そのさん
駄菓子屋を出た幸向は、途中寄り道しつつ帰宅した。
最近不幸続きの毎日だったが、
今日は久々になんだか幸せな気分を感じていた。
まず財布。
財布を落としたが、届け出を忘れていた、と交番に立ち寄った。
無くした財布の特徴を伝えたところ、
なんとたまたまこの交番に先ほど届けられたところだった、と若い警察官は言う。
以前に無くして届けていたものも全て。
中身も全て無事。流石に警察官も首を傾げていた。
次に本。
気分もよく帰り道の道すがら、行きつけの本屋に寄った。
探していた新刊がちょうど入った所だという。無論購入した。
そして帰宅。
夕飯を食べ風呂に入り、課題を済ませ、
後は本を読みふけった。
「ふぁ……」
欠伸をひとつ。
今日は今までの不運を帳消しにするくらい、幸運であった。
心地よい眠気が幸向を包む。
栞を挟むと、幸向は眠りにつく。
(この土日は朝練もないし、学校なんて気にせず寝てやろう)
なんて考えながら。
が、目を閉じた幸向にふと一つの疑問が湧いた。
(萌乃子ちゃん……お姉さんの子供にしてはずいぶん大きかったな……)
その場の勢いでつい流してしまったが、幸向が聞いた菓子ねえの姉。
確か、年はそう変わらないはずだった。
(ま、いいや……今度行ったとき聞いてみよ)
そう思いながら、幸向の意識は闇に落ちていった。
その日、幸向は夢を見た。昔の記憶。
七歳の誕生日のお祝いに、家族と泊りがけでキャンプに行った時の事である。
独りで森の中に入っていって、迷ってしまった。
家族は探して探して。
結局、捜索願を出そうか、
と家族が荷物を取りにテントに戻ったら、幸向はそこで寝ていた。
しこたま怒られたが、幸向は森に入った後の記憶がなかった。
は ず な の に。
夢は幸向が森に入っていった続きを再生していた。
森に入ってからそう深くは入っていないはずなのに。
さっきはキャンプ場がすぐ後ろにあったのに。
前を向いて、少しだけ、ほんの少しだけ進んだだけなのに。
振り向くと、
森 だ っ た。
一 面 の。
幸向は走って走って。
ひたすら走り続けたが、どこまで行っても森だった。
泣きながら歩いていると、小さな祠があった。
思わず近寄ると、声がした。
「帰りたいかい?」
それは祠の中から聞こえてきた。
とても優しく、恐ろしい声だった。
頷いてしまいたいけれど、頷いてはいけないと思った。
「……帰りたくないんだね。お母さんやお父さんには二度と会えないね」
「違うもんっ! 帰りたいっ!」
幸向は思わず叫んだ。
母や父に二度と会えない。
その言葉は当時の幸向には強烈すぎた。
「そうかい、じゃあ1つ、約束をしてくれたら返してあげよう」
「やく、そく?」
「そう、約束」
「……どんな?」
「どんなだっていいじゃないか。それとも帰りたくないのかい?」
「か、帰りたいっ!」
「じゃあ、約束するかい?」
「するっ! だから帰らせてっ!」
「分かった、帰してあげよう。じゃあ、約束だ」
「……うん」
「これから」
「……うん」
祠の声が、ゆっくりと語る。
「こ れ か ら 十 年 後 に 魂 を 頂 く よ」
その声は、とても嬉しそうであった。
そこで意識が途切れた。
「はっ!」
幸向、目覚める。飛び起きる。
全身が汗で濡れていてぐっしょりとしている。
しばらく、肩で息をしていたが……瞬間、ゾクリとした。
決して汗で体が冷えたわけではない。
(何か、いる……部屋の隅)
向きたくもないのに、首は否応なしにそちらを向いていく。
抵抗はしたが虚しく、部屋の隅に視線がいってしまった。
そこには、確かにあの時に見たモノが居た。
がりがりに痩せこけた何かがそこに座って幸向を見ていた。
暗闇の中でも、何故かはっきり姿が見えた。
左目は横に、右目は縦についている。
鼻のあるべきところに右耳。
右耳のあるべき所に口。
口のあるべき所に鼻。
まるで福笑い。
そんな歪なモノが、あの時と同じ声で語りだした。
「約束」
約束、あぁ約束。
でも、あんなのはないじゃないか。
そう言いたかったが、幸向の口は動かない。
「不幸でじわじわと魂が弱っていくのを見るのは楽しいな」
(不幸? 不幸って……あれもこれも、全部…)
一連の不幸はこのモノのせい。
そう幸向は確信した。
だが、文句など言える状況ではない。
それどころか、まともに思考することすらできない。
「魂を弱らせて捕らえると、その時のまま捕らわれる。
それを、すり減ってなくなるまで、しゃぶりつくすのが、好きなんだ。
げらげらげら」
無邪気な声で語り掛けた後、おぞましく笑った。
「でも」
急に声が凍りつく。部屋の温度が氷点下まで下がったようだ。
幸向は、いつの間にか震えが収まらなくなっていた。
「よく分からない、今日は干渉できなかった。
少しばかり、魂が強くなった。
このままいくと、味が落ちる。
だからちょっと早いけど、今日頂く。
長い間干渉したおかげでようやく、
姿が見える程度にはこちらに近づいた。
せめて、この姿を見て死ぬまで怖がっておくれ」
そのモノが立ち上がる。脚も歪な形であり、さぞや歩きにくかろう、
亀のような歩みだ。
だが、確実に幸向へと向かう。その手を伸ばしながら。
その手はぐずぐずに腐っていて、指の先から骨が見える。
おぞましいモノだった。
(い……やっ!)
触られれば死ぬ。そう、直感。
逃げなければ死ぬ。
だが、体は動かない。
(死にたく……ない!)
だが、そんな幸向の想いは虚しく、
(誰かっ!)
そのモノの手は幸向に
「……」
触れることはなかった。
「なんだ、お前」
幸向とそのモノの間に誰か立っていた。
そのモノの手は、その者の顔で遮られていた。
幸向は後姿しか見えなかったが、ふと見覚えのあるものが目に入った。
その者の髪を留めている、狐の髪留め。
(萌乃子ちゃん!?)
そこに、モノ子が立っていた。
ぐずぐずに腐った手が彼女の顔に触れている。
だが、黙して語らず。一切動じず。
無表情で、その眠たげな眼でそのモノと見つめあっていた。
「ナンダオマエエエエエッ!!!」
先ほどの底冷えするような寒さとはうって変わって、
部屋の中が急に暑く、いや、熱くなった。
どろりと、まとわりつくような熱さだった。
「……」
しかしモノ子、変わらず動じず。
と、モノ子も動きを見せた。その腕を僅かに上げると、
ゆっくりと掌をそのモノに見せつけるように起こす。
「オマエモタベッ!?」
何でもない動きであった。
掌を支える力を抜いたような。
くにゃり、と手首から先が下を向いた。
だがその動きに呼応するように、そのモノはペシャンコになった。
「あ……ぁ……」
僅かに声を上げた後、そのモノは掻き消えた。
「……還りなさい」
モノ子がポツリとつぶやく。
気づけば、部屋は何事もなかったかのように静寂が支配していた。
先ほどまでの熱さもない。
「も……萌乃子ちゃん……?」
幸向が呟く。
応えるようにモノ子がゆっくりと振り向く。
幸向は半信半疑であった。
だが、それは確かに駄菓子屋で会った『萌乃子』であった。
しばし、二人は見つめ合ったが
「あ……」
しばらく見つめあっている内に、強烈な眠気が幸向を襲う。
恐怖から解放された心と相まって、幸向の意識は再び闇に落ちていく。
そして糸の切れた人形のように、幸向は崩れ落ちた。