迫害の理由
頬を上気させた靇禄軍の男に書庫前へ案内してもらった世仙は、鉄製の引き戸に手をかけて男を振り返る。
「どうもありがとう」
緩く口角を引き上げ、小首を傾げる。その表情に見られた男は、頭から湯気を出すと、慌てて世仙に背を向けて階下へと駆けて行った。
薄暗い廊下に、騒がしい音が響く。小さな男の悲鳴からして、階を踏み外して転んだのだろう。天窓から入るわずかな光に照らされて、世仙は「騒がしい輩め……」と自分を棚に上げて顔を顰めた。
戸を開けて中に入る。そこは石壁で覆われた廊下からは想像できないほど、暖色で包まれた空間だった。
巨大な本棚が立ち並ぶ、天井の高い部屋。中央には閲覧用の長机が備えられている。人の姿はない。
部屋の南側には大きな、人が出入り可能な窓が幾つもあり、開け放たれたそこから煌々とした光と、清涼な風が流れ入ってくる。
等間隔で並べられた、自身よりも背の高い本棚の間を、ゆっくりと見て回りながら、世仙は感嘆の声を漏らした。
「こんなに本を見たのは初めてかもしれない……」
同じ形の本棚を横目に部屋の奥に行くと、吹き抜けの階が現れる。それを上った先にも、本棚があった。天井の高い空間を利用して吹き抜けの屋根裏をつくっている。ついその造りに賞賛の声を上げたくなる。だがここを作り上げ、主に利用する輩のことを考えると、歯を食いしばり、声が漏れないように努めてしまう。
(とにかく、今の私に必要なのは情報なわけで……)
階を上り、並ぶ本棚の隙間に身を入れ込む。背の高いそれらに挟まれ、世仙の姿は完璧に死角に入り込んだ。
適当に目についた本を取り、めくっていく。縦に書かれた字を、水の流れるような速さで読んでいく。ささっと、見た内容を脳内に入れ、また新しい本を取る。それを繰り返した。
今の世仙は、宮中のことを何も知らなさすぎる。自分の無知を自覚した彼女は、とにかく過去の情報を手に入れなければと、本棚の本を片っ端から暗記しようと画策した。
短時間で何冊かの本を読み終わる。新しく手に取った本を開き、読もうと視線を字に走らせて、瞬時に止まった。出だしの文字へと視線を戻す。
そこには、大戦乱の文字。
世仙が宮中にきて何度か聞くこととなった言葉だ。
一文字一文字、丁寧に読み進めていく。
十六年前に宮中を襲った戦乱。前将軍とその配下の武人が対立し起こった悲惨な事態だ。戦乱の発端は、謀叛人の武人が当時の宦官長を殺害したからと本に記されている。
『民間出身でありながら有能官吏となった宦官長の清衣が、武装部隊の隊長、彪楡により殺害され、事態が起こる』
記された一文を口の中で反芻し、眉根を寄せる世仙。その次の文を読み終え「なるほどね」と小さく頷き、本を棚に戻す。
(つまり有能な民間人を宮中の官吏に採用するようになった曹将軍の政治が、旧家出身の彪楡たちにとっては、許し難いことだったと)
曹将軍は政治の中枢を担っていた役員たちを見直すことを提案した。そして宦官長の役職に、どこの馬の骨かもわからない、民間出身の清衣を任命する。これは当時、血統を重んじていた宮中にとっては異色の事態だった。
宮中で役職を決める際、最も重要であったのは、一族の血である。どれだけ無能な人間であっても、銘家の出身であれば役職を獲得出来た。
過去の栄光を掲げ、無能な人間が役職に就くのは、当時は普通であった。それが当たり前だった。しかしそうすると、時代を流れるにつれ多くの無駄や問題が増えていった。名ばかりが大きく、役に立たない官吏が増えていったのだ。
その無駄に逸早く気づいたのが、将軍の曹諫であり、清衣を始めとし多くの民間出身者が宮中の官吏として採用された。
経費の無駄や、行き届かない行政問題。自身の血の栄光に溺れ、政務を的確にこなさない者も多くいたのに、有能な力を持つ者を政治の中に取り入れることにより、滞りがちであった政治は著しく成長を遂げた。
だが、そうなると面白くないのが、役職を外され、職を失った銘家の連中である。その先頭に立ったのが彪楡であった。
しかし銘家出身の彪楡は、将軍の武装部隊の隊長、という役職を持っていた。わざわざ曹将軍の政治に反乱を起こす必要などないはずだった。
本によれば「心優しい彪楡が、かつての仲間たちが涙を流し、役職を離れねばならない現状に心を痛めたから」と書かれていた。
役職を曹将軍から貰っていながら、反乱軍の先頭に立った彪楡こそ、現将軍の珀将軍だった。
血を重んじる銘家と、能力を持つ民間出身者との対立。
結果、血が勝った。
反乱軍の長、彪楡は将軍となった後、民間出身者が多くいた宦官の迫害を決行する。宦官迫害の始まりは、民間人を宮中から追いやることが始まりだったようだ。
民間出身者が容易く宮中に入り、出世する方法は“宦官”になることだった。故に宦官は殆ど民間出身者だった。武装部隊の中にも多少なりと民間の人間はいたが、大体が警備など大きな仕事を任されない下っ端で、迫害の対象にはされなかった。敵視されたのは宦官職にいる民間出身者だった。
本棚に並ぶ本の背表紙を見ながら、世仙は片手を顎に運んで唸る。
宮中に来て宦官として過ごした世仙は「宦官は豊穣を妨げる存在」として迫害されていることを身をもって学んだ。汚れた存在とし、理不尽な行いを受けた。
なのにこの本には「宦官迫害は、宮中にやって来た民間人への戒めだった」と記されていた。
(はじめの目的は民間人を宮中から追いやることだった。けど、宦官を悪い存在にすることで皇帝や将軍の地位を確立するためだったとか聞いたなぁ……)
宦官を汚れた存在にしたのは、ただ単に鬱陶しい存在である民間官吏を殺戮するのではなく、意味を持たせ、地位を確立したい将軍の後付だったというわけだ。
むむ、と眉間に皺を寄せる世仙。丁度開け放たれた窓から風が吹き込み、身にまとっていた薄い袍がひらりと揺れた。手にしていた本を棚に戻し、胸の中を渦巻いた黒い靄を吐き出すように、深いため息を吐く。
ふと、一度瞬きする。その時瞼の裏に痛いほどの光が映った。驚き目を開いた時には、今しがた棚に戻したばかりの本を手にしていた。
(これさっき読んだ本……)
思いながら紙をめくっていく。宦官の迫害は後付だと推測させる箇所を過ぎ、本の記入者の名前が目に入り、世仙は肩を跳ねさせるほど目を見開いた。
荀鵬全。
見知った名前に生唾を呑んだ時。
階下が騒がしくなる。咄嗟、本を棚にしまった世仙は本棚に体を預け、階下に意識を向けた。人の姿は相変わらずない。書庫に来る軍の人間は少ないようだ。
「隊長! 本当に縄だけでいいんですか?」
「いいんだそれ以外はいらない。あと仕事を放棄して着いてくる輩の名前を書きだしておけ。あとで上に報告してやるから」
どうやら戸の外。廊下に人が集まってきているようで、いろいろな声が響いている。
(ああ、まずい)
たらり、と背に汗が流れる。今は宦官の姿ではなく、女人の姿だ。特に焦る必要はないのだが、さっきの冷静かつ怒気の孕んだ声の持ち主は、世仙の身勝手な行動を許しそうにない男のものだ。
少しでも不審がられたら潔く身を引けという蘭々の言葉を思い出す。少しも予兆がなく訪れた緊急事態に、潔く身を退く手だてもない。
まずい、と視線を階下から視線を逸らし、向かい合う本棚の隙間に体をすべり込ませ辺りを見回す。ふ、と視線が伸びたのは、背後にあった、大きな窓。
それと同時に戸が開く。
途端、世仙は視線の先へ駆けだした。
開け放たれた窓の先。
二階の屋根裏にある窓から、一目散、外の景色も確認せずに柵を飛び越えた。
戸を開けた途端、白い日の光に目が眩む。
目を眇めた丞猇の耳に微かな音が入った。瞬間そちらに視線を向ける。
部屋の中にある階の上った先だ。そちらに人がいるのは確かだ。
丞猇の後ろには熊と、他の靇禄軍たちが続く。丞猇の背を掴んで部屋の中を覗いていた熊が、何もない、と顔を蒼白にさせた。
「や、やっぱり幽霊……」
「そんなわけないだろう」
小さく息を吐いて、ぞろぞろとついてきた男たちを全員部屋にいれて、侵入者を探させる。部下たちが階下の本棚の隙間を探すのを横目に、丞猇は一人階上に向かった。
一段一段、ゆっくりと上る。その間にどこかに身を隠してくれればと願いながら、本棚と本棚の間を覗いた。
棚に手をかけた瞬間、ふと風が前髪を揺らす。
開け放たれた窓。そこには人の姿はない。ゆっくりと窓に近づき、柵に手をかけ外の様子を窺った。
吹き抜けの屋根裏は建物の一階分の高さがある。書庫が二階、屋根裏が一階、合計三階分。ここから飛び降りることはないだろうと、下に見える芝生を一瞥して階下に戻った。
「し、死ぬかと思った……」
黄と黒、白の毛皮に埋もれながら、世仙が胸を撫で下ろす。
颯爽と吹く風に獣の匂いを感じ取りながら、ようやく顔を上げた。
『お嬢、俺時々死期を悟る時があるんだよ』
世仙の脳内に男の声が響く。向かい風に目を閉じていた世仙は目を開けて、自分が動いていないにも関わらず、地を駆けている感覚に驚き声を出す。
「え、鼎柚じゃないの。どうしたの」
『どうしたも糞もないよ問題児』
世仙は毛皮の上、一匹の虎の上に跨り青い芝生の上を駆けていた。前から流れてくる風に長い髪をなびかせながら、両手でつかんでいた毛皮を興奮気味に引っ張る。
「死期なんてどうでもいいのよ。アンタもうおじいちゃんなんだから、そろそろ潮時よ」
『こんな大きな化け物残して墓に入ったら、郁に泣かれてたまったもんじゃないよ』
「それより聞いてよ鼎柚! 書庫で兄さんの名前を見つけたの!」
ピクリと、虎の鼻が動く。『ほぉ、よかったじゃん』と軽い口調を世仙の脳内に語り掛ける。そんな素気ない態度をとりながら駆け続ける虎に、世仙は唇を尖らせ、黄色の毛が生えた背を拳で叩く。
「何よ何よ。大収穫じゃないのよ。鵬全の名前をあの大きな書庫から勘で見つけてきた私を褒めてくれてもいいじゃないのよ」
『ああイイ子イイ子。世蓮は本当にイイ子だなぁ』
適当な口ぶりに、世仙はついに頬を膨らませ、両手で虎の背を叩き続けた。
鵬全
耳に入った名前に、青年が肩を震わす。
白く、汚れ一つない袍をまとった青年は建物の陰に隠れ、名前の出所を探した。
芝生の上を、一匹の虎が駆けている。その背には薄い青色した、女用の衣をまとう人の姿があった。
「あれは、世仙……」
青年は口に出し、ごくりと生唾を呑む。頭部を覆う帽の上で、銀の色した月の飾りが風に吹かれチリ、と音を鳴らす。
「潮時、かな……」
青年は白く、綺麗な面に苦渋の表情を浮かべて目を閉じる。黒い袍をまとった男の姿が、その瞼の裏に映った。