天女か幽霊
大きな出入り窓が施錠された部屋。
二つの寝台が並ぶ間には丸い卓と椅子がある。
寝台に眠るのは長い髪をおろした世仙ただ一人。もう一つの寝台はもぬけの空であった。
風一つ入らない部屋を、雲間から覗いた月明かりが照らす。照らした個所に、突如黒煙が音もなく広がった。
渦を巻く煙は軸からみるみると溢れ、回転しながら外側へと逃げていく。
次第に黒煙は薄まり、煙の消えた軸から現れたのは一人の青年であった。
枯れ草色の長髪を束ねもしていない青年は寒色の袍を何枚か重ね、その上に一枚、女用の打掛をまとっている。片袖にしか腕を通していないので、女がまとうなんかより幾分も動きやすそうであった。だが、かぶる冠の装飾は派手である。幾つもの小さな玉でできた目元を覆う紗幕は、少し動くだけで涼やかな音を奏でた。
端正な顔立ちを月に照らされた青年は、突如口元を緩めると、世仙の眠る寝台に向かう。眉間にしわをなし、何かにうなされる彼女をしばらく見下ろすと、突如青年は世仙と同じ寝台の上で横になった。起きる素振りも見せない、無抵抗な世仙を自身まで抱き寄せると、その頬を一心に突き始める。
「おい何してるんだよ、おっさん」
背後からかけられた声になど目もくれず、青年は世仙の頬を突き続けた。うなされていた世仙の声が、次第に嫌悪を孕む呻きに変わると、青年は満足したように息をつく。
「おっさんじゃないよ、お兄さんだろ」
扉に背を向けたまま、声の主に意識を集中させた青年は、世仙の背に手を回し、子をあやすように撫ではじめる。
「でもまぁ、驚いたよね。俺はてっきりお前死んだと思ってたから。祝の妹の名前を探りに来た時、本当にびっくりしたんだから」
「嘘つけ。俺を避けてたくせにな。それとも何か? 動物に化けると心まで動物並みの臆病さになるってか?」
扉付近に立つのは一人の男。暗がりで表情は窺えない。が、青年は背を向けたままで、まるで長年の付き合いがある人物のように親しげに会話する。
「そりゃ逃げたくもなるって。将来有望な武人候補だった餓鬼が今じゃ、がりがりのひ弱な宦官になってるんだもんなぁ」
目だけで振り返った青年は表情こそ面に出さないが、音もなく近くまで来ていた人物を懐かしく感じていた。
紗幕がしゃらりと鳴る。それは既に目を隠す役割をはたしていない。
「よう、蘭汪。てめぇその顔だとタマ取ってねぇだろ。髭生え始めてるぞ」
「あらやだばれた? あんな粗食ばかりだとひ弱にもなるわよ」
今までの男らしい声色が嘘のように、甘い女性じみた声を発した人物、蘭々が自身の顎を撫でながら青年を直視していた。
「あたしはてっきり、あんたは老死したんだと思ってたのにね」
「……てめぇ、俺の力をさてはなめてるなぁ?」
ぷんぷん、と自分で言いながら青年は軽く笑う。言う割に顔からは怒りを読み取れない。終始にこやかだ。
笑う蘭々を無視し、青年は世仙の頬を手の甲で撫でる。唸りも止み、気持ちよさそうに眠り始めていて、思わず声を漏らして笑った。
「で、タマの取ってないお兄さんは一体ここで何してるのかなぁ? 訊くだけ野暮だけど」
「子彪を殺す」
「はい、野暮~」
「お前も、そのために宮中に帰って来たんだろ?」
世仙を撫でる手を止める。口元を綻ばせながら、青年は目を閉じた。
懐かしい景色を思い出す。
緑の芝の上に集まる数人の男女たち。
晴れて天気のいい日は、よく屋敷の外に出て昼間から酒を飲み交わしていたものだ。
「さぁなぁ」
「だってお前、郁は彪のことをさぞ恨んで……」
蘭々が全て言い終える前に、部屋には無臭の黒煙が上がる。風一つないというのに、みるみる晴れたそこから現れたのは一匹の栗鼠だ。青年の姿はもうない。
『蘭汪』
部屋を渦巻く黒煙を手で払っていた蘭々の脳内に声が響き、栗鼠に意識が向けられる。
『てめぇ今いくつだ』
「二十九よ」
『鵬全が生きてたら二十七だった。…………蘭汪、忘れるなよ。あれからもう十六年も過ぎたんだ』
不審な気配を感知し、蘭々は意識を張り巡らす。庭からこちらの様子を窺う気配を察知し、咄嗟に部屋の影に隠れた。
「でもお前だって子彪が憎いだろ。あいつは鵬全まで――」
『それを探りにこの子はここに来たんだ。俺はこの子の愛玩動物でしかないよ。ほらさっさと出てけよ。お前がいると入ってこれねぇんだよ』
栗鼠の姿で手を払われる蘭々は呆れたようにため息を吐いた。へぇへぇ、と適当に言うと扉に手をかけた。
庭から世仙の部屋に意識を向けていた丞猇は、人の気配がなくなると高欄を跨ぎ施錠された窓の鍵穴に細い針を突っ込み器用に開けた。
寝台に横たわる世仙に近づき、しゃがみこんでその顔を覗く。
と、突然かぶった布の中から栗鼠が飛び出てきて丞猇の鼻先に爪を一閃させた。幸い身を退きかわしたものの、栗鼠は鼻息荒げに世仙の顔辺りまで引き返し、体を丸めて毛の多い尾に顔を埋める。
「……こいつ、やたらと動物を飼ってるな」
丞猇が世仙と出会って、出会った動物の数は数匹。蛙に鷹、そして栗鼠。この具合だとまだまだいそうだ。一体どこに隠しているんだか。宦官が娯楽用の私物を宮中に持ち込むのは当然いいものではないのに。
瞬きを何回か繰り返し、栗鼠を見ていた丞猇は要件を思い出し息を吸う。だが要件を言いに来た相手が眠っているので、叶わない。
一つ息を吐き、丞猇は手にしていた一輪の花を世仙の目前に置いた。
赤い椿の花だ。気づいた栗鼠が、赤い血のような色をした花弁に噛り付く。
「よせ。それは夏口儐がそいつに寄こしたものだ」
動きを止めた栗鼠は丞猇を振り返る。何もわかっていない黒い目に見られ、思わず丞猇は控えめに噴き出した。
夏口祝の贄の儀が施行された今日。彼の妹の儐は、兄が生きたまま入った火葬場の前でずっと佇んでいた。兄が煤だらけになって、生きて出てくることを願うように、体の軸がぶれよろけようとも、誰の手も借りず、ずっと立っていた。
靇禄軍の人間が帰りを促しても、儐は首を縦には振らなかった。
そもそも、贄になった宦官は、たとえ死んでも家族のもとには帰らないというのが絶対だった。
たとえ死んでも骨一つ家族のもとへは返さないという意であり、第一に宦官の骨を傍に置いておくというのは、たとえ家族であろうと好んではしない。穢れと吹聴されたものを持っておくのは世間体に響くのだ。
宦官の死体などの始末は普通、宮中内で行われる。骨ごと焼いて、灰として始末した。故に火葬場に直接入れられた祝が儐のもとに帰るのは不可能だった。
儐の願いはどう転んでも叶わないのだ。
日が暮れ、世仙を落ち着かせて寮に戻った丞猇は熊に儐のことを知らされ、顔を歪めた。哀れに思ったのは丞猇だけではなく、熊も同じようで、
「どうにかなりませんか。このままだとあの人、あそこで石像になりますよ」
と、苦しそうに唇を噛んでいた。
人一倍宦官を嫌うこの少年がそこまで言うのだ。兄を待つ彼女の姿は相当痛ましいのだろうと、火葬場に向かった。
白い塗装のされた建物、丞猇が足を踏み入れると同時に、焦げた匂いが鼻腔を突いた。一瞬足を止めたが、目的地まで足を進める。熱風を顔に受けながら、あることが脳裏をよぎると、歩幅はどんどん開いた。
火葬場の扉前に着くと、予想していた場面に、内心で歓喜が湧いた。
一度使用されれば三日は開けられない鉄の扉が、開いている。そしてその開け放たれた扉を支えるのは数人の靇禄軍だった。
丞猇が近づけば、気づいた武人の一人が分が悪そうに駆けてくる。状況を聞いても武人は口ごもるばかりで、答えなかった。
「夏口祝の妹はどうしたんですか」
背後に控えていた熊が問いただすと、すでに家に帰した後だという。
「よく帰ってくれたな」
それでも何も答えず俯く武人を見て、他の武人が観念したようにやって来た。
「申し訳ございません、我ら彼女に夏口祝の骨を返したんです。それで、帰っていただきました……」
もうほとんど、灰となり形は残っていなかったが、あまりにも儐の姿を不憫に思った靇禄軍の数人は、火を消し形の残っていた祝の骨を探し出し包んだ。
どれが誰の骨かわからない場であるが、火に入れられ時間が浅いだけあって、肉片のつく骨を手掛かりにかき集めたようだ。
包みを受け取った儐は悔しげに、包みを撫でた。帰って来た兄の姿が想像と違い、喉にのぼるほとぼりに耐えながら、宮中の門まで靇禄軍に送られたという。
「自分たちの立場を考えると、愚かな行いであるとは存じてますが……」
口ごもる武人たちを鋭く見据える反面、丞猇はよくやった、と内心で彼らを褒めた。
宦官を迫害する立場にある人間たちが宦官の肩を持つような真似をしたのは許されないことである。だが罰は、与えなかった。他言無用ということで、事態は収まった。念のため、火葬場にも新たに火を点けておいた。
そしてその晩、門番に呼ばれた丞猇は宮中門に行き、椿の花束を抱える儐と会った。
「お世話をおかけしまして。宦官が受ける迫害のことは十分理解していましたが、我が儘を聞いていただき、ありがとうございます」
しっかりした物言いは先ほど火葬場で見た悲痛な女性と同一人物とは思えなかった。
「貧しい身ゆえ、庭先に咲いたこんな物しか用意できませんが、どうかご迷惑をかけた皆様で、お分けくださいませ」
軽く頭を下げたまま差し出された花束を無言で受け取る。次いで上げられた儐の目は、光る刃物のように丞猇を見ていた。
この時点で、丞猇は儐の敵になってしまったのだ。
目を伏せ踵を返した儐は一度立ち止まり、振り向きもせずに声を震わせて言った。
「きっと無理かもしれませんが、薬をくださった宦官の方にも、お礼を言っておいてください」
丞猇の返事聞かずして、儐は駆けて宮外の街に消えていった。丞猇と世仙の関係を知らない儐は自分の願いは叶わないと思っていたのだろう。
礼の椿の花は世仙のもとに渡った。
重い犠牲を払って得た成果の証にと、丞猇はそれだけ残し、窓から出た。
まさか栗鼠に内心を読まれていたなど、丞猇には知る由がない。
食堂でもくもくと朝食の粥を噛む世仙を、目前で蘭ちゃんがじっと頬杖をしたまま見据える。かれこれ粥を食べ始めて、椀の底が見え始める頃合いだ。
「…………何?」
「いえね、ちょっとは元気になったのかと思ってね?」
「昨日の今日でそんなすぐ体調は変わらないけど」
珍しく匙を使って粥を食べていた世仙は、最後の一すくいを食べ終えると、足元に隠しておいた一匹の猫をつまみ上げて膝に乗せた。
「この子撫でて癒されとく」
「今度は猫……」
小声で口元を引き攣らせながら言った蘭ちゃんの言葉など知らず、世仙は膝上で胸を張り座る猫の頭を撫でる。遠巻きに世仙の様子を窺っていた数人の宦官が、突如出てきた猫の存在に目を張った。
「またいちゃもんつけられるわよ? 靇禄軍に目をつけられるって。宦官は私物を宮中に持ち込んじゃいけないのよ。まぁ皆隠れていろいろ持ち込んでるけど」
と言っても学問書や家族の手紙などだ。動物を持ち込む者はいない。
公の場、たとえそれが身内だらけの場であろうと、私物をさらけ出すのは禁忌だ。長年の暗黙の了承でそう決まっている。
「いいよもう。私自由に生きてたいの」
「今の宮中にないものをわざわざ宮中に来て求めるなんて、あんた相当の賭博家ね」
えへ、と声に出し猫と同じように胸を張る世仙の周りに案の定、人だかりができ始める。また、と小さく毒づく世仙の傍に、比較的世仙と年の近い青年が顔を近づけた。
「猫、触ってもいいですか?」
思わぬ問いかけに、変な声が出る。向けられた表情が、あどけない子供のよう笑顔で、気が付けば世仙は猫を手だけで抱き、差し出していた。
「あ」
と思う時には遅く、猫は尻尾を立てながらも抵抗はせず、流されるように宦官たちにさらわれていく。周りにできた人だかりは全て猫に流れた。
「ほら、宦官って虎を崇拝してるから、猫科が好きなのよ」
長机の端にまで連れて行かれた猫の姿は宦官に囲まれ見えない。時折聞こえる潮を吹く声に、世仙は謝罪の意を込めて手を振った。
「ところで蘭ちゃん。私調べものしたいんだけど、ここって歴史本や記録書置いてるような書物庫ってないの?」
「あるわよ。靇禄軍の管轄する所に」
「じゃ今から行ってくるね」
「馬鹿ねあんた、宦官が入れたら苦労しないわよ」
はじめのうちは呆けていた世仙だが、思い出したように声を上げる。時折自身の立場を忘れるのは、田舎での少女暮らしが長いせいか。
机の上に額を落として蘭ちゃんに頼み込む。ごん、という鈍い音が響いた。
「お願い蘭ちゃん、私どうしても調べものがしたいの」
「何調べるのよ」
「宦官の歴史」
あわよくば兄の死に関する情報が手に入れば、なんて思っていることは口が裂けても言えない。
額をぐりぐり机にこすりつけながら何度も「お願い」を繰り返した。
呆れたため息を吐いた蘭ちゃんは一回、手を叩くと世仙の頭を掴んで面をまじまじと見る。時折横を向かせたりして、一人頷くと手を放した。世仙の頭が音をたてて机に落ちる。
「いいわよ、協力してあげるわ」
不敵に笑う蘭ちゃんのことなど知らず、世仙は赤くなった額を押さえながら満面の笑顔で立ち上がった。
書物庫があるというのは、いわゆる学堂だ。
靇禄軍や宮官軍の武官や文官が自分の能力を向上させるために、空き時間を使って通っているらしい。
文官は主に学堂内にある書物庫にこもり勉学に励む。武官も、これまた学堂内にある鍛錬場に足蹴く通うという。
どちらも高性能な造りになっており、書物庫には多量な資料を詰め込むため、部屋内に階を設け、吹き抜けの二階を造っている。それでも日に日に増える記録などにより、部屋の面積は足りず、どうにか部屋に詰め込めるように配置などを変えているらしいが限界間近のようである。
鍛錬場は幾つもの礫を重ねて造られた壁に四方を囲まれた造りになっている。百人近くは収容できる広さで、主に靇禄軍の武官が剣や槍の腕を磨くために通っている。ここもまた吹き抜けの二階を設け、観客席を設けている。時折腕自慢が揃えられ、模擬試合が行われるのだが、不定期開催であり、ここ最近は開かれていない。客席は埃をかぶる始末だ。
内面からわかるように、この建物、相当背が高い。さらに部屋数も無駄にある。個室の勉強部屋や休憩部屋。施設を利用した人が自室の如く使える個室が多く設備されている。
建物入口前で、岩壁に所々添えられた金の装飾などに目を向けながら世仙は感嘆の声を上げた。首を痛くするほど上を見上げても、てっぺんの様子はそう易々と窺えない。屋根の赤い部分が少し見える程度だ。
「ふえー大きいー」
おー、あー、と声を上げながら上を見上げる世仙だが、その容姿がいつもと違う。
宦官帽をかぶらず、長い髪をそのまま流し、普段まとう宦官袍を着ていない。
空色の襦裙。平民の女性が好んで着る衣をまとう世仙はほんのりと化粧っ気を帯びていた。耳元の部分には薄い桃色の蓮の花の髪飾りが添えられている。
あの後、部屋に戻った蘭ちゃんは、この衣装と化粧道具を持って世仙の部屋に連れて行った。そして何も言わずにみるみる着替えさせられ薄い化粧まで施された。
勝手に身ぐるみはがれて化粧までされて気づいたが、世仙は自身が女であることを隠している身であったにもかかわらず、蘭ちゃんに着替えをしてもらった。胸には固く晒しを巻いてはいたが、何か不審がられたかもと冷や冷やしたが、そんな素振りを蘭ちゃんは一切見せずに、
「あんた女顔だったからね。これなら書物庫に入れるわよ」
と、自身の用意周到に誇らしく頷いていただけだった。そもそも何故蘭ちゃんがこんなものを持っているのか。もしや趣味かもしれない、と自己完結する。
「いい? 書物庫のある学堂には宦官は入れない。だからあんたは今から“女”になるのよ」
「だからの意味がよくわからない」
「いくら野蛮な軍人集団と言っても女には手を上げないってこと。あと、あんたは“宮中で働く許嫁を探しにやって来たけど迷って学堂に辿り着いた”っていう設定もつけましょう」
手を重ね合わせ何やら楽しげに目を輝かせる蘭ちゃんに、初めは呆けて聞いているだけだったが、だんだんやる気に火が点いてきた。
「なるほどね! 無残に引き裂かれた男女の物語的なね? 任せて、私そういうの大好きよ!」
「なら話が早いわね。あとはあんたが好きなように動きなさい。ただし、少しでも不審がられ始めたら、潔く身を退いてきなさいね」
了解! と真っ直ぐに揃えた指を額にあてる動作をすると、蘭ちゃんにその手の甲を叩かれる。
「女らしくなさいよ。右手の上に左手を添えて、それを下腹辺りに置くのよ」
腕を掴まれ傀儡のように型を造られた世仙は幼き日に受けた郁の淑女教育を思い出し知らずに身震いした。こんな指導も受けた気がする。ついにあの鬼教育の成果を使う時が来たのだと自身を奮い立たせた。
学堂前で首をこれでもか、と曲げていた世仙は背筋を伸ばし、胸を張る。そこからゆっくり足を進めた。
「女なのに女になるなんて不思議な感覚ね~」
歩幅は小さく、唇は緩やかに弧を描くように口角を上げる。顎は適度に引き、決して相手を見下さない。
呪文のように心で呟き、学堂へと入る階を上った。
学堂には一応、名前確認のために受付が設けられている。靇禄軍、宮官軍の共同使用施設なので、日交代の役割で、今日は靇禄軍の者が番だ。
椅子に座り、卓の書類に筆を走らせていた受付番は、入り口の扉が開く前から不審な気配を感じており、眉間にしわを寄せながら扉を睨んでいた。
妙に響く沓の音。踵の高い沓が鳴らす独特の音は、ゆっくりと規則正しく鳴っている。
学堂に来る面子はだいたい決まっており、これほど音の鳴る沓を履く者は今まで訪れたことがない。そもそも踵の高い沓は女性が好んで履く沓だ。二つの軍隊が使用する施設に女が来るのはよっぽどのことがある時だ。
受付番は身構えの態勢をとるために筆を置いた。遠く離れた部屋から武人が稽古の際に上げる声が聞こえる。
扉がゆっくりと押開けられる。老朽の進んだ付け具が甲高い音を響かせた。
日差しが扉の隙間から差し込み、屋内を照らす。眩しさに目を閉じかけた受付番だが、陽の光を背に立っていた人物に、思わず反射動作も忘れ目を開いた。
狐色の長い髪に短く切りそろえられた前髪は無垢な少女のよう。
面に浮かべられる微笑は柔らかく、やや潤みを帯びる目に緩やかに弧を描くのは薄く桃色に色づく唇。頬に薄く添えられた紅色は自然、彼女が成す色だろう。
耳元に飾られた桃色の蓮の髪飾りと、空色の所々が薄く透けた襦裙の色の調合具合が、少女の肌の白さを際立たせた。
呆けていた受付番が我に返りかけたのに、少女が歩きだした途端、また夢の世界へと吸い込まれていく。
長い髪から微量の甘い匂いが漂う。化粧品のそれとは違い、少女が本来持つ香りと皮脂が混じったような甘酸っぱい香りだ。
腹部に添えられた両手から延びる細い指の爪先は自然と桃色に色づいており、成熟した女が持たない色気を醸し出している。
大人びた動作で受付前まで来た少女は、腰を屈め受付番の目を覗き込む。丸々とした髪と同色の瞳に見られ、受付番はついにここが夢か現かわからなくなった。
「もし? お忙しい中、ごめんなさい。お訊ねしたいことがあるの」
鈴の音を転がすとはこのことか、と受付番が一人、内なる自分と葛藤するため表情を歪ませていることも知らず、少女は大きな目を瞬かせながら小首を傾げて見せる。
「な、何でしょうか。ここは女人が来るような所じゃ――」
「わたくし、辺境の地より愛しの人を探しにやって参りましたの」
喉を鳴らして受付番が身を退く。衝撃の大きさに胸が痛み、思わず胸を押さえながら前のめりに倒れる。
「どうなさいましたの?」
「いえ、こちらの話です……続けてください」
「ええ。彼、宮中でお仕事なさってるらしいのだけれど、どこにいるかわからなくて……。もうずっと探し回っているのだけれど、そろそろ足が痛くなってきた時にこちらの建物が見えて。それでお願いがありますの」
頭の垂れる受付番にそっと両手を伸ばした少女はその両手で消沈する男の顔を包み込む。
「わたくしの愛しの人を探してほしいの。ついでに言うと読書をしながら足を休められる場所も教えてくださらない?」
困ったように眉を下げ、傾がせる首。さらりと揺れた髪から漂う香りに、受付番は自我を失った。
鍛錬場で上半身を脱いで刀の稽古に勤しんでいた丞猇に大声が近づいてくる。丞猇の相手をしていた武人も、一度型を解いたので、丞猇も刀を鞘に納めて振り返る。ここ最近、やたらと大声で呼ばれる回数が増えた気がし、だんだん鬱陶しく感じていた。そして大声で呼ぶ奴も決まっている。
「たいちょおおおおぉぉおおおうぅうぅ!」
「熊、五月蠅い。稽古中だぞ」
勢いよく駆けて来た少年武人、熊は丞猇の鍛え上げられた腹筋に激突すると尻餅をついた。激突された本人はぶれずに立っている。
「たたたたた大変なんです! う、受付番が!」
飛び上がり丞猇に飛びつく熊の顔が真っ青になっていく。
「女がお願いして受付番が書物庫で本を読んで足を休めてるんです!」
「それはただの職務放棄だろ。注意しろ」
「違うんです! そうじゃないんです! とにかく来てください!」
隅に畳まれていた丞猇の上戦袍を拾うと、熊は丞猇の腕を引いて受付まで駆けた。
受付は混沌としていた。人だかりができ、集まった武官文官が興奮気味に口々色々言っている。少女がどうのこうの。
人混みを掻き分けて熊が連れてきたのは椅子に力なく座る受付番の前だ。
「何だ、書物庫で足を休めてるんじゃないのか」
「それは女の方です」
付け加えた他の靇禄軍の言葉に顔を顰める。
「そもそもさっきから何だ。女だの少女だの。ここにそんなのが来るわけがないだろう」
「来たんです!」
砂塵と化しそうであった椅子に座る男が突然立ち上がり丞猇ににじり寄る。それに周りが動揺の声を上げた。
「少女がここに来て、俺に愛しの人を探してくれと……頬に手を添えて……! 嗚呼! あれは少女なんかじゃない……」
熱っぽく自身の頬に手を添えていた男は突如天井を仰ぎ、手を伸ばし始める。
「あれは、天女だ!」
「何言ってるんだこいつは。職務放棄は間違いではないな。始末書を書かせとけ」
冷めた眼差しを向ける丞猇などいざ知らず、周りもわぁわぁと声が上がった。
「俺も見たぞ! あれは天女だ! 蓮の花があれほど似合う女はなかなかいないだろうよ!」
「薄衣を羽織る容姿……なんと美しかったことか……」
「俺微笑みかけてもらったぞ!」
おお! と無駄に湧く場の空気に、流石の丞猇も腹が立ち始めていた時。
「ちがぁぁぁぁぁう! その女は天女でなければ人でもなぁぁぁぁぁぃ!」
熊が叫ぶと周りが静まる。その隙に丞猇は袍に腕を通した。
「隊長! 僕まだその女見てないけど確信しましたよ!」
「何をだ」
「その女の正体はおそらく、例の女です!」
熊が高らかに宣言すると、また周りが騒がしくなる。忙しい連中に、丞猇の眉がひくつく。
「例の宦官塀を壊して宮中に恋人だった宦官の死体を探しに来た、あの幽霊女ですよ!」
悲鳴が屋内を反響する。動揺のあまり腰を抜かし倒れる者もいる。熊の物言いに受付番が食って掛かった。
「馬鹿野郎! 幽霊があんなに綺麗なわけねぇだろうが!」
「天女だって不細工かもしれないじゃないですか!」
がやがや騒がしい場に、耳がすでに麻痺を起しており何の音も取り入れたがらない。止まらない片眉の痙攣を必死で抑えることに努めたが、無理だった。降下した筋肉の麻痺は、次第に口元に及ぶ。
「熊、落ち着け。あの宦官塀の件は幽霊の仕業ではなかったし、すでに――」
こちらで片付いた件だから気にするな、と言いかけて止める。痙攣が顔全体にまで及んだ。
こちらで片付いた件。つまり宦官塀を壊した犯人が見つかったから気に掛けるなということ。
その犯人というのが、楊世蓮という大胆不敵に行動する少女。天女のように美しいかどうかは知らないが、普段女が来ないようなこんな男だらけの場所に乗り込むような少女だ。
熊といがみ合う受付番に、丞猇は湧き上がる怒りを抑え、感情も出さずに声をかける。ここまで騒ぎを大きくしているのだ。怒らずにはいられない。
「おい、その女の名前は聞いたのか」
「天女に名前なんてありません」
「愛しい人の名前は」
「そんなの聞きたくありません」
ならどうやってその天女の愛しい人を探す気だったんだと、内心で苛立ったつもりであったが、額に青筋が浮かんだ。
冷静さを取り戻すため、一つ息を吸って、吐く。普段と変わらない冷静な自分を想像しながら、落ち着いて熊を振り向いた。
「女は書物庫だったか?」
「はい! き、清めの水とかひ、必要ですか?」
「いらん。縄だけ持て」
足を震わし腰が引けている熊に鋭く言い放つと、足音荒く書物庫へと向かった。