誇張の夢
夢を見た。自分が蛾になった夢だ。天井にへばりついて下を眺めていた。複眼とはそうしたものか。
中国の故事に似たような話もあるが、仕事疲れと生活窶れの二重苦の中でそんな変身を夢見させたのかもしれない。せめて夢の中、もう少し気の利いたものになりたいものだ。
朝の食卓、妻が表情なく食パンにバターを塗っている。出勤前のいつもの時間。会話のネタもなく、私は夢の話を持ち出してこの空疎な一日の始まりを埋めるのだった。
いつものように定時退社で帰宅。一人蒲団の中に入った。眠りがいつものように機嫌よく訪れる。不眠症で悩む同僚もいるのに比べてずぶといところがあるのかもしれない。
再び、同じ夢を見た。私は蛾になって寝ている自分を見つめていた。
しかし、なぜ自分が蛾になったとわかるのだろうか。鏡にわが身を映したわけでもない。夢とは元来そんなものかもしれない。姿見に結ぶ像は果たして己の真の姿なのか?
妻が部屋に入ってきた。一人娘が嫁いでから娘の部屋を妻は自分の寝室にし、別々に寝ている。そういえば、妻は虫が大の苦手だった。見つけたら一目散に逃げ出すに違いない、これは愉快だ。
妻は静かに私の掛け布団は剥いで中に入ってきた。妻とはもう三年ほどセックスしていないだろうか。妻が明白に拒絶していた。これは妻の深層心理が私の夢の中に入り込んできたのかもしれない?
しかし、妻は私の顔をしばらく眺めると蒲団から出てきた。そして、徐に天井を眺め始めた。
「さぁー、悲鳴を上げて逃げ出すぞ」
妻は徐に娘の勉強机の上にあがった。そして、その瞬間激しい風圧と伴に妻の二の腕が弧を描き、蛾は天井のしみとなった。私は闇に沈んだ。
私はそのとき思い出した、朝、夢の話をしたときの妻を。無関心な表情ながら、食パンにバターを塗る手が一瞬止まったことを。
ただ、新聞紙を使わず素手で蛾を叩いたことに私は一抹の愛情を感じた。