後編
収録も無事終了したために、司たちは広田の案内で編集室へと通された。本来は関係者以外は入れない部署だが、一連の体調不良の原因が廃病院でのロケにあると常々思っていた広田は司の能力を見て力になってもらえると判断したのだ。そして周囲を念入りに確認した広田は編集室の鍵をかけ、中を見る。そうして中に入った面々は広田に司、未来、そして凛に麻美だけとなる。翔子はこの後でグラビアの撮影があるということで既に移動していた。広田は棚から2本のデジタルテープをセットし、正面やや上のモニターにそれを映す。それは編集される前のマスターテープであり、廃病院でのロケの全てが収められたものだった。
「じゃぁ、行きますよ」
そう言うと目の前の機械を操作していく。その真後ろで司は左手の数珠を外すとそっとそれを凛に差し出した。
「左手につけて」
言われた通りにそれを着けると、横に立つ未来も左手を見せる。そこにはシルバーのブレスレットがはめられていた。
「お守りですよ」
その未来の言葉から、それは司からもらったものだと判断して頷いた。そして司を見ればモニターに左手をかざしていた。
「早送りしちゃって・・・いいって言うまで」
いつになく真剣な物言いに凛も緊張が走る。未来もまたごくりと唾を飲み込んだ。言われるままに早送りをした広田は時々司の指示でそれをストップさせる。そうして15分ほどして1つ目のテープが終わった。広田が素早く2本目のテープに入れ替えると再生を押す。ずっとモニターに手をかざしたままの司の目が一瞬だけ金色に変わったのを見た凛はますます緊張を濃くしていった。広田は早送りをしつつ司の指示を待つ。そうして、それはすぐにやってきた。
「止めて、少し戻して、ゆっくりと」
つまみの付いた円形のものをゆっくり回す広田。その動きに連動してまるででコマ送りのようにテープが巻き戻っていく。
「ビンゴ」
その言葉を聞いた広田が画面を止めるが、そこに映っているのは怯えた顔をした凛と翔子、そして女優の卵の大石友恵が病室と思える朽ち果てた部屋の前に立っているものだった。変わったものは何も映っていない。
「ビンゴって・・・何が?」
未来の言葉に全員が司を見る。すると司は小さく微笑むと画面の左下、友恵の肩の辺りを指差した。
「ここ、っていうか、こっち側だな。カメラと画面の間に何かがいる。多分、女だな」
映っていないものを見ることなどできるのだろうか。友恵とカメラの間に女がいると言われてもピンとも来ない。むしろでたらめにしか思えない麻美はため息をついた。
「映ってないなら証拠にはなんないじゃん」
「多分、この先で映ってると思うよ。画面に映っていなくても伝わるほどの霊波動、強い怨念だね」
司はそう言うと広田に早送りを指示した。そうしてもうすぐ収録も終わりに差し掛かり、3人が病院の前で締めの言葉を口にしているそこで司は停止を指示した。3人が病院をバックにした画面。何も変な箇所は無い。これはオンエアされた画面でもあり、変なものでも映っていたならネットででも話題になっているはずだ。そういうものもなかっただけに全員の顔が曇った。
「女の霊か・・・看護婦かな?」
「どこ?」
「うまく隠れてるけど・・・ここだ」
そうして指を差したのは割れたガラスで吹きさらしになった3階の病室だった。右上の方にあるそこを指差し、司は説明をした。
「ぼろぼろのカーテンの隙間、アップに出来る?」
そう言われた広田がそこをズームにして、画像処理を行う。すると破れたカーテンの隙間に目のようなものが映っていた。
「ここから覗いてる・・・長い髪だなぁ、ここにその一部がある」
そう説明した司の言葉に未来も凛も小さな悲鳴を上げた。確かにそう言われればそう見えてしまう。
「本当のそうなの?ただの映り込みとか、そういうのじゃないの?」
麻美の言葉ににんまりと笑った司が右手の数珠も取るとそれをポケットに入れた。
「なら、霊圧を同調させてみるね」
未来以外はその言葉の意味がわからない。だが疑問の言葉を発する者はいなかった。なぜならば、司が両手をモニターにかざした瞬間、カーテンの部分が赤くぼやけるようになり、そこに長い髪の赤い服を着た女を浮かび上がらせたからだ。テープに細工もできなければ機械を操作していない。ただ右手をかざしただけだ。トリックなしの現象に編集室がどよめいた。
「血に染まった看護婦だ」
赤い服ではなく、それは血で赤くなったナース服だと司は説明した。はっきり見えるその女の姿に凛は震え、麻美も目を見開いている。未来は真剣な顔をし、広田はあごを震わせていた。未来は表情を強張らせているだけだ。司はゆっくりと手を下ろし、右手に数珠をはめる。するとモニターは元の状態に戻り、赤い色も消えていた。もちろん血に濡れた看護婦はもういない。
「昨日ネットで調べたらさ、この病院は医療ミスが続いて潰れたみたいだね。きっとその医療ミスっていうか、全てがこの女の怨念だろうね」
「ってことは、それが原因の医療ミスってこと?」
未来はあごに指を添えながらそう言った。余裕のある未来を見つつ、凛も麻美も全身に立った鳥肌をいまだに感じている。
「怨念を持って、強大な呪いの力で全てを恨んだってとこかな」
「全てって・・・」
「詳しくはこの女に会ってみないとわからないけどさ」
会うという言葉に全員が凍りつく。平然と恐ろしいことを口にする司に対し、凛は司がこれまでこういうことをどれだけ経験してきたのかと思いを馳せた。
「じゃ、じゃぁ、現地へ行くの?」
凛の言葉に腕組みをした司は場の空気に似合わない笑顔を見せた。
「今更行っても無駄だよ。もうその女はロケに行った誰かに憑いてるからさ」
あっけらかんとそう言う司の言葉に全員が驚愕の顔を見せる。麻美は広田を見て、凛は麻美を見る。誰に憑いているかはわからない。ただ、司は凛も広田も、そして翔子も祓っている。麻美は体調不良もなかったことから、別のスタッフに憑いているということだろうか。
「そ、それじゃ・・・」
「憑いてる悪霊はたちが悪い。普通は憑かれたらすぐに見てわかる状態になるんだけどさ、こいつは普段は憑いた人間の魂を隠れ蓑にして、行動するときだけ表に出る。さすがの俺でもわからないぐらいにね」
「じゃぁ・・・どうしようもないってこと?」
「今はね」
麻美の言葉にも笑顔でそう言うと、司はさっさと編集室を後にする。
「広田さんだっけ?ありがとうね。ま、近いうちに全部なんとかするから」
敬語など知らないのか、そう言うとさっさと行ってしまった司をあわてて追う未来と凛。麻美も広田に礼を言うとその場を後にした。残された広田はあまりのことに呆然としつつ、ロケに参加したメンバーの安否を確認するように電話をかけるのだった。
ロビーで飲み物を飲む司は通路の向こうから来る暗い顔をした凛を気遣う未来を見ていた。凛の紹介で何人かの芸能人のサインを貰った未来だが、その表情は凛と同じでどこか暗い。そんな2人が司の元へと帰ってきた。
「未来ちゃん、暗いね」
「静かでいいけどな」
心配する凛をよそにあっけらかんとそう言った司にムッとした顔をするが、未来は小さな苦笑をしていた。
「で、あんた、解決する気なの?」
「え?しなくていいの?」
「え?最後までして欲しいけど・・・ダメなの?」
未来の言葉に凛があわててそう口を挟んだ。
「司はそれでいいの?」
「問題ないけど?」
何故未来が解決を渋るのかは分からないが、昨日聞いた司が壊れているという言葉を思い出した。壊れている原因は霊が半分、人の悪意が半分だと言った。それが除霊に関係しているのだろうかと思うが、もちろん答えが出るはずもない。
「それに、憑いてる人間の目星はついてるし」
「えっ?」
未来と凛が同時に声を上げる。司はジュースを飲み干すとストローを咥えてぐにぐにと動かした。
「誰?」
「まだ言えない」
「なんで?」
「確証がないから」
ストローを咥えたままにんまり笑う司を睨む未来だが、ため息をついただけでそれ以上何も言わなかった。司をよく知るだけに、もう何を言っても無駄だからだ。
「明日の予定は?」
司はそんな未来を無視して凛にそう尋ねる。相変わらず敬語もない。
「明日は・・・雑誌の撮影だよ。都内のスタジオだけど」
「場所、どこ?」
そこまで聞く司に未来が慌てて口を挟む。
「ちょっと、あんた、明日は学校あるよ?」
「休む」
「なんで?」
「ケリ、つけるから」
その言葉に凛と未来は顔を見合わせた。ということはその撮影に関係する人間に憑いているということか。いや、あるいは自分に憑いているのか、凛はそう考えて身震いをした。そんな凛の気持ちなど知らず、司はストローをコップに戻すと右手の数珠を外してそれを凛に差し出す。それを受け取った凛は不思議そうな顔をし、それを見た司は優しく微笑んだ。
「それは右手につけておいて。風呂の時も、寝るときも絶対に外さないで」
凛はうなずくとそれを右手にはめた。これでさっき渡された銀色の数珠を加えて両手に数珠をはめた状態になる。こういうものを渡すということはやはり自分の中に『それ』がいるということなのか。とにかくこれで両手に数珠が巻かれたことになり、凛はほっとしていいのか悪いのか、そういう顔をしていた。
「魔除けですよ」
未来はそう言うと自分の左手のブレスレットをかざす。
「司の念がこめられたものです。霊的なものから守ってくれるから」
「明日には未来と同じものを用意しておくよ」
そう言って笑う司から未来へと目をやった。こういった数珠やそのブレスレットは未来だけに送る特別なものだったと思った凛の心を読んだのか、未来は肩をすくめると小さく微笑んだ。
「数珠よりはいいっていう配慮だよ。アクセサリーになるしね。私以外にもこれを持ってる子はいるから。除霊を受けたりした子に渡してるんだよ」
その言葉にホッとし、凛は頷いた。そうしていると麻美が現れて外へと出る。麻美は凛の数珠を見て怪訝な顔をするが、明日の撮影の際には外すように指示し、言われた凛が司を見れば頷いている。わかりましたと返事をした凛はじっとその数珠を見つめた。そうして麻美は2人を家まで送り、その後、凛と麻美は凛のマンションへと向かって走り去った。残された2人もそこで別れる。そのまま司は神社の社務所に向かうと小さな棚の中にある金のブレスレットを手に取り、参拝客がお参りをする拝殿を通り過ぎて奥にある神殿の方に向かった。扉を開けて作法通りに上がると、そこには宮司である信司の姿があった。白い着物に薄い青の袴姿で。
「どうした?」
「これ」
そう言って金のブレスレットを神殿の前に置くと正座をして手を合わせる。参拝通りの形式に乗っ取った形で頭を下げ、拍手を打ち、頭を下げた。そしてブレスレットを両手で持つとぶつぶつ言いながらそれに力を込める。20分ほどして顔を上げた司が再度作法どおりのお参りをすると立ったままそれを見ていた信司に近づいた。信司の顔は微笑んでいる。
「明日風邪で学校を休むから」
風邪を予告する息子に対し、微笑みは消さない。
「わかった。で、それは誰に?」
「タレントしてる高校の先輩、桜園凛先輩にね」
「へぇ、あのシャンプーのCMの?」
「知ってるの?」
「何も隠さないで言うと、俺は彼女のファンだ」
「あっそ」
「なんだ、彼女、何かあったのか?」
「まぁ、一番危険な位置にいるね」
「そうか」
それだけで全てを悟ったのか、司はそんな信司に微笑むと神殿を後にした。残された信司は苦笑し、自分も本殿を出る。
「よほどの相手か」
それが凛を指すのか、霊を指すのか、それは信司にしかわからないことだった。
都内にある撮影スタジオでは雑誌の撮影が行われていた。凛の他に2名のタレントがそこにいて、様々な服を着替えて1日がかりで撮影をしていく。4月である今、撮影するのは夏物ばかりだ。半袖のワンピースに身を包んだ凛がテーブルの上に2つの数珠を置く。それを見たモデルのリリーこと佐々木理子が珍しそうにそれを見ていた。
「金と銀の数珠?何?厄年ぃ?」
冗談を交えて笑いながらそう聞くリリーに凛は小さく微笑んだ。
「違いますよ、お守り、みたいなのです」
「へぇ・・・」
趣味が悪いと言いたげな言い方だが、気にしない。そうして順調に撮影が進んでいく中、徐々に疲れのせいか凛の顔色が悪くなっていく。いや、撮影のせいではない、直感的にそう思う。途端に体が重くなり、疲労感が半端でなくなる。吐き気すら催すほどだ。カメラマンが凛を気遣って休憩を取らせ、他の子を優先的に撮っていく中、凛は椅子に座ると崩れるように机に突っ伏した。その症状は司に祓ってもらう前のようだ。いや、その時の状態をさらに悪化させたように感じる。くらくらする頭に浮かぶのは司がくれた数珠だ。このテーブルに置いた数珠を探すがどこにもない。眩暈のする中で数珠を探すがどこにもなかった。心配そうに近づく麻美を見るが、目が霞む。そんな麻美がそっと凛の背中に手を置きかけたときだった。
「はい、そこまでね」
扉を開けて入ってきた司の言葉に麻美の手が止まった。スタッフに止められる形で乱入してきたのは司と未来だった。小走りで凛に近づいた司が金色のブレスレットを凛の左手にはめる。するとさっきまでの疲れが嘘のように意識がはっきりとしてきた。それでもまだ気だるさは取れていない。
「マネージャーさん、数珠を捨てたらダメだよ」
「私じゃないけど?」
「いんや、あんただよ・・・正確に言うと、あんたの中にいるあの女、かな?」
その言葉に凛が驚いた顔を上げる。麻美は動揺した顔をしながら首を横に振っていた。
「違う・・・私じゃない、知らないし」
「意識を乗っ取られてたんだろうな・・・意識の残る肉体を操るってのは結構つらかったろう、看護婦さん?」
にやりと笑う司が凛をかばうようにしようとした矢先、物凄い力で司を突き飛ばした麻美は凛の首に片腕を巻き、悪鬼の笑みを浮かべて見せた。もうそれは麻美の顔ではなかった。
「やっと出てきたね。初めまして」
凛の首を絞める腕に力を込めた麻美の表情は完全に麻美のものではなくなっていた。目はくぼみ、白目のない黒だけの瞳。闇より濃い黒い色をしていた。髪は揺らいでいるように見える。凛は掴まれているその手の冷たさにぞっとしていた。
「ブレスレットのせいでそれ以上は力は出ないでしょ?」
「麻美・・・・さん・・・・・・どう・・して?」
「もうマネージャーじゃない」
司は真剣な顔をしていた。そうして上着を脱ぐ。両手には数珠はなかった。
「そいつは江藤麻由美・・・かつてあの病院で看護婦をしていた女だ。婚約者を他の女に寝取られ、そしてその病院の屋上から飛び降りて自殺した」
司はそう言うと一歩前に出る。カメラマンもモデルも恐怖から身を寄せ合うようにしていた。すると突然ライトが明滅し、直後に全ての電気が消えた。撮影のために窓のない密閉された部屋は真っ暗になるが、ぼんやりとした光を放つ麻美だけがそこに浮かんでいた。いや、麻美ではない、江藤の霊が。
「昨日調べたよ・・・江藤さんのこと、古賀さんのこと・・・恨みの同調って凄いね」
暗闇の中に響く司の声。それに反応した麻美の笑い声が響くが、それは別の笑い声も重なっていた。
「憎い・・・・女が、凛が・・・・・・・タレントが・・・・・社長が・・・・憎い」
怨念のこもった声は離れた場所にいるカメラマンたちにもはっきりと聞こえていた。呟くような声がそこまで響くとは思えない。魂を震わせるほどの恐怖が全身を伝っていた。未来はガクガクと足を震えさせ、そのまま床にへたりこんだ。リリーもまた座り込んで失禁をする。それほどに恐怖を込めた声になっていた。
「江藤さんは婚約者を同じ看護婦に奪われた。けれど彼を恨めず、そんな彼は自責の念に耐え切れずに自殺。あんたはより一層その女だけを憎んで自分も自殺したんだ。だが、死んでもなお憎さは消えず、その怨念がその女も事故死するという形で現れた」
そう前置きし、司は話を始めた。江藤は同じ病院で働く外科医と交際し、結婚を約束していた。そして病院関係者が開いたお祝いの会の後でお酒に薬を混ぜた同期の看護婦に誘惑された婚約者はその女と関係を持ってしまった。婚約者は江藤に全てを話すが、女は婚約者の子を身ごもり、それを盾にその男に結婚を迫ったのだ。男は自責の念に耐え切れず自殺し、江藤は女に詰め寄った。金づるとして男を手に入れようとしたという言葉を聞き、女を殺そうとするが周囲によって阻止されてしまう。江藤はそのまま病院の屋上から飛び降りて自殺したが、女に対する怨念は消えることは無かった。その怨念は病院で死んだあらゆる人間の無念や怨念を取り込んで増幅され、やがて強大な悪霊体となってこの世に留まることになる。その怒りの矛先は当然その女に向かい、女は車を運転中に事故で死んだ。正確には江藤によって殺されたのだ。しかしそれでも江藤の恨みは晴れず、自分を責めた同僚や病院関係者にその怨念が向けらた結果、患者を憑り殺し、病院自体を破滅に導いた。やがて恨みの対象は失せ、ただ婚約者の思い出が残る病院に留まっていたが、今度はそこを荒らしにくる者たち、肝試しだの、暴走族のたまり場にしていく若者たちを中心にを駆逐していくことになる。その負の波動を受けて病院はそのまま放置された。土地の神すら逃げ出すほどの怨念は消えることなく留まり続けた。再開発しようにもそこはもう荒れた土地で誰も手を出さず、江藤の怨念がそれを阻止していたからだ。
「そう、そうしてそのままその場にいるはずだったんだ、永遠に・・・ただ、あのロケさえそこで行わなければね」
「どういうこと?」
未来はカラカラの喉を潤そうと唾を飲んでそう問いかける。この場で普段どおりでいられるのは司だけだ。カメラマンもモデルも失神寸前、未来はブレスレットのおかげでなんとか意識を保っている。それは凛も同じだが、憑かれている麻美に羽交い絞めされているだけで相当の苦痛を強いられていた。
「古賀さんの妬み・・・嫉妬や社長への怒り、憤りに江藤の怨念が同調した。なんともまぁ、奇遇というか、普通ならありえない状況だよ」
「古賀・・・・さんの・・・・ね、た・・・み?」
「そう、古賀さんはずっとあんたに嫉妬していたんだ」
麻美もかつてはタレントだった。だが売れず、徐々に仕事は減っていく。そこで社長は大物関係者と肉体による接待をもちかけた。麻美は売れるためにそれを飲み、汚れていく自分を殺して奉仕し、仕事を取った。それでもろくな仕事はなく、やがて引退へと追い込まれてしまった。最終的にAVに売られそうになったが、社長に懇願してそれだけは回避できたものの、今度は社長の愛人に成り下がった。そこで現れたのが凛だった。売れていく凛のマネージャーをしつつ、裏では社長の愛人生活。華やかな舞台に立つ凛を羨ましく思いながらも自分のように汚したい衝動に駆られていた。本来、自分がそうなるはずだったタレントとして歩む光の道。何故自分は汚れ、凛はまばゆく輝くのか。心の奥で芽生えた嫉妬、憎悪。それがロケで行った廃病院にいた江藤の霊と同調し、江藤は麻美に取り憑いた。完全に同調することで麻美は取り憑かれたことにすら気づかないほどだ。その結果、周囲に悪影響を及ぼして霊障を撒き散らした。特に凛へ抱いていた恨みは凛の体に黒い波動となって体内に残すほどに増大していた。それが司が排除したものだった。
「そ・・・・そん・・・・な」
「でもね、古賀さんはその裏で君を守ろうとしてた」
怯えた目で麻美を見ていた凛は司の声にそっちを向いた。司は一歩前に出つつも距離を保っている。
「どんな仕事も受けようとしつつも汚い仕事は断る。プロデューサーに君のいいところをアピールして自分のようにならないようにもしてきた。自分のように汚れないように、守りたいという心がそうさせた」
腕を離すことはしない麻美だったが、その頬を涙が伝っていた。嫉妬と憎悪、それでいて守りたいと思う心がひしめきあっていた。江藤に取り憑かれても、その部分だけは失わなかった。その結果、江藤の霊は前に出ることを制限されていた。そのために司は最初から麻美が怪しいと思いながらもその証拠を掴めずにいたのだ。麻美だけが霊障を負わなかったと聞いて司は麻美をマークしていたのだった。最も凛の近くにいて霊障を与えられる位置にいる麻美こそがその根源だと気づいていた。だからこそ江藤もまた強力な力を持つ司を警戒して表に出てこなかったのだ。しかし、悪霊は姑息でずる賢く、麻美の魂と同調しながらも隠れつつ霊障をまき散らす。そんな霊障も麻美の良心がある程度それを押さえ込んでいた。だが、それも限界にきた。
「さあ、江藤麻由美、前に出てこいよ・・・俺が浄化してやる」
司がそう言った瞬間、暗闇にあってさらに黒いものが部屋を覆いつくした。凛と未来、司を除いた全員が一瞬で気絶する中、素早く未来の前に立った司は左手を掲げる。黒い波動は何かに弾かれるようにして司と未来には届かない。暗闇を吹き抜ける黒い風は司と未来を揺らすことすら出来なかった。そして司の両目が金色に輝いた。
「封神十七式、二の術、防」
微笑みながらそう呟いた司が一気に前に駆けた。黒い波動などものともせずに凛を掴んだままの麻美の前に立つと麻美の眼前に右手をかざした。
「七の術、断!」
そう言った瞬間、麻美はがくんと力をなくしたように倒れこんだ。拘束力を失った反動で前につんのめった凛の体を受け止めた司は凛をかばように左手を掲げたまま前に立つ。そんな司が見据える目の前には揺らぐようにして存在する赤いナース服の女がいた。黒い髪をし、大きな黒目だけの目をした女が。裂けるほどの口を開き、赤よりもなお濃い赤い口の中に歯はなかった。凛は全身を凍らせるほどの寒気と恐怖に気を失いそうになるが、司が自分の腕を掴んでいるその左手から温かさを感じるためにどうにか正気を保っていられた。
「どうも、江藤さん・・・ようやく出てきてくれたね」
「コロスコロスコロス・・・・」
直接脳に響くような低い声に未来も凛も身震いをした。
「殺されないよ」
軽い言い方の司は両手を目の前で交差させる。
「三の術、乱」
交差を解くように両手を開けば、黒い波動がピタリと消えた。
「あんたの霊圧じゃ俺には勝てない・・・差が大きいの分かるでしょ?」
揺らぐ憎悪の塊を前に余裕の声を出せる司を凄いと思う。凛は這うようにして来た未来に手を引かれて少し後ろに下がった。
「先輩、離れましょ」
「でも・・・」
「ここは司に任せれば大丈夫だから」
「で、でも・・・」
「司の方が力が上だから、絶対に大丈夫」
そう言われた凛は納得してないまでも頷き、未来と一緒に後ろへと這うようにして下がった。身を寄せ合う未来と凛だが、未来にはまだ余裕があるが凛は表情も強張って緊張していた。テレビですらも見たことがない、漫画の中でしかないような状態が目の前に展開されている。常識など覆す光景にただただ驚くしかなかった。それ以上にこういう状況で余裕を見せる司に驚かされていた。
「司の霊圧は80ぐらい・・・あの女のそれはそれよりも低いんだよ」
「れいあつ?」
「あー・・・その説明はまた司がすると思う。要するに霊能力の高さの数値みたいなの、目安です」
「能力の高さって・・・」
もはや意味がわからないが、無理矢理自分を納得させた。とにかく今は司を信じるしかない。大丈夫と言った未来の言葉を信じて、司に全てを託すしかなかった。
「コロスコロスコロス・・・」
江藤から発せられる怨念の呪詛、ただ殺すとだけ伝わってくるその言葉に凛も未来も吐き気がするのを堪えた。
「こりゃもう浄化できそうにないか・・・・なら、かわいそうだけど消えてもらうよ」
そう言った司が右手を挙げた瞬間、江藤の姿が消える。そして次の瞬間、江藤は司の首を絞めていた。
「無駄だ」
そう言った司の右手の平が江藤の腕を斬るような動きを見せた。その瞬間、江藤の手は消失し、その姿が離れた場所に移動する。すぐに腕は再生されたかのように現れるが、江藤の体が少し薄くなっているのが分かった。何がどうなっているのかわからない凛は江藤と司を交互に見ていた。霊体を斬ったとしか思えないが、それが可能とも思えない。そんな凛を横目で見た未来は簡単な説明を始めた。
「司の右手は霊を攻撃できるんです。左手は霊的な守りをすることができる。あいつは霊を滅ぼす力を持った世界でも3人程度しかいない霊滅師・・・普段はその強すぎる力を数珠で抑えてる」
「あの数珠って、お守りじゃなかったんだ」
「普段からあいつの霊圧を溜め込んでるから、私たちが持つだけでお守りになるんです。弱い霊は近づくことすらできないほどのお守りに」
もう常識を外れすぎて理解の範疇を超えていた。ただ目の前の事実だけがそれを証明している。そんな凛が司を見れば右手をかざしながら小さく微笑んでいる。両目は金色のままに。
「天と地と火と水のことわりが祓いたまいよ・・・」
ぶつぶつと普通のものとは違った祝詞を口にした司が左手で江藤の胸元を掴むようにする。江藤は全く動く気配を見せず、低い、この世のものとは思えないほどの低い声でああああとうめいている。司はそっと右手もその左手に重ねるように置き、中指と人差し指だけを伸ばす。
「絶っ!」
そう叫んだ刹那、江藤の怨霊は低く、おおおおおと叫んで霧散した。と、部屋の明かりも戻り、辺りも静寂に包まれた。司は倒れている麻美を抱くようにして上半身を起こさせると、シャツと下着を捲り上げるようにして胸を露出させ、そこに左手を置いてなにやらぶつぶつと呟く。未来に促されて凛も立ち上がるとゆっくりした歩調で2人のそばに近づいた。完全に気を失っている麻美の胸に左手を置いていた司は次に右手を添えると何かを掴むようにして拳を握った。
「世に引かれ、魂のいずこかや、かしこみかしこみももうす」
祝詞を口ずさみ、そのままぎゅっと拳を握り、それを開いた。そうしてシャツの胸ポケットから小さな小瓶を3つ取り出すとそれを床に置いた。そして1つを手に取り、蓋を開けてその中身を右手の人差し指の先に少しだけつけてみせた。
「それ・・・なに?」
「塩だよ」
司は凛の質問にそう答えるとその指先の塩を麻美の口の中に入れた。そうして未来が開けた2つめの小瓶の中に同じ指を入れれば、透明の液体が確認できる。
「お酢です」
未来の言葉に凛は頷き、司が指を麻美の口に入れるのを見る。そうして最後の瓶にまたも同じ指をつけて出せば、同じようにそれを麻美の口に入れてみせた。
「最後はお酒」
そう言って指を抜き、その人差し指を親指と揉むようにした後、ちょんとその人差し指をおでこにあてた。
その瞬間、麻美は目を見開いた。怯えた顔をして司にしがみついてくる。そんな麻美をそっと抱きしめるようにしてみせた司は優しい顔、優しい声で麻美の髪をそっと撫でた。
「大丈夫、もう大丈夫だから・・・怖いものはもういない、もう、いないから」
髪を撫でてそう言えば、麻美は徐々に落ち着きを取り戻し、床に座り込むようにした。ただ目は宙をさまようになり、ぼうっとしている。
「これでよし。あとはロケに参加した人全ての浄霊をすれば完了だね」
司は立ち上がるとホッとしたように息を吐く。未来が麻美の服を直すのを見ていた司の表情に疲れは微塵も見えなかった。
「でも、どうして?どうして麻美さんが・・・」
「君を妬みつつ、君を守ろうとしたんだね」
「でも・・・」
「彼女の魂の叫び、それが聞こえたんだよ。江藤については調べられるけど、この人のことは元タレントだったってことしか調べられなかったからね・・・タレントを辞めた理由も、今の立場も、全て彼女の魂が教えてくれたんだ」
「魂って・・・」
「波動を同調させれば可能なんだ・・・俺は半分、霊に近い存在だから」
そう言って笑う司を見ることしか出来ず、凛は俯いた。
「人の恨みは怖い。生きていても死んでいても、それは同じ。この人はその恨みを隠して生きてきたんだけど、江藤がそれに同調した。その結果がこれだよ」
司はそう言うと微笑を残してドアへと向かった。そんな司の背中を見ることしかできない凛は唇を噛み締めるようするしかない。そんな凛を見た未来は部屋を出て行った司の方へと顔を向けた。
「あれが司・・・司の全てなんです」
「凄いね」
「え?」
未来は司を怖がると思っていただけに驚いた声を上げてしまった。小さい頃からこういう場面を何度も見てきた未来だからこそ平気でいられるが、たった今その壮絶な場面を見ただけの凛が怯えることなく感心していることが信じられない。
「凄いよ、神手君」
「そうですね」
そうとしか言えない2人は顔を見合わせて小さく笑った。
3日がかりで廃病院のロケに携わった全員を祓い、この事件は幕を下ろした。結局、体内に黒いものを持っていたのは凛だけで、他のタレントにはそれがなかった。凛を妬んだ麻美の怨念がより強く現れたせいだろうと司は説明し、凛もそれに納得した。そんな凛はその週の土曜日の午前中、神咲神社を訪れていた。今日も午前中は学校であり、家に行ったが当然誰もいなかったからだ。神社の拝殿でお参りをし、その足で社務所に向かった。お守りなどを売っているそこに向かうと、ちょうどそこから宮司らしき人が姿を現したために丁寧に頭を下げる。宮司も凛に気づいて頭を下げてにんまりと笑った。
「おおー、桜園凛さんだ・・・」
「桜園です。その節は司君にお世話になりました」
宮司が司と似ていることもあって、この人が司の父親だとすぐに分かった。顔もそうだが、持っている雰囲気もまた司にそっくりだ。
「全部終わって良かったですな」
「はい・・・それで・・・」
何かを言おうとした凛にそっと手をかざして言葉を中断させる。
「中にどうぞ。お茶でもどうかな?」
「あ、はい」
屈託のない笑顔は司によく似ている。この宮司が司の父親だと気づいていただけにいろいろ聞けるかもしれないと考えた凛はその言葉に甘えることにした。社務所に通されてお茶を出される。
「あの、これを司君に返していただけますか」
そうして畳の上に置かれたのは金と銀、2つの数珠だった。麻美のバッグの中にあったことが判明したが、あの日以来、凛は仕事関係で忙しく、司も除霊で忙しいために会うことがなく返す機会がなかったのだ。宮司である信司はそれを受け取るとそのまま後ろにある机の上に置いた。
「そのブレスレット、大事にしてやってください」
その言葉に自分の左手で光るそれを見る。事件のすぐ後で司が事務所を経由して数珠の替わりにくれたものだ。
「あいつの霊圧がこめられた最強のお守りです。未来ちゃんもシルバーのをつけてますよ」
「知ってます」
「大抵の悪いものは近寄ることすら出来ません。あいつの霊圧は神に近い」
「その、霊圧って、何なんです?」
凛の言葉に司は何も説明してなかったのかと呟き、苦笑した。そうして信司は簡単にそれを説明していった。
「霊能力には大きく分けて2つあります。1つは霊を見たり、その声を聞いたりする霊力。これが高い人間ほどはっきりと霊を認識できます。俗に言う霊感とはこれを指します」
凛は頷いた。実に分かりやすい説明に感心してしまう。
「2つめが霊圧。これは霊に触れたり、浄化したりする力。霊は元々霊自身を見る必要がない。同じ属性ですからね。そして霊は人間を認識できる。魂同士でね。なので霊は霊圧の塊なんです」
霊力は人間が霊という目に見えないものを感知する人間だけの特殊能力。ただ人間は肉体という包みを被っているだけにその霊力がなければ霊を見ることはできない。霊はそんな肉体を透過して人間の魂を感知できるのだ。対して霊圧は霊と同じ属性を持つ特殊能力である。いくら霊力が強くても、見える、聞こえるだけは何もできない。霊圧が高ければ高いほど霊を浄化することができるのだと信司は説明した。霊と同じ力を発揮するもの、それが霊圧なのだと。
「数値で言いますと、最大を100とするならば、霊力は普通の人なら1から5・・・テレビなどに出ているような霊能者といわれる者でせいぜい10程度ですな。それ以上になると、見えすぎてテレビなどで霊を語ると逆に霊の怒声が聞こえて仕方がないとか」
そう言いながら信司はお茶を飲む。凛は素朴な疑問が頭に浮かんだが、それは全ての説明を聞いてからにすることにした。
「霊圧も最大100とした場合、10程度もあれば弱い霊なら除霊も可能です。まぁ霊圧は普通の人でも0か1程度ですし、祓える者は自分よりも霊圧が低いものしか祓えない」
「では、そんな人が強いものを祓おうとすれば?」
「死ぬか、廃人、も覚悟せねばいけませんな・・・俗に言う『連れて行かれる』というものです」
「では、司君は?」
「あいつの霊力は50程度、霊圧が80かな・・・100が神の霊圧とすれば、人としては桁違いなほど高い。いや、人でないほどに」
あまりピンとはこないが司の能力が高いのは理解できる。江藤の怨霊を余裕をもって祓ったことからして江藤の霊圧はあまり高くなかったのかもしれないとも思えるが、あの体験をしてしまえばそれでも桁外れだと思えた。あれだけの波動、霊力のない自分がその姿を見れるほどの霊圧を持っていた。それを上回った司がとんでもないということになる。
「生まれついての体質みたいなものでね・・・あいつは私程度の低い霊圧の者では手に負えなかった。そこで親友の宮司に頼んで除霊術を身に付けさせた。封神十七式、使ってませんでしたか?」
その言葉に覚えがある。確かに司はそれを使っていた。頷く凛を見た信司はお茶を飲み干すと、後ろの机の引き出しから色紙を取り出した。何故そんなところに色紙があるのかわからないが、ペンも準備した信司はそっとそれを凛の前に置いた。
「すみませんがサイン、願えますか?」
「はい?」
「出来れば信司さんへ、でお願いします」
突然の場違い的な行動に凛は戸惑いながらも、微笑む信司に笑みを返してペンを走らせる。場の空気を変えようとしたのか、それ以上は自分の口から言うべきではないとの判断からか、それは分からない。それでも凛は今聞いた話だけでも相当な収穫だと思っていた。
「これ、最後のサインです」
「最後?」
優雅な手つきでサインを終えた凛の言葉に信司の顔も曇った。
「事務所との再契約・・・しなかったので、引退ですね」
「ありゃー、もったいない」
「でも、これが一番いいとの判断です・・・どのみち辞める気でいましたし」
微笑む凛に迷いはなかった。信司はその顔を見て納得したように頷くとお茶を飲む凛を見つめる。CMで見たときからファンであり、司や美咲には内緒で写真集も持っているほどだ。そんな凛がもうテレビや雑誌でその姿も見れないと思うと寂しいが、彼女の選んだ道を否定する気はない。
「では、ただの高校生ですか?」
「はい。でも、事務所のマンションを出なければいけないので、まずは家探しですけど。今月中まではいられるんですが、貯金もあるし、とりあえずマンスリーマンションでもと考えています」
凛の言葉に信司は何かを考えるように腕を組んだ。しばらくそうしている信司を見ながらお茶を飲めば、正座をしたまま少し信司が前に出た。
「良かったら、家で居候しませんか?」
「え?」
予想外の言葉に凛は湯飲みを落としかけてしまった。
「すぐそこにある自宅がかなり古かったので去年改築しましてね。元々土地が大きかったのもあって、家も大きめにしたんです。まだ2つほど完全に部屋が空いてます。家事手伝いをしてくれるなら生活費なしでどうですか?」
代々神社を営んできた家系だけに古くからここの土地を持っていた神手家だったが、さすがに古くなったので昨年改築をしていたのだ。司に誘われて伺った際に確かに新しかったことを思い出す凛だが、だからといってその破格の申し出を受けることはできない。ただ、生活費もないというのは魅力的だが、反面裏があるのではないかと勘ぐってしまう。
「でも・・・」
「思春期の司がおりますが、あいつは・・・親の私が言うのもなんですが、壊れています」
その言葉に未来の言葉を思い出した。恋愛感情が壊れている、女性を女性として見られない、そう言っていた。
「蓬莱さんからも聞きましたけど、それって、どういうことなんですか?」
凛の言葉に少し考えた後、信司はゆっくりと息を吐いてから言葉を発した。
「中学2年の時のことです・・・あいつは、好きな女の子に取り憑いた霊を除霊しに行ったんです」
その年の秋、司は想いを寄せる同級生の女子が取り憑かれたと未来から聞き、急いで除霊に向かった。家の前に立つだけで感じる強力な負の波動。おかしくなってしまった娘を見て泣き叫ぶ母親を説得し、司は彼女の部屋に入った。彼女はベッドに座ったまま一点を見つめて何かをぶつぶつ呟く状態だった。見た目で分かるほど肉体は衰弱し、目はくぼみ、痩せている状態であった。もはや一刻の猶予もないと判断した司は部屋の中に住結界を張って除霊に入った。未来と母親が部屋の外で祈る中、何があってもこちらから開けるまでは部屋に入るなと言い、司は封神十七式を駆使して戦った。憑いていた霊の霊圧はほぼ同じ、だが司の方が若干上だった。霊圧が高いほど悪霊は知恵も回る。霊は司の恋心を読み取ってそれを利用した。全裸になると司に迫る。それでもその誘惑を断ち切って完全に霊を滅ぼし、少女を救い出した。そうして浄霊の儀式に入った矢先、静かになったことで母親が未来の静止を振り切って部屋に入ったのだ。そしてそこにあった光景を見て母親は呆然とした。意識がないような全裸の娘に馬乗りになるような形でいる司。その司も息は荒く服もぼろぼろである。母親は司を突き飛ばして娘を抱きしめつつ司を罵った。娘をレイプしたのだろうと。必死に否定する司をよそに、目を覚ました娘もまた司を罵った。彼女は取り憑かれていた際の記憶は一切なかったのだ。今の自分と司の姿、母親の言葉が真実になっていた。命を掛けて救った娘とその母親に罵られた司は壊れてしまった。人を好きになる感情や、男として女を見るということを失ったのだ。壊れていく自分自身を守るために。
「誰かを好きという感情も、愛するという感情もあいつにはない。女性の身体もあいつにしてみればただの人間の身体でしかない。ときめきもどきどきもない、性欲もなければムラムラさえしない・・・そんな風に壊れてしまったんです」
凛はもう言葉もなかった。命をかけて救った者に感謝もされず、ただ罵られる。そして周囲はその噂を聞いて司を軽蔑した。母親は司を訴えようとしたが父親の判断で娘を検査に出したところ、処女であり暴行の跡などは一切見られなかった。それでも噂は消えず、司はレイプ犯のレッテルを貼られてしまったのだ。
「未来ちゃんもいろいろ頑張ってくれたが噂は消えず、司は壊れたままでした」
自分の裸を見たことが知れればもっと壊れる、そう言った未来の言葉を思い出す。確かに司は自分の胸を触ろうが裸を見ようが平然としていた。麻美の胸をはだけても表情1つ変えなかったのはそういうことなのだろう。司にとってはただの裸でしかない。ただの同じ人間の裸なのだ。
「一緒に住んで、リハビリしろ、ということですか?」
「リハビリも何も、治らないよ。いろんな精神科医に見せたが絶望的だと言われた。そう言う心を封じているのではなく、完全に失っていると言われたよ」
壊れているとはそういうことなのだ。もう元には戻らない。司は一生理解できないのだ。誰かを好きになるということ、愛するということも。そして同時に他人に対する配慮も欠けてしまった。目上の人に敬語を使わないのも、どこか他人をバカにした態度もそれにあたる。やがて人として壊れた司は自身の名字になぞらえて『人でなし』と呼ばれることになったのだ。
「自分の跡取りは司ですが、その次は妹である美咲の子になるでしょう。その美咲にも男子が生まれなければ養子を取るか・・・あるいはあなたが私と再婚して・・・って、ま、冗談ですけど、なんにせよ、司の子供はとっくに諦めてますからね」
信司はそう言って小さく笑った。その顔を見た凛は司のことを思い、胸が痛んだ。壊れてしまうほどにその子のことを好きだったのだと思う。だからこそ、そのショックは計り知れない。
「考えるだけ考えてみてほしい。司のリハビリのためでもなんでもない。困っている人を救うのもまた我々の仕事でもあるのです。神様の思し召しということで。ま、あなたにとって危険なのは私なんでしょうけど、こう見えても今でも亡くなった妻を愛していますから」
そう言ってにんまり笑った信司に頭を下げた凛は考えますとだけ返事をした。
あくびを噛み締めつつ下駄箱に立つ司は1人で校門を出た。高校に進んでも地元だけあって噂は残り、友達は少ない。ほとんどの女子からは無視されているが、そんなことを気にすることもなかった。それすらも何とも思わない。未来にすればそういう部分も壊れていると思えた。そんな未来が司に追いつく。司は未来を見て再度大きなあくびをしてみせた。
「なによ・・・寝不足?」
「そうじゃないけど、ほら、春は眠くなる」
「なにそれ」
「そういや、テレビ局からオファーがきたぞ」
「オファー?」
「怪奇!霊能少年は見た!みたいな感じでドキュメンタリーを撮りたいって」
「広田さん?」
思い浮かぶのはあのヒゲ面だ。麻美を助けたあと、広田の協力で廃病院のロケの関係者を巡ることができた。全員を浄化し、全てを終わらせた司に興味を持っていたのは見ていればわかる。だからといってそんな企画に司が乗るはずもない。司は相手が誰でも困っていれば、助けたいと思えば除霊をする。お金や名声のためには動かないのだから。それに基本的にめんどくさがりだ。
「で、断った?」
「当然。さらし者になりたくないからな。でも共演者は結構良かったぞ」
「へぇ、誰?」
「俳優の、坂下トウヤ、だっけ?イケメンの・・・他にも・・・・」
そこまで言った瞬間、目をハートにした未来が司の前に立った。思わずたじろぐ司は嫌な予感がするのを我慢した。
「受けなさい!」
「はぁ?」
「トウヤ様とお近づきになる大大大チャンスなのよ!」
やはりそう来たかと思い、未来をすり抜けるようにして歩き出した。
「そんなの知るかよ」
「あんたね、こんなチャンスないわけよ!」
「お前、3年のなんとか先輩が好きなんだろ?」
「未生先輩もいいけどトウヤ様の方がいい」
「出たよ、最低発言」
「なによ!」
罵りあう2人が神社の前まで来た時、大きなトラックが司の家の前に止まっているのが目に入った。それは引越し社のトラックだ。側面に大きなマークと電話番号などがマーキングされている。
「あんた、引越しすんの?」
「しない」
「でも引越しの車じゃん」
「だなぁ」
言いながら2人は近づいた。隣の家かと思うが、どうみても引越し屋のトラックが荷台から司の家の中に何やら荷物を運び込んでいる。信司からは誰かが来るとも聞いていない司は首をひねるばかりだ。
「じいちゃんでも一緒に住むのかな?」
「あんたのおじいさんって、去年隠居して隣の県に行ったんでしょ?」
「だよなぁ。今更、おかしいよな」
宮司の仕事を完全に引退した司の祖父は隣の県に引っ越して農業をしてお気楽に生きている。それもあって去年に建て替えをしたのだ。首をひねる司が家の前に立てば、中から女性の声がする。
「新しいお母さんじゃないの?」
未来の言葉に不安になる。小学生の時に母親を亡くしているが、信司が再婚するという話も聞いていない。ましてや誰かと交際しているという話すら聞いていないのだ。だが、ありえない話ではない。そう考えながら引越し業者の邪魔にならないよう突っ立っていた司と未来は奥から現れたその女性の正体を見て目を丸くした。2人を見つけて微笑む凛がそこにいたのだ。
「あ、司君!今日からお世話になりまーす!」
「え?どういうこと?」
「あれ?お父さんから聞いてない?」
その凛の言葉に頷く。その隣では未来もまた呆然としていた。まさか信司と凛が再婚かと未来が動揺するが、それ以上に司は動揺していた。全く意味が分からない。
「今日からここで居候します」
「居候?」
凛が芸能界を辞めたというのは噂で聞いている。麻美の件で事情を知っているだけに司も未来もそれは無理もないと思っていた。麻美も事務所の社長とのことを週刊誌に売りこみ、既に完全に決別していた。そういうごたごたの中で引退となれば、芸能レポーターが邪推をするものの、凛のことを悪く書く雑誌はなかった。その辺は何らかの圧力が動いたのだろう。もっとも、凛もそれが麻美の最後の思いやりだとは知る由もない。だからか、凛の引退に関しては小さな記事が出ただけで終わっている。
「居候ってなんなんです?」
未来の言葉に凛は微笑むと説明をした。
「司君のお父さんに勧められてね。事務所辞めてマンションも出なくちゃいけないって言ったら、ウチに来なさいって。なのでそうしました」
「はぁ?なにそれ!」
「あー、そう。まぁ、よろしく」
不満がありありの未来とは違い、司は微笑んでいる。もう全てに納得して受け入れたようだ。
「よろしくって・・・あんた、いいの?」
「まぁ、いいんじゃない?」
「よくないでしょ?」
「なんで?」
「あんた、桜園先輩が居候だよ?」
「そうだな」
「嫉妬の目で見られるよ!」
「嫉妬?なんで?」
「・・・・・・あー、そうでした」
司には理解不能な感情だ。嫉妬など、司の心にはない。好きになるという感情と一緒に失せてしまっている感情の1つだ。壊れていることがいいのか、そういうことすら考えない。
「司君のことも聞いたわ。だから大丈夫」
頭を抱える未来にそっとそう耳打ちをした凛だが、未来はますます頭を抱える。
「聞いてても、だからって・・・」
「リハビリ効果、出ちゃうかもよ?」
「リハビリって・・・?」
「司君の心が治って、私に恋するかもってこと」
「ないです、ない!」
両腕を交差させて真っ向から否定する未来を見た凛の悪戯心に火がついた。なんだかんだ言いながらも未来はまだ心のどこかで司を好きでいる、そう感じたからだ。
「わっかんないわよぉ?だって同じ屋根の下だし」
「・・・先輩、何する気ですか?」
「そりゃ・・・いろいろ、かなぁ」
「いろいろって・・・」
「もう裸も見られちゃったし、怖いものはないしねぇ」
そう言う凛は少し目を細めて未来を威嚇するような目をした。未来は怪訝な顔をしている司を見つつもすぐに凛を睨むようにしてみせた。
「だからって!」
「蓬莱さんは司君のこと、好きじゃないんでしょう?」
「そうですけど・・・」
「なら私の自由でしょう!」
「ぐぬぬ~・・・・先輩がそんなキャラだったなんて・・・」
「恋する乙女は強いのよ!」
「恋って、口だけでしょう?」
「本気。本気で恋した」
それまでは未来を弄ぶための言葉だったが、今口にした言葉は決して嘘ではない。ここ数日、悩みに悩んで出した答えだ。司の家に居候することも、司に対する自分も気持ちも。司の心がどうであれ、自分は司に惹かれている、それだけは確かなことだった。
「マジ?」
「マジ」
「嘘だ!」
「マジです!」
お互いがそう言いあって睨み合う。わけのわからないことを言い合う2人を見た司が首を傾げた。恋だのなんだの、司にしてみれば理解不能なことでしかない。ただ、凛が家に来ることは歓迎だった。人が増えれば楽しそうだと思う、それだけだったが。まだ言いあいをしている2人をよそに、司は大きく背伸びをした。伸ばした両手にはめられた数珠が太陽の光を反射してキラキラと輝きを増していく。司を巡って言い合う2人の左手にも輝く金と銀のブレスレット。それもまた太陽の光を反射してまぶしく、そして優しく輝いているのだった。