帰宅して夕食になる。その前に風呂に入ろうと浴室のドアを開けた瞬間、バスタオルで体を拭いていた裸の凛がそこにいた。
「あ、ここにいたの?ゴメンゴメン。出たら教えてね」
身体を隠すことも忘れて固まる凛にそう言うと、にっこり笑った司はドアを閉めてリビングへと向かう。相変わらず女性の体に興味などない司にため息しか出ない。居候するようになってからリハビリ的なことは一切していない。時折こうしたハプニングがあれど、焦るのは自分だけで司は平然としていた。何とかしたいとは思うが、どうしていいかが分からない。いっそのこと夜這いでもと思うが、迫ったはいいが司に素の顔をされたときの自分を想像して死にたくなる。もう一度深いため息をついた凛は部屋着に着替えると髪を乾かしてキッチンへと向かった。
「司君、出たから」
「あいあい」
リビングに顔を出してそう言えば、ゲーム機をテーブルに置いてにこやかにしながら鼻歌混じりに風呂場へと向かう。そんな司を見つつキッチンで夕食の仕上げをしていく凛は一度司と話をしてみようと考えるのだった。そうしてすぐに信司も帰宅し、カラスの行水な司も風呂から上がって椅子に座る。そうして夕食が始まった。一家揃って食卓を囲むのが神手家での決め事だ。司はゲームをしたい一心で噛むことすら煩わしいほどのスピードで平らげていく。そんな司を見つつ、信司は何も言わない。
「お姉ちゃん、後で宿題見て欲しいんだけど」
「うん、いいよ」
「数学嫌いなんだよねー」
「あー、わかる」
美咲は凛のことをお姉ちゃんと呼んでいた。かなり懐いており、凛も美咲を本当の妹のように接している。時々2人で仲良く寝ているほどだ。
「凛ちゃんは受験生でもあるんだぞ、ほどほどにして自力でどうにかしなさい」
信司の言葉に冷たい視線を投げる美咲に苦笑する。信司はため息をつくと味噌汁を飲んだ。2年間の一人暮らしもあって、凛の料理の腕もなかなかのものだ。そう思う信司をよそに凄まじい速さで食事を終えた司が両手を合わせた。
「ごちそうさま!凛、美味しかった」
にんまり笑ってそう言う司に少し頬を染めた凛が頷く。司は相変わらず年上の凛に対して敬語も使わなければ呼び捨ての状態だった。それでもこうして料理は褒めてくれるし自分がコーヒーを飲む際には入れてくれる優しさも持っている。凛にすればその方が家族のような気がして嬉しく、とがめることはしない。司に対する恋心はあれど、肝心の司にはそれがない。失っていることもあって永遠の片想いのようになっているのだった。いつかは本当の家族になりたいとは思うものの、それが叶うことはない。立ち上がる司を見て小さなため息をついた矢先、インターホンが鳴り響いた。
「司」
信司の声に不満そうにした司がモニターを見る。カメラ付きのインターホンなので鳴らした相手が見えるのだ。司は通話ボタンを押すと素っ気無く言葉を発する。
「何か用か?」
『なにその言い方、せっかく苺を届けにきたのにさ』
幼馴染である蓬莱未来の声がキッチンに響くが、司はあからさまなため息をついた。
「いらない」
「いるって!」
拒否する言い方をしてさっさと自室へ向かう司に代わって美咲がそう叫んで玄関へと走った。信司と凛は顔を見合わせて苦笑するしかない。玄関を開ければビニール袋に入った苺を差し出す未来がいた。美咲は嬉しそうに笑うとそれを受け取った。田舎から送ってきたもののおすそ分けだ。
「司は?」
「部屋でゲームだと思うよ」
「そう。じゃぁさ、8時ぐらいに行くって言っといて」
未来の言葉に苺を覗きこんでいた美咲がその香りを嗅いでうっとりとした顔をしてみせた。
「ゲームに必死だから言ったら逃げるかもよ」
そう言って奥から出てきた凛に頭を下げる。どこか若奥様の風格を漂わせている凛を見つつ、未来は腕組みをしてみせた。凛が言った言葉に納得しつつ、怖い顔をしてみせる。
「ですよねぇ・・・」
「もうさ、勝手に押しかけちゃえば?」
「そうすっかな」
美咲の言葉に頷き、未来は8時に来ると言い残して帰っていった。ドアに鍵をかけながら司に用事となればそういう方面しか思いつかない。そして凛には少し思い当たる節があった。それは今日、学校で話題になった廃村のことだ。それを思い出しながらキッチンへ向かう凛はどことなく嫌な予感がするのだった。
凛の友達でもある鈴木裕子の提案が発端だった。来週の週末にでも廃村へ肝試しに行こうというのだ。それは本格的に来る夏に備えての慣らし運転だと言う。つまり、夏休みになれば高校生活最大の思い出として1泊2日の肝試しツアーを敢行するとし、その前の慣らし運転として近くの廃村を選んだというものだった。ただ、慣らし運転にしては少しハードすぎる場所だ。何人もが被害に遭っていることもあって渋る面々。そこは予想通りであり、対策もバッチリ練られていた。それは非科学的なことは一切信じない男、イケメンで成績優秀な3年生、いや全校でも最大の人気を誇る未生来武を仲間に引き込んだのだ。来武は幽霊や呪いなどといった非科学的なことは一切信じない。そこで廃村へ行き、そういうものがないと論理的に説明をして欲しいと頼んだのだ。正直言ってそういうことを好まない来武だったが、凛も連れて行くといった裕子の言葉を聞いて参加を決めたのだ。そう、来武と凛は中学からの同級生であり、それなりに仲もいい。それに来武は中学時代から凛に想いを寄せている。もっとも、凛は友達にしか思っておらず、携帯のアドレス交換も拒否しているが。とにかく、裕子はそれを見抜いての行動に出ていたのだ。2年生にも同志を募っていると言う裕子が凛に声を掛けたが、凛はきっぱりとそれを断っていた。あの古賀麻美の事件以来、神手家に居候をするようになって霊的なことも勉強したこともあってそういう場所には近づかないようにしていたからだ。司によれば、肝試しというのは姿が見えないからといって生活している家に勝手に上がりこんだ者達がぎゃーぎゃー騒ぎ、好き勝手に写真を撮るといった非常識極まりない行動と同じだというのだ。こっちは向こうが見えないが、向こうはこっちが見えている。つまり、そこに留まっているものにすれば生活を荒らしに来た部外者にしかならないのだ。それに、麻美のように心の中にある嫉妬や憎悪に同調する霊がいるかもしれない。霊圧の高い霊を怒らせれば対抗できる霊圧を持たない人間は殺される可能性もあるのだ。そういうことで凛は断りを入れたのだ。そうなると来武も来なくなり、人の確保ができなくなる。拝んでくる裕子を諭すが聞き入れられず、凛はそのまま逃げるように下校した。そんな自分の隣に並ぶ来武を見た凛は心の中でため息をついた。
「肝試し、行かないのか?」
やはりその話かと思う凛は今度は普通にため息をついた。
「行かない」
「怖いから?」
「そうかもね」
凛は自分が学校関係者以外に司の家に居候をしていることは話していない。学校側も由緒正しい神咲神社の宮司を務めている信司がわざわざ学校に出向いて経緯を説明したこともあってそれを認めていた。それに司と同居していることがバレたりすれば、またも司が心無い仕打ちを受けてしまうからだ。そうしたこともあって、凛は早々に来武を撒くことにした。それに夕食の食材も買わねばならない。
「俺が論理的にそういう現象がないことを証明する、それなら怖くないだろう?そもそも霊なんていないんだし」
「いると思うけど?」
凛が素っ気無くそう言うと、今度は来武があからさまなため息をついてみせた。大きなゼスチャーでやれやれというような手ぶりも交えて。
「最近、神手とかいう2年と仲良くしてるそうだが、感化されたのか?霊感少年とやらに」
「そうね、いろいろ勉強になる」
「あいつには霊感などないぞ・・・そういうことを言って女の子をレイプするような非道なヤツだ」
その瞬間、場の空気が凍る。そして凛は足を止めた。少し先に進んだとろこで来武も立ち止まって凛を振り返れば、睨むような冷たい目で自分を見ているではないか。来武は怪訝そうな顔をしつつ凛の方へと体を向けた。
「それ以上彼を侮辱するなら・・・2度とあなたとは口をきかない」
きっぱりとそう言いきった凛に思わずたじろいでしまう。本気で怒っている目だ。眼鏡の向こうにある大きな瞳に宿る怒り、そして司への想い。
「まさかとは思うけど、凛、お前は、そいつを・・・好きなのか?」
「じゃ」
質問には答えずにさっさと通り過ぎて行く凛を動揺しきりの顔をして追いかける。ありえないことだと思う。中学の頃から仲が良く、一緒に行動することも多かった。芸能界入りしてもその関係は続き、時々は電話もする仲だった。とはいっても家の固定電話だったが。だが、ここ最近はそれもめっきり減っていたが、まさかの事実に来武は顔を青くした。
「なら、証明してみせろよ!」
その言葉に凛は立ち止まって振り返る。長い髪を束ねた部分が大きく揺れた。
「何を?」
「そいつも肝試しに連れて来いよ。霊感があるかないか、来ればはっきりするだろう?」
腕組みしてそう言う来武は小さく微笑んだ。自分は霊感など信じない。来ればそれを覆して言い負かし、凛の気持ちを奪い返す、そういうつもりだった。もっとも、凛は最初から来武を友達としか思っていないが。凛は左手で髪を撫でるようにしつつため息をついた。その手首に光る金のブレスレットが気になったが、今はそれどころではない。
「彼は来ない、私が言っても行くわけない・・・彼の力はそんなことのためにあるんじゃないから」
そう言うと凛はさっさと歩き出す。歯軋りをするような顔をした来武はそんな凛の背中を見つめつつも追いかける。凛はうっとおしさを全開にした顔をするが、来武は構わず真横に並んだ。
「マインドコントロール、されているのか?」
「はぁ?」
突拍子のないことを言うにもほどがある。凛は立ち止まって深いため息をつくと大きく首を横に振った。その反動で揺れる胸へと視線をやる来武に気づいているがあえて無視をした。司にもこういう部分があればと思うが、それは考えるだけ無駄だ。
「霊能者が言葉巧みに洗脳する、お前も・・・」
「じゃ・・・もうついてこないでね。来たら絶交」
それだけ言った凛は明らかな作り笑いをしてから歩き出した。そんな凛の背中を見つつ、ますます洗脳されているのではと思う来武はなんとしても肝試しの場で司と対決し、打ち負かそうと考えていた。
何やら部屋の外が騒がしい。だがゲームに夢中になっている今、そんなことなどどうでもよかった。どうせ凛と美咲が何かを話しながら階段でも上がってきたのだろうと思っていた刹那、勢いよくドアが開いた。驚いた司がゲームもそのままにそっちを見ると、3つの首だけが部屋の中を覗いた状態になっていた。
「何やってんの?」
美咲と未来はともかく、凛までがそういうことをしていることが驚きだ。もう少し常識があると思っていたがそうでもないようだとゲーム機に手を伸ばせば、その手を掴んだ未来が電源を切ってしまった。
「おいこら!何すんだ!」
「携帯ゲーム機は電源切ってもすぐに続き出来るじゃん!」
未来の言葉にカチンときた司がゲーム機を取り返そうと手を伸ばした瞬間、美咲がその手にプリンを握らせた。
「なにこれ・・・」
「ちょっと相談、あるんだよね」
未来がそう言うと、司を囲むようにして女3人が座った。もう嫌な予感ではなく、嫌な実感しか湧かない。3人はそのまま自分のプリンを床に置けば、顔を見合わせてニヤリと笑った。
「食べながら話すけどいい?」
「嫌だと言っても話すんだろう?」
「まぁね」
そう言う未来がプリンの蓋を開ける。駅前にある有名なケーキ屋のプリンであり、1個400円もするがその分味もいい。芸能人としての最後の給料で凛が買ったもので、元々明日にでも食べる予定にしていたのだ。信司の分を未来に回したが、また買えばいい。すでにフライング気味で頬張っている美咲は満面の笑みを浮かべた後でとろけそうな表情を浮かべている。凛も未来と顔を見合わせて嬉しそうにしていた。司だけがしかめっ面でプリンを口に入れた。
「来週の土曜日さ、3年生も含めて肝試しに行こうってなってるんだよね」
やはりそれかと思う凛、どうせそういう話だろうと思っていた司、無関係にプリンを食べる美咲。それぞれの反応を見た未来は続きを話し始めた。
「で、あんたに付いて来て欲しいのよ」
「やだよ・・・俺が肝試し反対運動してるの知ってるだろ?」
「どんな運動よ・・・とにかく、あんたが来れば安心できるし」
確かにそう思う凛だが、今は黙って成り行きを見つめることにする。
「勝手に行けよ」
「場所が場所だけに、怖いんだって」
「なら行くなよなぁ」
そう言いながらプリンを食べる司は明らかに不満そうな顔をしていた。それもそうだと思う凛は自分の分を食べ終えた美咲がじっとプリンを見つめていることに気づく。凛はプリンをすくうとそれを美咲の前に差し出した。美咲はお礼を言うとそれにパクついて嬉しそうに笑った。そんな美咲を見た凛はまるで子犬にエサをやっている気持ちになる。
「だってさ、未生先輩が呪いや霊を科学的に、且つ論理的に解明するって言うんだもん、面白そうじゃん」
その言葉に面白くはないと思うが、凛はそのまま何も言わずにプリンを食べた。どうせ司の能力を見てあーだこ-だと難癖をつけるのがオチだからだ。
「そんなヤツ、ほっとくのが一番。呪われたら助けてやると言っとけ」
「えー・・・行こうよ。行きたいけど怖いしさぁ」
「で、どこに行くわけ?」
司の腕を掴んで揺する未来にプラスチックのスプーンを咥えた美咲がそう聞いた。こういう部分は司によく似ていると思う。司はよくジュースを飲む際にストローを咥えて口で動かすのだ。
「森の廃村だよ」
「あー、あっこはヤバイね、うん、相当ヤバい」
スプーンを咥えたままの美咲の言葉に司から離れた未来が顔を寄せた。
「やっぱ、いるの?」
「うん。前に友達が行こうって言うから見てみたらさ・・・2つぐらいデッカイのがいるね」
「えー、マジでぇ?司ぁ・・・」
美咲の言葉を聞いた未来がますます不安そうにしながら司の腕を掴む。司はプリンを食べ終えて奪回したゲーム機を手にしていた。
「見てみたって?」
凛の言葉に全員がそっちを見た。3人ともがきょとんとした後、何か納得したような顔をしてみせた。
「お姉ちゃん、知らないもんね」
「こいつの霊力は70・・・俗に言う千里眼を持っているわけ」
そう言い、司は美咲の能力を説明した。美咲の霊圧はほとんどないが、ズバ抜けて高い霊力を持っている。普通はそれだけの霊力があれば霊がはっきり見えたり声が聞こえたりと大変だが、それを意識的にカットすることが出来る特異体質をしていた。つまり自分の意思で霊力を完全に切ることができるのだ。そして霊力を最大にした場合、近く、あるいは一度行った場所か知っている人が行った場所ならばその場所を思い浮かべるだけで霊圧の高い霊を見ることが出来る。実際にその場に行かずとも魂の一部を飛ばしてその場に行ったかのようにして霊的なものを感知できる能力を持っているのだった。つまり、友達がそこに行くからと霊視した結果、そこには強い霊圧の霊が2つほど存在しているのだと言うのだ。そんな能力を知らなかった凛は驚いた顔を美咲に向けるが、美咲はにんまりと笑っているだけだ。とてもそんな凄い能力を持っているとは思えない。
「霊圧、どんくらいのやつ?」
司は再度未来に奪われたゲーム機を取り返そうとしながらそう聞いた。
「わかんないよ、そんなのお兄ちゃんじゃないとさ」
そう言うと右手を差し出した。司はゲーム機を後ろに隠した未来を睨みつつ右手の数珠を外すと美咲の手を握った。何をするのかと凛が注目すれば、美咲は唇を尖らせて司を睨むような目を向けた。
「お兄ちゃんの霊圧、痛いんだからさっさとしてよね」
「はいはい」
そう言って手を繋いだ2人が目を閉じた。その瞬間、部屋の中のどこかがパンという大きな音を立てる。その音に驚く凛が部屋を見渡すと、未来が簡単な説明をした。
「美咲ちゃんの力を使って司がそこを見てるんです。今の音は意識がそこへと飛んだ音。まぁラップ音とかいう霊現象ですよ」
もはや理解の範疇を超えていた。司の能力を理解していなければ完全に頭のおかしい兄妹だと思っていたに違いない。
「あー、こりゃ・・・・強いな」
「あー、もう、痛い!げんかーい!」
そう言った美咲が手を離し、ブラブラとそれを振る。司は金色の数珠をはめながら腕組みをしてみせる。
「で、どうだった?」
「かなりやっかいなのがいるなぁ・・・行かない方がいい。刺激したら殺されるぞ」
恐ろしいことを平然と言う司はさっとゲーム機を取り返すとベッドに転がった。まだ手をさすっている美咲とは違い、司にはそういう痛みもないようだ。
「私が行かないでも、みんな行くって」
「呪われるか死ぬぞって言ってやれ」
「言っても信じないって」
困った顔をする未来を見た凛は少し考え込んだ。裕子も自分が説得したところで行ってしまうだろう。来武はどうかわからないが、確実に数名は呪われるか、へたをすれば殺される。
「司君、行ってくれないかな?」
その言葉に未来は凛を見た。司はゲームをしたままだ。
「私も誘われてて、行く気はないけど、友達が危険なら・・・・」
「それも自業自得・・・と言いたいけど、まぁ、行って怖い目に遭わなきゃバカは治らないってか」
「行って、くれる?」
「プリン程度じゃ納得しなからな」
ゲームをしながらそう言う司を見た未来と凛は顔を見合わせて笑った。ただ、未来としては凛の説得に応じたような司が気に入らないが、霊視した結果を受けての判断だろうと思う。つまり、よほど危険な場所だということだ。
「凛さんも行くの?」
「司君が行くなら行くよ。それに友達に怖いことは教えたいしね」
「ですね」
こうして凛と未来、司の参加が決まった。同時に来武の参加も。ただ、凛にしても未来にしても不安は残る。この件が無事に終わろうとも、司にとっては悪い方にしか転ばないのではないかという不安が。そうなったときは司を守る。そう思うのは未来も凛も同じだった。
週が明け、凛は裕子に肝試しに参加する旨を伝える。ついでに司も参加したいと言っていると告げれば、噂の霊能力少年の力が見たいとして了承された。どうやら裕子は司のあの噂を本気で信じてはいないようだ。だが一緒に参加する田原万里子は露骨に嫌そうにしていたが、話に割り込んできた来武が参加を表明するとその表情を明るくした。凛は冷たい目を来武に向ける。
「俺がそいつの力を論理的に打ち負かす。霊などいないってね」
そう言う来武は勝ち誇った顔を凛に向けるが、凛は愛想笑いを返すのみだ。内心では一度呪われろと思っているが顔には出さない。一方で未来もまた裕子が部活の先輩である高木詩織に参加を告げた。もちろん、詩織にも司の参加を表明すれば、こちらも露骨に嫌な顔をしてみせた。
「未生先輩がどうしても司を打ち負かしたいんだって」
そう言うと詩織も乗り気になった。軽蔑する司が来武にこてんぱんにやられる場面が見たくなったからだ。それに来武が来るとなればお近づきになれるチャンスでもある。有名な科学者を父に持つ来武は全校の女子の憧れの的なのだ。とにかく、こうしてメンバーが決まった。2年生は司に未来、詩織にその友達の吉田和美。3年生が凛に来武、裕子と万里子、総勢8人となった。裕子がデジカメを、来武がビデオカメラを用意することも決まり、後は待ち合わせ場所と時間を決める程度になった。その日の帰り、偶然にも司と未来、そして凛が一緒になった。ぶらぶらと帰り道がてら肝試しの話になった。
「ブレスレット、忘れるなよ」
「ずっと外してないし、大丈夫だって」
「ま、相手が本気になったらそんな程度じゃ終わりだろうけど」
また怖いことを平然と言う。これがあるから大丈夫だと思っていた未来と凛は顔を見合わせ、不安そうな表情になった。
「そんなにヤバイの?」
「ヤバイな」
「どんくらい?」
「最悪、本気にならないとダメなほど」
「本気って、あんたが?」
「そ」
緊張感もなく素っ気無い言い方だが、相手の強さに戦慄する。司が本気になるということは相当の霊圧を持つ相手ということになる。正直言ってそこまではないと思っていただけに、凛も未来も行くことを後悔し始めていた。だが司に緊張感も危機感もない、普段と変わりがない様子だった。
「あんたさ、魔封剣持って行きなさいよ」
その言葉に凛は司の部屋に飾られている太刀を思い出した。神すら斬れるといったあの剣、それがあれば心強いことこの上ない。
「あのなぁ、あれ使うと3日は体が重いし、霊圧もなかなか戻らねぇし、ヤだよ」
「でも強い相手がいるなら使うしかないじゃん」
「そこまでの相手じゃないよ、ま、せいぜい霊圧60程度かな」
その言葉に2人がホッとした。司の霊圧は80ならば負けることはないだろう。そこで凛は以前から疑問に思っていたことをここで聞いてみることにした。ずっと聞きたかったのだが、タイミングがなかったのだ。
「あのさ、麻美さんに憑いてたの、あれってどれぐらいの強さだったの?」
その言葉に司も未来も凛を見た。司は少し間を置いてから答えを口にする。
「40あるかないかでないかな?」
「あれで40?」
「40でも多いかも、実際は30ぐらいかな」
「・・・あ、そうなんだ」
俄然今度の肝試しが不安になる。あれだけの怖い思いをした事件よりも強いものがいるところへのこのこと行こうというのだ。司が止めたのも無理はないと思えた。
ドアをノックする音に生返事をする。ドアを開いて中を見れば、相変わらずベッドに転がったままゲームをしている司を見て凛は小さく微笑んだ。そうして正面の窓の上にある太刀を見た。そんな凛をチラッと見た司だが、ゲームは止めない。凛はベッドに腰掛けるとゲームをしている司を見つめた。
「何の用?」
ゲームを中断した司が身を起こす。髪をほどいた眼鏡の美少女がパジャマ姿で自室にいる。これが来武であれば警戒をせねば襲われるのだろうなと思う凛は小さく微笑んだ。
「司君さ、好きな子、いないの?」
心が壊れていると知っていながらあえて聞いてみる。だが司は不思議そうな顔をしつつあぐらをかいた。
「好きって・・・そういうのわかんないしなぁ・・・意味がわからん」
「女の子を見てドキドキしたり、触れたいとか思わないの?」
「ないね・・・理由もないのに触れたいとか、理解できない」
芝居でもなんでもない、素の司の言葉だった。本当に凛の言っていることの意味が理解できないという顔をしている。
「抱きしめたいとかも?」
「なんで?不安になるから?」
「んー・・・そうじゃなくって・・・・」
説明が難しい。司は頭を掻くと小さなため息をついた。凛の意図が全く理解できないのだろう。心が壊れているという現実をまざまざと見せつけられた凛は悲しい表情を浮かべた後、そっと司の手を取った。司は怪訝な顔をしつつもされるがままになっている。凛はそのまま手を自分の胸に押し当てた。柔らかい感触が手から感じられる。胸に埋まるようになる手を見つめる司に変化はない。
「どんな気分?」
「なんでそんなことをしてるんだっていう気分」
その言葉を聞いた凛は顔を赤くしながらも司の手をパジャマの下にもぐりこませた。直接胸に手を当てるが、司は緊張もなにもなくされるがままでまったく動揺すら見せない。手を動かすこともなく不思議そうな顔を凛に向けていた。
「何してんの?」
「本当に何も感じない?ドキドキしない?」
「凛の方がドキドキしてんじゃん」
そう言って笑う司を見た凛は泣きそうな顔をしつつ司の手を解放した。パジャマを直し、顔を伏せる。膝の上に握られた拳に涙が落ちる。泣いている凛を見て動揺する司だが、何故泣いているのかがわからない。
「ど、どうした?胸、痛かった?爪とか当たった?」
凛は顔を伏せたまま首を横に振る。そのままベッドを降りた凛は泣き顔のまま笑顔を作った。
「違う・・・なんか、勝手に泣けてきただけ、ごめんね」
涙声でそう言う凛は部屋を出て行った。涙の理由も分からずに呆然とする司はさっきまで凛の胸に当てられていた左手を見つめた。爪も立てていないし、動かしてもいない。凛が自分からした行為だが、何かをしなければならなかったのかなと考える。だが、いくら考えても答えは出なかった。凛は自分の部屋に戻ると閉めたドアにもたれかかり、そのまま座り込んだ。両手で顔を覆って声を殺して泣く。好きという感情もなければ、女性の胸に直接手を触れても何の動揺もなければ感情らしいものも何もなかった。壊れた心の部分をまざまざと見せつけられた凛はただただ悲しくなった。自分は体験者だからわかる。霊に憑かれた人のこともしっかりとフォローしていた。正気に戻って不安がる麻美の頭を撫でて大丈夫と言った司を尊敬できる。そんな司を罵り、犯罪者のレッテルを貼ったその母娘が憎い。こうまで人の心を壊してのうのうとしているその親子が腹立たしかった。命を賭けてその子を救った司が可哀そうだ。だから凛は泣いた。司への同情だけではない、好きな人の心が壊れているという現実に泣いたのだ。救われたから好きになったのではない。司の人柄に触れて好きになったのだ。永遠の片想い。それに耐え切れずに未来の恋心も壊れた。自分もいつまで耐えられるかはわからない。でも、司を好きでいたい。たとえ永遠の片想いでも。そう思う凛は涙に濡れた顔を上げた。自分は司に救われた。今度は自分が司を救う番だ。自分が出来るのは悪霊から司を守るのではない、人の悪意から守るのだ。そう決意した凛は涙を拭った。もう泣かない。司を支えるために、泣くことを封印した。強くなるという決意をし、前を向いた。
土曜日の夜9時に森の入り口にあるバリケード前に集合となった。もちろん、未来は司と凛と一緒に行くことにしている。懐中電灯にブレスレット、そして気持ち程度の気休めで神咲神社のお守りも。親には司の家に泊まりに行くと告げている。信司は全てを知りながらも行って来いとだけ言った。信司はかつて廃村へ行って呪われた若者を除霊した経験がある。今回、司が参加することであの場所に巣食うものを一掃できるのではないかと思っていた。美咲の言葉からして司が負ける要素はない。そう判断してのことだ。今の司は自分などが足元にも及ばないほどの霊能者になっている。封神十七式を会得し、霊圧のコントロールも達人レベルだ。かつて司を修行した親友と同等か、それ以上かもしれないと思う。それに未来や凛が一緒となればそう無茶もしないだろうと考えていた。ただ、念には念を入れて時々美咲に現場の様子を探らせることにしている。交換条件でなかなか高価な物を買わされるがこの際仕方がない。そうして、土曜日がやって来る。雲が厚く、月の明かりもないためにかなり暗かった。午後8時半に家を出た司たちは手に持った懐中電灯で道を照らしつつ森の入り口となっているバリケードの前にやって来た。既に全員が揃っているようで、未来も凛も手を振って近づくが、司は少し離れた場所でバリケードの向こうを見つめていた。
「全員揃ったから、予定より10分早いけど行く?」
裕子の言葉に全員が頷く。ぼーっとした顔で森を見たままでいる司に裕子や詩織が怪訝な顔をしたのを見た来武がゆっくりと近づいた。
「よぉ、霊感少年」
その言葉に来武を見る司は無表情だった。そんな司を見た来武が鼻で笑う。
「なんだビビってるのか?」
「いや・・・」
「まさか、もう見えてます、ってわけじゃないんだろう?」
バカにしたようなその言葉に詩織と万里子が小さく笑う。和美と裕子は黙ってその様子を見ていた。
「うじゃうじゃいる」
森の方を見つつそう言った司に大笑いをする来武と違い、詩織も万里子も顔をこわばらせた。
「そうかそうか・・・いるのか。じゃぁ、俺にも見せてみろよ」
その言葉を聞いた司が驚いた顔を来武に見せた。その顔を見て出来るわけもないという顔をした来武に凛が近づいた。
「もういいから、行きましょう」
凛は来武の腕を掴むが、そっちを見ずに司にそう言う。司はぽりぽりと頭を掻くと頷いた。そんな司を見た凛は、おそらくさっき来武に霊を見せようと考えていたのだろうと思えた。あの時、VTRの中にいる霊を見えるようにしたように。ただ、今はまだ早い。見せるなら、その場所で見せた方が効果的なのだ。科学しか信じない来武に超常現象を見せるには恐怖も必要、そう考えた凛だったが、自分がこうも神経の図太い女になっていることに内心で苦笑していた。あれだけの経験をし、司の力を見ればこうもなろう。そんな凛はデレた顔をした来武を引っ張って歩いた。その後ろから司が歩く。そうして8人はバリケードを乗り越えた。先頭は裕子と来武、そして凛。その後ろから未来、万里子、その後ろに和美と詩織が続き、やや間を空けて司がいた。みんながあれこれ言いながら周囲を照らして歩く。司は道だけを照らして前しか見ていない。その表情はどこか鼻歌でも歌っている感じだ。正直に言えば、凛も未来も司のそばにいたかった。そこが一番安全だからだ。だが、詩織に万里子、それに来武が司を嫌ってわざとそういう配置にしているために近づけない。わいわい騒ぐ一行が少し開けた場所に出た。目の前に現れたそこには坂道にそって朽ち果てた4件の民家だった。正面に続く坂道の両脇に2軒ずつ存在している。どうやら奥にも家があったようなのだが、崩れたのか解体されたのか、基礎部分だけが存在していた。凛が不安そうに司を見ようとしたが、来武の声にそっちを見た。
「調べたが、奥の家は10軒解体されている。そこで事故が起こって4軒は放置されたんだ」
「事故?」
不安そうな裕子の言葉に民家を照らしつつ来武は小さく微笑んだ。
「ここは坂道だろ?重機が倒れて怪我人が出たらしい。雨もあってそういう事故が重なったんだそうだ。それを祟りとかなんとか言い訳をしたんだよ。工事会社の怠慢を隠すために」
歌うように軽やかにそう言う来武は自分を見つめる詩織や裕子の感心した顔を見て満足そうにしてみせた。だが凛はずっと司を見ている。未来もそうだ。司は一番手前にある赤い屋根が崩れ落ちた家をじっと見ている。そんな司に近づいた来武は腕組みをして司の前に立った。
「何かいるのか?ん?」
「いる」
その言葉に凛と未来は表情を強張らせたが、闇の中に来武の笑い声が響いたためにそっちを見た。
「なにがいる?いるなら見せてみろよ!」
そう言った来武は司に背を向けて女子のいる方を向いた。
「何もいない!何も起こらない!工事会社が失態をして、それで逃げただけ。そんな工事の後を引き継ぐ会社もなく、地主も嫌になって祟りをでっちあげたんだ!」
その言葉に納得した顔をする裕子たちだが、凛も未来も司を見ている。凛が自分を見ていないことに腹を立てた来武が司に歩み寄り、その肩を握る。そして自分の顔を司の顔に近づけた。
「どうしたホラ吹き・・・所詮はインチキ霊能レイプ野郎だな」
凛に口元が見えないようにそう言った矢先、司は来武を押しのけるようにして前へ進んで行く。左手の数珠を外しながら進む司を見た未来と凛は無意識的に自分の左手に巻かれたブレスレットを握っていた。裕子の前に立った司が左手をかざすようにする。
「おーおー、ショーの始まりか?」
来武がそう言ったまさにその瞬間、大きな炸裂音が周囲に響き渡った。さすがの来武も言葉を失うが、不安そうに身を寄せ合った女子に近づくと大丈夫だと声をかけた。
「演出か?前日にでも仕込んでいたのか」
来武が司にそう言う。
「森の入り口まで戻れ、今すぐに」
静かな、それでいて反論を許さない口調。司は左手をかざしたまま口で右手の数珠も外した。それを見た未来は詩織と万里子の手を取ると元来た道を走り出す。恐怖に駆られた2人が走ってくれたおかげで楽に進んで行ける。一方で凛も裕子と和美の手を取って引っ張った。だが、裕子はびくともしない。そんな裕子を見た和美が顔を青くして入り口に向けて駆け出す。
「司君!」
「先に逃げろ」
「でも」
「インチキ野郎が偉そうに指示するな!何もないじゃないか!」
そう言った瞬間、裕子は来武に飛び掛った。低い、獣のようなうねり声を上げた裕子が背中から倒れる来武に馬乗りになり、首筋に噛み付こうとしている。
「よせ!芝居にもほどがあるぞ!」
「芝居じゃない、憑かれただけだ」
冷静にそう言う司が裕子を引き剥がすと左手で胸を押さえた。
「やっぱそれが狙いか!」
裕子の胸を触っているようにしか見えない来武の言葉を無視して右手で背中をぽんと押す。その瞬間、裕子は我に返った。
「え?なに?」
「なんだ、グルかよ」
そう吐き捨てるように言った来武を凛が睨んだ瞬間、森の入り口で悲鳴があがった。
「2体いやがる」
司は舌打ちすると入り口に駆けた。2本の数珠を凛に投げつけ、その場にいる2人に渡せと言い残して。金色の数珠を裕子の右手につけ、銀色の数珠を来武に渡そうとするが、来武はそれを拒否した。
「そんな気持ちの悪いもの、出来るか!」
「お願い!左手にはめて!」
「嫌だ!」
「お願い、何でもするから、だから!」
その言葉に来武が反応した。
「何でも?なら、キスしろよ・・・」
「・・・したら着けてくれるの?」
「ああ」
凛はじっと来武を睨むようにしつつ、頬に手を添えるとそっと唇を重ねた。初めてのキスをこんな形で捧げたことが悔しい。だが、司を守ると決めた凛に迷いはなかった。
「着けて」
「あ、ああ」
まさか本当にキスをするとは思わなかったが、言うとおりに数珠を左手に着ける。凛とキスをしたというのに敗北感が心を埋めていく。そう、自分は負けたのだ。司を想う凛の気持ちに。凛は司のために好きでもない相手にキスすら出来る。圧倒的な敗北感が襲ってきた。そして湧き上がる憎悪。司が憎い、ただ憎い、殺したい。さらに欲望が膨れ上がる。その止まらない欲望はやがて凛へも向けられた。犯したい、汚したい、殺したい。凛は裕子の手を引いたまま後ずさる。来武の顔はもうイケメンの面影はなかった。醜く歪んだ笑顔。霊感のない自分でも、そして裕子でさえも分かる。来武は憑かれたのだと。
バリケードが見えたところで未来はあわててその足を止めた。詩織と万里子もつんのめるようにしてブレーキをかけ、体を震えさせた。バリケードの前に、さっきまでなかったものが存在していた。それは暗闇の中にあってぼんやり光るようにして浮かび上がっているように見える。異様な雰囲気を漂わせている黒い髪をした人形。綺麗な赤とピンクの着物を着た日本人形がそこに立っているのだ、不気味以外の何者でもない。全く動けないでいる3人に和美が合流するが、和美もまたそれを見て動けなくなった。じわじわと人形から溢れ出る不快感。気分が悪くなり、立っていられない。万里子はへたりこみ、詩織はその場に吐いてしまう。和美はガクガクと足を震わせながら全身の鳥肌が立つのを感じていた。未来はブレスレットのおかげか、強烈な不快感だけを感じるのみだ。じっと人形を見つめていた未来の目にもはっきりと分かる黒いオーラ。それがゆっくりと霧が広がるがごとく自分たちに近づいてくる。無意識的に左手をかざしてみるが黒い霧は止まることがない。そんな霧から逃げようにも恐怖で体が動かない。霧が4人を包もうとした刹那、それは霧散するようにして少し後退し、その場でゆらゆらと揺れていた。
「やっかいにもほどがあるな・・・」
そう言って未来の横に立ったのは息を切らせた司だった。司はそのまま左手を人形にかざしつつ詩織と万里子に近づいた。そうして空いた右手で2人を立たせる。2人は司に手を掴まれただけでさっきまでの気持ち悪さが消え失せていた。その事実に驚きつつ、そのまま未来の横に立つ。和美は未来に掴まるようにしてただ震えているのみだ。
「こいつはこの土地のものじゃない。何かに引き付けられて来たものだ」
「どういうこと?」
「ここの地縛霊には謝ったんだ。ちょっと失礼しますってね・・・そしたら、そいつらが一斉に消えた。それと同時に赤い屋根の家に黒いものが現れたんだ」
司はさっきそれを見ていたのだ。だがそいつの霊圧はせいぜい30あるかないか、そこでみんなを逃がしてそいつを浄化しようとした矢先、今度は森の入り口付近に大きな霊圧を感じていた。美咲の能力を使った時に感じた霊圧を。それがこの人形なのだ。この土地の霊が逃げ出すほどの悪霊。それがこの人形に宿っている。
「あっちも気になるけど・・・あー、もう、やっぱ来るんじゃなかった!」
そう言った司が右手の人差し指を人形に向ける。その瞬間人形は宙に浮いた。舌打ちした司が再度同じように指を向けるが、人形は瞬時に場所を変えている。
「撃を避けるなんて」
見えない霊圧の弾丸を撃ち出す術の撃を避けられたためか、珍しく司に焦りが見える。そんな司が人形に向かって駆けた。その瞬間、人形の首が伸びたように見えたのは幻か。いた、確かに未来も詩織にも、そこにいた女子にさえそう見えていた。その首が司の右手に触れた瞬間、大きな炸裂音が森に響く。凄まじいラップ音と同時に司が膝をついた。
「司っ!」
肩で大きく息をしている司の鼻から血が垂れている。未来は信じられなかった。あの司が、絶対的な霊的防御を誇る司が霊からの攻撃を受けて肉体にダメージを受けている。
「未来・・・どうなるの?ねぇ、どうなるの?」
不安から和美がそう聞いてくる声も震えていた。詩織に至っては金縛りにあっているようにまったく動かない。いや、動けないのだ。あまりに非現実的な光景が目の前にあれば無理もない。
「わかんないけど・・・司、どうしたのさ」
呟く未来を見ず、司は鼻血をシャツの袖で拭うと人形を見つめる。そのまま右手の平を人形に向けた。
「七の術、断!」
そう叫んだ矢先、人形が揺らぐように動いてその口から黒いもやが出るが、それはすぐに引っ込んだ。
「くそ・・・霊圧を分けているから、威力が負ける?」
司の苛立ったその言葉に未来はハッとなった。そうして森の奥に続く道がある後ろを振り返る。おそらく、凛たちの方にも強力な霊がいるのだろう。それから凛たちを守るためにそっちにも霊圧を割いているのだ。そのため、目の前にいる悪霊を攻撃する霊圧が足りずに術が効かないのだろう。そして霊的な防御力も減少していると思えた。そう考えていた未来は黒い霧が司に向かって放出されるのを見て凍りつく。
「乱!」
そう叫んで右手と左手を交差させたものを広げるが、霧は薄くなるものの司を覆ってしまった。司は左手を振るってその霧を消滅させたが、今度は口からも血を吐いて両手を地につけた。霊的な攻撃に肉体が耐えられないのだろう。本来であれば霊圧で防御するのだろうが、その分の霊圧は凛たちの方に割いている。舌打ちをした司は人形を睨みつけた。
「美咲!」
空に向かってそう叫ぶ。未来はおろか、他の女子も何を言っているのだという顔をする。だが、その顔はすぐに驚きに変わった。
『なぁにぃ?』
緊張したこの場面に似合わない間延びした声が頭、いや、この空間にこだました。
「今から言うことを凛に伝えてくれ!」
『はぁい』
司は立ち上がると口元の血を拭い、人形を見た。その目が金色に輝く。それを見た未来はどこかホッとし、他の3人はただただ驚いた顔をしていた。
「さて、ぶっ壊してやるからな」
そう言った司がここでようやくいつものように笑ったのだった。
それはもう来武の顔ではない。口は異様に赤く、目も黒目がやたらと大きく感じた。ゆっくりした足取りで近づくとそのまま凛を掴もうと手を伸ばす。だが、その手は凛の手前で弾かれるようにして大きく真横に飛んだ。まるでそこに壁があるかのように。凛はそれが司の力のおかげだとわかっていた。それでももう何度目となる手を突き出す来武。
「ヤリタイ・・・ケガシタイ・・・・コロシタイ・・・」
ずっとぶつぶつと同じことを繰り返す言葉は呪詛のようだ。裕子は凛の背中に隠れるようにしながらガクガクと震えている。
「未生!正気に戻って!」
これももう何度叫んだかわからない。来武はニヤニヤした笑みを消さずにただ同じ動作を繰り返している。ただ、だんだんと手の距離が凛に近い位置で弾かれるようになっているのが気になった。このままではいずれは捕まってしまう。逃げようにも裕子を背中に逃げとおせるとは思えない。そんな来武がついに凛の右手を掴んだ。熱い。掴まれた部分が焼けるように熱い。思わずよろめく凛に覆いかぶさり、馬乗りになった来武の口がさらなる笑みを浮かべている。そうしてそのまま凛のシャツを引きちぎった。だが、中にTシャツを着ているために肌は露出しない。
「オカシタイ・・・ケガシタイ・・・・・・コロシタイ」
そう言う顔を凛の顔に近づける。凛が両手でその顔を押さえるが、顔だけなのに押し返すことすらできない力に驚くしかない。もう人間の力ではないのだ。このままでは来武に取り憑いたものに犯され、殺される。そう思った瞬間、凛の、いや、裕子の頭にも声が聞こえた。
『あいつの数珠をしてる方の手に、お姉ちゃんたちの数珠とかしてる手を重ねるようにして!』
言葉と同時にどうすればいいかのイメージが湧いた。咄嗟に凛は押さえていた顔を離して来武の左手を自分の左手で掴んだ。その瞬間、来武が低い声を上げて苦しむようにするではないか。
「美咲ちゃん!」
空に向かってそう叫んだ凛は少し安心した顔をしてみせる。
『お兄ちゃん、今、向こうで頑張ってる。すぐ来るからお姉ちゃんも頑張って!』
その声に頷くとへたりこみながら怯えた目できょろきょろしている裕子の右手を取った。そうして来武の左手にそれを置こうとしたが、裕子はそれを拒絶するかのように手を引っ込めて首をぶんぶんと横に振った。
「や、やだよ・・・気持ち悪い・・・・怖いし・・・・・やだ!」
「気持ちは分かる!でも、こうしないと助からない!」
「やだよ・・・」
「死にたいのっ!?」
凛の叫びに体をびくつかせる。睨むようなその視線を受けた裕子は泣き出していた。恐怖が裕子の心を覆っている。
「司君は必ず来てくれる。それまで耐えるだけ!すぐ来てくれる!」
「でも・・・・信じられないよ・・・」
泣きながらそう言う裕子に、凛は優しく微笑んだ。本当は凛も怖い。今はなんとか来武の動きは封じられているが、いつまた襲い掛かってくるかわからないのだ。それでも司が来てくれる、そう思うだけで勇気は出た。
「信じて!司君は来る!すぐ来るから!お願い、裕子!」
その言葉を言った瞬間、来武の右手が凛の首に掛かった。熱さと苦しさで意識を失いそうになる。そのとき、裕子の絶叫が聞こえた。そうして裕子の右手が、数珠のはめられたその手が凛の左手に重なった。途端に来武は大きく絶叫し、凛の首から手を離す。馬乗りになりながら天へと右腕を伸ばして絶叫を続けた。それは人間の声ではない。獣の叫びのように感じられた。
「司君・・・」
握った手に力を込めつつ、凛はただ司が来てくれるのを待つのだった。