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依怙地少女

 火の海のと化した宮中。

 十六年前の大戦乱は、前将軍、曹諫(そうかん)の政治意向に反対する者が起こした謀叛が発端だ。

 その謀叛集団の先頭にいたのが現将軍の珀将軍である。

 珀将軍は諫直属の武人部下であったにもかかわらず、主の志向に嫌気がさし、当時宮中で権力を振るっていた宦官長を暗殺した。

 これに怒り、諫も軍隊を率い、珀将軍を迎え撃つ体制に入ったのだが、時世は既に珀将軍に味方していた。

 宮中の屋敷を包囲された諫は、珀将軍の采配により、屋敷ごと火刑に処される。当時諫が宮中で管轄していた建築物にも次々と火矢が放たれた。宦官寮も対象であった。

 宮中の大火災は三日続いた。

 焼け落ちた諫の屋敷の中からは諫の遺体と、諫が生涯一人しか愛さなかった()()夫人の遺体が寄り添うように発見された。

 大戦乱の間、皇帝は宮官軍に守られ無事であった。そもそも危害を加えないことを珀将軍が約していたのだ。

 次期将軍の座を自分に任命し、宮中の支配権は一切自分に任せろ、いう理不尽な条件付きでだ。

 自分の命が惜しい皇帝はそれを呑まざるを得ず、渋々承諾した。その皇帝が、現在も廃位せず玉座に居座る皇帝である。

 戦時中、丞猇は五つであり、諫の管轄する屋敷内にいた。周りの護衛武人や宮女が次々と斬り倒される中、丞猇だけが殺されなかった。

 火の上がらない屋敷の中、死骸が周りに転がるにも関わらず丞猇は平然と立っていたと、後々教えられる。

 当時の記憶はほとんど薄れて残ってない。もしくは思い出したくない記憶として自身で封じてしまったのかもしれない。

 その唯一残っている記憶が、血だまりの中を歩いて丞猇に手を差し出した珀将軍の姿だ。


 小雨が降る都。

 世仙は部屋で祝と雑談をしていた。机の席につく世仙は何やら沢山の種類の草を机に並べている。

「何してるの世仙」

 祝は寝台に座りながら、膝上いるに白兎、鼎柚を撫でながら尋ねた。鼎柚の前足の傷は、二日で完治した。

「あっちこっちの庭で拾ってきたんですよ~」

「何のために?」

「薬の調合です!」

 手元にあったものを全部並べ終わると、腰に手をあてふんぞり返る。鼻息で幾つか机上から飛んでいったものを、世仙は慌てて追いかけた。

 贄の儀式から六日が過ぎた。

 世仙の精神的な傷は、次の日にはけろりと治っており周りを驚かせた。以前と何ら変わらない様子であると、思っていた。

「急に宮中を巡るなんて言い出したのはそのためだったの?」

 次の日、以前と変わらない表情で皆の前に姿を出した世仙は、突如宮中を散歩するなどと言って一日の大半を一人で過ごしていた。蘭ちゃんが声をかけても「忙しい」の一点張りで聞きもせず、朝早く起きて出て行けば日が沈んで帰ってくる。そんな生活を繰り返していた。

「靇禄軍にばれないように庭を回るのは疲れましたけど、おかげでこんなに見つかったんです。意外とあるものですね」

 六日で世仙が懐に溜め込んだ草、もとい薬草の量は机上に盛るほどだ。どのように懐に収めていたか気になる。

「世仙は医学の知識があるの?」

「軽くですけどね。田舎の実家にあった本が薬学関連のものばかりで、雨の日とか畑仕事できない日に延々と読んでいたら何となく覚えてたんです」

「君賢いんだね」

 いやそれほどでも、と後頭部を掻く世仙に否定の言葉はない。笑ってそれを見る祝の膝の上で鼎柚が耳を動かした。

「それでね祝さん、相談があるんですけど……」

 今までへらへら締まりのない顔で笑っていた世仙だが、急に引き締まる。異様な緊張感に祝も背筋を伸ばした。

「もし私が処方した薬で、少しでも体の痺れに改善が見られたら、宮中を出てほしいんです」

 微笑みを浮かべるばかりで、祝は答えない。もどかしく口をまごつかせた世仙は祝に詰め寄る。

「どうしてそこまで宮中にこだわるんですか? いくら宮中が絢爛だったとしてもここは違います。だから――」

「世仙はどうして宦官になったの?」

 早口で語っていた世仙は歯切れよく喋るのをやめる。興奮を抑止させる鋭い冷たさが、祝の口調に表れていた。

 押し黙り、祝の隣に座る。質問の答えを世仙なりに考えた。

 別に、世仙は宦官になりたかったというわけではない。宦官の服をたまたま手に入れて、それをまとい宮中に入ったせいで“宦官”となってしまったのだ。宦官にこんな秘密があると知っていたら、世仙は宦官になんてならなかっただろう。

 それでも、現状を知っても宦官であり続けようと思ったのは、今や宦官に愛着を覚えたからだ。

 間違った現実を正し、無残に扱われる宦官の大事な命を救いたい。弱い心ながらも生に貪欲で、死に怯える彼らを守りたいという世仙の思いは、迫害の恐怖を凌駕するほど膨れ上がっていた。

「大事なものを守りたいから、私は宦官になったんだと、思います」

 宦官になって知る痛いこと。そしてこの過酷な現状を打開するのは、痛みを知った上でないとできないことだと、世仙は思う。痛みと向き合い、どう受け入れ、どう変えていくか。思い次第で、未来は幾重にだって変わるのだ。

「大事なものね……宦官になる人、だいたいそうだよね」

「祝さんも何か守りたいものが?」

 ゆっくりと瞬きを繰り返す祝。その水面が、やや水気を増していくのを、世仙は見逃さなかった。

「あの――」

「祝、いる?」

 扉の向こうから聞こえた声に、兎の鼎柚が慌てて寝台の下に隠れる。返事を待たずして扉を開けたのは蘭ちゃんだった。

「祝、月琰宦官長が呼んでるわよ」

 眉を顰めた祝は、苦そうに頷くと不自由な体に鞭打ち立ち上がる。立つ手伝いをしていた世仙が共を願い出ても、首を縦には振らなかった。

 扉を支える蘭ちゃんの隣をゆっくり通過していく祝の後ろを、寝台下で様子を窺っていた鼎柚がついていく。兎を見つけた蘭ちゃんが驚きの声を上げた。

「何で雪国兎がここにいるのよ」

 その言葉に世仙は動揺するも「さぁ」と目を泳がせながら答える。追撃はなかったが、雪の降らない水姫国に雪国兎がいることはあり得ないのだ。

「ところであんた、最近付き合いが悪いと思ったら、こんなもの集めてたの?」

 部屋の中央に置かれた机の上に目を向けた蘭ちゃんが、呆れたため息を吐く。

「あんたって子は本当に――」

(誰かさんそっくり)

 蘭ちゃんが懐かしげに目を眇めているのも知らず、世仙は祝の先の言葉が胸に痞え、もぞもぞしていた。

「ねぇ蘭ちゃんはどうして宦官になったの」

「何よ急に」

「祝さんとそんな話をしたの」

 ぴく、と眉を動かした蘭ちゃんは軽く唇を噛む。

「祝も、そうとうきてるのね……」

 部屋に入り、世仙の隣に腰を下ろした蘭ちゃんは腕を組み唸る。

「私の場合は、たまたま宦官になったのよ。自分の目的を果たすためには、どうしても宮中にいなきゃいけなかったの」

 それを聞き、ハッと息をのむ。自分も初めはそんな気持ちで宮中にやってきた。

 兄の死を探るため、何も知らず、適当に身を川へ流すようにやってきた。

「蘭ちゃんと私、似てる気がする」

「あらどうも」

「でも私、今は違う目的を優先に、宦官でいるの。でもそれは宦官になる人はだいたいそうだって、祝さんが言ってたんだけど、それなら宦官が今こんな立場にいるのおかしいと思うのよ」

「つまりそれは祝とあんたが言う目的が違うんでしょ?」

 俯きがちにいた世仙が顔を上げる。

「どういうこと? 私はここの宦官の現状を変えたいと――」

「ここにいる宦官は皆そんなこと考えないわよ」

 さ、と胸を鋭い刃物で削がれた感覚に、世仙は息を詰まらせた。つまりは宦官皆が皆、現状を受け入れるにとどまり、変えようとはしていないということか。

「じゃ、他の宦官は一体……」

「何も知らない坊やにいいこと教えてあげるわ」

 含み笑いを零す蘭ちゃんに向き直る。卑しく引き上げられた口元に色気を感じる。

「どうして宦官って、減らないんだと思う?」

「減る?」

「だってそうじゃない。月に一度贄の儀であれだけの人数の宦官がいなくなるのよ? にもかかわらず贄の儀は毎月怠ることなく行われる。宦官は一体どれだけいるっていうんだか」

「つまり……」

「減ってはいるの、確実に。けれどそれを上回る多さで増えてるのよ」

 贄の儀では一か月に一回、およそ七、八十人前後の宦官が何らかの形で殺される。それでも宦官が枯渇しないのは、月五、六回もの回数で皇帝下知のもと宦官希望者を募っているからだ。

「私なら宦官なんて絶対好んでならないわ」

「そうよね、あんなもの見せられたら誰もなりたがらない。でもだいたいの人は、宦官が迫害されていることを知っている。その上で宦官職希望者が絶えないのよ」

「どうしてなの?」

「禄が出るのよ、宦官になると」

 突如襲った寒気に、世仙は体を抱いた。

 宦官になり宮中に上がれば、一定額が家族に送られるのだという。つまり皇帝は、金で人を買っているのだ。

「皇帝が、そんなことするの?」

「だーかーらー。今の権力者は皇帝じゃないでしょ? 表には出してるけど、裏で皇帝を傀儡の如く操るのは現将軍よ」

 まだ顔も見たことのない将軍、珀という男の名を世仙は宮中に来て何度も聞いた。どんな人物か、想像するだけで歯軋りが出る。

 禄をちらつかせ宦官を集えば、金に目の眩んだものが後先考えず群がってくる。恐ろしいことに、家族を売りに出す者もいるそうだ。

 そうして、地を汚すという、自分たちが広めたデマの秩序に則り宦官を靇禄軍により迫害していけば、民衆の将軍に対する信頼が上がるというわけか。

 そう考えた世仙は鼻で笑う。

「自演芝居で手に入れる権力に、どんな価値があるのよ」

「いいこと言うわねあんた」

 ご褒美にあげるわ、と懐から出したのは蓬饅頭だった。

「家族に宦官として売られる人もいるけれど、ここにいる人たちは、だいたい自分の意志で宦官になるの」

 貰った饅頭を咀嚼しながら蘭ちゃんを振り返る。

「大事な家族のために、自ら宦官になる人が後を絶たないのよ」

 不意に手に力が入り、饅頭の中身が出た。指の隙間から零れた餡子が床に落ちる。

「祝もね、城下に年の離れた妹がいるんですって。両親も他界して、貧しい生活を若い時から余儀なくされてたそうよ。二人で少しでも節約して、時々軍から支給される禄で生活してたんですって。その妹が婚約した矢先に、病になって。妹のために衣装とか嫁入り道具を用意してあげなければいけないのに、宮官軍は追い出されるし。……それで、宦官になったのよ」

 宦官になれば禄が出る。そうすれば妹に花嫁衣装を買ってやれる。

 世仙は、同じ妹の立場として、兄が自分のために宦官となり迫害され、無残に贄として死に行く場面を想像した。握りつぶされた饅頭を口に放り込んで咀嚼するが、なかなか呑み込めない。喉に熱いものが溢れ、邪魔をするのだ。

「私なら、そこまでして手に入れたお金で買った衣装なんて、着たくない。それなら貧乏でもいいから、兄さんにはずっと生きててほしい」

「宦官を家族を持つだいたいの人はそうよ。父親が宦官にならなければいけない場合も、少なくないんだからね」

 一度宦官になれば、死んでも家族のもとには帰ってこない。残された子や妻、もしくは両親、兄弟の気持ちは世仙の閉じた目の裏、熱く再現する。

(俺はお前とならこの宮中を変えれると思う)

 そう言ってくれた人のことを思い出す。す、と喉の痞えが取れ、饅頭が嚥下した。

 と、そこに祝が帰ってくる。鼎柚の姿はない。

「あら祝。宦官長は何の話だったの?」

「……僕、贄に選ばれたよ」

 今まで世仙が聞いたことのない、晴れ晴れした声で祝は言った。照れくさそうな表情を浮かべ、後頭部を掻く。

 弾かれるように立ち上がった世仙は祝の脇を通り抜け部屋を出ようとした。

「お待ち、どこ行くの」

「宦官長の所! 今すぐこのことを取り消してもらうの」

「やめなさい、一度決まったことはそう覆らない」

「でも祝さんの病気は治らないものじゃないの!」

 蘭ちゃんに腕を引かれながらも、必死に廊に出ようとする世仙。騒ぎに宦官たちが自室から顔を覗かせた。

「処方と軽い運動を繰り返せば必ず治るから!」

 意地でも駆け出そうとする世仙の肩を、祝が押さえる。そして軽く頭を振ると、柔らかい笑みを浮かべた。

「なら、僕の病は治らないよ。贄の儀は明日なんだ」

 驚き目を開いたのは世仙だけではなく、自然と周りに集まりだしていた宦官たちもだ。

「今回の贄の儀の際に虎が暴走したのは、贄の人数が偶数で不吉だったからなんだって。だから急遽あと一人、今月中に贄に差し出さなければいけないらしいんだ」

 自称、祈祷師の楓桂后が自分で偶数人数にしたくせに、そう予言したそうだ。身勝手な行動のせいで贄の儀に則らない犠牲者が出たことを叔父である珀将軍にこっぴどく叱責された楓桂后はご機嫌斜めだそうで、明日の儀には欠席らしい。

「祝さんは治る病気なんです。だから他の人に――」

「それ本気で言ってるの? 君は僕の病を治す代わりに明日の儀には他の宦官を贄にしろと?」

 祝の鋭い眼光が世仙を射る。言われ思わず自分の思考に冷や汗が流れた。

 贄の儀の際、月琰の『死が間近な宦官を選んでいる』という発言に人一倍怒りを覚えたのは誰だったか。

 自分自身に腹が立ち、気づけば世仙は蘭ちゃんの腕を力任せに振り払っていた。鋭い目つきで見てくる祝を睨み上げる。

「……即効性があればいいんでしょ?」

 唇を噛みしめて、世仙は宦官の群を掻き分け駆け出した。

「……ほんと、変わった子だよね」

 力の抜けた祝がその場にへたれ込む寸前、蘭ちゃんがその腰を支える。

「あたってるの? あの子に」

「ううん。僕はあの子に過剰な期待をしているのかもしれないんだ」

「それは、自分を助けてくれるっていう?」

 力なく首を振ると祝は笑った。

「あんな宦官、今まで見たことある? 宮官軍にいた頃にも、あんな子見たことないよ」

 ただ、と呟くと蘭ちゃんの肩を借りて立ち上がる。

「宮官軍にいた頃、靇禄軍にあんな人がいたのは覚えてるんだ」

 遠い先へ伸ばす視線。薄暗く陽の光もさほど届かない廊には世仙の駆ける音が響いた。


 上から回ってきた報告書に目を通していた丞猇は顔を顰める。急遽決まった贄の儀に出される宦官の名が、世仙と同室の男であったのだ。

「失礼します」

 執務机を前に席についていると、聞こえた声に丞猇は耳を疑った。

「……入りますよ?」

 いつまでたっても返事がない部屋の主に痺れを切らした少年、熊は片手で扉を開けた。しかめっ面で、席につく丞猇を見る。

「いるじゃないですか」

「お前、怪我は?」

「それが治ったんです。痕も残るって言われてたのに全然残ってなくて……」

 贄の儀の際、靇禄軍から出た負傷者は熊だけであった。肩から胸下まで切り裂かれ、出血も激しくはじめは危ない状態とまで言われていた。

 何とか持ち直し、傷の回復が見込まれたが、靇禄軍医師が言うには傷痕が激しく残るかもしれないとのことであった。

 丞猇は自身がいながらも熊を守れなかった不甲斐なさに、熊が起きている時には見舞いに行かずにいた。起きた状態で会うのは今日がはじめてである。

「治った?」

「なんか……傷の痛みが酷い日があって、その時見た夢で白い兎が傷口をなめてたんです。で、起きたら傷がさっぱりなくなっていたんです」

 兎、と呟いた丞猇は咄嗟に背後の窓を振り返る。そこに一羽の鷲がとまっていて思わず身を退いた。

 上司が退いた途端、目に入った鷲に熊も驚く。しっしっ、と手で追い払っているが、鷲は首を傾げるばかりで飛び立つ気配がない。

「鼎柚! 鼎柚!」

 突如鷲は下の様子を振り返ると、両翼を広げ飛び去った。窓下を覗き込んだ丞猇は、鷲が飛んでいった方向に、駆ける宦官の姿を見る。

「ところで隊長。明日の儀のことですが……」

 机前に立った少年を見上げ丞猇は頷く。

「宮官軍だった夏口祝だそうだ。生きたまま、火葬場に放り込まれるらしい」

 うげ、と顔を顰める少年を一瞥し、持っていた紙面に目を落とす。

 宮中に唯一ある火葬場は、主に宦官の死体の焼却に使われていた。水姫国の死人の弔い方は普通、埋葬である。人は地の恵みを受け生きた。それを恩返しとし、地に肥やしとなる人を地に返すのは常識と考えられていたが、宦官は別である。汚れた死体を地に返すというのはご法度ということだ。

 熊に明日の準備を任せると、丞猇は外から聞こえる、宦官少女の声に目を向けた。見えるのは鷲を腕に乗せる、背だけである。


「鼎柚鼎柚鼎柚!」

 立て続けに何度も呼びながら駆ける。

 寮からろくに息も吸わないでいたため、無駄に体力を使った。

 ぜー、とついに肺が空気を欲し、止まった途端、頭に鋭い痛みが食い込む。悲鳴を上げる前にその爪は離れ、世仙の腕にとまった。

「鼎柚! お願いがあるのよ!」

 パシパシと鷲の身体を叩きながら述べる。当の鷲は素知らぬ顔でいる。

「お酒が欲しいの! できれば酔いが早く回るやつ。宮外に行って買ってきて!」

 懐から取り出した銭の入った巾着を鷲の嘴にくわえさせる。

「あ、あとそれからね――」

 世仙がもの悲しげに述べた願いを、鷲は黙って聞いていた。


 日が昇れば死ぬというのに、祝は他人事のように感じて、仕方がなかった。隣の寝台に世仙の姿はない。昼間出て行って以来、帰ってきていなかった。

 寝台に潜り込み、目を閉じた祝は妙に香しい匂いに再度目を開ける。枕元に人の気配を感じ、目だけを向けた。

「お兄さん」

 聞き覚えのある、懐かしい声に祝は声を失う。宦官になってもう何年も聞いていない、愛しい人の声だ。

(ひん)……」

「はい、儐ですよ、お兄さん」

 祝が儐と呼んだ女性は、横になる祝に笑みを浮かべながら顔を近づける。

「ああ……これは夢か……」

「いいえお兄さん、儐はここにおりますよ」

 目を微睡ませ、祝は儐の頬に手を伸ばす。それを取り、儐は優しく撫でた。

「儐……僕は、お前に何もできない兄だったね……」

「いいえ、愛しいお兄さん。あなたは私にとってとても大事なお人ですわ。今までも、これからも」

 祝の頬に、一筋涙が流れる。

「これは夢なんだね。お前の反対を押し切って宦官になった僕を、お前が愛しいなんて言ってくれるはずないんだ……僕が、願って見る夢なんだ……」

 祝は微睡む瞼をゆっくり閉じると、規則的な寝息をたてはじめる。

 それを確認し、儐は震える祝の手をゆっくり褥に置いた。

「夏口、儐……ね」

 蝋燭の灯も消え、大きな出入り窓から入る光を受けながら呟いた儐は、扉付近にある気配に目を向ける。

「こりゃ驚いた。懐かしい香の匂いがすると思えば、どこかの道化師さんじゃないか」

 低い男の声に、儐は薄ら笑みを浮かべる。人物の顔は影が差し、窺えない。だが、大方誰だか理解はしている。

「悪いけど、お前の相手なんてしてられないの」

 若い女性の声であったはずの儐の声が、みるみる男のものに変じる。

 窓の鍵を開けると、儐は四阿の高欄に足をかけ、夜空に姿を消した。

 夜風と共に窓の開け放たれた部屋に入ってきたのは鳥の羽である。

 香の匂いがわずかに残る部屋、男は口元を綻ばせた。


 月琰を先頭にし、宦官が白を基調とした建物の中を歩く。宦官列の中腹部に、腕を前で拘束された祝の姿があった。

 目的地の前につくと月琰が足を止め、祝を振り返る。

 鉄でできた、高い天井にまで達する扉の前。両開きのそれの前には十数人の靇禄軍が控えており、少し離れた位置には丞猇が腕組みして場を見回していた。

 世仙の姿がどこにもない。それに眉をひそめると同時、隣にいた熊が丞猇に耳打ちする。

「あの夏口とかいう宦官、すごく冷静ですね」

 確かに異常なまでの冷静さだ。死を目前にし、ただ床に視線を落とし、背を伸ばしていた宦官を、丞猇は見たことがない。

 贄にされる宦官は殆ど病に伏していたため、脳まで病んだように、奇声を発し生を懇願する者も少なくはないというのに、夏口祝は気が狂うどころか、病の状態がいまいち把握できない。

「まぁ、贄が病気じゃなかろうと、僕たち関係ないですけどね」

 同じことを考えていたのか、熊が鼻を鳴らしながら言う。そうだな、と普段なら自然と出てもおかしくない言葉は、丞猇の喉にとどまってしまう。

(……自覚症状か)

 喉を撫でながら顔を顰める。

 宮中を変えることを改めて決意して以来、何かと靇禄軍が行う物事が生理的に合わなくなっていた。故に今回の贄の儀も、乗り気ではなかった。

「祝」

 月琰が呼ぶと、宦官たちが道を開け自然と祝に道を作る。穏やかに笑んだ男は軽い足取りで前に出た。

 そこに、慌ただしい足音が響く。

「待って! 待って待って待って!」

 一同が振り返ると、着衣を乱した世仙の姿があった。宦官帽にまとめてあった髪はいつも以上に外に出ている。

「うおあっ」

 袍の裾を踏み、転びそうになったのを祝の傍にいた宦官が受け止める。

「あんた今までどこにいたのよ」

 妙に女性じみた喋りの宦官を、丞猇は一瞥し世仙を見る。息を切らし、肩で息する彼女の姿を周りは冷や冷やしながら見ていた。

「か、宦官長、ちょ、っと時間をください……!」

 息遣いの合間に述べると、世仙は着衣も整えず、祝に何かの入った巾着袋を差し出した。

「これ、お酒の成分を混ぜた薬だから、体の震えを抑えてくれるの! 震えが酷い時に飲めば、生活に支障はなくなる体になるから!」

 周りに動揺の声色が反響する。祝と月琰が顔を見合わせる中、世仙は巾着を開け、土色の粉を手に乗せる。

「震えが止まっている間に体を動かして体力をつければ、体の震えは薬なしでも止まるようになるの。だから――」

 薬の乗る手を祝に出す世仙の目の下には隈ができている。着衣の乱れからも、彼女が寝ずに薬を作っていたことを安易に想像させた。

 その思いやりに、今まで平然としていた祝が表情を歪め、世仙から顔を逸らす。月琰が痛ましげに祝を見据える中、扉付近、火葬場への扉に立っていた靇禄軍の武人一人が舌打ちを響かせ近づいた。

「このくそ餓鬼。邪魔をするんじゃねぇ!」

 祝に差し出していた手が無残に払われる。さらにその手を強引に引かれたと同時に、場に緊張が走る。

「私に触れるな!」

 全員が今目の前で起こった状況にあぐねる中、丞猇は逸早く自分を取り戻す。

 腕を掴まれていた世仙は、掴んでいた靇禄軍の男に鋭い眼光を向け怒鳴ったのだ。怒鳴られた男は怯み、一度腕を放したのだが、青筋を額に浮かべるともう一度世仙を取り押さえる体制にはいる。が。

「お前たちみたいに、人の命の重さも知らない奴らに触れられること以上に気分の悪いことなんてこの世にないわ」

 鋭い声色で述べた世仙に、誰かが感嘆の声を漏らす。靇禄軍か宦官か。どちらかわからないほど、場の空気は世仙の独壇場であった。

(流石にこれ以上は……)

 腕組みし、場を見ていた丞猇が動く。世仙の傍まで行くと、加減し、鳩尾めがけて蹴りをいれた。呻き声一つ上げず、巾着を落としながら、世仙は支えていた宦官の腕をもすり抜け、壁際まで飛んだ。

 壁に激突し、宦官帽に収められていた狐色の長い髪は床に咲くように散らばる。

「扉を開けろ」

 自分の心に鞭打ち、先ほどの武人に命令した。男は返事もせず、自身の震える手を見るばかりである。

「おい」

 少し強めの声にようやく我に返ると、男は扉まで引き返し、控えていた十数人で背の高い扉を開ける。熱風と肉の焼けたような匂いが、その場にいた人間の体を包む。

「宦官長」

 祝が小声で呟いた言葉に、月琰は泣きそうな表情を浮かべる。

「世仙の作ってくれた薬、持って行ってもいいですか?」

 巾着を拾い上げ祝に差し出す。少し中身が出てしまっているが、十分な量が入ってある。

 拘束された腕でそれを持ち上げる祝は月琰に「お世話になりました」と声をかけ、世仙を支えていた宦官には「世仙にありがとうって言っておいて」と笑いかけた。

 背を伸ばし、扉の中にある炎を睨む祝の目に、何の迷いも窺えない。一歩踏み出した祝のために道を開けた丞猇は、炎の燃え盛る音に混じり聞こえたか細い声に、思わず祝の進行を手で止めた。

「お兄さん」

 振り返った先には女性の姿。高価とはいい難い衣装をまとう女性は泣き腫らした目で祝を見ていた。

「儐……どうして……」

 覚束ない足取りで兄のもとまでやって来た妹に抱き付かれた祝は体を傾がせる。

「お前どうしてここに……」

「道化師の方が……道化師の方が教えてくれたのよ……」

 道化師、という言葉に眉を顰める丞猇だったが、周りはそんなこと聞いていない。

「だから言ったのよ! 宦官なんかならなくてもいいって! お兄さんがいなくなったら私一人なるじゃないのよ」

「旦那さんがいるじゃないか」

「それでもお兄さんには生きていてほしかったのよ。こんな死に方、してほしくなかったのに……」

 足の力が抜け崩れ落ちる儐を、女性喋りの宦官が支える。

「僕はね、お前に幸せになってもらえるなら、死ぬことなんて怖くないと思って宦官になるのを選んだんだよ。そんな顔されたら、何のために宦官になったかわからないよ」

「お兄さんが死んでしまったら幸せになんてなれないわよ!」

 大粒の涙が床に落ちる。それを見て祝が笑う。

「ねぇ蘭ちゃん。この子何となく世仙に似て頑固でしょ。でも世仙はどんなに辛くても泣かない強い子だけどね」

 腕を拘束されていて自由の利かない祝は儐の額に自分の額をくっつける。

「僕の愛しくて大事な人……お前の幸せを、ずっと願ってるよ」

 風の如く踵を返すと祝は一度も妹を振り返らなかった。

 甲高い女の泣き声が兄を何度も呼び止める。それでも、祝は止まらず火の粉の風を受けながら炎の中に身を沈めた。

 火葬場の扉はなかなか閉ざされなかった。靇禄軍の誰もが、扉を閉めることを、渋っていた。丞猇が視線を送れば、一人がそれに気づき声をかけ合い扉を閉ざす。

 儐の甲高い泣き声と、宦官のすすり泣く声だけが辺りに響いた。

「僕、宦官は嫌いなんです」

 丞猇の背後に控えていた熊が小声で、丞猇にだけ聞こえる声で呟く。

「でも、時々自分のやってることが、人ならざることなんだって思い知らされることがあるたびに、自分のことが宦官より嫌いになるんです」

 泣き崩れる儐を見ながら、熊は苦虫を噛み砕いた表情で呟いた。

「……そうか」

 短く答えると、丞猇は壁に打ち付けられていた世仙を担ぎ上げる。

「待ってください。その子をどうする気です」

 目の周りを赤くした月琰が声を上ずらせながら訊ねる。

「部屋に放り込んでおいてやる。ひ弱な貴殿らでは無理だろう」

 後のことを熊に任せ、宦官寮を目指した。


 四阿の高欄を跨ぎ越え、窓を開けて寝台に世仙を投げた。と同時に動いた世仙に覆いかぶさり動きを止める。見れば怒りに目を見開いた世仙が、鍔なしの剣を丞猇の喉をめがけて突きつけていた。

「何の真似だ」

「宮中を変えるって約束したのに! どういうことよ!」

 女の金切り声は部屋を反響する。世仙の唇は所々が裂け、血が滲んでいた。

 儐が駆けつけた時点で、世仙の意識は戻っていたのだ。飛び出し祝の死を阻止したいのを堪え、死を覚悟し妹との最期の別れに水を差さないように唇を噛み耐えていたのは、丞猇も知っている。

「あの時あなたが止めてくれていれば! あの人は助かったかもしれないのに! 妹さんだって悲しまなかったのに!」

「靇禄軍の隊長である俺が、あの場でいきなり宦官を生かせば、不審に思われる。あの場はこうすることが正解だった」

「でも……でも……!」

 組み敷かれているにも関わらず、世仙の怒りは収まらない。剣を持つ手を押さえる丞猇の手に力がこもる。

「だが一つ、宦官を救える手がかりは手に入れたんだ」

 目を眇め、鋭い目を覗き込めば世仙の目がやや柔らかみを帯びる。

「お前が怒鳴った男は、お前の言葉に思いつめたような表情をしていた」

 自身の掌を見つめ、丞猇の命令を聞き損ねたあの武人。

「それにあの場にいた靇禄軍は、夏口祝の妹が現れたことで、奴を贄にするのを渋る態度をとったんだ」

 火葬場の扉を閉じなかったのが、その態度だ。いつでも引き返せるように、扉を閉ざさなかった。

「つまりは、靇禄軍の中にも人の心を持つ奴はいるんだ」

 宦官を迫害し、嘲笑って楽しんでいた連中が、夏口兄妹を前に皆が皆、自身の身内を思い浮かべたに違いない。

 自身にも家族がいる、大事な人がいる。

 それを思い出した時に、果たして自分の行いはその人たちに誇れる行いなのか。

 思い知った連中は、意味もなく“贄”とされた男を死に追い詰めるのを申し訳なく思い始めた。

「夏口祝の死は、無駄じゃなかった」

 重い一歩。

 大事なものを引き換えにしなければ前進できない問題を前に、世仙は表情を歪め、手にしていた剣を落とす。

「私……泣かないわよ……全部終わるまで、絶対泣かないわ」

 祝が言っていた『泣かない強い子』という言葉が耳に蘇る。

(強い奴ほど泣きたいんだ)

 叶わないことであるが、丞猇は祝にそう教えてやりたい。

 胸で姿のなくなった男に呟きかけながら、唇を噛みしめ強がる少女の額を撫でることしか、丞猇にはできなかった。


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