前編
目の前には朽ち果てた外観を持つ、かつて病院だったものが闇の中で不気味に存在していた。崩れたコンクリートに鉄筋がむき出しの箇所がある。窓ガラスもほとんどが割られ、肝試しにでも来た何者かが施した大きな落書きが壁にいくつも描かれている。中も物が散乱し、ベッドも機器もそのまま放置されていた。手術室のライトは今にも落ちそうなほど垂れ下がり、汚れたシーツが廊下に落ちている。テレビの画面を通してでもわかる不気味な廃病院。ここには霊が出ることで有名だった。暗視カメラに映し出される女性3人が身を寄せ合いながら病院内を怯えつつ進む。新進のアイドルに女優の卵、そして雑誌モデルやCMのみでの芸能活動を行っている自分の姿を見た桜園凛は紅茶を飲みながら一週間前に撮影されたその番組を見ていた。小さな物音を聞いては叫び、アイドルが泣き叫びながら駆け出す。わざとらしい不気味なナレーションもあって臨場感は抜群だ。画面をそのままに小さな咳をして気だるい表情を見せた凛は紅茶を飲み干すと歯磨きに向かった。くらくらする目まいにはもう慣れた。ただただ気だるく体調が悪い。生理の時の方がまだましだと思うが、病院に行っても過労気味としか診断されなかった。原因は不明の体調不良。身体が重いが熱はない。風邪ではないが似た症状に頭が痛い。何度も咳をしながら電気を消し、必死で廃病院の出口へと向かう自分が映ったテレビを切った。結局霊に遭遇することもなく、カメラにも何も映っていなかった。ただ、このロケ以来、体に不調が起こっているのが不気味なだけだ。布団をかぶるとうずくまる。咳をしつつ目を閉じるが、眠気はなかなかやってこなかった。
今朝も再度病院へ行ったが、喉も腫れておらず熱もないためにビタミン剤が支給されただけ、ようするに過労ということだ。ただ気だるさは日を追うごとにひどくなっている気がする。のど飴をなめても咳は止まらず、ビタミン剤も効果はない。今日は仕事もないために学校の門をくぐったが、病院へ寄ったせいで既に遅刻になっている。凛は芸能活動を優先しているためにこういった変則的な登校も認められており、休みがちながら成績も良い方なので協力的な先生が多かった。今の凛は長い髪を束ね、眼鏡をかけている。仕事ではその髪も下ろしてコンタクトにしていることもあって、印象はかなり違って見えた。咳をしながら下駄箱の前に立つ。またも眩暈だ。下駄箱に手を置いてそれに耐えつつ咳をする。今日は休んだほうがいいとは思うが、時には学校で友達と話もしたい。そんな凛が頭を軽く振って上履きのスリッパに履き替えた時だった。目の端に制服姿の男子がかばんを抱え、大きなあくびをしながら下駄箱の前にやって来た姿が映る。これはなんとも堂々とした遅刻だ。2年生の下駄箱の前に来たその男子は気だるそうにスリッパに履き替えると自分を見つめている凛の方を見た。なにか怪訝そうに片眉が動いたのは相手があの凛だと判断したせいか。
「おはよう~」
にこやかな人懐っこい笑みを浮かべてそう挨拶をした男子は校則違反と思える長い前髪に、これまた長めの襟足を後ろで小さく束ねている。凛はおはようと挨拶を返すとその男子に近づいた。咳は断続的に続いている。
「随分、堂々とした遅刻だね?」
自分のことを棚に上げての言葉だったが、その男子はにんまりと笑っただけだった。純粋な笑顔が凛を魅了する。屈託がない、というよりは幼い気がした。
「起きたらもう絶対間に合わない時間だったんで」
そう言う男子の目が一瞬だけ鋭くなった。その目に少し押された凛をよそに男子はかばんを床に置くと、そのまま凛の左側に立つ。
「失礼するよ」
そう言うや否や、突然左手を凛の大きな胸に押し当てた。手首に巻かれた銀色の数珠に目が行く凛だが、小さな悲鳴を上げる。男子はかなりの弾力を持つその胸を押したかと思った瞬間、凛が胸をかばうようにする前にその手を離し、今度は右手でぽんとやや強めに背中を押した。その瞬間だった。凛の体がふっと軽くなる。さっきまでの気だるさが嘘のように軽く、頭もすっきりしてしまったのだ。咳も止まり、眩暈もしない。何が何だかわからない凛が戸惑っていると、その男子はかばんを持ち上げてそのままさっさと教室に向かって歩き出すではないか。
「あ、ちょ!待って!」
あわてて呼び止めるその凛の言葉に男子は立ち止まり、振り返る。
「なに?」
「あ、えっと・・・何をしたの?」
駆け寄る凛に苦笑し、男子は少し困った顔をしてみせた。
「何って・・・んー・・・言っても信じないとは思うけど、まぁ、平たく言えば、おたくの体の中にいた変なのを外に出した、ってとこか」
「体の中?」
「要するに、憑いてたんだよね、先輩に・・・・霊がね」
敬語も使わずにっこり笑ってそう言い、その男子は軽快に階段を上っていく。その言葉に思い当たる節がある凛はあわててその男子を引き止めようと声を上げた。
「ま、待って!名前は?あなたの名前!」
そう声をかけた時には男子はもう階段を曲がっていた。残念そうにした凛がため息をついた矢先、ひょこっと顔を出した男子がにんまりした顔を見せた。
「神手、神手司」
そう言うと顔は引っ込んでパタパタというスリッパの音だけがしている。やがてもそれもなくなるが、凛はその場に立ち尽くしていた。
「霊が・・・憑いてた?」
風邪でもない体調不良の原因はあの廃病院に行ったせいではないかと薄々ながら気がついていた。ただ、信じられなかったのだ。霊という存在も、憑かれるということも。だが、同じ番組に出た子たちもスタッフも皆体調が悪いと聞いている。誰かの風邪が移ったのかとも言われているが、もし、あそこで霊に憑かれていたとしたら。そう考える凛は階段を上がりながら司と名乗った男子ともう一度接触してみようと思い、休み時間は行動せずに放課後にここで待つことに決めたのだった。
「お前、何で起こしてくれないわけ?」
1時間目も残り10分というところで堂々と登校してきた司に英語教師も呆れていた。その時の顔と同じ顔をした目の前に立つ蓬莱未来に向かってそう言った司は机に肘をついていた。
「なんっかいも電話したけど起きないあんたが悪い」
「家まで来てくれりゃいいじゃん・・・近いんだしよぉ」
「あたしはあんたの彼女か?」
「いんや」
「奥さんか?」
「ありえない」
「お母さんか?」
「あー、それ近いかも」
その瞬間、見事な右フックが司に炸裂して椅子から転げ落ちる。いつものやりとりにクラスのみんなは何も言わない。未来と司が小学校からの幼馴染ということもあって、半ばカップル扱いされているのも原因だったが、それ以外の要因もある。女子が、いや男子も司を避けているということが。頬を押さえて立ち上がる司を睨んだ未来は怒り顔をしたまま自分の席に座った。
「朝から夫婦喧嘩とは・・・」
「やめて」
「はいはい、ゴメンゴメン」
そう言って未来の前に座った吉崎奈央は苦笑した顔を見せた。未来とは高校に入学してからの親友だが、司との関係は把握している。未来が司に対して何の恋愛感情も持っていないということも、3年生の未生来武にほのかな想いを抱いていることも知っている。未来は疲れた顔をしつつ奈央から視線を外した。
「幼馴染だからって、よくある好き同士ってわけじゃないからね」
「知ってる知ってる」
「知ってて言わないでよ、そういうことを」
「ゴメン」
「まったく!」
口で謝りつつ手を合わせる奈央を見て小さく微笑んだ未来は奈央の顔を見た。テニス部であり、可愛いこともあって男子からの人気も高い。自分も可愛いと言われる部類だが、それでも奈央の方が可愛いと思えた。
「神手もそういう気、ないみたいだしね・・・その胸の大きさは気に入ってるっぽいけどさ」
「やめて」
奈央は自分の胸がないことを気にしているせいか、大きな胸をした未来に絡むことが多い。逆に未来はそれがコンプレックスになっている。この胸のせいで嫌な思いをしたことが多いのだ。痴漢に遭ったことすらあるし、暴漢に襲われかけたこともある。
「冗談!」
「あいつはそういう目で女の子を見ないよ。そういう感情ないからさ」
「あー、ゴメン・・・噂の『人でなし』だしね」
「まぁ、ね」
「ゴメン、それも禁句だったね」
奈央は申し訳なさそうにそう言うと目を伏せるようにした未来を見やった。司に付きまとう噂はほとんどの生徒が知っていることだ。中学2年の際に同じクラスの女子をレイプした、その噂を。ただその噂の真相は未来から聞いている奈央だが、それでも信じがたいことだ。
「霊とか見えたり、除霊したりできるって・・・・彼は神社の家系だから?」
「かもね・・・おじさんも美咲ちゃんもそういうの、あるしさ」
「ふぅん」
未来から聞いている司の持って生まれた特殊能力。それが霊能力だ。霊が見える、祓えるなど、テレビで見る霊能力者と同じ力を持っている司はこの近辺ではひときわ大きい神社の跡取り息子だ。そして年末年始や厄払いの時などは未来も巫女装束に身を包んでそのアルバイトをすることが多い。幼い頃から出入りしていることもあって、それぞれの行事に応じた舞も舞えるし振舞いも出来るため、司の父である信司から頼りにされていた。司の妹の美咲は中学3年生だが、そういうものに興味はない。ただ、巫女のコスプレは好きなようでお守りなどを売る分に関しての手伝いはしているものの、舞などといったややこしい儀式は全て未来に任せていた。司もまた一通りの儀式などは教わっているものの、手伝うことは拒否している。ただ、司を訪ねてくる除霊希望者に関してのみ対応しているのだ。この世で3人いるかいないかと言われる霊を消滅させることが出来るほどの能力者である司は、名のある霊能者たちからすればそれこそ神に近い存在なのだった。現に未来自身も司に助けられた過去を持っている。テレビなどで除霊だなんだを行っている霊能者などは全く力が無いに等しいことも知っている。強い力を持つ者ほどそういう表に出ない、出れないほどの力と人格を備えているのだから。そう思う未来は司を見た。友達は多くないが、みんなは司の能力は噂でしかしらず、例のレイプ疑惑もあってそこは聞けない領域にもなっていた。その事件のせいで友達が少ないが、司にとっては気にもならないことだった。やがて休み時間も終わり2時間目が始まる。今日は土曜日、午前中で授業は終わりだ。なのであっという間に放課後になる。司は友達としゃべりながら教室を出て、未来は掃除当番のためにほうきを手にする。そんな未来に手を振って去る司に手を振り返した未来はかつて司を好きだった頃の自分だったらそれだけで嬉しく思っていたのになと思うのだった。今はもうそういった感情はない。未来にとって司はただの幼馴染なのだ。司は下駄箱の前に立つと自分を見ている視線に気づき、そっちを向いた。そこには凛が立っていた。行き交う生徒たちの視線を集める凛は司だけを見ている。司は軽く手を振る凛に向かってそのままゆっくり近づくと眉間にしわを寄せた。その顔を見て困っている凛の胸の上に左手を当てると、朝同様にそれを押した。いきなりのセクハラに周囲がどよめき立つ。友達も呆然とする中、何故か凛はされるがままだった。そうして司が右手で凛の背中を押す。凛は何の反応も見せず、司はそのままじっと凛を見つめ続けた。
「なんで?朝祓ったのに、また憑いてるなんて・・・」
考えられないことだった。凛の中にあった黒く禍々しいものは確かに外に出し、消し去った。それなのにわずか数時間でまた同じものに憑かれている。下唇を噛んで何かを考えている司を見た凛はここで話すかどうか迷ったが、意を決してそれを口にした。
「1週間前、ロケでつぶれた病院へ行ったの。それのせいかな?」
「多分ね・・・にしても、おかしい」
「それで、出来れば相談に乗って欲しくって」
「俺の言うこと、信じたの?」
「だって、そりゃ信じるでしょう?」
今朝の除霊に今の話。信じるも何も実体験としてあるだけに信じざるを得ないのだ。その言葉に司は少し考えた後でOKと口にした。
「ウチに来てくれるかな?詳しく調べたいんで」
その言葉に凛は頷く。そのまま司は呆然としている友達を残し、凛を伴ってさっさと学校を出るのだった。
大きな赤い鳥居があり、その奥には大きな拝殿が見えている。この近辺では有名なその神社の前を通り越し、周囲を囲む石壁の向かい側にある一軒家に入っていく司の後ろから凛も続く。神社の宮司を務める父を手伝ったり、お祓いをするとき以外では滅多に神社に近づかない司は自宅へと凛を案内していた。どうやら妹の美咲もいないようで、鍵を開けてそのまま2階の自室へと凛を通した。大きな一軒家はついこの間建て替えたかのようにまだ新しく、司の部屋も自分の部屋よりも広かった。こうまで無防備に男子の部屋に1人で来たことを危惧するが、どこか安心できるという不思議な感覚も持っていた。
「適当に座ってて」
司はそう言うと部屋を出て下へと降りる。凛はちょこんとフローリングの上に置かれた小さな絨毯の上に座るとぐるっと部屋を見渡した。机の上にはノートパソコンがあり、漫画や小説の入った本棚の上には少し古めのコンポもある。一見すればごく普通の男子の部屋だが、どこか殺風景にも見えた。アイドルのポスターなどもなく、そういった雑誌もない。ただ、正面の窓の上に掲げられるようにして置かれている大きな刀のような剣がひときわ目を引くぐらいか。よく見ればそのずっと横の角には小さな木の板が水平に置かれ、そこにお札と小さな小さな3つの壺のようなものが置かれていた。そうしているとお茶を入れた司が戻ってくる。木で出来た小さめのテーブルを部屋の中央に置くと座布団を差し出し、そこに凛を座らせた。凛はチラチラと刀に視線を向けているせいか、司は小さく微笑んだ。
「あれは太刀だよ。刀より長くて刀身が太いのが特徴だね」
「へぇ・・・」
「ウチはさ、神咲神社の血筋だからさ」
「え?そうなの?」
「そう」
神咲神社はすぐ目の前にある有名な神社だ。凛も初詣などで毎年お参りに来ている神社であり、その宮司の息子が司だと思わなかっただけに驚きも大きい。そんな凛を見てにんまりと笑った司は凛と同じく太刀を見上げるようにしてみせる。
「あれは神さえ斬れると言われる剣、『魔封剣』っていうものだよ」
「神を斬る?」
「まぁ、そういう変わった剣なだけ」
「変わったって・・・・」
そう言うとお茶を飲む司は同じようにお茶を飲みながら太刀を見る凛を見た。やや茶色がかった髪を束ねた姿に眼鏡、そして制服の上からでもわかる大きな胸。それはCMで見ている凛が目の前にいる、という視線ではなく、何かその奥を見ているような視線だ。身体の中にある何かを。
「俺は霊能力を持っていてね、霊が見えたり、声が聞こえたり・・・そして除霊も出来る特異体質。それだけじゃないけど・・・」
「ロケからずっと体調が悪かったから、信じられるよ」
「まぁ、そういう体験をした人はみんなそう言うよ」
「実体験は一番物を言うからね」
その言葉に屈託なく笑う司に凛も微笑んだ。そんな凛は自分自身を不思議に思っていた。こうも簡単に男子の部屋に上がりこむなど、今までの凛からすればありえない。だが、この司が出す雰囲気はとても穏やかで、警戒心すら湧いてこないのだ。絶対に大丈夫だ、安心できると心の底から思えるほどに。
「で、早速で悪いんだけど、服、全部脱いでもらえる?」
その言葉にさすがの凛も目を丸くして身を守るように両手を胸の前で交差させた。さっきまでの無警戒が嘘のようだ。
「あー、大丈夫。先輩の裸じゃなくって、霊体を見るだけだからさ」
「れ、霊体?」
言っている意味が分からない凛は警戒を解こうとはせずに胸の前にやった腕を解こうとはしなかった。
「そう。俺の能力を使ってあんたの肉体の中にある霊体、分かりやすく言えば魂みたいなのを見るんだ。その状態になったら肉体は見えなくなるから、裸になってもこう、白いもやみたいなものにしかならないんだ」
そう言われても信じられるはずもない。司もそれが分かっているのか小さく微笑むと一旦目を閉じた。そうして数秒後、目を開いた。その目を見た凛が小さな悲鳴のようなものを上げる。司の黒目が金色に変化していた。いや、金色だが、よく見れば金を主体に虹色に輝いている。キラキラ輝くその目に吸い込まれそうになる気がしていた。
「な、なにそれ・・・」
「霊視眼、こうすると先輩の顔は白いもやだ・・・服は服にしか見えないんだよ。服も人が見につける自然の結界みたいなもんだからね」
そう言って目を閉じ、すぐに開ければそれは黒目に戻っていた。驚く凛に司は説明を始めた。霊的なものを拒むものとして結界がある。それは人自身が持つ霊能力で、表立って発揮する以外にお気に入りの服でも作用するというのだ。それを衣結界と呼ぶ。気にいっている物や毎日見につける制服などがそれに当たる。染み込むようにそういった物に自分自身の魂が作用して結界になるらしい。また家や部屋も住結界と言い、これも住人の霊的な力が蓄積された結果、霊的なものを立ち入れないようにしているのだと説明した。
「よくさ、霊がドアの前に立っているとか言うでしょ?あれは住結界によってそこから入って来れないから。ドアを開けていると出入りしてくる霊もいるけど、基本的には住人が許可しないと立ち入れない。まぁ、相手の力が強いと勝手に入っちゃうんだけどね」
「で、服を脱いで、何をするの?」
「ああまで短時間でまた憑くってことは、既に体内に霊的な因子が入り込んでいる可能性が高いんだ。だからあんたの魂に紛れているその因子を叩き出す」
その言葉に大きく唾を飲み込んだ。司の目も真剣なものに変化している。それはあの廃病院で取り憑かれたということなのだろうか。凛は怯えた目を司に向けるが、司はにんまりと微笑んだ。
「心配ないよ。本当に憑かれているのは先輩の身近にいるはず。ただ、その因子を取り除かない限り先輩の除霊が完了しないだけ。ここは俺を信じてもらえませんかねぇ?」
その真剣な目にしばらく黙り込んだ凛は決意を固めて頷く。司は真剣な目で頷き返すと指示を始めた。
「下着も脱いだら足を少し広げて手も体にくっつけないで欲しい。大の字が理想的だけど、さすがに恥ずかしいよね。でもくっついたら見にくいんだよ」
そう言いながら外から凛が見えないように窓のカーテンを閉めると司はあぐらをかいてそっと目を閉じた。
「脱げたら言って。霊視するからさ」
「わ、わかった」
凛は顔を赤くしながら司に背を向けると制服を脱ぎ始める。男の人の前で全裸になるなど、羞恥の極みでしかない。顔を真っ赤にしながら脱ぐ服のすれる音が部屋に響き、それがさらに卑猥さを演出していた。時折司を見るが司は少し顔を伏せてじっと目を閉じている。凛は震える手でブラも外し、下も脱いだ。恥ずかしさで死にそうになりながらも司の方に向き直って足を少し開き、手も横に浮かせた。
「ぬ、脱いだ」
「よし」
司に自分の全てをさらしている恥ずかしさから手で胸と股間を押さえそうになるがぐっと我慢をした。それを意識するだけで増していく恥ずかしさで死にそうになる。そんな凛へと向かって顔を上げた司がゆっくりと目を開けば、それは金色に輝いていた。そうしてじっと凛を見つめる。
「そこか」
司は凛の下腹部を凝視していた。まるで大事なところを見られている羞恥心に崩れそうになるが、それをぐっと我慢した。司は何かを口ずさんでいる。それが祝詞であると気づいた瞬間、司は凛の下腹部に右手を添えた。その手首にはめられた金色の数珠をした右手が揺らぎ、一瞬腹の中に手が入ったように見えた矢先、拳を握った右手が現れた。
「絶!」
人差し指と中指を立ててそう言うと、司はそっと手を開く。そこには何もなく、手のひらにも異常がなかった。
「もういいよ、服、着てもらっても」
「あ、うん・・・今のは?」
「子宮付近に黒いものがあった・・・誰かが呪術に似た能力でそこに埋めたんだと思う。多分、憑いているのは女の霊だ・・・子宮にこだわったってことはそういうことだよ」
金色の目で凛を見つつ真剣な顔をする司。その言葉に鳥肌を立てながらも着替えることすら忘れた凛は目の前に立つ司を見つめていた。
「でも、VTRにも何も映ってなかったって・・・」
「見落としているのか、あるいはその人に憑いてるのか、それとも別の何かが・・・」
考えるようにした司は視線を外す。そんな司を見る凛はずっと金色をしたままの目に吸い込まれそうになる。そんな凛の視線も霊体を見ている司にすれば白いもやでしかなく、何かを考えるようにしていると、不意にドアが開いた。
「司!あんた桜園先輩を・・・ひゃ!」
ドアを開けた未来の目に飛び込んで来たのは全裸となった凛の背中だった。スタイルのいい裸体の向こうには司がいる。そう黒い目をした司が。
「よう!未来か」
そう言って笑う司の目が黒いことを見て悲鳴を上げた凛が胸と股間を手で押さえつつへたりこんだ。その頭上を舞う未来の蹴りが司の顔面に炸裂したのはそのすぐ直後のことだった。
気まずい空気が部屋を満たしていた。顔面をさすりながら俯く司。ベッドに腰掛ける未来。そして制服を着た凛が座布団の上に座って赤い顔を伏せていた。会話はもうかれこれ10分はないだろうか。その沈黙を破ったのは未来だった。
「このド変態が!」
「お前がノックも無しに入って来るから先輩がパニくったんだろ?」
「違うでしょう?」
「あぁん!」
「あの・・・・・私もさっさと服を着なかったし、神手君だけが悪いわけじゃ」
「・・・まぁ、先輩がそう言うなら」
激しい言い合いはどうにか収まるが、未来と司はずっと睨み合ったままだ。仕方がないので凛はそのままで話を進めることにする。
「で、その、黒いものを憑けた人って・・・」
「ああ、多分その時のスタッフ、共演者の誰かだろうなぁ。正確にはそいつに憑いたモノっていうか、霊っていうかさ」
「でも、関係した人のほとんどが体調悪いみたいだけど・・・」
「ま、だろうね」
「だろうねって・・・・」
「普通はそうだよ」
司はそう言うと簡単な説明を始めた。廃病院でそこにいたスタッフの誰かに取り憑いた霊が周囲すら巻き込むほどの負の波動を持って能力を拡大させていく。凛の子宮にその波動による霊障を及ぼしたことからして女性に恨みを持った女の霊の可能性が高い。そして男性にも恨みを持っている可能性もあるが、これは男性スタッフと接触してみないとわからないと言った。
「だからと言って、女に憑いているってわけじゃないけどね」
「でもさ、どうやってそのスタッフと接触するのさ?」
未来の言葉に凛が顔を上げた。
「明日、そのテレビ局で収録があるけど・・・・」
「何とか入り込めないかな?そのVTRも見たいし」
「・・・見学ってことでなんとかいけるかもしれないけど、Vを見るのは難しいわ」
「ま、そこは案がある。未来も手伝え」
「は?ま、いいけど」
テレビ局に行けば有名人に会えると思う未来はしぶしぶながら了承したように見えるが、実際は心の中でほくそ笑んでいた。凛は早速マネージャーを通じてテレビ局に見学者の依頼をする。その20分後、とりあえずマネージャーからOKが出たが、現地集合となった。時間は午後5時と少し遅い。そうして凛は司の家を後にした。電車ではなく、安全対策としてタクシーで事務所が住まわせている自宅マンションへと向かうのだ。3人が一緒に外に出るが、凛と未来が一緒にタクシーを拾いに出て、司は用があると言ってそのまま神社へと向かった。ややゆっくりと歩く凛に、未来は少し小さめの声で語りかけた。
「あの・・・今日のこと、誰にも言わないで欲しいんです」
「うん、わかってる」
微笑む凛にほっとしつつ、未来は顔の苦悩を濃くした。
「あいつ、いろいろあって、周囲から良く思われてないんです。そこへきて先輩の裸を見たとか噂されたら、多分、あいつはもっと壊れちゃうかもしれないから」
「もっと壊れるって?」
凛は足を止めてそう質問をした。今日知り合っただけだが、司が壊れているようには見えなかった。そんな凛を見れず、未来は小さなため息をついた。
「人を好きになるって感情がないって言うか、女の子を女の子として見るということができないっていうか・・・そういう部分が壊れてるんです」
「どうして?霊のせい?」
「半分は・・・もう半分は、人の悪意です」
「人の悪意?」
「今回の件が終わったら、全部話します・・・」
泣きそうな顔を向ける未来を見て小さく微笑んだ凛は頷いて見せた。
「わかった、約束する。あなたは神手君が好きなんだね?」
その言葉に驚きも照れもせず、静かに首を横に振った。
「昔は好きでした。でも、あいつは壊れた・・・だから私の恋も壊れました。もう、あいつにそういう感情はありません・・・ただの幼馴染で友達、それだけです」
「・・・そう」
未来の言葉にそうとしか言えず、凛は再び歩き始めた。そうして大きな道路に出たところでタクシーを拾う。
「電車とか使わないんですか?」
「こうしろってマネージャーがうるさいの」
「へぇ」
「いろいろ制約もあるし、結構自由ってないんだよねぇ」
「そうなんですか・・・」
その言葉に苦笑し、凛はタクシーのドアが開くのを見てから未来へ向き直った。
「それじゃ明日、局でね」
「はい」
手を振ってタクシーに乗り込んだ凛は車が動き出すまで手を振っていた。そのタクシーもすぐに車の群れに混ざって見えなくなる。未来はため息をつくと元来た道を戻っていく。その表情は夕闇に近いほど暗かった。
翌日、時間通りに携帯電話が鳴った。いつものようにマネージャーである古賀麻美がエントランスに到着した合図だ。既に準備万端である凛はバッグを持って外に出る。マンションのエレベーターを降りたそのすぐ目の前の広い場所に麻美は立っていた。茶色い髪は肩にかかる程度。だが美人であり、かつてタレントであったことに納得がいく整った顔をしていた。そんな麻美は元気そうな凛を見て微笑むと、マンションの前に止めてある車に乗り込んだ。
「風邪、治ったみたいね」
「あ、はい。でも風邪じゃなかったんですよ」
「どういうこと?」
車を発進させながらそう聞く麻美の表情が曇る。ここ最近の体調不良が風邪だと思っていたからだ。現にスタッフの中にも体調を崩している者が多く、中には廃病院での祟りだと言う者もいるぐらいだ。だがこうして麻美のように元気な者もいて、祟りにしては中途半端だということで風邪が流行ったということになっていた。それなのに凛の体調不良が風邪のせいではないとすればなんなのだろうか。
「あの病院で、何かが憑いていたみたいです。私は高校の後輩にお祓いしてもらって元気になったし」
「お祓い?」
「今日の見学者です。凄い霊能者なんですよ!」
「霊能者ねぇ」
嬉々として言う凛に苦笑した麻美はテレビ局に着くまでの間、司がどれだけ凄いかを熱弁する凛に疲れてしまった。そうして局が見えてきた頃、麻美は真剣な顔をして凛を見つめた。
「契約の更新、早くしておきなさい」
「・・・あ、うん、そうですね」
「辞めるのもいいけど、そうなったら住んでるマンションも出ないといけなくなるよ?」
「わかってます」
「一応契約が切れる3か月前、更新日が来週一杯までだから、早めにね」
「はい」
2年前にタレント活動を始めた凛はその契約更新を迫られていた。というのも、両親や親戚と出かけた旅行先で事故に遭い、凛だけが奇跡的にほぼ無傷で助かったのだ。身よりもなくなった凛を引き取る形になったのは父親の親友で芸能事務所を開いている飯島亮だった。亮は凛の美貌に注目して事務所と契約を結ばせ、CMや雑誌モデル、バラエティ番組などをメインに活動させ、事務所名義のマンションに住まわせていたのだ。そしてその2年契約が切れる3か月前、つまりは更新手続きが可能なのが来週末までとなり、更新しなければマンションを出て行ってもらうとも言われていた。亮にすれば凛は金のなる木でしかない。それを知っているからこそ、凛は契約の更新をしないと決めていた。かといって住む家もなく、今はただ悩みに悩んでいるところだ。完全に黙り込んだ凛を見つつも車を進め、地方局のエントラス前に車を止める。凛が車を降りれば、そこには既に司と未来の姿があった。麻美は駐車場に車を止めるとすぐに戻ってきて、守衛から見学者のパスを受け取ってそれを2人に渡す。そうして遅れた挨拶も交わした。
「蓬莱未来です。よろしくお願いします」
「神手司、よろしく」
「古賀麻美です。では早速ですが注意事項を話しますね」
そう言った麻美が司を見た瞬間に表情を曇らせた。ほんの一瞬だったが、司の目が金色に見えたのだ。だが今はただの黒目だ。気のせいかと思って話を続ける。
「出入り禁止の場所は多いです。関係者以外立ち入り禁止の場所には絶対に入らないこと」
そう言うと2人に紙を渡した。その3枚の紙には入れる場所と入れない場所が簡単に記されていた。そうして局の中に入り、広いエントランスを抜けて狭い通路を進めば、テレビで見たことのある有名人が多く行き交っている。チラッと凛が様子を見れば、未来は目を輝かせるが司はまったく興味がないようにしている。そのまま凛は楽屋に向かい、司と未来は麻美の案内で収録のあるスタジオに通された。そして壁際にあるパイプ椅子に腰掛ける。そのままここにいるよう告げた麻美が出て行けば、さっそく司は立ち上がってなにやら打ち合わせをしているヒゲ面で小太りの男へと近づいた。そんな司を見て怪訝な顔をしつつ、男は咳をしながら司に詰め寄った。
「こらこら、見学者は向こうに行ってろ!」
その言葉すら無視した司が左手を男の胸に当ててそれを押す。そのまま怪訝な顔というよりは怒った顔をする男を無視して右手で背中をぽんと押した。その瞬間、男は何かを吐き出すようにゲホッと声を出した。何をするんだという目を司に向ければ、司はにんまりした顔を男に向けたままだ。
「楽になった?」
「あぁ?何を・・・・え?え?」
ここ最近だるくて重かった体が嘘のように軽い。一体自分に何が起こったのかわからない顔をする男にそっと耳打ちをする司を見た未来もまた椅子から立ち上がった。
「廃病院に行ったスタッフだよね?憑いてましたよぉ、変なのが、ね」
その言葉に男は凍りついた。病院に行っても原因は不明、薬を飲んでも効果も無い。その症状がたった今、この少年の少しの行動だけで解消されたのだ。しかも憑いていたと言われて背筋が凍る。そうではないかと薄々思っていただけに恐怖も大きかった。
「その時のVTRを見たいんだけど、できるかな?多分、元凶を断たない限り被害は収まらない」
「あ、いや、しかし・・・」
「廃病院には何かいた。それは間違いない。しかもかなりたちの悪いのがね」
その言葉にぶるっと身を震わせた男は少し考えた後、この収録が終わったら見せると約束をする。自分でもそうかもしれないと思っていた。現にロケに参加したスタッフの大半が原因不明の体調不良を訴えているのだ。認めたくない思いでいたが、こうもあっさり症状を無くされては信じるしかない。司は怯えた目をした男に微笑むと椅子に戻った。それを見た未来もまた座る。
「収録終わったら、例の映像見れるって」
「え?あのおじさん、あんたの言うこと信じたの?」
「ま、そういうこと」
そう言った司が椅子に腰掛けて30分後、ぞろぞろと関係者が入ってくる。凛の他にも有名な芸人などもいて、深夜のバラエティ番組の収録が始まった。未来はいろんな有名人を前に目を輝かせていた。司はいつの間にか横に立った麻美を見れば、そんな司を見てすっとしゃがみこむ麻美。
「あなたが霊能者って本当なの?」
「ええ、まぁ」
「ふぅん」
興味があるのかないのか、麻美はそう曖昧な顔をしてみせた。そんな麻美を見た司がにんまりと笑う。
「まぁ、信じる信じないは自由だけどね」
「そうね」
一切敬語を使わない司に対してそう言うと麻美は立ち上がり、腕組みをして収録を見つめる。そんな麻美を見ずにあくびをした司は、ひな壇の上に座る顔色の悪い女性タレントに目をやった。ろくなコメントもできずに時折腕で口を覆いながら咳をしていた。霊視眼を使わずともわかるほどに取り憑かれている。それもかなり症状が悪そうだ。おそらく、昨日の朝、司に遭遇しなかった場合の凛もこうなっていたのだろう。
「あの子もロケの関係者か・・・」
そうつぶやくと目を閉じる。そうして収録の休憩まで一眠りした司の元に凛がそのタレントを伴ってやってきた。司は寝たままだ。
「神手君!」
「司!」
「ん?あえ?」
完全に寝ていた司がよだれを拭きながら目を開ける。怒ったような顔の未来に呆れた顔の凛、そして顔色の悪い女性がそこにいた。
「えーと、彼女も例の関係者?」
あくびをしながらそう言う司を見て怪訝な顔をするその女性に未来は愛想笑いを返した。凛はそっと女性の背中を押すようにして司の前に立たせる。
「そう、一緒にロケに言った速水翔子さん。グラビアアイドルなんだ」
「速水です、よろしく」
かなりつらそうにしながらも笑顔を見せるのはプロだと思う。そんな様子を離れて見ている麻美は自分の元に近づいてくるヒゲ面の男へと軽く頭を下げた。
「麻美さん、彼、何者なんです?」
「あら、広田さんも顔色が良くなってますね」
「彼のおかげですよ」
「へぇ」
そう言う麻美が司を見れば、銀色の数珠をはめた左手を翔子の胸に添えてそれを押す。翔子は急に胸を触られたことに驚いて声を上げたが、司はおかまいなしに金色の数珠を巻いた右手で背中を押した。広田はそれを経験しているだけに何も言わず、麻美は怪訝な顔をしていた。近くにいるディレクターもまた睨むような目を司に向けている。
「あれ?なんで?」
翔子は体が軽くなったことに驚き、気分も良くなった自分が信じられない。何をやっても治らなかった症状がたったこれだけで回復したのだ。驚く翔子に凛が微笑むが、司は椅子に座ると少し怪訝な顔をしてみせた。そんな司を見た未来が凛と顔を見合わせる。
「どうしたの?」
未来の言葉も無視して何かを考える司がおもむろに立ち上がった。そんな様子を不安そうに見つめる面々。
「漏れそうなんでトイレ行って来る」
微笑んでそう言うとさっさとスタジオを出て行く司に未来は呆れた顔をするしかない。凛と翔子は顔を見合わせて苦笑するが、麻美はどこか険しい顔を向けていた。
「本当にトイレなのかな?」
そう言うと麻美もスタジオを出た。すると司はまっすぐにトイレへと向かっていた。麻美は司がトイレに入るのを確認し、その場で待つ。司はトイレの鏡の前に立つと何かを考えながら一点を見つめていた。翔子の魂に同調したが、凛にあったような霊的因子を体内に感じない。感じれば同じようにして排出させることも出来るが、それ自体がないのだ。何故凛にだけそれがあったのかが気になっていた。一方でトイレが見える位置から様子を伺っていた麻美は3分もしないうちに司が姿を現すのを見て小さく微笑んだ。そんな麻美に気づいた司はにんまりと微笑む。
「やだなぁ、監視しなくても変なとこには行きませんよ」
「そう?ならいいけど」
「ええ」
そう言って2人は並んで歩く。
「変わった数珠をしてるのね?」
麻美の言葉に両腕にはめた金と銀の数珠を見せるようにした司はにんまりとした笑みを見せた。
「ウチ、神社なんで、こういうのをした方がそれらしいでしょ?」
「そ、そうね」
何かのおまじないかと思った麻美はただのファッションかと思って苦笑した。そんな麻美を見つつ、司はスタジオの扉の前で立ち止まった。
「ただの魔除け、ですよ」
「魔除け?」
「形だけの、ね」
鋭い目を麻美に向けるが、そのままさっさとスタジオに入る。麻美はため息をつくとこちらも表情を直してからスタジオに入るのだった。