少女と虎を助く人の決意
辺境の地より捉えられた虎が収められた檻を前に、丞猇は佇む。
仮設の幕の中、暗がりに浮かぶ煌々とした瞳は八頭分。一つの檻にまとめられ大人しく体を横たえているが、数日食事を貰っていない怒りの唸りは目の前の丞猇に向く。
無意識に腰に佩かれた刀の柄に手が伸びる。金属の擦れる音に耳を動かした虎たちの唸り声は止まる。危機を感じ取った虎たちは黙って丞猇から目を逸らした。
(……なるほど、戦友か)
鼻で笑い、丞猇は幕を捲り外に出た。
欠伸を噛み殺し正殿前に向かう世仙の歩調は速くもなければ、遅くもない。だが、同じように正殿へ向かう宦官たちを次々と追い越してしまうのは何故なのか。
(祭儀くらい気分軽くできないのか)
毎日陰鬱にしている宦官たちだが、今日は一段と肩が落ちている。進むにつれ陽の光を浴び溶けていくかのようだ。
陽が昇り切らないうちに目を覚ました世仙は、隣の寝台で横になったまま見送る祝の容体を看た。褥に投げ出された右腕が、微動だが震えていて、眉を顰める。
これは治らない病ではない。
そう思った世仙は、祝のもとに両手で抱えるほど丸々と太った真っ白な兎を置いてきた。鼻をひくつかせ祝の耳元で丸くなり目を閉じた兎に、祝は手を伸ばし撫でていた。その時浮かべていた笑顔は、いつもの憐れみを含んだものとは違い、世仙は安心して部屋を出た。
(あれは神経を負傷した病ではない。運動による筋肉の痙攣のはずだから……)
ぶつぶつ口だけを動かしながら考える世仙。同じ方向に歩く宦官たちは時より世仙を訝しむ目で見たが、思い出したかのように肩を落とし、目的地へと歩みを進める。
「ほら、坊や。こっちよ」
意識を考えに持って行かれていた世仙の襟首をヒョイと掴んで持ち上げたのは蘭ちゃんだ。隣に世仙を置くと呆れため息をつく。
「何考えてたのよアンタ。あのまま行けば靇禄軍の巣窟よ」
宦官が何列にも整列する最後尾、蘭ちゃんが指さす方向を見て世仙はホホウと声を上げる。均等に列をなす宦官を取り囲む靇禄軍の姿があり、世仙が向かおうとしていたところには黒字に金の龍が刺繍された幕でつくられた仮設建物がある。どこまでも龍にこだわる靇禄軍に「うげぇ」と顔を顰める世仙に蘭ちゃんが笑う。
「思春期男子みたいでしょ。ああいうのがかっこいいと思う年頃なんですって」
月琰様曰く、と付け加え蘭ちゃんはホホと上品に笑う。女の世仙にはよくわからない。
そうこうしているうちに、世仙たちの後ろにも次々と宦官たちが並び始める。緑多い庭、辺りの雰囲気を探るべく視線を巡らす。
大きな建物の側面を前に、宦官は整列しており、正殿正面では黒地に金龍の袍をまとう靇禄軍、そして赤地に金糸で柄を刺繍される戦袍をまとう軍隊の二つが整列していた。
「あれが宮官軍よ」
不思議そうに凝視していた世仙に蘭ちゃんが小声で教える。
「一応将軍も、皇帝はたてるのよ。宦官の扱いは相変わらずだけど」
「ねぇでもここじゃ何も見えないよ?」
「そのうち嫌でも見えるわよ」
そういうと蘭ちゃんは拱手の構えをとるよう世仙に言う。
そのうちの意味が気にはなったが、黙って膝を折り、頭を垂れて拱手した。
幕の内より、布をかぶせた檻が運び出される。八頭も入っているので、かなりの大きさの檻だ。五人がかりでも、荷車に乗らない檻を運び出すのは苦役だ。
「丞猇」
部下を指揮していた丞猇が、見かねて手伝いに入ろうと腕まくりをした時、艶やかな女に声をかけられる。
声を振り返った丞猇は、顔色変えず拱手する。
「楓桂后様」
「今日は叔父様、欠席のようね」
声の主、楓桂后は現皇帝治一夫人であり、現将軍の姪にあたる。
鋭い目じりには紅がひかれ、唇は女性らしく桃色に色づく。
長い赤みがかった髪にはシャラシャラ音の鳴る簪、薄い肌の透けるような衣の上に豪奢な、臙脂の打掛を着た衣装姿だ。
男なら皆この女に目を奪われる。だが丞猇はそうでもない。むしろ怖くて目を背けたいほどだ。
(相変わらず、嫌な匂いだな……)
鼻を突く甘い匂いに、酔い気を覚える丞猇はそれを顔に出さないよう努める。化粧品の匂いと衣装に焚き込んだ香の匂いが、丞猇の鼻には合わないのだ。
「まぁ、これかしら? 今回の主役は」
頭を垂れていた丞猇を通り過ぎ、楓桂后は布のかぶる檻に手を伸ばす。
丞猇は制止に慌てるが遅く、檻を揺らすほどの咆哮が辺りに響く。檻を運んでいた連中は慌てて檻を押さえた。
楓桂后に害はない。布越しに伝わった虎の生臭い息を手に感じ、ご満悦に笑い声を上げた。
「まぁ元気ですこと! これなら私も祈祷のし甲斐がありますわ」
手を払い、衣の裾を翻しながら正殿の方へと戻っていく。その背を熱のこもった眼差しで見送る者がほとんどの中、丞猇は密かに疲れたため息を吐く。
「変わった人ですよね」
「熊、無駄口開く前に柵を用意しろ。檻は俺が手伝う」
檻を運ぶ誘導をしていた熊が丞猇の傍に来て呟く。が、来て早々追いやられ動揺するが、当の本人は腕をまくり檻運びに参戦しに行った。
間もなく祭儀が始まるというのに、世仙は拱手したままうたた寝を始めてしまった。が、蘭々は起こすことはなく、あきれたわ、とため息をつくだけだ。
祭儀はまず皇帝のお言葉から始まり、皇后の祈祷の儀が行われる。蘭々が世仙に見せたいのは最後の締で行われる儀式だ。他はどうでもいい。ちなみにこの締めの時には皇帝はいない。自由参加なのだ。ゆえに皇帝は“見たくない”と言い、出ない。薄情なやつめ。
(ごめんなさいね。これが、アンタたちが出た後の都なのよ)
誰かに詫びるように内心呟く。唇を噛み、憎悪が口から紡がれるのを必死で耐えた。幸い、拱手の最中であり、蘭々の顔に浮かぶ悪感情には誰も気づかなかった。
寝台に横たわり寝息をたてる祝の耳元で丸まっていた白兎が耳を立てて目を覚ます。辺りを見回した後、部屋に入る扉が少し開いているのを見つけ、白兎はそこから外に出た。
「ほら起きなさいな坊や」
かくっと体勢が崩れ額を地面に強く打つ。
「っく! 痛い!」
「早くお立ち。行くわよ」
「え、どこに?」
視界がぼやけ、目をこする世仙の言葉など聞かず蘭ちゃんは世仙の片腕を掴み引く。先を歩いていた宦官をどんどん抜き、鉄製の柵の前で制止した。世仙の腰くらいはある、高めの柵だ。
「おやおや、蘭々に世仙ではありませんか。こんな前まで来るなんて、物好きですね」
「あら宦官長の隣ですって。ハズレくじだわ」
はぁ、と息をつく蘭ちゃんは世仙の背後に立ち、両肩に手を置く。まるで世仙が逃げ出さないようにするような光景だ。
隣に立つ月琰は頭を垂れ続ける宦官を数名、背後に侍らしながら柵の中を見ている。眠気眼でここまで来て気づかなかったが、ここは正殿より少し離れた位置にある。
鉄製の柵は強大な範囲を囲っている。柵の外側には靇禄軍、宮官軍が雑多に立ち、中の光景を興味深げに見ている。比べ宦官も柵の外にはいるのだが、状況が違う。地に座り込み、額を地につけるものが後を絶たない。まるで今から起きる光景を見たくないという意思の表れだ。
「この祭儀はね、水姫国の安寧を願う儀式なのよ」
そうなの? と首を上に上げ蘭ちゃんに問う世仙。祭儀のほとんどを寝て過ごしたせいで何の儀式かよくわからずにいた。
「そうよ。そしてこの土地を汚す対象を贄として神に捧げる代わりに、水姫国の土地の平和を授かるのよ」
贄、という言葉に世仙は昨日の寮での出来事を思い出す。と同時に弾かれるかのように柵の中に視線を向けた。
そこには先ほどまでなかった、人の群れがある。そしてその人々がまとう袍は、ここ最近で見慣れたものだ。
「ねぇ蘭ちゃん! あれって――」
「黙ってなさい。大声出すとアンタもこの中に入れられるわよ」
振り仰いだ途端、低めの声で遮られる。世仙が動揺し、辺りの宦官たちの悲痛な呻き声に耳を傾けている間にも、贄とされた人――宦官たちが次々と靇禄軍により柵の中に放り込まれる。
両腕は後ろ手に縛られており、投げ入れられた宦官は自力で立つこともできず這うばかりだ。それを見てガラ声で笑う輩がいる。靇禄軍だ。
(ひどい……! 気分が悪いわ……!)
眉間にしわが寄り、世仙は柵を越えた向かいにいる靇禄軍の輩を睨んでいた。肩に置かれていた蘭ちゃんの両手を掴み、力を込めて握る。
柵の中の宦官たちの様子は皆が皆頗る体調が悪そうで、顔色の悪い者ばかりだ。虫の息の者もいれば、血を吐く者もいる。
「あの人たち、病を患っているんじゃ……」
「そうだよ。でも大丈夫。だいたい皆老いや病で死が近い者たちばかりだから、贄の対象にしたんだよ。でないと、まだ生きられる人たちを贄にするのは忍びないからね」
唇を噛みしめ靇禄軍を睨んでいた世仙に、隣で腕を組みながら見守っていた月琰が淡々と述べる。
一瞬、世仙の肩が震える。突如場の空気が変わったことに気づいた月琰は隣の世仙を見下ろした。
目の色を変え、宦官長である月琰を睨みつける世仙が怒りで唇を震わしている。その睨みの鋭さと言えば、先ほどまで靇禄軍に向けていたものに劣らない。
「大丈夫……ですって……?」
食いしばる歯の隙間から洩れた言葉に、月琰は自分の失言を思い返した。宮中に住み慣れた自分たちからすれば、当たり前の言葉だったのだ。
「お止め坊や、宦官長も心痛めてるのよ」
蘭ちゃんが世仙を揺すっていなす。それでも世仙は納得いかなそうに、風を切るように月琰から目を背けた。
(こんなの、こんなの間違ってる……!)
世仙は靇禄軍の中に丞猇の姿を探した。だが向かいの群れの中にはおらず、思いの外近くにいた。
月琰のいる方角の差ほど遠くない位置。軽く声をかければ聞こえる位置だ。
今にも飛び出していき、丞猇にどういうことかを問い、やめさせるよう言いに行きたい世仙だが、そんな権限あるわけがない。
無念に舌打ちをする世仙の目は、丞猇の隣に立つ豪奢な衣装をまとった女に向けられた。頭の簪を鳴らしながら、女は即興で建てられた櫓の上に上る。
「皇帝夫人の楓桂后様よ」
皇帝夫人、と呟いた世仙の脳裏に祝の言葉が蘇り、意識せず口をついた。
「宦官が悪だと言いふらした人――」
傍で凄みをきかせ睨まれていることなど知らない楓桂后は、高い位置から人々を見下し両腕を広げた。
「皆様、本日はようこそいらっしゃいましたわ。本日最後の儀として、贄の儀を行いましてよ」
楓桂后は櫓台の上、歌うような動作で語る。
「柵の中にいる贄の宦官はおよそ、六十。これら全てを贄とし、神に捧げることにより水姫国はまた一月、平和が保障されることでしょう」
胡散臭さに眉を歪める世仙に反し、靇禄軍はともかく宮官軍までもが感嘆の声を上げる。
「祈祷師でちょっと術の才能があるのよ、あの皇后。だから説得力があるだのって、術学無知の筋肉馬鹿たちは騒ぎ立てるのよ」
本当馬鹿よね、と毒づく蘭ちゃんの声など世仙の耳には入らない。怒りのあまり辺りの雰囲気が読み取れずにいた。
「そして今日、水姫国の平和を共に願い贄の儀の大役を買ってくださったのが――」
楓桂后は不敵に笑み、柵の中央に固まる宦官の奥を指さした。そこにはいつ入れられたのか、布のかぶせられた長方形の巨大な箱のようなものがある。田舎暮らしの長い世仙は風にさらわれやってくる獣の匂いに蒼白とした。
「――宦官の、神です」
かぶせられていた布が、靇禄軍により柵外から取り外される。あらわになった檻の中にいる八頭の虎の姿を見て、柵内外問わず宦官たちは悲痛な声を上げた。
「……くそ、あの女……!」
月琰が目だけで楓桂后を睨み上げる。その視線に気づいた楓桂后はニヤリと嗤うと、腕を上げ檻の枷を握る者に合図を送った。
柵の外から枷が外されると、獰猛な八頭の虎が病で弱る宦官の肉に噛みつくのは一瞬の出来事だ。
「宦官長止めてよ!」
激昂の目を向け甲高く叫ぶ声は周りの大歓声にかき消されそうになる。信じがたいが、虎に追い回される宦官を、周りは大笑いして見ていた。
「こんなの大罪よ! 宮中みたいな神聖なところで行われることじゃないわ!」
「――あなたは本当に何も知らないんですね」
虚ろな眼差しで柵の中の光景を見守る月琰。世仙たちの近くまで逃げ果せてきた一人の宦官が、世仙の目前、脇から飛び込んできた虎に取り押さえられた。ひぃ、と一歩下がるも、背後に蘭ちゃんがおり逃げることはできない。
目前の虎はまだ息のある宦官の腕を牙にかけ引きちぎると咀嚼し始める。その間宦官の息はまだあり、恐怖に震えながら自身の体の一部が食われる音に涙する。
あぁ……と力なく呻いていた食われる宦官は虎に組み敷かれながら、目を張り口をわななかせる世仙と目が合う。力なく首だけを動かし、世仙を向いた宦官は目に涙をたたえ声にならぬ声で口を動かした。
――助けてくれ
咄嗟に柵に手を置き身が乗り越えそうになった。だがそれは蘭ちゃんが制止するよりも早く、虎が拒む。
一つ咆哮をした虎は宦官の頭部を口に収めぶるぶると振り回し始めた。
宦官の外傷から滴っていた血が、世仙をはじめ最前列に立っていた宦官たちの袍に飛び散る。
声も出さず、柵に手をかけ固まる世仙を馬鹿にでもするように、虎は鼻を鳴らし悠々と宦官をくわえ引きずりながら歩き去る。それを見つけた他の虎が引きずられる宦官の足にかぶりついているのを見て、力が抜けて座り込んでしまう。
(何よ、これ……)
柵の中は地獄と化している。人の形をとどめるものは少なく、赤い肉片と化したそれらは次々と口周りを赤く染める獣に食される。
残酷にとどめを刺されず、食らわれる者の声が所々から聞こえる。それと重なって下卑な男たちの笑い声が世仙の鼓膜を震えさす。
(何が可笑しいのよ、何が可笑しいのよ)
気が付けば世仙は辺り白い世界に一人座り込んでいた。何も見えない何も聞こえない。だが唯一一人だけ、世仙のことを見下ろす男の姿がある。
(兄さん……あなた、こんなところで働いてたの……?)
俯く世仙の視界が揺れに揺れ、歪む。
世間を知らず自分の常識に捕らわれていたことをひどく後悔する。
もし自分が宮中のことを知っていて、それが常識だと教えられていれば、こんな辛い思いもしなかっただろうに。どうして荀郁は宮中のことを一つも教えてくれなかったのか。
(……いや、そうじゃない、そうじゃないのよ)
しゃがみ込んだ膝の上、無造作に置かれていた手が拳をなす。視界はみるみる晴れていった。
(命を無下に扱っていい常識なんて、絶対駄目なのよ……!)
唇を噛み、自分を奮起させながら世仙は顔を上げた。そこには白い世界はなく、兄の姿も見あたらない。収まりつつある歓声と、血生臭い匂いがあった。
「皆、私のことを……世間知らずだの無知だのと馬鹿にするけれど、世間知らずで無知な馬鹿はあんたたちだわ」
激昂に揺らぐ世仙の目はぎらりと光る。赤く色づく目には怒りとは別に、決意の色が見えた。
「こんなことを常識だなんて思うあんたたちの方が、世間知らずで無知な馬鹿で阿呆な屑共よ……!」
悲惨な光景にただ立ち尽くす者、泣き崩れる者、絶望に声を失っていた者たち、全ての宦官が世仙を見た。こいつは何を言っているのか、といった呆けた顔であったが、異論の声を上げる者はいない。
世仙を立ち上がらせた蘭ちゃんは鼻で笑って目を閉じる。
月琰は目を丸くし、今にも泣きだしそうな顔で世仙を見ていた。目を逸らすと、悔しげに表情を歪ませる。
間違いは正せる。世仙は袍についた血を指先で触れてみた。先ほどの宦官の悲しみが溢れてくるような気がする。だが自然と怒りは薄れていく。その血が、世仙の決意に火をつけた。
(兄さん、ごめんなさいね。もう少し待って。私、宦官を救いたい……救ったらきっと私、あなたを悼んで泣いてあげるから……)
世仙が決意に奮い立つ一方、静けさを取り戻しつつある贄の儀の光景に飽きを感じている女がいた。
「なんか、思った以上につまらなかったわね……」
ぼそりと呟いた楓桂后は無表情に柵の中を見守る月琰をチラと見る。そしてその背後に目をやった。
「足りない、足りないの! 神はまだ贄が足りないとおっしゃってるわ!」
突如声を荒げた櫓の女に一同が目を向けた。楓桂后はわけも語らず、月琰の背後に控えていた宦官を一人指さす。
「丞猇、あの宦官の首を刎ねなさい」
「……! 贄は六十三人提供したでしょう!」
突然の命に、丞猇は眉も動かさず、皇后に噛みついた月琰を睨みつけた。
「今神からお達しがあったの。六十四人の贄が必要なんですって」
「……っ!」
反論を許さない丞猇の威圧と櫓台で狂気的に笑む女を交互に見た月琰。指名された宦官が顔面蒼白で震えていても、月琰には何もできない。
抵抗がないことを判断した丞猇は、顎で熊を使う。使われた熊は宦官の背に回ると腕を拘束し、腹這いにさせた。
「待ってください。この者の体は健康です。せめて死が近い者を――」
「病人老人を贄とするのは貴殿ら宦官たちの暗黙の了承だ。我らが与するところではない」
言うと丞猇は歩きながら刀を抜く。腹這いにされた宦官は世仙からも見える位置にいた。
「げ、月琰宦官長……」
「ごめんなさい、私が不甲斐ないばかりに……」
突如訪れた死に顔を濡らす宦官の顔を、月琰は苦しそうに見守る。丞猇が片足を腹這いの宦官の頭部に置き固定すると、刀の刃を首に添えた。
弾かれるように体を丞猇の方へ向けた世仙は息をめいっぱい吸い込み、叫んだ。
(こんなの間違ってるのよ……!)
が、その言葉は誰の耳にも届かない。世仙の肩を掴んでいた蘭ちゃんが咄嗟に口を塞いだからだ。
何すんのよ、と口を塞がれたまま振り返ったと同時に、丞猇は刀を振り上げ、下ろした。
一瞬の出来事だった。
胴体から斬り離された首は転がる。その場にいた丞猇、熊、月琰と他宦官たちは返り血をふんだんに浴びた。
世仙は距離があり、さほど浴びなかった。それでも、数滴頬についた。指で拭い取った生暖かい液に、発狂しそうになる。
「丞猇、その首、柵の中に放り込んで頂戴」
言われるままに動き、丞猇は頭部を鷲掴むと、易々と虎めがけて放った。
首は弧を描いて一匹の虎の鋭い牙がちらつく口におさまる。それを見た楓桂后は幼女のように騒ぎ笑った。
「これはいいわね。今度からこれにしましょう」
周りの宦官が楓桂后をねめつける中、世仙は丞猇を見ていた。戦袍に返り血を浴び、真っ赤に染まった顔すら拭うこともせず、ただ柵中を見る姿。――もしかすれば彼も……
「……そろそろ潮時ね。さぁ帰りましょう世仙。祝が待ってるわ」
その時である。男の叫び声を聞いたのは。
全員が声を振り返り目を張る。鉄製の柵が虎により壊され、八頭がまさに今柵の外へと駆け出していた。
靇禄軍、宮官軍も逃げ惑う。虎は目の前にいる人間を誰彼かまわなく襲い始めた。
「靇禄軍、直ちに虎を捕まえろ」
丞猇が声を張り指揮を飛ばすも、靇禄軍は剣を持ち噛みつかれることはないが、食に飢えた相手を捉えるのに手こずっている。あれだけ宦官を食べてまだ空腹のようだ。
宮官軍はと言えば、彼らも大半剣を持つ。各部の合併部隊と言えど皇帝を守る役目の部隊だ。剣で虎をいなしながら自分たちの管轄館に引いていく。どうやら靇禄軍に協力はしないようだ。
問題は宦官だ。宦官は剣を持たない。それどころか年中部屋にこもりっきりのせいで体力は皆無であった。案の定、真っ先に虎の爪牙の餌食となったのは宦官である。
「まずい……! 宦官は速やかに寮へ駆けて!」
「世仙、行くわよ」
月琰の指示に蘭ちゃんは世仙の手を引くが、世仙は動かない。ただただ虎と対峙する靇禄軍や虎に組み敷かれる宦官の光景を見ていた。
「蘭々早く世仙連れて行きなさい!」
「世仙!」
月琰は全ての宦官が撤退できるまで指示を飛ばすらしい。丞猇もすでに一頭の虎の捕縛に取り掛かっていた。気づけば櫓台に楓桂后の姿はない。逸早く非難したようだ。
そうこうしているうちに一頭の虎が世仙に近づく。歩みこそゆっくりだが、その目は鋭く世仙を射抜いていた。むき出した牙から滴る涎が一滴、地に落ちたと同時に虎は地を蹴った。世仙に飛び掛かった虎だが、驚くほど冷静な世仙を前に虎が一歩手前で動きを止める。
冷ややかな目で見下された虎は、唸るばかりで世仙に噛みつかない。それどころか数歩づつ下がり始めた。
蘭ちゃんと月琰が唖然と口を張る中、地を響かせながら駆ける音が耳に入る。もう一頭の虎が世仙に近づいていた。まずい、と蘭ちゃんは突っ立つ世仙を抱き上げ肩に背負い駆け出した。駆けてきた虎は蘭ちゃんを追うことはなく、世仙と対峙していた虎に、鋭い爪で襲い掛かった。
襲われた虎は甲高い声を上げ、体に負った傷の痛みに足を折る。
(同朋争い?)
その場に取り残された宦官がいないことを確認しながら、月琰は自身も非難した。最中に虎に襲われ息のある者を見つければ、肩を貸して駆ける。
虎をいなした虎のことを気にかけながら、月琰は寮まで駆けた。
宮官軍、宦官が撤退する中、靇禄軍は虎の捕縛に悪戦苦闘していた。すでにもう数頭捕まえているが、まだ数がある。
疲れの色を見せる部下を見回し、丞猇はここにきてやっと血のついた顔を手の甲で拭う。
(仕留める他ないか……)
八頭いた内、残り捕まっていない虎数頭は、かなり大きさがあった。どのようにして将軍がこの虎を用意したかは丞猇たち部下は教えられていない。
将軍から渡された虎を殺すことに抵抗はあったが、自身の部下の命に関わるのだ。仕方ない。
刀についた先ほどの宦官の血が、すでに固まり始めている。斬れ味は劣るかもしれないが、虎を仕留めるのには造作ない。
刀で空を斬ったその時である。
駆けてきた一頭の虎が次々と靇禄軍と対峙する虎たちに襲い掛かったのだ。あれよあれよと弱り足を折っていく虎を、靇禄軍はすかさず鎖で捕縛した。
残るは虎に襲い掛かっていた虎のみである。
虎は鼻を鳴らしながら辺りを見回して、丞猇を見つけると目線を止めた。
(……俺が狙いか?)
体勢を沈め、刀の柄を握り直し対峙する。そこへ熊があからさまな嘘を報告しに丞猇の傍までやってきた。
「隊長! 全ての虎の捕縛完了です!」
「馬鹿言え。あと一頭残ってるではないか」
「あれ? でも八頭すべて――」
と、熊が虎が入れられている檻を振り返った直後。対峙していた虎は丞猇の頭上を飛び越え、熊の肩に爪を一閃させた。
「……っ!」
動きの読み取れなかった丞猇は、芝に横たわる熊の横、無意識に刃を閃かす。運良く虎の右前脚を捉えた。
虎は苦しげに唸ると一歩下がって丞猇を睨みつける。虎から目を離さず熊のもとまで駆けた丞猇の耳に男の声が入った。
『丞猇』
は、と辺りに目配せするが近くにいるのは熊だけで、他の部下は遠巻きに虎を囲っている。
『丞猇』
(俺にしか聞こえてないのか?)
周りに反応は見受けられない。不気味に感じるのだが、どこか懐かしく感じもする男の声の在処を探す。
『丞猇、よくお聞きよ』
部下に目配せし、最終虎に目を向けると声が脳内に響く。もしかして、この虎が自分に語り掛けているというのか。
『丞猇、その名の意味を忘れるな。誰が何のためにお前に名付けたかを、決して忘れるな』
意味、と反芻した丞猇を確認すると、虎は一つ大きな咆哮を上げ、囲う靇禄軍の壁を突き破り去った。
寮に戻った世仙は真っ先に風呂に入れられた。ボロ石作りの蜘蛛が這うような不衛生な風呂場であるが、そんなことを考えられないほど、世仙は衝撃を受けていた。
髪を湯ですすぎ、体を清める。上がれば血みどろの袍は取り換えられて、真っ新のものが用意されていた。
着替え部屋への帰途へ着くと、廊に蘭ちゃんの姿がある。
「辛い思いさせたわね」
「いいの、いい勉強になったから」
悲しげに笑いかける蘭ちゃんに、世仙は立ち止まらず力ない声で言った。そのまま振り返りもせず部屋に入る。
(アンタが頼りなのよ)
という蘭ちゃんの眼差しに、世仙は気づいていない。
部屋に入って早々、祝は寝台から体を起こし世仙を気にかけた。
「大丈夫……て訊くのは野暮だね、ごめん。辛かっただろ」
自身の寝台には腰掛けず祝が寝具にくるまる方に腰を下ろす世仙。影を宿した面持が、初めて会った頃のものとはかけ離れており、祝は動揺に口を噤む。
あまり掘り返さない方がよいと判断し、祝は話題を変えた。
「そうだ、世仙が預けてくれた兎。どこかに遊びに行ってしまったんだけど、大丈夫かな?」
「鼎柚が?」
顔を上げて目を見合わせる二人の耳に、扉を掻く音が聞こえる。立ち上がって扉を開けた世仙は、足元の大きな白いモフモフを持ち上げた。
「鼎柚どこ行ってた……、の……?」
抱き上げて子をあやすように揺する世仙は兎の様子がおかしなことに気づく。しんどそうに目を閉じ、頻りに動いていた鼻は力なく動いていた。見れば右前脚に切り傷がある。
「鼎柚怪我したの?」
部屋に入れ祝の傍に兎を置くと自身の懐を探り出す。
「ごめんね、僕が見ていればよかったのに」
「大丈夫ですよ。勝手に外に行く鼎柚が悪いんだし。それにこんなことじゃ死なない子なんです、すぐ直りますよ」
言って懐から取り出した瓶詰の塗り薬を前足に塗る。
人の気も知らないで、とじと目で見る兎の頭を、体を横にしながら祝が撫でていた。
夜、自室の寝台で珍しく横たわる丞猇は消沈していた。
自分の目の前で負傷者が出たのだ。自尊心が傷つかない訳がない。
それにあの虎。喋る虎が丞猇に言った言葉が忘れられない。
『その名の意味を忘れるな』
名づけられて一度も忘れたことなどない。物に頓着のない丞猇が唯一大事にしているものが自身の名だ。
あの虎は一体何が言いたかったのか。そもそもあの喋る虎は何なのか。もしや宦官が神と奉る神だとでもいうのか。考えれば考えるほど、わからなくなり、代わりに思い立ったように部下の安否が気になってしまう。
(……落ちたな、俺も)
と自虐的にため息を吐いた直後、寝台を飛び起きた。閉められていた窓が開いて何者かが侵入してきたのだ。しかも音もなく、丞猇が気づく前に侵入者は寝台の傍に立っている。
(こいつ……)
寝台に腰掛けながら、突っ立つ宦官を見た。その目は虚ろである。
「何の用だ? 報告ならまだ構わない。さほど情報もないだろう」
前髪をかき上げる丞猇を見下ろす目線は冷たい。この宦官、世仙は自分の幻滅しているのだと思った。
(俺の非道に……)
宦官の首を刎ねた時の記憶が蘇る。
斬れ味の良い刀一振りで首が胴から離れる様は快感すら覚えかねないことである。刀を授けられて数年、その狂人的な思考に捕らわれないよう丞猇は必死で耐えてきた。
(気分のいいことではないのだ)
刀を振り終えた自分に、丞猇は必死に語り掛け、自身の非道に耐えてきた。だが、丞猇がどう思ってようと、外から見れば非道なのだ。幻滅されればそれまでだ。
「……話が、あるんです」
ぽつりと呟いた世仙の目に一つ光が宿っている。
「私、今回のことを見て、思ったんです。こんなこと行われてる宮中、駄目だって。宮中の人は正しいって言うけど、私は間違ってるって、思うんです」
頬杖をし、世仙の目を見て聞いていた丞猇は、無意識に口角を上げていた。
「俺もそう思う」
丞猇の言った言葉に、表情引き締めていた世仙の顔がゆるむ。
「俺も、今の宮中は間違いだと思ってる」
「でも靇禄軍の人じゃ」
「軍の人間以上に俺は一人の人間だ。自分の意志はちゃんとある」
丞猇は立ち上がると世仙に手を差し出す。
賭けに勝ったのだ。
「俺は今の宮中を変えたいと思っている。だが俺一人が起ったところで上に処されるだろうし、宦官は俺の話を聞きもしないだろう」
自身の非道に自分自身が幻滅しながらも、自我を保ってきた。いつか必ず報われると耐えて耐えて非常識にも目を瞑ってきた。
そしてそれが今日、ようやく報われる。
「俺はお前とならこの宮中を変えれると思う」
忘れたことのない、自身の名の意味。ある女性がつけてくれた。
『虎の声を助けられる人になりなさい』
“助ける人”を一字で丞という。
『本当に強い人は辛い時ほど強く生きようとするの。そんな人を助けられる人になってね』
虎は強い存在だと誰もが言う。敵を見れば咆哮で脅しにかかるが、本当は怖くて辛いのを隠して自分を大きく見せているのだと教えられた。顔も覚えていないその人の言葉に、丞猇はようやく答えられる。
(将軍は強い人だ。けれど、本当に強い訳ではない)
珀将軍には恩がある丞猇であるが、こればかりは譲れない。
今目の前にいる少女は強い人だ。兄の死を経験し、過酷な宮中の惨劇を見ても立っていられる。丞猇の目に狂いはなかった。
(俺は賭けに勝ったんだ)
丞猇の差し出された手を凝視していた世仙はにんまりと口角を上げて手を取り返す。
「私にできることがあるなら、この宮中のため、何でもしましょう。……その代り」
微笑んだまま愛らしく首を傾げる。その笑顔に一瞬手を振り払いたくなった。
「うちのお兄ちゃんのことよろしくね!」
遠まわしに「協力する代わり出すもの出せよ」と言っているのだろう。いつの間にか逆転した立場に、丞猇は片手で顔を覆った。